日本って、そんなに貧困なの?2008-04-29 Tue 01:24
『朝まで生テレビ』で、日本の貧困層をどうするか?ってテーマで話しているのを聞いていて、フゥ〜ン・・・と思いました。
年収200万円以下の低収入層がどうしたとか、ネットカフェ難民だの日雇い派遣の問題だのを論じている様子を見ていて、「日本って、裕福だよな〜」と、つくづく思いましたね。 私、ライターやってた時、年収39万円だったからね〜。ほんの十年前くらいの話ですよ。どうやって生活できたのか不思議で仕方ないけど、別にそんなに貧しい感じはしなかったけどな〜? 好きなことやっていたから、精神的満足度が高かったからかも。 今はどうでしょうかね? 年収どのくらいかな〜? 定収入じゃないから、自分でよく解らない。300万以下なのは間違いないと思うけど、別に生活水準に不満はないけどな〜。貯金がたまらなくても、技と知識(と日本刀?)はたまる一方だから、注目度上がれば仕事増えて自然に金も入るだろうと楽観してるし・・・。 何か、テレビ見てても「金稼がないと生きていけない」という論旨でしか語ってないけど、企業なんて、いつ潰れてもおかしくない。雇用の問題以前に、人間が生きていく基本について全然語らないのはどういう訳なんだ?と思えてしまうんですよ。 勝ち組の筆頭とされていたホリエモンが一気に奈落の底に落とされた時、私は、「あ〜、やっぱり、金なんていくら稼いでいてもいざとなると頼りにはならないし、“私の息子です”なんて言っていた政治家も知らんプリするんだから怖いね〜」と、正直、思いましたね。 討論を聞いていても、単純な話、田舎で農業やって自給自足しながら生きるという選択肢は発想として出てこないのかな〜?と、何だか不思議でしたね〜。 雇ってくれないなら、自分で工夫して仕事を作る。それ以外に何があるのかな? 「学歴ないから雇ってもらえない」のなら、職人やラーメン屋さんに弟子入りするとか、やろうと思えばいくらでも道はあると思うんですよ。 その先の収入は自分の努力次第。それが自由主義の社会の良さでしょう? そもそも、自営業の人達なんて、常に破産と隣り合わせで商売やっている訳だし、楽に金儲ける仕事なんて無いでしょう。仮にあっても、それなりのリスクってものは必ずあるんですよ。 それに、「仕事が無い」って言ったって、選ばなきゃ〜、いくらでも有ると思いますし、フリーターが問題なんじゃなくて、定型化した職業観の枠組みの中で考える習慣を植え付けることの方が問題なんじゃないでしょうかね? 金を儲けることが勝ちだという単純な価値観を蔓延させて、「負け組の貧困層」という負け犬根性を植え付けて、若者に無力感、敗北感を定着させることの方が問題なんじゃないのかな〜? 金に換算できないものは無意味だという阿呆な価値観に縛られ過ぎてると思いますね。 だから、今の日本って、若者が自分の才能を信じてチャレンジするスピリットを潰すような安定志向ばかり煽って、20や30で老後の心配ばっかりやってるように仕向けてるみたいに見える。 貧困なのは生活水準じゃなくて“心”でしょ? 私も、五年前に生活のためにラブホテルのルームメイクの仕事やった時だって、39歳のオッサン雇ってくれるところ中々なかったから、これが最後だと決めて面接受けましたからね。 恥ずかしいとか何とか言ってられないし、肉体労働で賃金も安かったし、休み無しで働いても月に18万がやっとでしたよ。 でも、それで不満は無かったよな〜。お陰で道場も続けられたし、もの書きの方も復活したし、もの書きのネタまでできた。中途半端なプライドも捨てられた。プラスになったばっかりですよ。 慣れたら面白かったし、二年ぶりくらいに見たら別のホテルに変わっていて、凄く寂しく感じましたよ。それくらい愛着が出ていた。 働いている人達も、昼間仕事持っていて子供の養育費の足しに働いているとか、旦那の稼ぎが少ないから家計の助けに働いている・・・なんて人ばっかりでしたよ。 本当にね〜。仕事があるだけ有り難いもんですよ。その有り難みを忘れてるんじゃないでしょうかね? 単に、高収入になりさえすれば問題解決みたいな論理展開には首を捻りますよね。 いや、もちろん、私も過去の肉体労働で腰痛持ちになってしまったし、弊害もありましたけどね。将来の展望も全然無くて腐ったりもしましたよ。でも、そんなの誰だってあることだから、自分だけ不幸だと考えるのは馬鹿らしい・・・。 バイトを辞めてからは、道場ともの書きに専念して何とかやってこれているけれど、武術の研究から得たことを解説指導することでお金を頂戴する・・・ということを仕事として納得してやっていく決心がついたからです。 だって、価値があることなんだと思えるようになったからですよ。以前は、どうも、武術を教えて金を貰うということに抵抗を感じていたんですよね。 他人の身体をどうやって破壊するか?という技を教える訳ですから、そんな積極的な価値は認められないでしょう? それに、やっているうちに精神がねじ曲がる人が結構いますからね。 物事を深く考えたり、主観と客観を両方考えて検討したりする精神的な知性も磨いていかないと、「肉体鍛えて技を体得しさえすればそれでいい」なんて考えている人間は、間違いなく精神と肉体のバランスを崩してしまいますよ。 実際、武術の世界にはそんな精神疾患に陥っている人がざらにいるし、やっているうちに人格障害みたいな性格に豹変する人が結構います。特に気功をやるとそうなる。 結局、重要なのは心の強さ。自分の本心に向き合う修行として武術に取り組むのでなければ、心身のバランスを保てない。その意味では凄く厳しいものですよ。 命のやり取りを前提にした“戦い”をテーマにしているんだから、そんな甘い考えでやるべきじゃないし、上達してもそれを周囲に誇らしげにひけらかすようなものであってはならない。 でも、現実には武術家と称している人達って、自分がいかに強いか?というのをアピールすることしか考えないでしょう? はっきり言って、上達して力を獲得することによって精神がバランスをとれなくなっていっている・・・。 この点については今後、もっともっと訴えていかなくちゃいけないと思っています。軽い気持ちで取り組めば害にしかならないんですよ。 多分、こういう主張をしている点を支持してくださる人が多いんじゃないのかな〜?と思うんですね。 丁度、今日、クエストさんから三ケ月毎の売上の印税計算書が届いたんですが、発売されてわずか12日間しかなかったのに新作DVDがビックリするほど売れてて、おまけに前作も大分売り上げがアップしている。 こんなに期待して買ってくれる人がいるんだ・・・と思うと、感謝しない訳にはいかないし、期待を裏切らないように頑張ろうという労働意欲も出ますからね。 考えてみたら、生活上のピンチに陥った時は、必ず誰かが助けてくれました。まるで、私に「君は武術研究の仕事を続けなさい」と言われているみたいでしたよ。 結局、物事は自分の受け止め方でまるっきり結果が違ってくるんだと思うんです。だから、どんなマイナスの出来事であっても、自分の受け止め方によってプラスに変えることができるんですよ。 光市母子殺害事件の遺族、本村洋さんの場合が、まさにそうだったんじゃないでしょうかね? あんな人生最悪の目に合ったのに、忍耐強く事件の真相、法制度の盲点について勉強することによって、少年法と被害者の人権について大きな貢献を果たす立場になっていった・・・。 私は、何度か、「もう、こんな嘘と嫉妬だらけの武術の世界からはおさらばしよう」と思ったことがありましたが、やっぱり身体が練習することを要求してくるんですね。 それで、惰性で続けていると、不思議なことに武縁ができる。つまり、優れた武術家と出会ってしまうんです(我欲のある人は勝手に離れて縁が切れる)。本当に自分から望んで会いにいってる訳じゃないんですよ。偶然としか言えない。本当に、不思議で不思議で仕方がないんです。 でも、「この世に偶然はない。すべてが必然」なんて言うけれど、まさにそんな感じなんですよね。 もう、やるしかないでしょ? 私は武術に縁があるんですよ。それだけの話。 このままやれるだけ頑張って、その後は田舎で暮らすかな〜?なんて考えていますけど、私は普通の人が欲しくなるような物に金かけたいと思わないからね〜。物欲が日本刀とか趣味に偏ってしまう。 だけど、日本刀の外装は自分で自作してますでしょ? こういう工芸品を作るような仕事をやってみるのもいいかも知れない。 あ〜、そうだ。武道医学とカイロプラクティックだって、せっかく勉強したんだから役立ててみるのもいいかも? やれやれ・・・今、テレビ見ていて、討論というより、政治論争みたいになっているな〜?と思ったら、一気に興味が失せてきましたよ。 生活って、もっと切実に日常的な問題でしょう? 実際に貧困生活に喘いでいる人間にとって、社会や組織の構造論をいくらしゃべっても関係ないとしか言えない。 評論家って、口じゃ立派なこと言うけど、現実に物事を成し遂げる実行力がない。それなのに、上から目線で「無知で無力な大衆を啓蒙してやろう」みたいな自惚れた態度を隠さない。口先三寸で仕事してる分際なんだから、もうちょっと謙虚になんなさい!って言いたいな〜。 いつも思うことですが、『朝ナマ』って、現実的な対策を考えないで政治論争に話がすり変わっていってしまう。見事なまでに解決策が出てこない。いや、誰かが具体的な策を提示しても、よってたかってダメ出しして潰しにかかる。右や左の思想が飛び交う我欲のぶつかり合い・・・。 何をやりたいんだろう? 討論のための討論。最初から何も生み出さないことを前提にした論争ショーを目指しているのなら、一般人は入れない方がいい。 未成年がテーマを決めて自分の思いを語っていた『しゃべり場』の方が、ショーとしてもずっと面白かったし、エンタメとしては『怒りオヤジ』の方がずっと出来がいい。 この前、エドはるみが出ていた時の『怒りオヤジ』なんて、エドはるみの真面目な人柄が出ていて非常に良かった。人間、怒った時は本質が出るから・・・(相手が完全にイッちゃってる人だったから徒労になったけど・・・)。 やっぱり、苦労して頑張った人って、魅力的ですね〜。若いうちの苦労は買ってでもしろって言うけれど、経験自体が勉強になる。金は無くなるけど、経験は消えない財産なんですよ。 この点について、語られなかったのが残念・・・。 |
「板は打ち返さない」と、リー先生は言った・・・2008-04-27 Sun 16:37
セミナー参加者の御感想で、「自由に技を仕掛けてくる相手に対処するのは難しい。思うように身体が動かなくて驚いた」という御意見がありました。
約束された状況の中で技の掛け合いをやっていると、多少、相手が抵抗していても技量の差でどうにでもなるのですが、これが自由に攻撃してくる相手に掛けるとなると、格段に難しくなります。 格闘技の試合を見ていると、中々勝負がつかないものですが、互いが万全の態勢で丁々発止の勝負をする場合、簡単に勝負が決することは普通はあり得ません。 私も20代の頃に組手や試合を経験して、あまりにも思ったようにいかないので悲しくなってしまいましたよ。 それまで、型稽古で技を掛けるのは上手かったので、本当に自信喪失したものでしたが、ブルース・リーも映画の中で、板を割って威嚇する空手家に対して、冷ややかに「板は打ち返さない」と言い放ちます。 要するに、「攻撃もせずに黙って技を受けてくれる敵はいないよ」と言っている訳ですね。 私が何人かの武術の達人と噂されている人達を批判している根拠が、ここにあります。 本気で立ち向かってこない相手・・・あるいは、無抵抗で技を受けてくれる相手に対して、どんな神秘的な秘技を掛けてみせたところで、まったくの無意味だと解っているからですよ。 で、実際、私が批判している人達のどなたも文句言ってこないんですけれど、「手の内を知られているから、こいつには通用しないだろう」と、薄々感づいているから、知らぬフリをしているんでしょう。 数年前に甲野氏から「真剣で真剣稽古しましょう」というアホンダラな手紙を貰った時は、後日、恵比寿駅前の喫茶店ルノアールで、「なんだったら、私と勝負してみます?」と言ったら、俯いて黙ってしまっていましたし、一応、自分の技が実戦には通用しないことは自覚しているみたいでした(この時の様子とか、その他モロモロ、私の知っている事件についてはGW明けにブログで一挙公開します)。 ピーター・アーツに勝てるかも知れない?と妄想する人が、私みたいな武術オタクに毛が生えた程度のチンピラもの書きにビビッて、どうすんの?って思いましたよ。 けれども、実戦第一で考えている私が、一般の武道や格闘技を選ばないで、何故、古めかしい日本や中国の伝統武術を研究対象にしているのか?と言いますと、実戦という概念に対する研究の深さが比較にならないと思ったからなんですね。 結局、多くの伝統武術修行者が現実に戦えないのは、その流派の戦闘理論や勝負理論を理解しておらず、稽古の形式をなぞっているだけだからだと思うんです。 