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試し斬り、“惨”!

 また、試し斬りの稽古会にお誘いいただいたので、「ヨッシャ~! おニューの南蛮鉄製斬鉄剣“綱廣”がどのくらい斬れるか試す機会が来たぞ~」と、待ってましたとばかりにウキウキして出掛けました。

 今回は、真剣斬りを一度もやったことがない師範代に修行のために体験させてあげようと思って、刀の振り方とか指導して特訓していたので、一緒に行きました。

 私も、今回は細竹を斬る練習をして気合バリバリで臨んでいたんですが・・・

 いつもの定期稽古が終わって、橋本駅近くのジョナサンで飯食ってバカ話し、夕方の稽古会までの時間を潰しつつ、ある先生の居合抜刀のDVDをプレーヤーで見ながら会員と研究していました。

 調子に乗って喋っていたら時間が迫ってしまい、一度、自宅から刀を持ってこなくちゃならないので、いそいそと出て帰りました。

 一旦、自宅に帰ってから刀を持って、再び駅に向かいました。

 師範代は、自分が下手くそっぷりを晒したら私に恥をかかせてしまうと心配している様子でしたけど、まあ、特訓したから大丈夫だろうと思ってました。

 少し遅れて道場に到着したら、これから始まるというところでした。

 セッティングと後始末が大変ですよね。

 道場生の方が挑戦され、前回よりずっと上手に斬られていました。やっぱり、数をこなさないと難しいですよね。流儀の刀法で斬ることにこだわりを持って指導されていたので、試し斬りに特化した安易な結果主義でないところが偉いですね。

 理想をいえば戦闘中に最も斬撃力が発揮できれば一番いいんです。が、試し斬りはそれ用の斬り方で、カスタマイズしたダンビラ刀を使う方向に既に発展してきています。

 私の考えは、別にどちらも間違いではないと思いますし、試し斬りのパフォーマンスをできるだけ伸ばして、そこから実戦刀法を考えていくのもアリだろうと思っています。

 まず、マキワラ一つ、細い竹一本斬ることができないようでは、剣術もクソもないだろうと思うからです。

 でも、私たちは門外漢なので斬り方も違うし邪魔になっちゃマズイので一通り稽古生が斬られた後で挑戦しました。

「よしっ、吠えろ、オレの斬鉄剣っ!」とばかりにウキウキして綱廣を持ってマキワラに向かいました。

 前回、ほとんど手ごたえも感じることなく斬れたので、この刀だったら楽勝だろうという思い込みがありましたが・・・やっぱ、油断は禁物ですな~(グッスン・・・)。

 初撃は斬れました。でも・・・内心、「アレッ? ちょっと手ごたえ感じるな~。何か、ヤな予感が・・・」と思いつつ、二撃目を送ると・・・ザクッ・・・ゲゲッ、斬れない・・・三撃目もザクッ・・・失敗・・・アレ~、おっかしいな~・・・。

 しょうがないので刀を変えさせてもらって斬りましたが、マキワラがデロデロリンになった後(散らかしちゃってスンマッセン)と動揺しまくってて悲惨な結末に終わりましたとです・・・チ~ン・・・。

 次に師範代が緊張した顔で臨みます。彼は真面目だから、「自分が失敗したら先生の面目が丸潰れになってしまう」と考えて緊張しまくってるのがはた目で判りましたよ。

「よしっ、オレの屍を越えてゆけぇ~っ!」と、内心で叫びましたよ。

 ビュッ、ズバッ、ビュッ、ズバッ・・・お~、斬れたよ。やったぜ~。

 二周り目は、私も綱廣では斬るのが無理だと思って、刀を借りて、今度はちゃんと斬れました。でも、最初に失敗したから嬉しさ半分ですね。

 師範代も二周り目も問題なく斬れました。勢い余ってシートに少し斬り込みましたが、上出来でした。

 彼の場合、真剣振ったことさえなかったので、正真正銘の初めての試し斬りでしたから、これは驚異的なことですよ。正直、私も彼がここまで出来ると期待していませんでした。

 帰りは駅まで先生が車で送ってくださったので、そのまま帰ろうかと思いましたけど、まだ8時くらいだったので、反省会を兼ねて駅ビルの大戸屋で飯食ってから帰りました。

 思うに、マキワラの試し斬りは、刀身に重心がある先重りのする刀で、あまり鎬が高くないものが向いているように思いました。

 多分、私の持っている綱廣は、軽いのとやや鎬が高いので、マキワラに食い込んだ後の抜けが悪いのではないか?と思いました。

 硬物を斬るには向いていても、マキワラ斬るのには向いていなかったんだろうな~と思いました。

 それと、前回うまく斬れたので、自信過剰で余計な雑念が沸いてしまっていたのが剣の軌道をブレさせたのかもしれません。

 ビギナーズ・ラックというやつでしょうかね~。

 まあ、失敗しなけりゃ問題点は見えてきません。まだ支払い中ですが、小宮四郎国安の刀がマキワラの試し斬りには一番向いているだろうと思いました。アレは刀身が重くて鎬も低いから、よく斬れるだろうと思います。

 ただ、あの刀は綺麗過ぎるから、あんまり試し斬りには使いたくなかったんですけど、まあ、研究のためには使ってみるかな~? 元々、試し斬りに向いている現代刀として知られていますからね。

 それとも、先日、横浜名刀会で見せてもらった関の孫六兼元の現代刀を買っちゃおうかな~? やっぱり関の孫六は最上大業物ですからね~。

 弘法は筆を選ばずといいますが、凡庸な私は刀は選ばないと・・・。


追伸;『おくりびと』が日本アカデミーのみならずアカデミー賞の外国語映画賞を受賞!
 おめでとうございます。人気番組を多数送り出している脚本の小山薫堂さんは天草出身で私の弟の同級生。天草出身の人が活躍すると嬉しいです。才人として有名でしたが、今後はもっと活躍されるでしょう。健康に気をつけて頑張って欲しいです。

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大槻ケンヂさんの古武道大会鑑賞記に複雑な気持ちですぅ~

・・・っていうか、『ぴあ』の大槻ケンヂさんの連載エッセイ「神菜、頭をよくしてあげよう」に、日本古武道演武大会をレコーディング中に観にいった話が書かれていたんですけど、うむむぅ~って感じでしたね~。

・・・っていうか、やっぱり大槻さんは古武道なるものに興味津々なのは間違いないんでしょうけど、「アレを見ましたかぁ~・・・」って感じで、私はコメントしづらいんですよね。