だから、体得した技を実用的に駆使することができず、状況設定の枠組みの中で技を掛けてみせることしかできないまま・・・という人が大半だと思うのです。 私の場合、その壁を乗り越えるヒントは、交叉法と歩法でした。 この二つが私の実質的な武術研究のテーマだったんですが、歩法の研究そのものには十年くらい費やして、ひとまず突破口が見えたかな?という程度で、その先は今も模索している最中です。 多分、これで完成したと思えることは生涯、無いんじゃないか?と思っています。 これは私の持論ですが、「万能の技なんかあり得ない。一技を徹底して磨いて千変万化させられる心身を一生磨いていくのが武術の稽古」だと思っています。 松田隆智先生から聞いた大東流の佐川幸義先生は、武田先師に学んだ技を体の合気で理論的に統一し、さらに様々な技へと展開させていったのではないか?と思えます。 それが、合気拳法、合気剣術、合気槍術、合気二刀剣術等だったんだと思います。 こういった応用展開させる体系化は、現代では特殊なことのように思われますが、昔の武術流派では当たり前だったと思います。 一口に古武術と言っても、その流派が創始され活発に運営されていた頃は最先端だった筈ですから、私は自分が研究してきた武術を“古武術”とは言いたくありません。 よって、歩法も現代の武道、格闘技に対応できるものとして研究してきたつもりでいますし、今後も更に発展させていきたいと思っています。 昨年、うちの会を存続させるか否か?を検討した時に、ある会員から、「游心流で一番できる人は誰ですか?」と聞かれて、「それは筆頭師範代のKさんだよ」と即答しました。 すると、「IさんかTさんじゃないんですか?」と言うので、「いや、Iさんは技はできるしTさんは威力は凄い。二人共に部分的には俺より上かも知れないよ。でもね。武術というのは総合力が問題なんだよ。技・パワー・スピード・度胸・経験値・・・あっ、これは勝負勘ってヤツだよ。中でも実際の勝負を決めるのは機動力。つまり、歩法だよ。俺は歩法だけは大抵の相手には負けない自信があるよ。徹底的に研究してきたからね。でも、歩法はDVDにも収録しないし教えている時もほんの少ししかやって見せないだろ? 歩法が“奥の手”だから隠しているんだよ。で、俺の歩法ができるのは今の会員の中でKさんだけなんだよ。だから、彼が本気を出したら問題にならないよ。もっとも、彼は人に気を使って遠慮するから、Iさんなんかは侮って全然観えていないみたいだけどね。やってみたら判るけど、真相が判明したらショック受けて武術なんか止めちゃうだろう。元々、本気でやる気なんか無いんだから・・・。まっ、そういう人は別の道を求めた方がいいかもね」と、説明しました。 単なる趣味で自己満足を得たいのなら、厳しい現実を知らないまま最強幻想に浸って酔い痴れていればいいんですよ。外部に向かって阿呆なことを言わない限り、個人の自由です。 現在、K師範代を筆頭にして毎週通ってきている会員さんは、急激に戦闘力が上がってきていますが、それは私が心血注いで研究してきた歩法の実際の使い方を教え始めたからです。 今は、他流を侮るような馬鹿はいないから、安心して危ない技も教えています。 以前は、歩法も基礎錬体法としてやらせていましたが、使用法は教えていなかったので、K師範代以外は「こんなことをやって何になるの?」と、平然と言っていたくらいです。 ですが、歩法だけは一朝一夕には実用水準でできるようにはならない。黙ってやれ!と言いたいところでしたが、結果的に実際の用法を教えないまま離れてしまった人達に対しては、残念ではありますが、武縁の無い人達だったんだと認識しています。 歩法だけはDVDにも本にも具体的なやり方は隠して公開していませんし、今後も多分、公開はしないでしょう。 どうしてか?と言いますと、とてつもなく難しいからです。数百人以上教えてきてできるようになったのが数人。その中で実用レベルでできるようになった人はまだ一人もいません。 私自身が、まだまだ完成型には程遠いのです。それでも、以前よりスピードアップしてきている実感はあります。40代半ばで体重も増大しているのにスピードアップしているという事実は、理論構築上の大きな自信になります。 私自身が完成するかは難しいところですけれど、今、教えている人達なら、できるようになりそうな予感がしています。 研究というのは希望を繋いでいくことなんです。 私は、武術研究が、将来、必ず世の中に役立つと思っています。殺活自在という言葉は、殺法が活法に転じるという意味でもあります。 世の中、理由らしい理由の無い自殺や殺人が増大していますね。ちょっとした挫折で容易に自殺や無理心中を図る人達が、どんどん増えている。 金が無いと生きていけないという思い込みも強い。 心が弱過ぎる。視野が狭過ぎる・・・。 自己の安寧しか考えないのではなく、人間は何かやるべきことがあって、存在理由があって生まれてきているのだ・・・という巨視的な観点から生きることが必要なんじゃないか?と思うのです。 自分の人生の意味を考えていれば、自然、他者を尊重することにも繋がる。 私は、武術を通じて、いつも死ぬか生きるか・・・という問題を考えてきました。殺法を通じて、生きる意味について考えてきました。 “戦い”の意味について考えることで、平和の意味を考えてきました。 武術は、私に哲学する習慣を与えました。常に考えさせて、“解答が用意されない”もの。それが思想でも宗教でもない、私が武術を選んだ理由でした。 いろんな問題も含めて、でも、私はこれを選んで良かったと本心から思っています。 追伸;DVDを見た黒谷先生が、「と〜っても、良かったです。説明が判りやすい」と誉めてくれました。わざわざ買ってくれたんですけど、喜んでもらって一安心です。 |
やっぱり日本刀ブーム?2008-04-25 Fri 00:00
いつものように横浜の刀屋さんに毎月の支払いに行った時、今話題の“靖国刀”も飾ってありました。
映画『靖国』も、靖国刀を御神体と誤解したところから始まっているみたいですが、日本人のみならず外国人にとっても“日本刀”は日本人の深層心理を探る重要なシンボルとして注目されるものなんでしょう。 だからなのか、CS・BS放送を見ていると、結構、日本刀が出てくることが多いんですね? 刀匠の安原義人さんのドキュメンタリー番組とか、ヒストリー・チャンネルで名刀『正宗』に迫ったドキュメンタリー?(か・な・り、ヘンな番組でした。刀の鞘、右腰に差してたり)とか、ナショジオのニッポンアワーでの「武士道と日本刀」というドキュメンタリー・・・。 どれも、日本刀という武器がどのように作られるのか?という点に注目されていますけれど、中でも「武士道と日本刀」では、香取神道流の大竹利典先生と、圓心流の田中普門、美登利両師範が出演されていて、古流剣術の優れた技を見せてくれています。 大竹先生は80歳を過ぎているとは思えない俊敏な動きに唖然とさせられますし、田中普門師範が飛来する矢を斬って落とすところや、田中美登利師範が、会社の受付嬢をやっている時は可愛らしい感じなのに剣を持つとキリッとした鋭い目付きになって鋭くしなやかな太刀捌きを見せるところはため息が出ました・・・。 いや〜、「勘違いしたドキュメンタリーなんだろうな〜?」と思っていたので、得した感じがしました。 この前、古流剣術のDVD付きムックを見た時も思ったんですけど、やっぱり、日本の武術は剣術という日本刀を使う武術を知らないと本質が観えてこないと思うんですよ。 大竹先生の太刀遣いを見ると、拍子と制圧する角度の取り方が絶妙だし、相手の隙間にピタッピタッと木剣が吸い込まれるように入るところが非常に気持ちよく、鎬や峰を利用して相手の剣を制していく巧妙さは感動物です。 一方、田中美登利師範の演武は、剣術の柄を利用した捕り手術と融合した技もあって、圓心流が総合武術であることを示しています。 こういう伝統的な古流剣術の技を見ると、文化として醸成される歴史の厚味に圧倒される想いがしますね。個人でいくら知恵絞っても、到底、及ぶものじゃないと思い知らされるばかりです。 私も、日本刀を集めて研究するようになってから、体術も随分、閃くものがあったんですね。やっぱり、武芸十八般という言葉を見直して文化としての総合的武術研究というものをやるべきなんじゃないか?と、あらためて思いましたね。 追伸;アスペクトの武術シリーズの第四弾は『もっと知りたい武術のリロン』というタイトルで早くも進めております。まだ書き始めたばかりですが、これまでの一年に一回のペースから年に二回か三回くらいにスピードアップしちゃおうかな〜?なんて、結構、マジに考えております。それにしても、『ダ・ヴィンチ』で紹介してもらって気になったんで、一カ月に本ってどのくらい出ているのか?と思って聞いてみたら、約6000冊も出ているというので、ビックリしましたよ。なるほど〜、書評に採り上げてもらおうなんて贅沢な考えだったんだな〜? |
四月セミナー報告2008-04-24 Thu 12:00
四月二十日の月例セミナーは、『歩法』でした。
繰り返し、「武術にとって歩法こそが大事なんですよ」と主張してきていましたが、何せ“地味”なテーマなので参加者が少なくなるだろうな〜?と思っていたんですが、「これが一番大切なんですよ」と書き続けた甲斐もあって、初めての方も数名来られて盛況に開催できました。 調子に乗って、八卦掌の用法を説明している時に、ついうっかり師範代の脚をフックしたまま発勁したので、凄い勢いでズデーンッ!と倒してしまって、慌ててしまいました。 でも、ヤバイッと思って、師範代が咄嗟に受け身をとったので大丈夫でしたけど、他の人だったら後頭部打って失神してただろうな〜と・・・。 最近、ちょっと勁力が出過ぎてしまうので、注意していたんですが、はしゃいじゃってスンマセン! 芦原先生の道場破り撃退の逸話とか読んでいて、高揚しちゃってたりもしたもんで。 このブログを読まれている方は御承知と思いますが、最近、私、相当、過激なこと書いてますでしょ? 当然、怒って乗り込んでくる人がいるかもしれないと思って、「セミナー中に腕試しみたいな怪しい真似するヤツがいたら、構わないから、やっちまいな!(byルーシー・リュー?)」なんて言ってたりして・・・(本気か本気でないかは御想像にお任せしまっす)。 でもまあ、いつものことながら、参加される方の協力的な態度で滞りなく、不愉快な事件も起こらず進行できて感謝感激です(参加者の御感想もお待ちしています)。 さて、歩法というテーマがいかに大切なのか?ということをあれだけ書いていた以上、単に形式的な内容で終わったら暴動が起こりかねない・・・と思いまして、いつもの資料にも、これまで頑なに隠してきた秘伝中の極秘伝についても書いてしまいました。 書いてしまってから、「やっぱり削除しようか、どうしようか?」とK師範代と相談したくらいだったんですが、参加料も安くありませんし、遠方から高い交通費を使って期待して足を運んでくれている人達を裏切る訳にはいかないと思いまして、削除しないままにしておきました。 その代わり、「これをバラした人には隠密を送り込みま〜す!」と釘を刺させていただきましたけど・・・(冗談だよ)。 普通、歩法というのは間合を詰めたり外したりするためのものだとされています。 まさか、誰も“歩法が攻撃技になっている”とは思わないでしょう。ところが、日本でも中国でも伝統的な武術に伝わる歩法というのは、裏技としての攻撃技を組み込まれているのです。 沖縄空手でも、「蹴りは腰より上を蹴ってはいけない」なんて口伝がありますけれど、これは、腰より高い位置を狙って蹴るということは、飛び蹴りか、軸足を固定して蹴るかしなければならず、必然的に歩法を捨てる必要があるからなんですよ。 低い位置を蹴るという技の秘訣は、“歩法の延長上で蹴りを用いる”ということなんです。歩きながら技を出す・・・そうです! 上原清吉先生の御殿手(うどぅんでぃ)の発想ですよ。 これ以上の技術論は、セミナー参加者の特典として、ここには書きません。タダで情報を得ようという不届きな根性の人も多いので・・・。 内容的には初心者にはちょっと専門的過ぎるかな〜?と思ったものの、皆さん、問題なくついてこれていたので、密度の濃い講習会になったと思います。 でもな〜・・・ちょっとバツが悪かったのは、セミナーの常連さんの方が、うちの正会員より這いが上手だったりして・・・もっと、細かく教えないとダメかな? セミナー後の懇親会も、武術の世界に詳しい人も参加されていたので、随分、突っ込んだ内容の裏話をしましたし、私が初めて聞くようなこともありました。 それで、福昌堂でライターやっていた頃のこととか、色々と思い出しましたね〜。 佐川先生が亡くなられた時に取材でお会いしたT先生なんて、他流を非難するようなことは少しもなかったのに・・・良くも悪くも年月は人を変えるものだな〜?と・・・。 『マーズアタック』の火星人みたいな風貌の中国武術家?に、非常に嫌な印象を持っていたら、そう感じていたのは私だけじゃなかったとか・・・。 何か、やっぱり、武術の世界って根性がねじ曲がっていってしまうのかな〜?なんて思いましたね〜。私自身、ずうっと武術を続けてきたのは、普通の人は「日本は法治国家なんだから・・・」と考えるところを、「日本は放置国家だから、いざとなっても頼りにならん! 頼れるのは自分だけなんだよ」と確信して露ほども疑わなかったですからね。 他人のこととやかく言えない。私は相当、重症だと自分で思ってますよ。「俺、気違いかもしれないな〜?」って、たまに思いますもん。DVDの撮影の時、無刀捕りなんて模擬刀使ったって見てる方は判らないのに、真剣に拘って、全然練習もしてないのにぶっつけ本番でやった(つまり、その場で“できるかどうか実験”した)し・・・世間のルールより自分のルールを優先して考えてしまう瞬間があります。 そうそう・・・余談ですけど、光市母子殺人事件の判決が出て元少年に死刑が出ましたけど、あの被害者の夫であり父である本村さんは、立派でしたね。本当に凄い立派だと思いました。事件の直後こそ怒りの感情に塗れていたものの、九年間、法に則った裁きを求めて自分でも凄く勉強されただろうし、死刑の是非に関する社会的な影響についても考えているし、被害者の意識と加害者の意識についても懸命に考えてきたことが会見の話ぶりからうかがえました。 あの人みたいな人材が政治家にいたら日本は変われるのかもしれないな〜と思いましたよ。 もし、私が本村さんの立場だったら、怒りに任せて加害者を殺そうとするでしょう。とても法の裁きに委ねるという気持ちにはなれない。 実際、かなり本気で人を殺したいと思ったことあります。夢の中で暗殺するシーンまで見ましたよ。あんまり生々しくて、刺した瞬間に「あ〜、これで俺の人生は終わった」って思ったくらい、リアルでした。 目が覚めた時は汗びっしょりで、本気で夢だったことに安堵しましたよ。それで冷静になって殺人計画も忘れられたんですけどね。 多分、誰もが一度や二度は「あのやろー、ぶっ殺してやりたい」と思うことはあると思うんですよ。でも、自制心が働くか、怒りの感情そのものが殺人を選ばせるほど激しく噴出する人が滅多にいないだけなんじゃないでしょうかね? 私は怒りの感情は多分、相当、激しい方だと思います。が、自制心も強いから、大概はギリギリで抑えられます。自制心が人並みだったら、とっくに死ぬか刑務所に入ってるかのどちらかだと思いますね。 でも、武術やってたのが良かったのかもしれないな〜? 身体動かすとストレス解消になりますからね。 それに上達するにつれて、「こんな技、本気で使ったらシャレにならないよな〜」って思うと、自然に自制する気持ちが強くなってくるんですよ。だから、腕前を競いたがる人達の気持ちがどうもよく解りません。スポーツ的な感性が無いのかも? いや〜、余談が過ぎましたかね? そういえば、師範代から教えてもらったんですが、また2ちゃんで私の批判書いてるヒマ人(ジェラシー燃やしてるヒマあったら練習したら?)がいたそうです。 武術家とか武道家なんて自分で言う人って、やっぱり人格が破綻しちゃってたりする場合がビックリするほど多いですから。自己顕示欲しかない。自分のことしか考えていない世の中とは断絶して自己愛のみに生きているナルシスト・・・。 そういう人達って、本やDVDを連続して出している人間を見ると嫉妬心に燃えてネットで発狂しちゃってたりするみたいです(そういえば掲示板のケンカから発展して金属バットで中坊殴った少年がいたそうですが、武道系ではザラにある話だよな〜?)。 松田隆智先生も、「本を出しただけで恨まれる。嫉妬心に凝り固まった人間が武術の世界には多い」とおっしゃられてましたけど、本当ですよ。 でもね〜、ゴメンね〜、私、次の本のための勉強とか、いくつも同時進行で企画や原稿執筆で忙しくって、相手してあげるヒマないから、好きに遠吠えしててくださいね〜(って言うか、タダで一所懸命、宣伝してくれてサンキュッ!)。 追伸;次回5月4日の月例セミナー『合気と化勁』は、脱力技法の基礎から実用法まで徹底指導いたします。この脱力技法は非常に応用性の高い身体運用法であり、訓練も要らず年齢性別体格体力に左右されずに誰もが用いることができる点に特徴があります。高岡英夫さんの“ゆる体操”とか、その本ネタ?と言われる新体道の“ワカメ体操”など、脱力を利用した健康法は少なくありません。また、武術としても極意に到る重要なポイントが脱力ですから、初めて武術に触れる人には最適でしょう。ほとんど問題点もありませんが、注意点については語られてこなかったようですから、それも解説しておこうと思います。ですが、このセミナーを受ければ、三時間前と三時間後では別世界に到ったように感じられる方もいると思います。そのぐらい効果テキメンですから、イチゲンさんも歓迎しますよ。長年武道を修行してきた人にとっては、初心者が先にできてしまって、泣いちゃう結果になるかもしれない点だけは御了解ください(過去にそんな人が本当にいた)。 追伸2;オーラの泉に榎木孝明さんが出演していて武術の軸の操作で崩す技法を披露していましたけれど、教え方が上手いな〜と感心しました。甲野氏に習っていると新聞で読んだ時は「オイオイ、貴方が本気だしたら勝っちゃいますよ」と思ったものですが、俳優で武道家で芸術家で旅人・・・というのは面白過ぎるキャラクターだな〜と思いました。『密命〜寒月霞斬り』の今後に期待!(殺陣も榎木さんが自分でつけたらどうかな?) |
TV時代劇よ、永遠に・・・2008-04-22 Tue 08:08
時代劇好きとして、NHKの時代劇が30分枠になってしまったことは、非常に寂しい限り・・・。
そして、テレ朝も時代劇枠を撤廃してしまったというし、TBSの『水戸黄門』を除けば、もうTV時代劇ドラマ枠としては、最後の頼みの綱はテレ東だけ? そのテレ東も、時代小説ブームの新旗手として知られる佐伯泰英原作の『密命〜寒月霞斬り』を榎木孝明主演でドラマ化しました・・・。 同枠の『おりん』で悪役だった榎木孝明は、それ以前にもNHK時代劇で悪役を演じ続けていたので、何となく主役にそぐわないイメージがあって、う〜ん・・・と思ったんですが、殺陣の上手さでは定評のある人ですし、示現流を修行していたとか、東郷秀信師範の斬心塾で稽古していたという本格的武術系殺陣のできる役者さんとして期待値が高かったのです。 恒例になった初回の二時間スペシャルを見る限り、正直、殺陣シーンは凡庸です。CGを使った秘剣“寒月霞斬り”のシーンは中々見せますが、全体的に殺陣シーンにスピード感が足りないような印象がありました。 榎木孝明の腕前からすれば、もっと目を見張るような殺陣シーンができる筈ですから、これは殺陣の演出(見せ方・組み立て方)がマズイのではないかな〜?と思える。 柔術の逆技を見せるシーンも、ちょっと単調で、NHK時代劇『オトコマエ』の殺陣の方がスピード感とダイナミックさがあって良かった。 初回の敵役は斬心塾の須藤正裕さん(ジライヤのフクロウ男爵!)でしたが、武術系殺陣の巧みな両者の対決に期待したものの、どうも見せ方が今ひとつ・・・決め技の寒月霞斬りはCG映像が綺麗で悪くなかったんですが、もうちょっと殺陣の工夫が欲しかったですね。 でも、すっかり悪役イメージがついていた榎木孝明も、絵心のある芸術家気質の素顔がのぞく木訥な浪人役がはまっていて、回が進むに連れて面白くなっていきそうです。 一方、NHK土曜時代劇『オトコマエ』の方は、30分枠になったからなのか? 妙に展開が早い! セリフまで早口っぽいし、こっちは何か落ち着きがないな〜という印象があります。 でも、柔術を使った殺陣は、何か格闘技見てるみたいで斬新でした。 やっぱり、時代劇の魅力は殺陣アクションにあると思いますね〜。古臭い手法にこだわっていないで、次々に斬新なものを工夫する実験精神が時代劇復興のポイントになると思いますね。 剣殺陣は、特撮系アクション物の『牙狼−GARO−』『風魔の小次郎』『キューティーハニー・ザ・ライブ』なんかで格段に進歩していますからね。ああいうアクションの面白さを時代劇にも採り入れていけば人気も盛り返すと私は思います。 |
映画『靖国』問題の続き2008-04-20 Sun 20:44
何だか、ここまで混乱が進んでしまうと個人の出る幕ではないな〜?という感じになってきた、稀に見る大問題作、映画『靖国』ですが、恐らく4月の朝生でテーマに採り上げられるのではないかな?といった具合になってきて、公開前から議論百出するのは、これはこれで予想外の望ましい展開になっているのかも?しれませんね。
反日映画だと批判している人達にとってはこの映画の存在そのものを抹消しようとする意志がうかがえるのですが、アテが外れたんじゃないでしょうかね? さて、会員さんから、「問題になっているのは国の助成金に関してであって、表現の自由とは筋が違うのでは?」という御指摘を受けましたので、この点からもう一度、考えてみたいと思います。 率直に言って、「甘いのぅ〜。見事に術中に陥って、問題の本質から目を眩まされてしまってるのぅ〜。世の中、そんな単純じゃないんだよ。フフフ・・・」って感じです。 確かに、最初に問題視されたのは「国の助成金750万円を騙し取っているのではないか?」という問題で週刊新潮で採り上げられたことからですが、読売新聞の4月18日朝刊で「基礎からわかる映画『靖国』問題」と題して、この問題のねじれ具合が一通り解説されていました。 ちなみに週刊新潮では「映画『靖国』は反日映画だ」という論調で、その後も糾弾記事が掲載されていたようですが、私は記事を読んでいないので何とも言えません。ただ、電車の中吊り広告なんかに書いてある記事のコピーからは、「反日映画を許すな」みたいなネガティブ・キャンペーンを張るのが目的なんだろうな〜という印象を受けます。 要するに、国の助成金の問題は、反日的内容の映画を糾弾するための“口実”であって、事実、その後は「刀匠は騙されて協力していた」「南京大虐殺をイメージさせる映像が挟み込んである」「靖国神社は映画撮影の許可申請は受けていない」といった具合に、二の矢、三の矢を射かけて問題視し、上映中止、封印に追い込まんとする粘着的な意志を感じざるを得ません。 作品の監督李イン氏は、映画秘宝5月号のインタビュー記事によれば、日本に長く住んでいる中国人であり、中国では日本のNHKに相当する中国中央テレビ放送局(CCTV)にてドキュメンタリーのディレクターとして勤めていたそうですが、限界を感じて安定した仕事を捨てて来日し、皿洗いや運送屋のアルバイトをしながら金をためて中国と日本の関係を扱うドキュメンタリー作品を手掛けてきたそうです。 が、スタッフには日本人のドキュメンタリー映画作家(『ヨコハマメリー』の監督さんや『サッドヴァケイション』の編集さん)等が参加していて、日中合作の趣がありますし、韓国の釜山国際映画祭アジアドキュメンタリーネットワーク基金の助成も受けているそうです。 最初に問題視された助成金に関しても、何をもって“日本映画”と規定するか?は、論議を要する問題でしょう。外国との合作は日本映画とは言えないのか? 監督が中国人だと日本映画と言えないのなら、在日韓国・朝鮮人であることを秘匿している監督の作品は日本映画とは言えないのか? ならば、かなり多くの日本映画が、「あれは日本映画ではない」と非難されることになりかねないでしょう。 御承知の人も多いと思いますが、武道・格闘技の世界や芸能の世界の第一線で活躍している第一級の国民的有名人には、在日韓国・朝鮮人の人が驚くほど多い。『越境者・松田優作』(松田優作は在日二世であることを隠して後に日本国籍を取得)では、在日韓国・朝鮮人であることに苦悩する人間の苦しみが描き出されていて、胸が痛くなりましたし、以前、在日の知人からそういう内情について聞かされた時は驚いたものでした。 正直、その頃は、「あの人も日本人じゃないのかも知れない」という対人恐怖みたいな異様な疑心暗鬼に捕らわれてしまいましたが・・・。 が、人種差別をかいくぐって社会的成功を得るには、活躍できる世界は限られてくるのでしょう。武道・格闘技や芸能の世界で必死になって頑張ることでしか、日本で人間らしくは扱ってもらえないという状況で、必死に人種差別と戦う姿は尊敬すべきです。 2ちゃんねるでは人種差別的な有名人の誹謗中傷文が書かれることが多い様子ですが、忘れてはいけないのは、日本人も、一歩、海外に出れば人種差別の悪禍に晒されてしまうということです。差別の問題は誰も無縁ではいられないのです。 自分達がやられたら嫌なことを、弱い相手を見つけたら平然とやる・・・こういうイジメ体質を恥ずべきこととしてやらないようにしていかなければ、日本人はアジアの嫌われ者のままではないでしょうか? 私が今回の『靖国』問題に注目しているのは、日本国内で隠蔽しようとする動きを見せていれば、国際的に日本人の人種差別を容認する民族というイメージがますます強まってしまうだろうことを憂慮しているからです。 だから、日本芸術文化振興会の規定そのものの曖昧さに付け込んで、いちゃもんを付けている可能性の方が問題視されるべきと私は考えるのです。 