“今時、鎖鎌が見られるなんて滅多にあることではない”とか書かれていて、「スンマッセ~ン。ワシ、鎖鎌もっとりま~す!」って思いましたとですよ。
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「いや~、やっぱ、オレは相当にヘンなオジサンに見えるかもしれんな~?」と思いつつ、「まっ、別に面白いからいいけど・・・」と、全然、反省したりしませんからね。

(でも、甲冑着て演武する“刃實剣理方一流甲冑抜刀術”って書かれていたのは、“初實剣理方一流甲冑抜刀術”の間違いですよ。この流派は戦国末期に今枝佐仲によって創始された流派で、今枝流という名前で各地に広まっていたそうです。竹内藤一郎系・竹内藤十郎系に続く第三の竹内流といわれる備中伝竹内流とも関係があるみたいです)

“二丁鎌(二丁鎌・・・書くことも、口に出すことも一生に一度あるかないかの言葉だ)”って・・・「スンマッセ~ン。ワシ、既に何十回もいったり書いたりしてま~す!」って思いましたとですよ。

 二丁鎌といえば、角川映画の集大成的超大作『里見八犬伝』で、犬江親兵衛役の真田広之が使っておりましたな~。侍じゃないから刀は使えないという設定だったんでござろうのぅ~(って、何か、オレ、サムライ言葉になってるぞ?)。

 え~っと、それで、大槻さんの“個人的にツボった”という根岸流手裏剣術の演武なんですが、これが“数本に一本も刺さらないのである”“「大丈夫か? 手裏剣術」”とのことで、私は非常に感慨深いものがありましたね・・・。

 思えば、今をさること二十年と少し。聖蹟桜ヶ丘の甲野善紀センセイの道場へと通っていた頃、日本古武道演武大会を一人で見に行ったのでした。

 が、その時も、根岸流手裏剣術の演武で、宗家独りの演武で、全打全滅・・・ただの一本も刺さらず、戸板の的の下に空しく散らばったロケット型鍛鉄製手裏剣を律義に黙々と拾いあげ、(お粗末さまでした)といわんばかりに深々と頭を下げて退場されていく宗家の背中の哀愁を思い出したのでした。

 お弟子さんが全打刺中したとのことで、二十年の歳月は無駄ではなかったのだろうと思う反面、私が唯一、甲野センセイの武術で認める根岸流縁の手裏剣術を指導してあげたらどうだろう?と、ここは素直に思ったのですよ。

 やっぱりね。武術というのは、どんなに人格円満であっても、腕前が一定水準を超えていないと困ると思うんですよ。

 根岸流といえば手裏剣術の中でも白井流と並んで現代まで続く名門です。その宗家となれば、百発百中とまでいかずとも、百発七十八中くらいはいって欲しい(ビミョー)。

 甲野センセイだって、手裏剣だけはかなり上手いといって良いでしょう。10m以上離れた的に刺せるのはお世辞抜きに凄いことですよ。

 それに、手裏剣術の独自の境地を開いているのは、八角流、無冥流、明府真影流といった流派がありますが、いずれも遠近自在に打って刺中する技術を持っています。

 あれだけの技能を見せつけるには、どれだけの研究工夫精進を積まれただろうか?と思うと、むしろ、そういった新進の流派をも受け入れていってはどうか?と思うんですね。

 失礼を承知で敢えて申しますが、名門の名を汚すくらいなら宗家を返上して後進の才能のある弟子に譲って、謙虚に他流に教えを乞う度量が欲しいところです。

 手裏剣術の基本原理は流派間でそんなに違うものではない筈だから、流儀の法形を守るために門を閉じる必要はないでしょう。根岸流としての面目は、あの特殊なロケット型の手裏剣の製造法にあるのですから・・・。

 何だかな~・・・大槻さんに限らず、少しでも古武道に興味を持った人が「こりゃあ、スゲ~や!」とビックラこいちゃうような絶技を演武して魅せられるよう、全国の古武道修行者の奮起を期待したいと思います。

 私自身は、新興前衛パクリ武術流派をデッチ上げたナンチャッテ武術研究家に過ぎませんが、やっぱり、伝統ある流派にはさらなる向上躍進を期待したいし、そのための稽古法研究のお手伝いくらいは無料アドバイスさせていただきますよ。
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ダガーナイフ既に規制されてたって知らなかったよ

 新聞(読売17日朝刊)にダガーナイフ(両刃のナイフ)の所持を禁じる改正銃刀法が今年1月5日に既に施行されていた事を報じていて、1ケ月間で全国の警察が回収したのが600本にとどまっているとのことでした。

 しかしまあ、私みたいなマニアが知らなかったんだから、ほとんど誰も知らないでしょう?

 規制するなら本気で報道しなきゃダメですよね~。それで、知らないうちに犯罪者になってしまったら困りますよ。

 7月5日からは自宅に持っていても摘発されるそうなんですけどね~。

 ダガーナイフはタクティカル系カスタムナイフの中でも人気があったものなんで、20~30万円で購入した人なんかも結構いると思いますよ。

 安いやつなら5000円くらいで買えるし、ダイバーズナイフなんかはもっと安い。

 幸いにも私は何故か一本も持っていなかったので問題ありませんけれど、自作してみようか?と思っていたのでガッカリですよ。

 不思議なのは、そんな危険視するなら美術品として日本刀みたいに登録制度にすれば事件防止効果も望めるからいいと思うんですけどね。安易過ぎますよ。単に両刃のナイフっていったら、いくらでもあるんだから・・・。

 でも、再三、いっているように悪法も法です。摘発されないようにするには警察に届けるか、あるいは高額のナイフがもったいないと思うなら、刃渡りを5cm以下にするか、片側だけ刃を削り落とすか、ヤスリやグラインダーで加工すればいいですね。

 特に手裏剣なんて先端だけ尖っていればいいんだから、側面の刃を潰すか削るかしてしまえば問題ない訳でしょ?