私は、最初から、問題視されている助成金云々はスケープゴート(口実)であって、問題の本質は別のポイントに狙いがあって糾弾されているのは容易に判りました。 別件逮捕と同じで、「反日映画は闇に葬らねばならない」という暗い情念が透けて見えていたからです。だから、「反日映画でも公開すべき」という意見を書いたのです。 しかし、問題視している人達の意識には、「国の助成金を騙し取って反日映画を作った卑劣な中国人監督」という独善的思い込みを世間一般に向けて広く印象操作をすることによって、「中国人は反日的な連中なんだ」という強烈なネガティブ・イメージをすり込もうとする意図が無意識的にも厳然と“ある”という点を洞察できる人は限られてしまうでしょう。 何しろ、問題視している人達すら、信念という「自己の無意識の悪意(人種差別意識及び民族的優越感)」を自覚できてはいないと思われるからです。つまり、独善的正義感から糾弾しているからです・・・。 考えてみて欲しい。何で、議員さんたちが一般公開される前に試写会を要求するのでしょうか? 権力による事前検閲にならない道理がない。それこそ、政治の介入ですよ。 これが、一般公開された後で議論されているのなら、私は何も文句は言いません。 権力をちらつかせて一般公開を中止させる方向付けをしたのは紛れもない事実なのですから、これは海外のメディアからも日本の良識を疑う批判の声があがるのが自明です。 さらに、問題を拡大し、作品に採り上げられている90歳の高齢になる刀匠に不信感を抱かせて削除依頼に至らせたというのは、何としてでも作品そのものを葬ろうとする意志が働いている・・・と考えるのが自然でしょう。靖国神社からもクレームが出てしまいましたし・・・。 私が一番、問題視するのは、ここです。 刀匠の刈谷直治氏が演出意図を理解しないまま撮影に同意していたとしても、それは高齢であるからよく理解していなかったかも知れず、一方的に騙していると決めつけて論じるのもアンフェアです。まして、作品が出来上がった後では、嫌がらせでしかない。 刈谷氏の映っているシーンを削除するということは、作品を一から編集し直さなければならないからです。まして、靖国神社そのものが撮影許可を与えていないと言えば、どうなるか? 無論、批判されている事柄が正しいかもしれません。意図的な反日の意識がある作品なのかもしれない。 けれども、「反日の意識が秘められているから公開させない」という対処をしてしまったら、国際社会で日本という国の尊厳は地に堕ちてしまうことを自覚しなければならないのです。 チベット問題から北京五輪の聖火リレーの妨害に到ったように、国際問題として日本国の体質が糾弾される可能性もあるのです。『靖国』は、既に香港国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞し、ベルリン国際映画祭、サンダンス映画祭といった国際的に権威ある映画祭にも出品され、既に国際的な評価が固まっているのですから、それを今更、当の日本で上映中止に追い込まれたとなったら、日本は世界の物笑いになってしまいますよ。 何故、そこを考えないのか? 堂々と上映させて、その後にしかるべき批判論を展開していった方が良いのです。 そもそも、ドキュメンタリー映画というのはタブーを暴くことに意義があるのです。上映前からゴタゴタと騒ぐのは、国際社会に恥を晒すのと同じなのです。 先月、映画評論家の方とお話する機会があって、「“靖国刀”というのはどんなものなんですか?」と聞かれて、「神道では三種の神器、八咫の鏡・やさかにの匂玉と並んで、天叢雲の剣(草薙の剣)がありますから、日本刀を祭る神社は結構あるんですよ。だから、靖国神社に奉納する御神刀として作っていたんじゃないですか?」と、実にテキトーに答えてしまったんです。 そもそも、私、右翼嫌いなんで、靖国神社って、一度も参ったことないんですよね。 軍国主義の総本山みたいなイメージがあるじゃないですか? そういうのと日本刀が結び付けられて語られるのは、日本刀愛好家として非常に迷惑なんですよ。 戦前に武道と軍国主義が結び付けられたのは不幸なことだと私は思っていますし、私にとっての武術というのは、あくまでも徹底的に個人の尊厳を死守するための最後の手段としてのものなので、軍国主義を支える奴隷養成の軍事訓練に利用されるのは我慢がならないのですよ。 最近の若者が右傾化していると言われていますけれど、単に痛い思いしたことないから頭の中で過激な妄想に浸っているんじゃないの?としか思わないから、のぼせ上がって右寄りの発言する餓鬼を見ると腹が立つんですよ。 情報に踊らされる頭の悪さにも腹が立ちますが、殴り合いすらしたことの無い人間が武力について語る態度が胸糞悪くなるのです。戦う力も覚悟も持たない者が無責任に戦いを煽るような発言をする態度は醜悪そのものです。だから、左翼も大っ嫌い! 私の両親は戦中派だし、父親の兄、私にとっての伯父は戦死しています。戦争というのは個人の意志も尊厳も奪って、権力の奴隷に仕立てられて殺し合いさせられる人間として最も外道な社会装置ですよ。 私はだれの指図も受けたくない。自分の人生は自分で守る。そのために武術修行している。何者にも自由を脅かされないためには残念ながら武器は必要だと思っています。 ですから、私にとっての武術は思想、権力とはまったく無縁のものでありまして、靖国刀についても呼称は知っていましたけれど、実態は知りませんでした。 日本刀に関する本は、新しいのも古いのも含めて、十数冊は集めて読んでいるんですが、ほとんど載ってないんですよね。恐らく、軍国主義に繋がるようなイメージを嫌っているから敢えて避けているんじゃないでしょうか? 「日本刀は日本伝統の優れた美術工芸品である」という認識が現代の日本刀の定義であって、思想信条とは完全に切り離されているんです。だから、私も靖国刀については具体的にどういうものなのかは解らなかった訳です。 ただ、書泉グランデの武道書コーナーにそのものズバリ『靖国刀』という専門書があったのを覚えていたので、営業で寄った時にパラパラと立ち読みしてみました。 値段が5000円もしたので買えなかったんですが、どういうものなのか?ということは大体、わかりました。 粗悪な軍刀とかが作られて日本刀の伝統的製作法が失われていくことを憂いた刀剣界の中から、政財界や教育界からも人が集まって中央刀剣会が組織され、昭和8年に「財団法人日本刀鍛練会」を立ちあげて、九段の遊就館(つまり、靖国神社の中)にて独自にタタラ(山砂鉄から日本刀の材料となる玉鋼を精錬する直接製鉄法で、近代的製鉄法では不可能な極めて純度の高い鋼を得られる)を設置して伝統作刀法による日本刀を多くの刀匠を集めて作らせたそうです。昭和8年から20年くらいまで靖国神社内で日本刀が作られていたように書かれていました。 それで、オヤッと思ったのは、この靖国刀を作っていた刀匠の中に、私が所持している短刀の作者の名前(酒井一貫斉繁正)もあったことでした。つまり、私もそうとは知らずに靖国刀を持っていた?みたいです。 状況的に考えて、これは上級士官などに配給する“指揮用軍刀”を作っていたのではないか?と思えますし、戦時中の士気を鼓舞する意味合いが無かったとは考えにくいでしょう。単に奉納刀としての目的のみでは考えられない数の日本刀が作られているからです。 神国日本を象徴する神器としての“刀剣”を、軍国主義の思想的シンボルと見做したのは疑う余地がないでしょう。 雑誌『SPA!』では、福田和也氏と坪内祐三氏の対談記事で、『靖国』が事実誤認のトンデモ映画であるとしつつも、“だから、上映してほしい”と結論づけていて、なるほどな〜とは思ったんですが、「御神体として祭られてるのは剣と鏡で、刀じゃない」と力説しているのは、はてな?と思いました。 坪内氏は、「監督自身が日本刀と剣の違いをぜんぜんわかっていない」と述べていますが、日本刀を使う武術を“剣術”と言うのは何故でしょうか? “剣道”も、日本刀を用いる武道であることを前提としていますよね。 「剣は両刃で直剣。刀は“片刃(カタバ)”がなまってカタナと呼ばれるようになった」という説を主張しているのなら、呼称の違いを論じる以前に、日本刀が、敢えて“剣”と呼ばれる理由について、よく考えてみるべきです。 中国では刀と剣は分けられていますが、日本では厳密に区分されてはいないんです。その理由は、日本刀の操法に剣と同様の突き技も含まれるからであり、日本刀という武器は剣と刀の操法が融合した武器なんですよ。だから、日本刀を“剣”と呼ばれる場合も多いのです。 日本刀の始祖とされる伝説的刀匠、天国(あまくに)が鍛えたという“小烏丸(こがらすまる)”は、刀身の先端は両刃になっていて、剣から弯刀へと変化していく途中の日本刀ですが、これは剣と呼ぶべきか刀と呼ぶべきか迷うでしょう。 また、日本刀は世界でも類例が無いくらい、研磨技術を重視しています。砥石を十三回も変えて執拗に磨き抜く工程は、鏡・匂玉にも共通するものですが、磨くことに神道の重要な要素である“清め”の考えが入っているからではないか?と個人的に思います。 神道が道教の影響でできた宗教であるとはよく言われることですが、日本刀の製作法には木・火・土・金・水の中国古来からの陰陽五行思想が関わっているように思えるんですね。木炭(木)・炉(火)・焼き刃を作る土置き(土)・玉鋼(金)・焼き入れと研ぎ(水)と、どれも五行思想に相当するものです。 つまり、日本刀の製作は古来の陰陽五行思想が流入した神道と無縁ではなく“神事”なんですよ。これは武道の道場で神棚を設けて参るのと同様のことです。 ですから、「剣と日本刀は違う」なんてことを論点にしても意味がない。御神体を間違って紹介しているのはドキュメンタリーとしての致命傷ですが、李監督が靖国の象徴としての靖国刀を持ち出した点は単なるオリエンタリズム趣味ではなく、直感的なものでしょうし、福田・坪内両氏が一笑にふすようなピント外れだとは思わないんですね。 厳密に日本刀と剣についてきちんと説明できる専門家なんて、日本中探しても10人もいないと思いますよ。坪内氏も、その事実を知っていて発言しているとは私には思えませんでした。 むしろ、純粋にソードスミス(刀職人)としての奉納刀を作る人の心とは無関係に、権力に利用されてしまう靖国刀の運命について考えてみることは、十分に意義があると私は思いますね。 日本の文化と伝統を敬う素朴な心根が、軍国思想によって、どう歪められていったのか?ということを考える教材として、靖国刀に目をつけたのは安直な反日感情じゃないと思いますよ。 アジア諸国で日本の軍国主義を象徴するシンボルといえば、疑う余地なく“日本刀”です。中国人である監督が“靖国刀”をシンボルとして映画の縦軸に持ってくるのは当然なんじゃないですかね? 「南京の大虐殺は捏造だ。百人斬りはあり得ない」と、いくら日本の中で大合唱しても意味が無い。当時、中国に居た亡くなった祖母は、「南京の大虐殺は嘘なんだよ」と言っていました。が、現実に、戦争中に日本の軍人が軍刀で現地の人を斬り殺した事例は少なからずあった筈です。 数年前に渋谷の刀剣店で軍刀仕立ての備前長舩祐定(びぜんおさふねすけさだ)を見せてもらったんですが、その値段が、たったの13万円・・・。普通だったら、50万以上はするでしょう。 何で、こんなに安いと思いますか? その刀は、もの打ちが大きく欠け、刀身全体に刃毀れが無数にあったからです。 これがどういう意味か解りますか? 軍刀仕立てになっているということは、この刀は“戦争中に損傷した”ということになりますよね? でも、実際の現代戦闘で刀で斬り合うということがあるでしょうか? しかも、この刀の刃毀れは、刀と斬り合ってできた刃毀れではない。刀と斬り合ったら、クサビが食い込んだみたいになる。この刀の刃毀れは、明らかに、骨か何かを力任せに斬ろうとして刃が毀れたものに見えます。傷んだ刺し身包丁みたいに・・・。 考えられるのは、「無抵抗の人間を試し斬りしようとして腕が未熟で刃毀れした」という状況です・・・。 結局、格安でしたが買いませんでした。多少の刃毀れはヤスリと砥石で直してしまう私も、この刀から発散される“まがまがしい怨念”を清める自信はありませんでした。 日本は、理不尽に他国に蹂躙された経験が無いから、根強い恨みの感情を理解できないのではないでしょうか? 殺された人数が全くの捏造だと論じる愛国的な思想家に言いたいのは、「自分の親や子供や恋人が殺されたらどうします? たった一人殺すのも、何千人何万人殺すのも恨みの強さは同じですよ」と・・・。 事実を調査して論じることは重要ですが、事実をたてにして、相手を暴力で蹂躙していた状況そのものを隠蔽しようとするのは卑劣ですよ。 何か、この手の論争は両極端に二分されて、都合の良い事実関係を表す証拠を提示して、どっちが正しいか?という論議にすり替えられていきがちで、非常に気持ちが悪くなってしまう。 重要なのは、もっともっと意見交換して互いの認識を深めていき、その結果として互いを理解し、尊重し合える地点を目指すことですよ。その根底には相手の立場を尊重する意識を持たなければどうにもならない。 国家間の軋轢は、結局は自国の利益しか考えないから対立しか生み出さないし、そういうお子ちゃまな対応しかできない国は国際社会で信用を失っていくのです。『靖国』は、日本人が大人の対応を示すことによって、世界にモデルケースを示す絶好のチャンスなんじゃないでしょうか? このチャンスを無駄にはして欲しくないですね。 追伸;『SPA!』の福田・坪内対談中、台湾の先住民族タイヤル族の活動家・高金素梅氏のことについて「この活動家の人って美人だけどさぁ、もしこの人と過ちを犯したら、別れ話が大変だろうな・・・」と、坪内氏が発言していましたが、酒飲み話としてもひどいな〜と呆れ果ててしまいました。高金さんは確か癌で余命が限られているそうで、彼女を主人公にしたドキュメンタリー『出草の歌』で詳しく描き出されています。タイヤル族は戦時中に日本人として義勇軍に組み込まれたから靖国神社に日本人として合祀されている訳ですが、それはかつて台湾が日本の属国とされていた証明であり、ここにも権力に隷属された側の怨念がある。「そもそも靖国神社を認めないなら、父親の霊は故郷に帰ってきてるって思わないのかなあ」という坪内氏の能天気過ぎる発言には哀しくなります。それを言われた側の人間がどう思うでしょうね。同じ日本人として恥ずかしいです。 |
『ダ・ヴィンチ』の書籍紹介コーナーに載ってました!2008-04-17 Thu 12:00
え〜、売れ行きはいいのに、何故か私のアスペクトから出していただいている武術シリーズ本は、どこの雑誌でも完全無視?(大槻ケンヂさんが面白がって紹介してくれたのみ)で、「何か、恨みでもあるんですか? それとも陰謀?」みたいに思っていたんですけれど、先日、コンビニで本の紹介雑誌である『ダ・ウィンチ』をペラペラとめくっていたら、編集部が厳選した「今月の注目本130」のコーナーで、エトセトラの分類のところで紹介されていました。
紹介されていたのは最新作『そこが知りたい武術のシクミ』で、確か、毎回送られているんじゃないかな〜?と思うんですけれど、紹介されたのは初めての筈です。 やっぱり、「シリーズで第三弾ということは、それなりに売れているんだろう?」という判断だったんでしょうね。 武術関係の本というと、これまで圧倒的に甲野氏の本ばかりが紹介されていたんですが、読者の側からすると食傷気味になっていたみたいですし、読んでも意味が解らない。講習会に参加しても、やっぱり解らない・・・そんな経験をした人がアンチ甲野を標榜している私の本を読んでいる?という構図があるみたいです。 ただ、私の文体はプロの書評家には違和感があるらしくて、敬遠されるみたいですね。 なんだかんだ言いつつ、本というのは権威を重んじるから、本音をバシバシ書き散らすような品格が無いのは嫌われるんでしょう。 でも、私はもの書きである以前に本好きとして、読んで疲れるようなものは読みたくないんですよね。退屈させられるような本はダメです! だから、自分でもそんな本は書きたくない。 映画なんかも同じで「しっとりした情感が日本人の心に訴える時代劇」よりも、大チャンバラ活劇時代劇が見たい! どんなドラマがしっかりしていても、チャンバラがダメだったら駄作!と決めつけちゃいますから・・・。 日本人はヘンな権威主義をすぐにくっつけて、アンタッチャブルにして祭り上げたがる悪い癖がありますよ。面白くないものは面白くない!って、はっきり言わなきゃダメ。 出版社は「本が売れない」と言われて久しいですが、売れないのは面白くない本を出すからそっぽ向かれてしまう訳ですから、単純な話で、「面白いものを作る」というコンセプトを掲げていれば、読者の本離れは防げる筈ですよ。 その意味で、特撮SF雑誌『宇宙船』の奇跡の復活は、作り手と読み手の関係が深かったからこそ実現したものだと思います。 アスペクトの武術シリーズも次の本の企画を進めていますし、今年はそれ以外にもできる限り、出したいと思っています。書いて早いのだけは自信があるので、お声がかかればジャンジャン書きますよぉ〜! |
『芦原英幸伝 我が父、その魂』について “その2”2008-04-16 Wed 23:28
芦原英典・小島一志著『芦原英幸伝 我が父、その魂』に関して、先日、感想を書きましたけれど、読者の方から芦原会館総本部と加古川支部のホームページにてこの本に関するコメントが載っているという情報を寄せていただき、事務局で調べてプリントアウトしてもらった記事を読みました。
いやはや、この本について教えてくれた会員さんから、「英典館長や御家族と揉めたらしいですね。小島さんは文章責任は自分にあるとブログに書いていましたよ」という話を聞いていたので、大体、想像して本を読んだんですが・・・。 一読して、「こりゃあ、揉めるだろうな〜? 実際に話している時に、こんな具合に詳しく話せる筈がないんだから、恐らく、小島さんが後から自分の知ってる情報や個人的な考えを付け足したに違いない」と思って、後半の小島氏への批判文を書いたんですね。 やっぱり、私の読みが当たっていた様子ですね。何か、こういう場合の読みは当たっても嬉しくないです。ホントに、小島氏も懲りない人だ・・・。 加古川支部長さんが心配されている通り、あれでは英典館長の良識を疑われてもおかしくないでしょうし、武道の世界であそこまで言う人はいないでしょうから、英典館長が誤解を受けるのは間違いないでしょう。 何しろ、極真会館や正道会館に関するところは実名でバシバシ書いていますから、当然、名誉毀損で訴えられる可能性がある訳ですよ。だから、「迂闊な人だ」という印象を与えてしまうのは仕方がない。 無論、私はそうは思いませんでした。加古川支部長さんが懸命に英典館長を庇って書かれている通り、若干18歳で芦原空手の看板を背負って、これまで大過なく組織運営を担ってこれたというのは人格も含めた常人離れした技量が無くては果たせる道理がない。 それに、これは芦原会館の人から聞いたのですが、英典館長は研究熱心で他流の講習会なんかにも参加したりされるそうですね? それで甲野善紀氏の地方講習会にも参加したそうですが、甲野氏と軽く手合わせしたものの、別に悪意は全然なかったでしょうけれど、軽〜く出した技が全て入ってしまって甲野氏がボコボコになってしまったらしい。 普通、甲野氏は有名な武道家と交流したら自慢して本に書く人です。自分が対等か、あるいは「教えてやっているんだぞ」というポーズをつける。つまり、売名に利用するのがあの人のいつものやり方です。虚栄心に凝り固まった人ですからね。 ところが、この話は自分が大恥かいちゃったもんだから隠してる。英典館長の立派なところは、メディアで現代の達人と持て囃されている大物?を、軽く一蹴してしまったのに、その事実を公に語らなかったことです。もっとも、あんまり弱いから呆れてしまったらしいのですが・・・。 私なんか、『武術のシクミ』の中で甲野氏をイジメた体験談を書いちゃってますから、英典館長と比べたら大人気ないですよ。 そういう裏話も含めて、私は英典館長は凄いな〜と以前から思っていました。空手家としても、ひょっとすると芦原英幸をいつか超えるかもしれない?と、私個人は思っています。それだけの素質と天才の片鱗がかいまみえるんです。 そんな次第で、この本が小島一志の単独名で出された本であれば、別に問題はなかったでしょう。ジャーナリストとして取材して書いたドキュメント本ならば、ハナッから責任は小島氏に帰結するからです。 でも、小島氏の悪い癖で、英典館長を巻き込んで芦原会館を贔屓の引き倒しにしてしまった・・・。「お子ちゃまかよ?」と言いたくなるほどの大失敗です。「芦原先生の墓前で切腹して詫び入れてきなさい」って、言いたくなるのは私だけでしょうか? ライター、編集者としての基本を外してしまうなんて、言語道断です・・・。 もう、ここまでお馬鹿さんなのがバレバレになった訳だから、今後は他人に迷惑かけないように純粋に作家になってフィクションだけ書いた方がいいですよ。 作家だったら、結構、面白い本が書けるんじゃないですか? クリエイターって、有名な人でも結構、人格が壊れている人が多いし、変人の方が面白い作品書けますからね。作家としての資質は十分にありますよ。 だから、この本はノンフィクションとしてじゃなくて漫画として書けば良かったんですよ。『空手バカ一代』なんて目じゃない! 私は猛烈にこれが漫画で見たいです! 加古川支部長さんは「芦原先生を汚された」と悔しがっていらっしゃいましたが、いや、そんなことはないですよ! そりゃあ、弟子として師匠のダメなところを暴かれるのはつらいと思いますけど、欠点のない人間なんかいないんです。 小島氏の問題点は割り引いても、“秘められていた芦原先生の陰の部分の魅力が逆に引き出された”と、私は思うのです。 人間としての弱さ、欠陥、未熟さも持っていた芦原英幸だからこそ、逆に“空手の革命的達人”としての真実の姿が浮き彫りになったと思うのですよ。 完全無欠な立派な人には、誰も共感できないでしょう? 「あ〜、空手の達人と言えども、こういう弱い部分を持っていたんだな〜?」という感慨を得られて、私は以前より、もっと、ずっと、人間、芦原英幸のファンになりました。 だから、この本はこの本で、十二分に芦原先生の魅力を伝えてくれているし、芦原空手の素晴らしさ、そして、志し半ばで逝ってしまった父の無念を晴らしたいという英典館長はじめ御家族の愛情を雄弁に伝えてくれていると思いますよ。ちっとも汚されてなんかいません! それに、芦原英幸の遺産である空手の技術と理論の背景がうかがえて、嘘偽りなく、感銘を受けました。これは小島氏が暴走したお陰なのかもしれませんから、災い転じて福と為す結果になっていくんじゃないでしょうか? いや、そういう方向づけをしなくちゃいけない! この本を読んだ人は、必ず、芦原空手とは何なのか? 芦原英幸とは何者だったのか?という問いかけを自分の中にするでしょう。そこが大切なことです! 第一、小島氏も敬愛する芦原先生を貶めようという意志は全く無かったでしょう。どれだけの悪影響を及ぼすか?という点を予測できなかった思慮の浅さが露呈しただけです。 だから、加古川支部長さんが心配するようなイメージダウンにはならないと私は思いますよ。読者だって、馬鹿ばっかりじゃないんですから、ちゃんと本質を洞察できる人は少なからずいますよ。 問題は、実名を出していることによる法的糾弾に対してでしょうが、それも小島氏がハラ括って、「責任持つ」と言っているのなら、心配には及ばないでしょう。自分の不始末は自分で責任とってもらえばいい。 それよりも、私は加古川支部長さんのブログに書かれた記事から芦原先生を想う気持ち、英典館長を想う気持ち、芦原空手を愛する気持ちが十分に感じられたことが気持ちが良いです。 師匠を想い、流儀を想う気持ちは、本当に、今時、珍しいですよ。大病を患われているそうですが、どうぞ、御身体を御自愛して立派に人生を生ききってください。芦原先生がそうであったように・・・。 さて、文章を書いて生活している者の一人として、今回の小島氏の大失敗は、他人事と笑って済ませられる話ではありませんでした。 私も、ここまでの無茶は、まだ、やっちまったことはありませんが、似たような問題で謝罪して回ったことは何度かあります(現在、JKファンの編集長やっているK池さんから、「長野さ〜ん、ダメじゃないですかぁ〜。P先生、怒ってますよぉ〜」って言われて一緒に謝罪に行ってくれたな〜。K池さん、元気っスか〜?)。 私も、時々発狂して暴走してしまうところがあるから、“明日は我が身”と心得て自戒しなきゃいけないな〜と思っておりますです。はい・・・。 丁度、新体道の青木宏之先生から、お贈りした本の御礼状を戴いたところだったんですが、読んだ人は判ると思うんですけれど、私は本の中で、結構、青木先生に対してきわどいギャグを書いてシャレのめしています。 恐らく、“普通の武道家”だったら、「無礼者ぉーっ!」って具合に怒るだろうな〜?という水準の書き方をしているんですね。青木先生は“シャレの解る武道家”だから大丈夫なだけです。 でも、もし私が青木先生と一面識もないのに同じことを書いていたら、恐らく、「フザケタ野郎だ」という気持ちしか持たれなかったでしょう。 人間の感情の機微というのは、そういう状況によって全く変わってしまうものです。 最近は、こういう感情の機微を読める人が少なくなっているのかな〜?という気もするんですね。 あ〜、そうそう。以前、ある会員が「単なる気持ちの問題だから大したことではありません」とメールに書いていて、私は激怒したことがありました。 合理的に利益追求すれば問題ないだろう?という態度で無礼な発言を連発していた彼は、能力はあっても他人の気持ちが全く理解できないロボットみたいな人でした。練習態度も、合理的に技だけ教えてくれればいいんだよと言わんばかりで、本人は全く自覚していませんでしたが、非常に無礼極まりない傲慢な態度でした(一回、殺意がわいた・・・)。 そんな性格だから、他人の気持ちを考えない。だから、礼儀を尽くしているつもりでも相手に不快感を抱かせてしまうことが何度もあり、対外的に第三者に不快感を与えてしまっていたことが後からいくつも判明して慌てたものでした。 でも、たとえそれが自分の欠点であるということを自覚できても、恐らく直すことはできなかったでしょう。有能さが謙虚さを抑え込んでしまっていたからです。有能な人間にありがちな、“他人が馬鹿に見えて仕方がない”という状態に陥っていました。 私は本心から彼は可哀想な人間だと思っていました。 しかし、感情が無いように見えた彼が、私の知らないところで私に対して憤って泣いた?という話を聞いた時は、むしろ、ほっとしたものでした。 それでいいんです。人間は人間なんだから。自分で思うようには世の中動いてくれないんです。他人を自分の思うように動かそうなんて無理なんですよ。 私ももう、あ〜しよう、こ〜しようとかあれこれ考えるより、やりたいことを全力でやっていくことだけ考えようと思っています。作為的に動いてもちっとも進まないんですよ。 やっぱり、人間には天命というのがあるんじゃないのかな〜? 小島氏も、会ったこともないけど、元福昌堂の大先輩(私がライターやる以前に『月刊空手道』の編集長だったから)として、作家として出直す道をお勧めしておきます。いつまでも他人の力を借りていないで自分の創作力だけで勝負してください。 肩の力抜いて人に感謝する気持ちで・・・って? いや、それじゃあ面白い文章書けなくなっちゃうかもしれないもんな〜? う〜ん、難しい・・・。 |