 鉄鋼ヤスリは東急ハンズやホームセンター、金物屋さんで1000円前後で売ってるから、目の細かい鉄鋼用ヤスリかダイヤモンドヤスリとか買うといいですよ。潰した後は丸めて滑らかにしておかないと、ステンレスでもすぐ錆びるから注意してくださいね。

 だってね~。自宅に保管しているだけで3年以下の懲役または50万円以下の罰金だっていうんだから、結構なペナルティーですよ。

 しかし、本当に馬鹿馬鹿しい。ダガーナイフ使ったのは例のアキバの通り魔事件だけで、他は百円ショップの包丁だの果物ナイフだの使ってる事件がいくらでもあるのに・・・。

 道具を憎んで人を憎まず? なんだかな~・・・。


追伸;GunDVDシリーズの『マシンピストルの世界』を購入して見ました。オートマチック拳銃をフルオートで撃てるように改良したマシンピストル。20世紀初期に作られたモーゼルM712から、最新のグロック18まで、変わり種のマシンピストルが見れて面白かった。中でも、旧ソ連の謎のフルオート拳銃だったスチェッキンが、意外にも高性能で現在も尚、現役だというのには驚きました。あたしゃ、てっきり、ゲテモノ銃なんだとばっかり思ってましたよ。でも、マシンピストルって、なんかグッときますけど、実用性からいったら?でしょうね。何か、見てると、スライドがふっ飛んでぶっ壊れそうで怖いもん・・・。
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セミナー参加者からのQ&A

Q.

拝啓、長野先生


執筆等でお忙しい中、ご返信ありがとうございました。

あれから教えていただいた技を自分なりにいろいろ吟味する中で、更に様々な変化技を見出せました。

一見単純に見えるシンプルなものほどバリエーションが無数に広がり、また少し角度を変えて応用するだけで非常に危険な技になりうることに気付かされました。

例えばフルコンタクト系の流派の中では「使えない」という人もいる上段受けがあらゆる流派に存在し、入門して初めて習う型なのは、実は用途のバリエーションが広範囲にわたり、かつ相手に大きなダメージを与えうる大変危険な使用方法もあるからなのですね。

秘技というのは特別な技ではなく、初級時から長年やっている基本技のすぐ隣に存在することに改めて納得させられました。

故大山倍達先生の「基本をしっかり続けた者と、いきなり廻し蹴りやミット打ちから始める者では5年、10年後には天と地ほどの差が出る」という言葉を思い出させられました。

同時に、自分の流派は約900年の歴史があるそうですが、一部の現代人のように「型や基本は実践向きでない」といった間違った解釈のもとに、失伝することなく今日まで引き継がれた先人達に感謝の念を覚えました。(冷静に考えれば、歴代宗家たるものがそんなにおバカじゃとっくになくなってますよね?(笑))

そう考えると、指導する側の責任というものを改めて考えさせられます。


前置きが随分長くなってしまいましたが、質問です。

以前、先生のお話の中で、「筋肉を鍛えすぎちゃダメ」といった内容がありましたが、具体的にどの程度筋肉は鍛えるべきなのでしょうか?

あんまりなさすぎて、なんでもないラッキーパンチみたいなボディブローやローキックで倒されるのも悲しいですよね(笑)?

自分の流派では支部によっては、この歳でもガチンコの組手で「身体で受け止める!!」みたいな我慢大会のようなコトをしており、「脳みそまで筋肉かいな!?」って突っ込みたくなるようなあまり利口に見えない練習を続けており、そういった支部に行った時はその練習に参加するため、自分もマッチョになってますが・・・(汗)

そういった練習も勿論大切だとは思います。相手と対峙してビビらない心やスタミナを養うこと、また、自分の痛みを知って、相手の痛みも知るにはいい練習だと思いますが、年齢に応じた練習方法も考えるべきだと思いつつ、果たして何歳まで対応できるんでしょうね?って客観視しているのが現状です。(自分は1ヶ月か2ヶ月に1度くらいしか道場には行かず、ほとんど週末に1人で練習することが多いので、しょっちゅう怪我することはありませんが・・・。)

お忙しい中、恐縮ですが、お手すきの折に長野先生の筋肉の鍛え方に対するお考えをもう少し詳しく教えていただければ幸甚です。

よろしくお願い致します。


草々

●●●●(ご質問者の御名前)



A.

拝復、●●様。

 感想文、ありがとうございます。

 もう応用していろいろ発見したということで、役立って良かったです。

 確かに、上段受けに類する技は、形意五行拳の炮拳や、太極拳の左右せんさ等々、拳法系の技には多くありますし、剣術でも普通に受け技や斬り上げの技であります。

 これが単に受け止める技だと考えるから使える使えないの論議になってしまう訳で、武術の場合、受けと攻撃は陰陽一体の関係になっていると考えれば、応用法がいくらでも工夫できる訳です。

 そういう意味で、基本技だけをみっちり練習していても、戦術戦法に精通すれば技は無数に広がっていくものです。

 伝統的な武術で本当に秘伝にしていたのは、技の用法ではなくて、基本技をどう発展させるかの道筋を示した戦闘理論と稽古理論の関係性についてなんでしょう。

 現代の武道では往々にして本来の戦闘理論も稽古理論も失われてしまって、試合競技の中から使えるか使えないかを判断するものになっています。

 別にそれは間違いではないですし、スポーツとして普及することを目指した結果なんですから、納得してやっていれば問題ないと思います。

 で、御質問にお答えしますと、フルコンタクトで打ち合う試合に勝つためには、走り込みで心肺機能を高めておくとか少々の打撃技に耐えられるようメディシンボールで鍛えるとか、そういう訓練も必要でしょう。

 ウエイトトレーニングもガンガンやっておいて、砂袋を蹴り込むとか、そういう訓練もやったほうがいいでしょう。

 そうですね。並以上を目指すなら、一日3~4時間はやらなきゃならないでしょう。

 ですが、これはあくまでも、そういう試合に出て勝つことを目指す場合の話です。

 20代でヒマと体力があるなら、そういう練習をやっても構わないと思います。もし、うちの会員でそういう人がいたら、やることを勧めます。

 しかし、30代半ばを過ぎている人には勧めません。後々、障害が出てくる率が高まってしまうからです。

 40代、50代でフルコンタクト空手の試合に挑戦している人の場合、若い頃からやっているので身体が順応しているという事情がありますから、本人的には無理がないケースもあるので、特には止めませんし、若い人にも勝てるように一緒に考えているくらいです。

 でも、もし、武術を本気で追究したい人であったら、私は「そういう試合は別物だと弁えた上でなら、やっても構いませんが、それが実戦だと勘違いするくらいなら意味がないから止めた方がいい」といいます。

 どんなに打たれ強くなっても、ナイフの刃は防げません。パンチやキックで人を倒すには、相応の訓練を年単位で続けなければなりません。が、ナイフは小学生が刺しても大人を殺せます。何の訓練も必要ありません。

 誤解してはいけないのは、武道の試合は“スポーツ”だということです。殺し合いではないし、安全に競い合うことを楽しむためのものでいいのだし、そこに“実戦”なんか考えるのは大きな間違いです。勝ち負けに必要以上に拘るのも愚かしいことです。

 過剰に実戦的な試合ルールを模索すれば、安全性を損ない、身体障害者や事故死する者を量産し、人間の野獣性を刺激して知性を摩滅するだけのことだと思います。

 プロ格闘家が暴力事件を起こしたりヤクザの用心棒をやっていたとかいう話を耳にする度に、私は暗澹たる気持ちになります。要は、知性と理性を磨かないで肉体の暴力性を満足させることしかやっていないから、精神をコントロールできなくなるのです。

 そんな訳で、私は、武術は他人と腕前を競うものではなく、もし、戦う場合は相手を殺傷する覚悟をしなければならないものと考えるようになっており、御質問の内容に関しては、「そんなことはどうでもいいじゃない?」としか思えないのです。

 試合や組手で勝ちたいのであれば、その競技ルールの中で切磋琢磨して導き出された努力・根性・我慢でいいのではないか?と思います。

 実際、私がそういうルールでやっても勝てないだろうと思うし(40過ぎたメタボ腹親父が勝てるような、そんな甘いもんじゃないでしょう)、そもそも勝ちたいとも思わないので、最初から参加しないだけの話です。やりたい人がやればいい。

 私のいってることがお解りでしょうか? 私は強くなりたいとは思っていますが、それは格闘の強さではなくて、全人格的な覚悟を決める強さであって、他人と比較できるものではありません。

 他人と腕前を競って勝ちたいという気持ちは、要は「エバリたい」というだけの話で、虚栄心以外の何物でもないので、そういう自分の虚栄心を満足させたいがために闘う?というのは、何だか、物凄く精神的に見苦しいように思えて気が進まないのです。

 苦難に挑戦する逃げない心の強さを自らに課すというのなら理解もできますが、それなら一回やれば十分ではないでしょうか? 何度も何度も繰り返すのは、単純に相手をぶん殴って圧倒する快感を求めているに過ぎないでしょう。それは武術の求めることじゃないですよ。

 競技することはスポーツであり、スポーツには自ずと年齢の限界というものはありますから、それを無視するような魔法のトレーニング法なんかある訳がないのです。

 競技内容によってはかなりの年齢までやれるスポーツもあるかもしれませんが、武道や格闘技にそれを期待するのはお門違いでしょう。

 私が「70の爺さんでも勝てる武術」を目指しているのは、競技の場ではなくて、ストリートでの護身を念頭においたものです。体力体格に頼れない者が技と戦術で暴力を駆逐することを目指しているので、はっきりいって、筋トレに励まねば使えないような技はアウトです。

 実戦はスピードが第一です。相手より先に目潰し食らわせて、相手が殴りかかってくる寸前に膝関節を蹴り折って、相手が胸倉掴んできた瞬間に金玉を引き千切る。それが武術の戦闘法であって、ただの一発ももらってはいけません!

 理想論ではありません。基本中の基本的考え方です。

“ただの一発がナイフの刃であったら”、こちらがオダブツになってしまう恐れがあるからです。

 一瞬で殺せる技・・・これが武術の求める技であり、それ以外はすべてフェイクで、使いものになりません。私が求めている武術の“実戦技”とはそういうものですから、筋肉をどう鍛えて・・・なんてことはまったく考えていません。強いていえば、人間の反応速度をいかに超えるスピードを出せるか?ということくらいです。

 再三、書いてきているように、私は直立して立てる程度の筋力があればいいと思っているので、筋肉を鍛えて膨らませるくらいなら減らした方が重心移動がよりスムーズになっていいと思っているのです。

 だから、強いていうなら、「力を入れて鍛えちゃダメ!」ですね。徹底的に力を抜く。抜いて抜いて抜きまくる。そして柔軟なゴムのように全身を使って体内の重心移動を加速させる。このほうが圧倒的な威力が出ます。相手の打撃力も分散吸収するので少々の突き蹴りは威力が殺されて効かなくなります。いわゆる「内功が練られる」という状態になるのです。

 皆さん、誤解しているのは、相手の打撃力に耐えられるように筋肉を鍛える必要があると思い込んでいることです。

 打たれ強さにはブ厚い鉄板みたいに筋肉を鍛える方法と、衝撃を吸収するポリマー樹脂みたいな弾力のある身体の使い方の大別して二つあると思いますが、私は後者を選びます。

 従って、極力、筋肉は鍛えません。ひたすら全身を練り込んで、相手の打撃を食らった瞬間に威力を殺してしまう生ゴムみたいな身体(筋肉も含む)を作るように目指します。

 交叉法も、相手の突き腕、蹴り脚にこちらの差し手を擦りつけるようにして威力を殺し軌道を外させつつ、こちらの差し手をそのまま打拳にして筋肉で覆われていない弱い箇所を狙撃するのが基本的考えです。攻撃が防御を兼ねているのです。

 それに、相手の攻撃を受けて耐えることを考えるのは危険で、戦術的に考えるなら、フットワークで躱した方がずっといいのです。そして、フットワークで躱しながら死角に回り込んで打つ。これはもう打撃技の芸術ともいわれるボクシングが証明していますからね。

 運足ができないから筋肉武装しなければならなくなるのです。顔面パンチが認められる試合だったら、通用しなくなるでしょう。

 けれども、運足ができるようになるのは時間がかかるので、試合は試合向けに練習したほうがいいでしょう。

 フルコンタクト空手の試合に挑戦する人には脱力技法や運足も指導していますが、長年の体癖で、十分にこのやり方を体得できてはいませんから、現時点ではまだ芳しい成果は出ていません。戦闘法を変えるのはそうそう簡単にはいきません。10年20年と同じことをやっている人なら尚更です。

 もっとも、私の武術の理想を要求しても要求に応えられる人なんか現代では無きに等しいでしょう。だから、スポーツとして武道に取り組み汗を流して互いを高め合うのも健全でいいではないかと思っていますよ。その一割でも手助けできれば恩の字です。

 私は自分の考える武術の理想像を本質的に理解してくれる人がいるとは期待していないし、押し付けるつもりもありません。でも、「武術というのはこういうものです」と、生涯いい続けていくつもりです。たとえ誰にも理解してもらえなかったとしても・・・。


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小泉節が炸裂したかと思ったらアルチュール中川ランボーが弾けた?