雨の日は道場が欲しいな〜?2008-04-15 Tue 00:00
日曜日は公園で稽古しているんですが、今週は雨が降っていたので、私の部屋で練習しました。
八畳の洋室と六畳の和室の間の開き戸を外しているので、結構、広いんですが、引っ越し以来、荷物を処分していないのでゴッタ返しておりますから、練習で使う時は場所を確保するのに朝から掃除するんですがね〜。 で、最近、毎日使える道場が欲しいな〜と思って、不動産のチラシを熟読するのが習慣になっていまして、頭金0で毎月の支払いが3万2千円?という格安売マンションのチラシが郵便受けに入っていて、「お〜っ、これなら何とか買えるぞ。しかも二部屋繋げば、ここと同じくらいのスペースもあるし・・・」と思って、師範代と相談し、もう気分はウキウキでいたんですけど、練習時に相談したら、ファイナンスに詳しい会員さんから、「こういうのは、金利が二倍になって、全額支払う時は約二倍になるんですよ」と教えられて、ウゲゲ!と思って、やめました・・・。 「先にお金ためてから買った方が結局は近道ですよ」と言われて、シューンとなっちゃいました・・・。 う〜む、そういうカラクリがあったから格安で売られていたのか〜? 世の中は怖い。 セミナーで使わせてもらっているストアハウスなら安心して居合なんかもできるんですけど、私のところからは遠いし、いつでも使える訳ではない。今は月に一度のセミナーも貴重な稽古時間になっています。 まさか公園で模擬刀振り回す訳にはいきませんからね〜。公園も良いところはあるんですけど、人目を脅かすような真似はできませんからね。シダックスではやってるけど、一応、室内だから。あ〜っ、毎日、思いっきり練習できる道場が欲しいな〜・・・。 田舎に住んでる人達は、こういう点は恵まれてますよね〜。私、庭で手裏剣の稽古してたし・・・(こっちでやったら警察に通報されるだろうな?)。 夏のダンス白州では大自然の中で広々と練習できるし、元気玉も作れるから(ウソです)、何だか、ここ最近の夏合宿に行っているような気分・・・。 まあ、室内でも、交替しながら練習すれば大丈夫。会員さんがまた試合に出るそうなので、試合向けの粘手の使い方と、次のセミナーの予行演習にもなるから運足と蹴りをドッキングさせた使い方を特に指導しました。 ここ最近、実際に使える技の指導を解禁したので、ちょろちょろと小出しに教えているつもりでいたんですが、会員さんからは「最近、教わる技が多過ぎて覚え切れません」と苦情が出て、少な過ぎて申し訳ないな〜と思ってたのに、意外でしたね。 特にローキックとかミドルキック、膝蹴りなんかは確かに教えていなかったよな〜?と思いますね。「游心流に回し蹴りは無いんだと思ってました」と言われて、あっ、そういえば全然教えてなかったぞ?って思いましたからね。 何で、そういう蹴り技を教えていなかったか?と言いますと、ほとんどの人が蹴りを出そうとする瞬間、蹴った瞬間、蹴った直後に居着いちゃうからなんですよ。 うちはそこを狙うから、下手に教えると危険だったからなんですね。 だから、「蹴りは単発で出しちゃダメ。必ず手と同時に出す」とか、「相手の死角に回り込みながら出す」とか、「蹴りを差し手と同様に使う」とか、「蹴った後に粘らせて相手のバランスを崩す」とかいった游心流式の蹴り技の戦闘理論を教えないと全体の戦闘理論が崩れてしまいかねない。 私が口を酸っぱくして「歩法が大切なんだ」と教えてきたのは、こういう蹴り技を使いこなす要点として、歩法ができることが大前提になってくるからなんですよ。 だから、武術の実戦を考える人は歩法を技と認識して研究せんといけん(あっ、芦原先生の口調になっちゃったぞ?)。 まあ、素人さんは合気や発勁といった見た目の派手そうな必殺技みたいなのに関心が向かうものですが(それだけできてもどうやって使うの? 相手は黙って受けちゃくれんけんね)、本式に修行している人は“歩法”みたいな地味なところを重視するものです。 座取り合気揚げで剛力の巨漢を持ち上げて自慢たらたらしているような人達は、所詮、まともに戦う現実を理解していない勘違いした人達ですよ。 俺がそんなド阿呆と真剣勝負するんだったら手裏剣三本打ちお見舞いしちゃいますよね〜。「究極奥義で空中で手裏剣止めてみせたら、土下座して謝りますよ」ってね。 でもね〜。私がこういう過激なことを書くと、「長野さんは武術家としての品格が無い!」なんて批判する人がいるものです。私、武術家なんて呼ばれたか〜ないし、品格なんて言葉をやたら言う人は偽善者臭く見える。 またまた、「阿呆か?」と思っちゃうんですよね。武術というものは、品格も糞もない頭の狂った殺人鬼から襲われた時に制圧できることが大前提になって技が組み上げられてきたものなんですよ。それを想定せずして何の意味があるのか? バスジャック少年事件の時に真っ先に逃げたのが合気道家だった?と聞いた時、「合気は愛だ」と品格を強調しながら実際の暴力に何もできずに他人を見捨てて我先に逃げ出すなんて、サイテー過ぎですよ。塩田剛三先生も情けなくて泣いてると思いますよ。 江戸時代の武士だったら、「武道不覚悟」で切腹しなくちゃならんですよ。 お茶やお花と同じお稽古事だと認識する人はそうしていたらいい。でも、私はそうは認識していないんです。あくまでも活きた護身術として役立つ技と知恵を教えてくれるものでないと意味がないと考えているのです。 だから、私は多少、乱暴でも正義感の強い人のほうが好きですね。武術の世界は綺麗言ばっかり言って事なかれ主義の自己愛に凝り固まったような人が多いから、何か気持ち悪いんですよ。 綺麗言ばっかり口にする人で裏表の無い人って、私は会ったことがない。日本人は口先だけの綺麗な言葉に酔っぱらう人が多いですけど、洞察力が無さ過ぎますよ・・・。 |
『芦原英幸伝 我が父、その魂』を読んで2008-04-12 Sat 19:23
神田神保町の書泉グランデは、20代の頃から同人誌を売ってもらったりしてお世話になっておりますが、最近は、もっぱら自主製作DVDの委託販売をしてもらって、その納品や集金で月に一、二回は必ず顔を出します。
で、今月も集金に寄った時に武術書籍コーナーをのぞいていったんですが、何と! 聞き覚えのある声が聞こえます。ハッとして宣伝用のDVD映像が流されているモニターを見ると、「うわっ? 俺だぁ〜っ!」と、驚いてしまいましたよ・・・。 道理で、レジのお姉さんが満面の笑みで迎えてくれたはずです。バレバレだよぉ〜。 でも、お陰様で新刊本も新作DVDも非常に売上が良いそうで、本当にありがたいことです。お客さまは神様でございますぅ〜・・・。 あ〜っ、何か、オレってば、ジャパネット・タカタの社長みたいなポジションに立ちつつあるような気がするぅ〜? まっ、余談はおいといて、本日のお題は、“ケンカ十段”の異名で40代以上の私の世代にとっては憧れの男、芦原英幸先生の息子さんで、現在、芦原会館二代目館長として活躍されている芦原英典先生が、亡き父を語った本についてです。 これは、読み物として非常に面白く読めました。帯文のコピーにある「事実は、劇画を超えていた!」は、宣伝に偽り無し。 天才空手家、芦原英幸の天才っぷり、凶暴さ、お茶目さ、素朴さ、繊細さ・・・そして、不治の病に冒されて人並みの弱さを見せたところ等々、本当に涙なくして読めません。 正直いって、家族に暴力をふるうところは感心しません。ヤクザや武道家相手ならば許容できますが、日常的に弱い者を殴る蹴るする芦原英幸の姿は知りたくなかったのが本心なんですが、それも読み進めていくうちに、“人間らしさ”が極端な人だったんだろうな〜と、なんとなく納得してしまうのです。 まさに、“あしたのジョーがそのままいた”みたいな感じの人なんでしょうね。 それから、私的には、やはり手裏剣のところが興味深かったんですが、20〜30mも遠くまで打てたという話は、ある程度以上、手裏剣術を稽古したことのある人ならウソだと思うでしょうね。 棒手裏剣はクルクル回転したら刺さらない。90度程度の1/4回転くらいに留まるように打つには距離も10m前後くらいが限界だとされますからね。 確かに直打法だと不可能に近いと思うんですが、重量のある手裏剣を使って、回転打法を使えば、不可能とはいえないと思いますね。無論、回転させると刃先が当たる率も低くなってしまうんですが・・・。 20m以上の遠距離を打てる人は、八角流の半田先生くらいしか知りませんけれど、不二流の田中光四郎先生も、昔、短刀みたいにゴツイ手裏剣を使って25mくらい先まで打てたと言われていました。 ですから、重量のある手裏剣なら20m以上狙える人もいるだろうな〜?と思いますし、ビデオ映像で見た芦原先生だったら、できてもおかしくないと思いますね。 私は苦手だし、そもそも室内でしか練習していないんで5〜6mが関の山だと思いますけれど、将来的に自分の道場を作る時には、弓や手裏剣、それからガスガンやエアガンの訓練場も設置したいと思っています。 今の部屋でも八畳と六畳を繋げているので台所から狙えば8mくらいはあるんですけどね・・・。 それにしても、芦原先生が弟子や友人に裏切られたり、やっかみから誹謗中傷されたり、嫌がらせや命を狙われたりしていた・・・といった話は、私も多少は経験ありますけど、比較にならない。 何だか、武術、武道の世界って、本当に嫌な世界だな〜?と、改めて痛感させられましたね。 知らない人からしたら実感がわかないと思うんですけど、私も似たような経験が何度もあるから、よりリアルに感じさせられるんですよ。まあ、これも修行のうちと思えば、得難い勉強をさせてもらったと思えますが・・・。 でも、芦原先生の場合は、自分で招き寄せてるとしか言えないし、御本人も嫌がっていなかったでしょう。ある意味、そういう危機を楽しむような感性があったから、私とは根本的に違うよな〜と思いました。 学生時代。私の憧れの武術家は、中国武術の松田隆智先生、戸隠流忍法の初見良昭先生、そして、芦原英幸先生でした・・・。 松田先生、初見先生とは直接、お会いしたことがありますし、技も学ばせていただきました。 でも、芦原先生だけは直接会うことがありませんでしたし、技もビデオ講座で練習したのみです。 それでも、私の気持ちの中では「芦原空手を学んだ」という意識があります。 だから、英典館長を陰ながら応援したいという気持ちもあり、この本は特別な感慨を持って読みました。 ただ・・・読んでいて、少々、疑問というか違和感を覚えたのは、著者名が、芦原英典と並んで小島一志となっており、小島氏が英典館長にインタビュー取材したテープを起こして執筆編集されたものという形式と思われるものの、どうも、英典館長の言葉そのままとは思えない“付け足された文章”の印象を受ける箇所が全面的にいくつも散見されるように感じられたのです。 穿った見方をすれば、「英典館長の言葉を流用して小島氏の個人的なプロパガンダをしている部分が少なくないのでは?」という疑念も拭えなかったのです。 極真や正道会館の関係者に関する箇所は、実際に英典館長が話していたとしても、組織の最高責任者としての立場を考えれば、公刊誌上に書くには不適当だろうと思える点が少なくなく、普通だったら編集サイドで配慮して削除されるだろうと思えたからです。 もの書きの経験の無い人の場合、「これを書いたら現実的にどうなるか?」という予測をすることがほとんどありません。