・・・って感じで、麻生政権大ピーンチ!というのは、何か、凄いな~。

 いや、日本の政治は面白いですよ。ホント。

 次から次に、よくもまあ、コントかよ?って感じで失言、失策を繰り返すのは凄過ぎますね~。

 でも、もう怒る気もしませんね~。

 私、小泉さんがまた「俺がやる!」とか言い出しそうにも思えるんですけど、小池さんを出してきたら嫌だしな~。

 権力好きな女って嫌だもん。

 真面目過ぎて心が折れたひ弱な安倍さん、逆ギレして辞めた福田さん、人徳の無さを露呈していく麻生さん・・・。

 でも、渦中を「うずちゅう」って読んじゃう中川さんのキャラって、何か面白過ぎて嫌いじゃなかったんですけどね。

 小泉さんの麻生批判は計算ずくって感じですけど、中川さんは単なるアル中じゃないんですか?

 海外では顰蹙物でしょうけれど(アル中は麻薬中毒みたいに思われる国もある)、何かカワイイ動物みたいに見えて、あんまり非難する気がしないんですけどね~。個人的に。

 いや、それにしても日本の政治家の無能さばかりがクローズアップされていくのは困ったもんです。

 日本人は心の余裕がないね~。

(とか書いたら、昔の彼女に「心が狭いっ!」と言われて別れたのを思い出しちゃったよ。トホホ・・・。でも、浮気許す心の広さは必要ないと思うけどね~)

 もうね~、橋下さんとか東国原さんの例もあるから、ここはもうギネスにも載るくらいワーカホリックで頑張っているタフな、みのもんたを首相にしちゃうとか、そっちのほうがいいんじゃないですかね~?

 そうしたら、失言とか阿呆なことやっても、国民は笑って許すと思うよ。「みのさんじゃ、しょうがね~な~」とかいっちゃったりして・・・。

 何はともあれ、もう日本の政治はギャグでやってるんだと思っといたら腹も立たなくていいんじゃないですか? 今度はどんな大馬鹿、やってくれるのか?って期待してます。
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『武術と生きる日々』電子書籍版開始!

 文芸社の電子書籍でも『武術と生きる日々』が購読できます。恐らく、まだ読んでいらっしゃらない方が多数おられると思いますけれども、パソコンで読めますので、宜しくお願い致します。

 15日から出る予定だそうです。

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ヒミツ・ヒケツ増刷決まりました

 アスペクトさんで出してもらっている武術シリーズ第一弾『武術のヒミツ』第二弾『武術のヒケツ』が、それぞれ1500部程、増刷されることが決まって、内容を一部手直ししたりしました。

 お陰様でヒミツのほうはこれで一万部突破致しました。実売部数はまだ追いつかないですが、それも時間の問題かな~?と期待しています。

 内容の手直しをしていて思うのは、時間が経過すると人の縁も移り変わっていくものだということ。

 ですが、それにしても私の場合は人の出入りが激しいな~・・・とか思っていたところ、最近、プロのダンス振り付け家の方とお話していたら、似たような経験をされているみたいで、何か少しホッとしてしまったものでした。

 大きなミュージカル劇団のオーディションなんて合格する人がほとんどいないらしく、やっぱり、プロの世界は技術はあって当たり前、やる気だけではどうしようもない世界なんだと思いましたね。

 趣味で武術やっている人間が勘違いして、プロ格闘家に勝てる?なんて考えるのは誇大妄想も甚だしいものです。

「去る者は追わず、来る者は選ぶ」というのが今の私の方針です。

 やっぱり、武術は誰にでも教えられるものではないとつくづく思います。精神を害する場合すらあるからです。

 そこいくと、やっぱり芸術はいいですよね~。

 毎月のセミナー会場でお借りしている江古田ストアハウスは、ストアハウスカンパニーという劇団が主催されているんですが、ここの公演を何度か拝見させていただいて、毎回、凄いインパクトを受けています。

 演劇とも違うし、かといってパフォーミングアートと呼ぶのもシックリこない。

 ダンスとも違うし、即興の部分と緻密に計算されている部分と出演者相互の感応が奇跡的に共鳴して成立する劇・・・という点で、私は驚くばかりなのです。

 今回(3/4~10)に公演される『CeremonyⅡ』は、一昨年でしたか、招待状を頂戴して拝見したんですが、本当にビックリしましたね。

 何だか、万華鏡をずうっとのぞいているみたいな不思議な感覚に浸っていくのです。

 是非、一度、見て体感してもらいたいと思っています。

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二月セミナー報告

 2009年二回目の月例セミナーは、うちの看板芸である「交叉法」についてやりました。

 以前から来られている方は御承知のように、数年前までこれは秘伝扱いして会員以外には公開していませんでした。

 その後、研究が進んで、遊心流式の交叉法といえる段階になったと思って、今は八割方は公開するようにしています。

 それでも、これは具体的な技術として指導することは難しく、感覚に頼る面が大きいので指導法には試行錯誤を繰り返してきました。

 二年前くらいに“差し手(交叉手法)”を技術の基本ベースとして形にしていくことを思いつき、これによって研究が進んだんですが、それだけでは蹴り技や組み討ち技に対処するのは難しい面があり、その辺りの研究は昨年半ば過ぎ頃に大体のやり方を工夫しました。

 ですから、今回のセミナーでは回し蹴りに対しての対応法も三種類くらい指導してみましたが、これらは蹴ってくる瞬間の軸を崩して蹴りの威力を半減させつつ体勢の崩れた相手を追撃していく・・・というものです。本来は体軸の回で指導した方がいいような内容ですが、交叉法に含めました。

 中で、ちょっと見世物芸的ですが、回し蹴りの蹴り脚の膝上を下段払い風に脱力技法で抑えてそのまま崩す・・・というのも実演してやってもらったんですが、タイミングの取り方が難しいので中々、成功する人は少なかったですね。それでも、原理的には理解してもらえたかも?と思っています。

 これなんか、十数年前に月刊空手道で黒田鉄山先生がキックボクシングやっていた編集者の真摯な希望を受け入れてやってみせた技を再現したんですが、交叉法を知らなかったら永遠にできなかったと思います。そのまま実演しても芸がないので、同時に頭突きやショルダーアタックかます応用技にして指導しましたけど・・・。

 そういう具合なので、今回の交叉法の指導に関しては、基本となる“目付け”よりも、差し手のバリエーション展開と、相手の構えを利用するやり方と、こちらも構えを活用して相手を制圧していくやり方を特に指導してみました。

 これまで遊心流では基本の無構えを重視して、これに太気拳の構えをアレンジしたものを少し採り入れる程度で構えを指導してきましたが、会員にも迎撃オンリーの戦闘理論だけ教えていてもいかんと思い、昨年は自分から攻めていく技をいろいろ指導していたんです。

 それで、今回は形意拳の三体式の構えを活用して相手の構えを崩して制圧していくやり方を指導してみました。

 これは、もちろん、八卦掌でも通背拳でも八極拳でも、あるいは日本の剣術でも何にでも応用できますが、「接近密着して相手の攻撃を潰したまま闘う」という中国内家拳の戦闘理論で敢えて教えられない、「どうやって相手に接近密着するのか?」という点を補う術理となります。

 型、あるいは約束組手でそれをやっていても、本気で攻撃しようとしてくる相手に極められなければ絵に描いた餅にしかなりません。私だって、セミナーでは皆さん、習うつもりで学んでいるから簡単にやれますが、もし、「長野に恥かかしてやる」と思って、いきなり本気で攻撃してこられたら、やられるか、こっちも反射的に本気で打って大怪我させてしまうか、二つに一つになってしまいますからね。

 練習でできることが実戦でできるとか、流石に46歳にもなって、そんな甘いこと考えてませんよ。実戦はデッド・オア・アライブですよ! 思考をチェンジしなきゃダメ!

 中国武術を学んでいる人の多くが、「中国武術の技はウンタラカンタラ・・・」と講釈だけは御立派ですが、内容は現代の発達した日本武道や格闘技からすると理論倒れに過ぎない人が多数派で、「屁理屈をこねくるオタクの世界」と小馬鹿にされてしまう。

 別に私はそんな人達とは関わりたくないですし、一生、闘わずに誇大妄想に浸って喜んでいたらいいんじゃな~い?としか思っていませんけれど、「中国武術なんか実際には使えない」と決めつけられて蔑まれるのは我慢ならないんですよ。

 ですから、交叉法を研究し始めてからは、中国武術の技がいかに合理的に敵を制圧する工夫がちりばめられた武術であるか・・・という点を痛感しているので、“誰にも教わらず”(無論、ヒントを頂戴した先生は多いですが)、自分で実験検証しながら戦闘理論の研究をしてきたんです。

 ところで、中国武術のムック本『達人への道2』というのが出ていたので買ってきて読んだんですけれど、「蟷螂拳の蟷螂手は指先で相手をツンツンするものではない」と、恐らく取材先の先生ではなくてライターの方が自分の考えを披露して書いていると思うのですが、「はは~、これって私がDVDや本で解説した蟷螂捕蝉式の応用例について間接的に批判しているんだろうな~」と思って読みました。

 でもね。これは私が実際にある先生に習ったことを私なりにアレンジして使ったものなので、「そんなのは間違いだ」と言われたら、間接的にその先生を批判されたことになってしまうので、黙っている訳には参りません。で、ちょっと反論を書いておきますね。

 まず、蟷螂手の用法に関しては、確かに敵の腕をからめ挟んで固定するやり方を一般的に行いますが、そもそも、武術の基本戦法として、一つの技に一つの用法しかないと考えるのがおかしい訳なんです。

 中国の老師が日本人に教える場合に多いのは、「この技はこうやって使う」といいつつ、一種類のやり方だけ教えて裏技や応用法は隠す・・・という場合が圧倒的に多い。

 従順な日本人修行者は、その習った一種類の技こそが秘伝だと信じて、そのやり方こそが正伝で、他のやり方はすべて間違いだと考えて顧みなくなる・・・というケースが非常に多いのです。独善思考と一種の崇拝の念で思考停止してしまうんですね。

 ですから、私は“知識としての用法例”は一切、信用していません。他人に教えてしまうということは、「この程度の技は教えても差し支えない」と老師が考えていることを暗示していると考えるからです。

 仮にも、伝統武術を伝える人間が本来の自分が用いる技を一から十まで公開する道理がないのです。それが伝統武術を伝承するということなのです。それを、現代的な感覚で甘く考える人が多過ぎますね。

 現に、私は一つの技に関して最低十くらいの応用変化技は検討します。一発の突き技から、逆技・点穴技・投げ技・崩し技・跳ね打ち技・巻き技・掴み技・挫き技・・・といくらでも相手の対応によって応用変化させられなければ武術とはいえないのです。

 例えば、「蟷螂捕蝉式という名称を見れば解る通り、相手の腕を引っかけて挟み込む使い方をするものなのだ」と考えるのは、戦闘の現実を知らない者といわざるを得ません。

 名称から用法が類推できるとすれば、名称が知れれば返し技もある程度、工夫できることになってしまいます。つまり、名称から類推される用法は表向きのものであって、極論すれば“疑似餌”なのです。

 敵がその“疑似餌”に引っ掛かって余裕で技を返してきた時に思いもよらぬ変化をすれば、その変化を想定していない敵は為す術を失って術中に陥るという仕組みです。

 こういうのを“戦術”というのです。

 このような戦術は武術の戦闘理論の基本セオリー、つまり、公式なんですよ。

 蟷螂手に関しても、鈎手打ち(打ち上げ・回し打ち・跳ね打ち)、瞬間的な挟み込みの時の点穴圧法、前腕部による挟み肘折り、肘打ち・・・などの技が暗示されています。

 そして、あの独特の指先を突き出した手形を分析すれば、疑う余地なく点穴技法を意識したものであることが自明です。でなければ、あのような手形は指先を掴み折られる危険性もあって、むしろ不合理になってしまうからです。

 ちなみに、点穴技法は、指先で離れたところから狙って突くよりも、触れていって指先で探って刺すように押圧するのが現実的な用法と考えます。でなければ動き回って攻撃してくる相手に命中させるのはほとんど不可能ですし、指を折る危険性もあると考えられるからです。

 だから、指先を砂箱に刺して鍛えたりする訳ですが、特に鍛えなくても指圧の要領で点穴するのには問題ありません。要するに、これもまた用法次第なのですが、「指先で点穴するには指の鍛錬が必要なのだ」と思い込んでしまうと、それ以外は間違いだと信じてしまうことになります。

 指先は神経が過敏で中医理論の経絡に於いても重要な脈が通っていますから、鉄棒のように鍛えることは臓器や視神経を侵害する恐れがあります。ですから、私はある空手道の大家から「マキワラ突きはやめろ。指先は柔らかく使って大切にしなさい」と教えられ、以後、指を硬める類いの鍛錬は一切やっていません。遊心流が柔軟な技を使う理由もこの時の教えがあるからです。武医同術が私の目指す武術の理想像ですから・・・。

 私が思うには、蟷螂手は動きの流れの中で指先で目を掃ったり、引っ掻くように用いたりすることが用法の極意として用いられた筈(蟷螂拳は猿拳系の技法を多分に含むので引っ掻き技を用いると考える)ですし、鈎手で顎を打ち上げておいて喉の急所に指先を刺し込んだり、頸動脈を狙ったり、鎖骨の窪みに指先を食い込ませておいて掌底、肘と連続打撃するとか、当て身との併用で用いるのも常套手段です。