だから、そこはプロの編集者が調整してあげなくてはならない。 しかし、どうも武術や武道の出版に関わる人達には、趣味が高じて仕事になった人が多いので、プロとしての自覚と資質に欠ける人が少なくありません。 例えば、私が福昌堂でライターの仕事を頂戴していた頃、プロの編集者としての勉強をしたことのある人は、何と、たったの一人しかいませんでした。他の人は全員、現場で覚えていったそうでした。 それだから、当時の社員の中には「うちで仕事していても他所の出版社にいったら役に立たないよ」なんて自嘲的に言っている人もいました。 そんな福昌堂出身の人には、『秘伝』を出しているBABの社長を代表として、『秘伝』の副編集長、フルコムの山田さん達、JKファンの編集長、学研で甲野ムックを作っていた元ウーシュウ組、フリーの編集者をやっているIさんやKさんといった人達がいます。 多くの人が確かに武術、武道、格闘技関係の出版ビジネスから抜け出せない様子で、この業界以外の分野の仕事ができなくて戻った人もいるのではないか?と思います。 小島さんも元福昌堂で月刊空手道の編集長も勤めていた人ですが、辞める直前の同誌上では大道塾のバッシング記事を連載したりして異様な雰囲気になっていました。 私は小島さんとは一度も面識がありませんけれど、一緒に仕事をしたことのある人から聞いた話は、「彼は自分の想いが強過ぎて周囲が見えなくなってしまうところがある。一度吐いた唾はもとに戻らない。編集者としてその点に自覚が無さ過ぎる。本というのは形に残ってしまうものなんだから、自分の想いだけで作ってはいけない。でないと多くの人を巻き込んでしまうんだから・・・」と、厳しい評価をしていました。 今回の本を読んでいても、こういうインタビュー内容に無断で付け加えたような点は、私ももの書きの端くれですし、雑誌編集にも関わってきた人間ですから、何となく嗅覚が働くのです。 それでなくとも、小島氏は、自分の好みで他者を持ち上げたり貶めたりする独善的な主張が過ぎる。即ち、ジャーナリストとしての客観的冷静な視点に欠けるように私は個人的に思っておりましたので、どうも不審に思えてなりません。 正義感でふるわれても暴力は暴力なんですよ。もの書きの文章は武器なんだし、人を批判したら自分も傷つく覚悟をしなきゃならない。これは正しいかどうかの問題じゃない。 自然の摂理というヤツですよ。 英典館長の言葉を伝える時に余計な想いをそこに付け加えるのは、英典館長に責任を押し付けることになってしまう。 そういうのを、“他人のフンドシで角力をとる”と言う。 最低限の礼儀として、「この本は芦原英幸の息子である芦原英典氏に取材して書かれたものであるが、文章責任は全て、小島一志にある」と、全ての責任を自分が引き受けるのが、“もの書きとしての筋を通す”ということじゃないでしょうか? かつて、小島氏は自著の中で自らをダメ人間であるかのように卑下して書かれていましたが、間違ったことをして反省したのなら、そう書いて訂正すれば良いのだし、ぐちぐちと自己憐憫みたいなことを書いて読者の共感を得ようみたいなスケベ臭い書き方をするのは、いい年をした大人のやり方じゃありません。 そんな薄っぺらなプライド振りかざしてんじゃねえっ!って、言ってやりたい。 勤めていた会社を辞めたら廻状を回された・・・なんて被害者ヅラする前に、「何故、そうされるのか?」ということを考えて、自分の足りないところを冷静に反省して直すのが大人ですよ。 俺だって誤解されて廻状回されたことくらい数回ありますからね。でも、誤解される私自身の問題点を自覚的に直せば先の展開が違ってくるんですから、被害者意識は捨てたほうがいい。修行者だったら、「鍛えてくださって有り難うございます」です! 自分に何の落ち度もなくて相手が百パー悪い!なんてことは無いんですよ。ねえ、小島さん、どう思いますか? アンタ、そんな胸張って正義漢ぶれるんですか? 芦原先生の人間味のある欠点もチャーミングではありますが、「家族には決して手を出さなかった」なら、もっともっと遥かにカッコ良く尊敬できます。 武道の修行って、一体、何のためにやるんでしょうか? 自分の欠点を見つめて直していくことでしょう? 単に人を殴り倒す技がうまくなって何の意味があるんでしょうか? 芦原先生はそれを知ってたから、空手家なんてヒヨッ子じゃけんって言っていたんでしょう? 芦原先生は、いいたいことは山ほどあったでしょうが、自分の本の中で大山先生のことを悪く書かなかった。多分、感謝の気持ちと相殺されていたんじゃないですか? 私なんか、自分の感情に任せて人の批判を平然と書いてしまうチンケな人間だから、芦原先生のそんなところを尊敬しましたよ。 でも、私は批判する以上は、自分が傷つくのは覚悟しています。それが批判する相手に対する礼儀だと思っているからです。その気持ちが無かったら、人の批判はしてはいけないと思っています。 従って、小島氏のやり方は残念に思えるのです。恐らく、芦原会館に要らぬトラブルの火種を撒いてしまう結果になるでしょうから・・・。 この私の危惧する点を割り引いて読めば、本当に素晴らしい本だと思います。いや、欠点も含めて面白い! 御一読を強くお薦めします。 追伸;上映が決まったと思ったら、またまたキナ臭い展開になってきて、『靖国』問題はまだまだ続きそうですね? 「反日映画だ!」と批判している人達に私が言いたいのは、“映画は映画だ”ということです。傑作も駄作も関係なく映画は第三者に鑑賞されるために作られているのです。そして、その評価は観客一人一人なんですよ。私は、たとえ『靖国』に反日の意図があったとしても構わない。何故なら、それを切っ掛けにして国境を超えた論議ができるからです。日本人の最大の欠点は、「臭いものには蓋をしろ」という隠蔽体質にあります。近代民主国家としての気概を示して堂々と上映してこそ国際社会から評価される国になれる。その絶好の機会であり各自の思想を世に問うターニングポイントとして活用したらいいんです。見苦しい真似をするな! |
『範馬刃牙』はどこへ行く?2008-04-12 Sat 00:00
いや〜、最凶死刑囚編辺りから、何か方向性が見えなくなってきていた刃牙ですが、ピクル編になってから、「どうすんの? 板垣さん」って感じになってきましたね。
格闘物の宿命として、敵がどんどん強くなっていって主人公もどんどん強くなるという避けられないパターンがある訳で、その極大値が『ドラゴンボール』でしたけど、あれはファンタジーと割り切っていられるから許せる。 それに比べると、格闘技通の板垣さんがリアル・ファイトを描いた格闘漫画がウリの刃牙では、格闘技や武道、武術という枠組みの中だけでは行き詰まってしまう。 だから、どんどん異形の人間が戦う話になってきて、ついに“ジュラ紀に生きて恐竜を捕食していた人間”という、『恐竜百万年』(ダイナメーションの提唱者レイ・ハリーハウゼンが特殊効果を担当)みたいなホラ話を無理やり描いちゃった・・・。 何か、だんだん1960年代くらいのSFになってきたぞ? 原始人ピクルに挑んだ烈海王の中国拳法が効かなくて、揚げ句に片脚食べられたりするというシーンを見ると、昔、太気拳の岩間統正先生を取材した時に、「“三倍は技の外”と言って、力が三倍あったら技は通じない」という話をされていたのを思い出します。 岩間先生は、「人間はどんなに頑張ってもキングコングには勝てないだろう」という至極、当たり前の理を説かれていました。 ひょっとすると、板垣さんはこの言葉を知っていて、キングコングを人間サイズにしたピクルを思いついたのかも? T−レックスと戦ってたしな〜? しっかし・・・本当に刃牙はどうなっちゃうんでしょうね〜? ピクルと勇二郎が戦ってるうちに、互いに同じDNAの持ち主であることに感づくんですけど、実はピクルはエイリアンの遺伝子実験でジュラ紀に取り残された人間で、勇二郎も同じだった訳。 で、「範馬勇二郎は戦闘好きエイリアンのDNAが入っていたのだぁっ!」って真相が明かされて、突然、「地球は俺には狭過ぎる。今度は宇宙最強だっ!」って言って、迎えに来たUFOに乗り込んで、「刃牙、おめ〜も来い」とか言うんだけど、刃牙は「俺にはこの星のサイズが丁度いい」とか言ってとどまる。 それで独歩ちゃんや達人渋川が「ど〜りでっ!」って大笑いして終わる・・・とか? その後は、オーガは、宇宙の星々に最強の遺伝子をタネ付けして回るんだよ。 今の状況から予想される最終回は、これで決まりだな? |
月光仮面“川内康範”逝去2008-04-11 Fri 08:27
例の『おふくろさん』無断改竄に関する森進一との軋轢で、ワイドショーの有名人となっていた川内康範さんが亡くなられました。
私みたいな特撮マニアにとっては、『月光仮面』『愛の戦士 レインボーマン』『ダイヤモンドアイ』『正義のシンボル コンドールマン』の原作者として名前だけは知っていました。 十数年前に、「作詞家の川内康範氏は、月光仮面の原作者でもあり・・・」ということを何かのニュース番組で見たのが、川内康範さんの名前を知った最初でした。 その後、民族派の思想家だということも知って、「右翼なのかな〜?」とか思ったりもしたんですが、特撮ヒーロー物の原作者という顔を思うと、そんな単純に色分けできる人ではないんだろう・・・とも思っていました。 政治のご意見番みたいな存在で竹下元総理の相談役だったとか、グリコ・森永事件の時は私財をなげうつ覚悟で犯人の説得を試みるとか、彼が生み出した特撮ヒーローは、自身の分身だったのか?とも思えるのです。 今になって思うと、最晩年になってまな弟子とも言える森進一とのいがみ合いみたいな決別の印象ばかりが残ってしまい、頑迷な老人のイメージが残されてしまったのが非常に残念です。 しかし、個人的に思うに、川内康範さんこそ、国民栄誉賞を授与するに相応しい人生だったんじゃないでしょうか? 親しい人達が口を揃えて絶賛する人柄には、古き良き時代の日本人の、尊厳と弱者をいたわる視線を持ち続けて一途に生き切った“気骨の人”という人物像が浮かんでくるのです。 川内さんが森進一を許さなかったのは、まな弟子の驕りの心を許さなかったんだと思います。単にクリエイターとしてのプライドを傷つけられて怒ったのだとは思えません。 形ばかりの礼をつくしてみても、本当に改心していなければ同じ過ちを繰り返すのが人間の常です。それを全身全霊で表現してみせていたように思えてなりません。 現代は、様々な猟奇的事件が多発していますが、これらは心を失ってしまった人達が増えていっているように思えてならないのです。 何しろ、動機が無い通り魔事件や、我欲の充足のためだけに簡単に人を殺してしまう者が増えています。 どうも、合理主義を取り違えて自己中心的な御利益主義でものを考える人が増えているように思えてならないのです。 その象徴的な言葉が、“勝ち組”“負け組”・・・。 自分が勝てれば他人のことはどうなろうが知らない・・・そんな卑しい本音がのぞく非常に下劣な言葉だと思います。 これは、知らない間に日本人の心を侵食してしまっているんじゃないでしょうか? シルバーシートに平然と座り続ける若者・ファミレスや居酒屋で人目も気にせず大声で騒ぎたてる者・彼女や幼児を平然と殴りつけるクズ・・・等々。 人を人とも思わない自己中心主義の人間がどんどん増殖していっているように思えてなりません。 そういう精神的な質は、その人の何げない日常の所作や人との接し方に現れてくるものですから、見せかけの形で演じ切れるものではありません。 私は、日ごろから他者を観察するのが習慣になっていますが、それが武術の心得として非常に重要なものだと認識しているのです。 観察する習慣があると、言葉に想いが一致していないのも容易に判別がつくようになります。 私が綺麗言を言う人間が嫌いなのは、本当に誠実で実直な人間だったら、安易に綺麗言を口にできるものではないのを知っているからです。 どんなに才能が秀でていても、こういう基本的な人格の面で第三者に不快な対応をしてしまう人間は指導者には向いていません。 これは性格の向き不向きでもあるので、単に教える能力があっても指導者には向いていないという場合もあります。 武術の場合を言うなら、どんな綺麗言で飾ってみせたところで、練習する内容は、人を殴り蹴り投げ絞め斬るテクニックを習練するものです。 だから、その行為に“正義”の美旗を掲げて正当化して語ることは重大な偽善にしかならないと私は思うのです。せめて必要悪として認識し、止むを得ない危機的状況を打開するための“最後の手段”と弁えて修行しなければ、自分にも他者にも危険でしょう。 月光仮面は、「憎むな。殺すな。許しましょう」という標語を掲げていましたが、悪には悪の理由があるでしょう。それを理解し、暴力で立ち向かってくる者を実力で粉砕しつつも命は取らず、改心を促して許す・・・という態度が重要だということです。 しかし、これを実行するには敵対してくる者より圧倒的に強くないといけない。 先日、ファミリー劇場で放送終了した『ダイヤモンドアイ』の最終回では、悪の前世魔人ヒメコブラが人間の良心を宿していたことから人間に生まれ変わるという結末を迎えました。 これは、人間の心の中の悪を象徴的に“前世魔人”の姿に投影して表現していたのでしょう。ダイヤモンドアイがステッキのダイヤから発射する“外道照身霊波光線”で魔物の姿に変わる悪人達を見ていると、「もしかして、彼らはダイヤモンドアイによって化け物に変身させられただけなんじゃ?」なんて疑念も生じるんですが・・・。 しかしながら、数々の変身ヒーロー物を手掛けて日本人を鼓舞し続けた川内康範さんの御冥福を祈りつつ、その心意気を継承していきたいものです。 |
趣味悠々に太極拳が!2008-04-10 Thu 00:00
NHKの『趣味悠々』で太極拳が採り上げられると知った時は、日本で最も普及している楊名時太極拳、即ち、簡化24式なんだろうな〜と思っていたんですが、今回は、あの陳静老師の御夫君で、日本人で太極拳の世界チャンピオンになった渡辺俊哉先生が指導されるとのことでした。
いつも都内に出て帰ってきた時に立ち寄る京王線橋本駅のコンコースにある書店で、テキストブックを見かけた時は、「あれっ? このイケメン顔の武術家は誰?」と思ったんですが、「この人が、あの陳静老師のハートを射止めた日本人武術家だったのか〜? なるほど〜、こんなカッコイイ人だったんだな〜」と、納得の美男美女カップル、おまけに二人揃って中国武術の世界チャンピオンというのは、カンフー映画や漫画でしかあり得ないようなミラクルですね。 私も太極拳を嗜む者の一人として、世界一の業前を堪能させてもらおうと思い、ワクワクして放送日を待ちましたよ。 ちなみに、私が習ったのは、西荻窪ほびっと村学校の大友映男先生から、佐藤金兵衛先生系の99式太極拳を数回、躾道会の小林直樹先生から同じ套路と武術的用法を数回。これは笠尾恭二先生の本をテキストにして一回は覚えたんですけど、長過ぎて練習しなくなったんで忘れちゃいましたね。 この他には、松田隆智先生から陳式太極拳の用法の秘訣について口頭で説明を聞いたのと、高小飛先生から呉氏太極拳の推手のレクチャーを受けたのと、身法研究会の小用茂夫先生から陳式太極拳の推手のレクチャーを受けたのと、簡化24式太極拳を友人の山下さんから習ったのと、シダックス橋本駅前店の河原達先生の講座で一回学び、後は、やはり笠尾先生の本をテキストにして、99式の動作の風格に合わせて少しアレンジして、游心流としての簡化24式太極拳をやっています。 もっとも、私は元々が太極拳にはそんなに興味は無かったんですよね。実戦に使える人を見たことが無かったですから・・・。 けれども、私が武術を目指す切っ掛けになったのは、中学時代に読んだ松田隆智先生の『陳家太極拳入門』でしたし、発勁、化勁、気・・・といった特別な力を超えた技?を体得できれば、いきなり超人的な実力が得られるのではないか?という多くの武術愛好家が陥った錯覚の世界に私も埋没しかかっていたのです。 運よく、私は伝統的な武術を駆使して現代の実戦武道や格闘技と渡り合える師範に出会うことができ、今は「太極拳が弱い? ハァァ〜? アンタ、何言ってんの?」としか思わなくなったんですが、それは、太極拳の秘技が本当だと信じたからではなく、太極拳のメカニズムと戦闘理論が非常に理に適っていると認識したからなんですね。 意外に思われるかも知れませんが、フルコンタクト空手の創始者である大山倍達先生は、空手こそ最強と称えつつも、ブラジルのカポエィラ、フランスのサファーデ(サバット)、タイのムエタイと共に、太極拳を空手の脅威として認識していたそうです。 実際に、『空手バカ一代』の中でも、太極拳の陳老師に一度敗れる描写があり、また、太極拳の遣い手に狙われて死闘の末、辛くも勝つという、あまりにも意外な描写がありましたが、それだけ太極拳に畏怖の念を持たれていた間接的な証拠ではないかと思えるのです。 この陳老師は太気拳の澤井健一先生がモデルではないか?と言われていますが、太極拳の遣い手に関しては、どう見ても台湾の内家拳名手、王樹金老師をモデルにしているとしか思えません。澤井先生も王老師も、生前の大山先生と直接、間接の繋がりがありましたし、盧山初雄先生のように両者に学んだ大山先生門下の師範もいらっしゃいます。 この事実を考えてみても、太極拳が単なる老人向けの健康体操に終わるものではなく、武術としての合理性を内蔵しているものであることが判るでしょう。 個人的には、太極拳の身法原理に交叉法をプラスすれば護身術として十分だと思いますし、大東流や合気道を学んでいる人が太極拳の推手を学べば、一気に技の応用性が広がるだろうと思います。 また、特に那覇手系の空手を学んでいる人にとっても良い影響が出ると思います(套路だけでなく、推手をやれば・・・の話です)。 ただし、太極拳のメカニズムと戦闘理論を知らなければ、何十年やろうと全然戦えないと思いますし、特に伝統武術愛好家には未だに超能力武術扱いして語るイカレポンチが腐るほどいる業界なんで、私はもうあんまり関わりたくないのも本音なんですよ。 ですが、競技として発展している表演武術の世界は、スポーツと割り切っているが故に、おかしな神秘性を煽ることもなく、純粋に“身体運動”としての中国武術の魅力を追求できて良いのではないかな〜?と、最近は思うようになってきたんですね。実戦用法も知っている指導者なら、伝統武術に拘っている人よりずっとまともに護身術が覚えられる。 日本も似たようなものですが、中国の伝統武術の世界は妙な権威主義が横たわっているから、何か非常に嫌みな人が多いように思える。「自分は本物を知っているんだ」という手前勝手な優越意識を丸出しにしている尊大な態度の人を本当に多く見ました。気持ちが悪いくらいです。 だから、「中国武術のいい道場はありませんか?」と聞かれると、「やめた方がいいよ」と答えざるを得ない・・・、研究家として、哀しいですよ。 でも、その点、TVを見ながら練習できるというのはいいですね〜。NHKは、こういう番組を多く作ってきているからノウハウが確立されていて、非常に良いと思います。 番組の初回を見ると、渡辺先生は、まだTV馴れしてないから緊張している様子でしたが、柔らかく伸びやかな動きと、まったく崩れない中心軸、ポロッと出る関西弁がチャーミングでしたね。陳静老師の表演も見られて、久々にお得感がありました。 『カンフーくん』に『少林少女』『カンフーパンダ』・・・、う〜む、そろそろカンフー・ブームが再燃するかも? 木曜夜10:00から30分。しばらく楽しく過ごせそうです。私も初心に戻ってストレッチからやり直そうかな〜? |
お花見第二弾!2008-04-09 Wed 08:26
先週のお花見がたった三人になってしまったので、急遽、第二弾をやりました。わざわざ名古屋方面から御夫婦で参加された会員さんもいて、総勢八人。花見には丁度よい人数です。 一年近く練習に来れていなかったビジュアル系会員のTさんがドロンジョ様みたいなコスプレして来たら面白いな〜と思っていたら、練習するから普通の格好?で来ていたので、ちょっと期待外れ?だったかな〜。 最近、「どうせ、俺は武術の世界じゃイロモノなんだから、全員コスプレして練習したら面白いかもしんないな〜?」なんて、結構、マジで考えたりしております。 やっぱり、公園で練習してるからなのか? 最近、町中で全然知らない人からジロジロ見られたりするんですよね〜。「あの人、公園で酔拳やってた人だよ〜、クスクス」みたいな感じ? でも、Tさんがお酒持ってきてくれたんで有り難い。丁度、大学に合格した会員さんも来てくれたんですが、二人共にロン毛なんで、ちょっと兄弟みたいで面白かった・・・。 いつも練習に使っている淵野辺駅近くの鹿沼公園は、特別に広くはありませんが、ダイダラボッチ伝説のある相模原市でも有名な公園(“ホモのハッテン場”だとか、何年か前にトイレで殺人事件が起こったことでも有名になってしまった・・・トホホ・・・)で、ここ半年くらい、ほぼ毎週利用しています。 先週は、大体、七部咲きくらいかな〜?という感じだったんですが、思ったほどの花見客ではなくて、桜の無い高台のところでラクに練習できたんですが、桜の花が舞い散る今週は、高台にも何人かいて、ちと練習し辛い雰囲気・・・。でも、やるんだよ! 岩で囲まれた池らしきところが水が涸れて適度なスペースになっているので、そこで練習することにしました。 スワイショウ、立禅と三元試力の一番目(二番三番は見た目が怪しいから割愛!)をやり、二人組んでの対練。初級対練の内容を昨年末から、ちょこっと実戦向けに手直ししたので、それを改めて指導。 推手をやって、推手からの逆関節取り、更に逆技から抜ける練習。 この辺も最近指導し始めたものですが、取り敢えず、関節技や合気技にかからないようになっていれば、さして技を知らなくとも合気武道系の相手との勝負を恐れる必要が無くなります。 何しろ、甲野善紀氏のみならず、ここ最近、木村達夫氏、高橋賢氏、保江邦夫氏の著書を辛辣に批判しておりますから、いつ道場破りに来られても負けないように備えておかなきゃいけない。 と、考えて、会員さんには関節技や合気技の弱点を徹底的に叩き込んでいる次第です。 空手出身者が多いから攻撃力は元から有るので、関節技や合気技にかからなければ問題無いですからね。 こういう練習法は、中国の擒拿(チンナ)術のやり方を脱力技法と組み合わせて考案したもので、私がオリジナルで考えたものです。 甲野氏に習っていた頃から、この手の「関節技・合気技・化勁を封殺する技」に関しては研究し続けてきたんですが、これが上達するに従って、関節技・合気技・化勁そのものも副次的にレベルアップしていくんですよね。 ・・・とまあ、これは、今はピンと来なくとも、会員さん達が他流の人と手合わせした時に「なるほど、こういう意味だったのか?」と解る時があると思っています。 でも、やっぱり、游心流の技を駆使して戦えるようになるには、毎週二回練習していても、最低、二年間くらいは欲しいですね〜。 見世物演芸なら30分で全部教えられるけど、現実に戦うというのは全然違うことですからね〜。 でも、歩法を使って推手で関節技を取り合う練習をやってみたら、ずっと練習に来れていなかった人がかなりやれていたので、ちょっと驚きました。 久しぶりに来た人も八極拳の開門招法(相手の構えを打ち崩して死に体にしつつ自分の攻撃を当てる方法)をちゃんと使いこなしていました。 ちゃんと私の教えたことを理解していれば、とっさに動ける。漫然とルーチンで練習していて一向に私の教えた通りにできず、できない癖に独りよがりの駄目な技を工夫して自分ではできるつもりで喜んでいる・・・そんな人がいなくなった今が、本当に流派として一から育てていく時期なんだな〜?と、そんなことも思いましたね。 ところで、先週も練習しているそばでバドミントンやっている子供とかいたんですけど、今週は練習している周囲の岩場でフィールドアスレチック?し始める子供とか集まってきて、ふと気づくと子供のお母さんたちとかギャラリーが妙に多い。 何か、花見会場でパフォーマンス演じている大道芸人になった気分・・・? また、缶ビール飲んで、程よく酔ったところで酔拳を指導しました。やっぱ、花見は酔拳だよね〜。呂洞賓、李鉄拐、韓湘子、張果老、藍采和、何仙姑・・といった八人の仙人に材を採った酔八仙拳・・・。気分はもう、黄飛鴻・・・じゃなくって、蘇乞子(ユェン・シャオティエンが演じてた乞食のスーさん)だよ〜ん。 今回は特に、制空圏の維持と月牙叉手の鉤形に曲げた指を筋肉の筋目や急所に引っかける護身術用法を教えましたです・・・っていうか、酔っぱらってアドリブかましたから、細かいところはきっぱりと忘却! 最後は太極拳やって終了! 「さぁ〜、花見じゃあ〜・・・」と、場所を変えて桜の下の芝生の植え込みに移動して酒を飲んだり寿司食べたり・・・でも、私は急激に酔いが回って気持ち悪くなってきたんで、早退しました・・・。 家に帰って爆睡・・・一時間半くらいで目覚めてコーヒー飲んで、気分が直ったんで原稿書きしようとワープロに向かった瞬間、K師範代から電話かかってきて、「Tさんが本にサイン書いて欲しいそうです」とのことで、それなら今度は夜桜見物にでもいくか?と思って、駅で待ち合わせして再度お出掛け・・・。 サインには、“ビジュアル・ショック!!”と書きました。「バンド活動でメジャーになって道場でもプレゼントしてくんないかな〜?」という弟子想いなのか自分のことしか考えてないのか、よく判らない意味・・・。 まあ、うちの会員さん達は、サイン頼んでも私がド阿呆なことしか書かないのを弁えているので、最近はサイン書いてと頼まなくなりましたよ。 例えば、「腹八分目」とか、「空手バカ一代」とか「萌えよドラゴン」とか「オタクも極めればプロなんだよ」とか・・・。 Tさんにも去年は「男一匹ガキ大将」と書いてあげたら、ムムゥ〜ッて顔してたから、今年は頼まないかな〜?と思ってたんですがね・・・。 でも、将来、なんでも鑑定団に出した時に、「こんなイカレタ言葉を書く |