 誤解してはいけないのは、目玉を突き刺したり急所に指先を突き刺して致命傷を与えることを目指さなくとも、瞬間に技の流れの中で目に攻撃されると目付けが殺されて相手の意識が分断されて動きが居着く・・・ということを狙った日本柔術や少林寺拳法でよく用いられる顔面(目)への仮当ての効果があるということです。

 つまり、直接の攻撃力が無く(当たらなく)とも、人間の最大級の急所である眼球を攻撃されれば、人間は本能的に目を閉じて瞬間的居着きを生じるということです。

 無論、互いに構えているところからいきなり蟷螂手で目突きをやるのは不合理でしょうが、歩法で撹乱し、構えた腕に乗って密着しながら素早く目に指先が迫ってくれば、本能的に危ないと神経が察知して目を閉じて顔を背けたりする・・・その一瞬を逃さず次々に技を畳み掛けていく・・・これが蟷螂拳の得意とする基本的戦闘法であると私は解釈しているのです。

 とまあ、こういう考えで、私は実際に練習中、セミナー中、手合わせ中、ケンカ中?に何度も試して有効性が期待できると認定して紹介解説した訳なんですが・・・。

 もちろん、別に「このやり方が正しい」と主張する気もありませんし、必ずこうやるものだとも思っていませんから、いくらでも別の戦法に切り替えることはやりますが、何だか、このムック本を読んでいて悲しくなってきたのは、日本の中国武術の業界?は、三十数年間、ドグマチズムに毒されたまま何も変わっていないんだな~という空しさでした。

 日本の中国武術愛好家には、知識量と伝統の権威を誇って、技の質、言葉を換えれば、「実質としての戦闘に用いられるかどうか?という技の有効性」を追究する現実的な武術修行をする気持ちが致命的に欠けている人がまだまだ多いんだろうな~と思います。

 秘伝をどれだけ知っているか?とか、珍しい源流の門派を学んでいるといった事柄にしか関心がなくて、実際に戦えるかどうか?ということを現実的検証をしようとする意識が欠落しているんだろうと思うのです。

 中国武術を学ぶ人の中には空手や格闘技の試合に参加して具体的な現実の戦闘力を証明していこうとする人も少数派ですが、いました。その行為が充分に報われているとは思えませんが、そういう嘘のつけない場に出て証明しようとする精神は尊重すべきです。

 護身と健身を求めて我が身の修行に専心することが悪いとは申しませんが、それなら身の程を弁えて、他人の努力をあざ笑うような鬼の首とったみたいな知識自慢を公言するのは逆に見苦しいからやめておいて欲しい。

 率直にいって、現実に技を試して検証していれば、教えられた知識、情報が全てではないことぐらい気づく筈なのです。武術というのは、実際の戦闘の中でどんどん変化して技を連結させて使うものなんです。それが解っていれば、「こんな使い方はしない」なんて口が裂けてもいえなかったでしょう。

 どうしてか? 「こんな使い方をする筈がない」と相手が思うような意表をつく技であればあるほど、実用度が高いからであり、それを隠し技、裏技と称するのです。

 この記事で登場されていた日本人の蟷螂拳の老師は、「闘えない中国武術ではいけないのでしょうか?」と発言したお弟子さんを叱ったと聞いています。つまり、それだけ気骨のある方だと思います。ですから、この記事中の発言は老師の言葉ではなくライターの独断だろうと思っています。

 もし、私の想像通りであれば、取材した先の先生にかこつけて自分の意見を出すのは小島一志さんと一緒で、問題のあるやり方だと思います。

 伝統的な武術をやっている人に多く見られるコンプレックスが透けている・・・自信がないから他人の知らないであろう知識を自慢して他人の無知をあざ笑って自己満足を得てしまう。「実際に戦えば俺は弱いだろう」という自身の学んだ武術への不安が拭えないから、秘伝の知識と伝統の権威を振りかざして見せる。哀しいですね。

 こういうコンプレックスは、「本当は弱い甲野さんを知っていながら支持する人」にも共通しています。甲野さんに自分を重ねてしまうんでしょう。こういうコンプレックスは自己憐憫が根っこにあるから改善が難しいんですね。でも、放っておいたら技と心を蝕むだけです。何一つ、利点はありません。

 私が発表していることは伝統的な武術の世界で金科玉条のようにいわれてきたこととは真っ向から反対になる事柄も少なからずありますが、それは実験検証した結果の現実のデータを発表しているので、それをやっていない人間から自分の信仰心を押し付けられて非難されても困るのですよ。

 武術は一刻も早く神秘の世界、信仰の世界から脱却して、科学的現実的な技と理論の検証と、それらを現実に反映させていく努力をする必要があると私は考えています。

 賛同しない人に賛同してくれと頼むつもりはないのです。ただ、「文句を垂れるなら証明すべし。証明する気がないなら黙して語らず」が礼節です。陰で勝手に悪口いうのなら好きに楽しめばいいと思います(私も練習後に有名武術家のオタンコナス話で大笑いしています)が、公に出す文章には、それなりの覚悟が必要です。

 これは老婆心で、ムック本つくってる人達に言いたいんですが、「本当に、ハラ括って本物のプライド持った仕事をやって欲しい。情報を発信する立場の影響力に酔うんじゃなくて、読者に本当に役に立つ情報を提供するという志しが無かったら、読者に見限られて仕事も無くなってしまう。自惚れて仕事やっていたって見抜かれてしまうんだから、読者の支持は得られないですよ。謙虚な気持ちで頑張ってください」と・・・。


 ふぅ~、原稿の締め切りが迫ってるのに要らんこと書いちゃったよぉ~。

 でもまあ、今回のセミナーも、楽しく充実してやれた感触がありました。最近は指導者クラスの人(実力のある人ほど謙虚で大したことないヤツほど尊大なのは笑っちゃうくらいです)の参加が増えてきたので、練習相手の組み合わせも考えないといけなくなりましたが、この世界不況の御時世に高い料金を払って足を運んでくれた人達には期待以上のものを指導していかなくちゃいけないと思っています。

 実際、指導内容には、実は説明していないだけで、発勁・合気・軸の崩し・脱力技法・交叉法・・・等々は毎回含んでいるんですが、毎月テーマを決めているので、その月のテーマに合わせた内容をクローズアップしている訳です。

 正直いって、見限られたら私の生活は立ち行かなくなる。だから、不安もありますよ。いくら私が貧乏に慣れてるといっても、ある種、真剣勝負だと思ってやっていますよ。

 今の御時世。生きていくこと自体が真剣勝負ですよ。本当に私は武術といくらか文が書けるくらいしか生活費を稼ぐ能力が無かったから、恥ずかしながら、やってきた訳です。

 でも、月に一回、セミナーに参加してくれた人達が笑顔で帰られるのを見るとホッとする訳です。「あ~、喜んでもらえて良かった」って思う。「一万円出して損した」と思われるようじゃいけない。「十万円出しても習えないようなことを教えてもらった」と喜んでもらいたい。毎回、地方から出てこられる方には数万円の交通費を使ってらっしゃる方もいるのですから、ガッカリさせてはいけない。それだけは肝に銘じています。

 今回は参加者のお一人から高価なボールペンを誕生日祝いということで頂戴して、本当に有り難かったです。何か、昔、岡山理科大辞めて上京する時に映画研究部の皆が「これで立派な物書きになってください」と、記念に万年筆プレゼントしてくれたのを思い出しましたよ(一応、今、目標達成してる?)。

 考えてみたら、悪口いわれるのだって、その人達が私に注目してくれている証拠だからね。もっと悪口いわれるように頑張りま~す!(オイオイ・・・それは挑発し過ぎ!)

 参加していただいた方、御質問や感想など、気楽にお寄せください。悪性のインフルエンザも流行ってますから、皆様、御自愛ください。


追伸;毎月のセミナーで利用させていただいている江古田ストアハウスが3月4日~10日に主宰カンパニーの公演をおこないます。コンテンポラリーダンスとも即興演劇とも異なる身体表現劇の独特な時空間を共感してみてはいかがですか? 私は3月8日のセミナー後の公演を鑑賞させていただくつもりです。これは見てみなくちゃ~何も言えません。

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2月セミナー『交叉法』

 2009年2月1日、46歳になりました。40代も半ば過ぎると、「もう、若くはないよな~」って、ちょっと感慨深いです。でも、肉体が老けていっても武術の技って向上できるんだから、何か、不思議な気分です。

 爺さんになっていくのがあんまり嫌じゃない。これは普通のスポーツやっている人には理解してもらえないと思いますけど、職人とか芸術家だったら理解してもらえるかもしれませんね。

 さて、月例セミナーの二月八日(日)は、『交叉法』がテーマです。

 スイマセン。私、自分で決めておきながら合気をやると思い込んでいましたよ。今年は着実に実力をつけてもらうために、見世芸は後回しにしたんでした。

 つまり、「合気技法は交叉法を知らなければ使えない」と私は思っているんですね。だって、相手に腕を掴んでもらうとか、手刀打ちで攻撃してきてもらう・・・なんて、多少、心得のある相手だったら現実的にはあり得ないでしょう。

 打撃格闘技の経験があれば、まずはセオリーとして、ジャブ打ってきてストレート、あるいはローキックで崩してミドルや下突きでボコボコにする・・・。

 組み技格闘技の経験者でも、いきなり手首掴んではきませんよ。未経験の者でもケンカ慣れしてたら胸倉掴むのが普通です。痴漢なら手首掴んでくるかな~?

 だから、パンチやキック出してきたり、胸倉掴んできたり、ナイフで突いてきたりするのをどう処理するか?ということを知らなければ、合気だ何だといっても意味がないと思う訳ですよ。

 私は合気道や大東流の修行経験はほとんどありません。本当に皆無に近いくらいないですよ。けれども、どうやって破るか?というのは相当研究しました。

 どうして研究したか?というと、自分が考えた技に近い(体育館でやってた頃はよく合気道に間違えられた。あっ、白州でも「合気道の先生だ」って子供にいわれちゃったな~)から、破り方を研究することは自分の技の欠点を知って、どう補っていくか?ということを考えるのに役立つからです。

 普通、こういうことは武術やっている人間は考えません。どうしてか?というと、自分がやっているものが最高だと思い込んでいるから、技が深まれば万能に勝てると信じ込んでいるからです。

 この点、格闘技をやっている人は現実的ですよね。試合して負けたら、どこがまずかったのか?と考えて欠点を埋めていこうとする人が普通です。

 多くの武術家が格闘技を学んでいる人と手合わせして一方的に打ち負かされてしまったりするのも、この思考法の差が現れていると私は思いますよ。

 よくいる武術家には、「自分の技が決まれば一方的に勝てる」と自信満々なんですが、日頃、相手が抵抗らしいこともせずに技を受けてくれているからかかる・・・という現実をコロッと忘れている。

 だから、いざ勝負となって相手がマジでパンチやキックを打ってくると面食らってしまって防戦一方となり、攻撃どころではなくなって、何もできずにボロ負けしてしまう・・・というパターンが多いようです。

 私は自分が負けたら、「どうやったら勝てるか?」と、そればっかり考えます。そういう性格だから、伝統的な武術に対する盲信はなかったですし、武術を多角的に検討し直しました。

 結局、武術だから特別な技を用いるなんてことは本質的にあり得ないんですよ。勝負となったら、相手の攻撃をどう処理して自分の技をかけるか?ということでは同じです。

 いくら危険な禁じ手を知っていても相手は無防備に技を受けてはくれません。

 現代武道や格闘技は試合向けに禁止する技があるから、時間が経過するうちに禁じ手の意味が忘れられていっただけで、現実に手合わせしているだけ型稽古オンリーの武術より勝負勘があるんです。

 一昔前の武道家や格闘家はいろんなことを研究して禁じ手も沢山知っていました。私が学んだ先生方もそういうタイプの人が多くてスポーツ的な武道家じゃありませんでした。

 だから、自分が武術を追究しようと思ったのも、現代武道や格闘技が捨ててしまった技が残っていると思ったからで、普通は、そういう技は使えないから捨てられたと思うでしょうが、私は逆に、「使え過ぎて危険だから隠しているうちに用法が解らなくなった」と考えた訳です。

 それから、「古武術は身体操法が違うから驚くべきパフォーマンスができる」という甲野氏が提唱する説にも、私はまったく反対です。

 簡単な話、甲野氏がまともに手合わせして現代武道の有段者に勝ったことが一度もないからです(もし、まっとうに手合わせして彼に敗れた方がいらしたら教えてください)。

 まったく実証せずに一方的なパフォーマンスで不思議そうな技を示して自分の論の正当性を印象付けようとする。実に姑息極まる偽証行為といわざるを得ません。

 少なくとも、「自分は全然、勝てないから現代武道で頑張っている方々には頭が下がりますが、でも、こういうやり方もあるということを考えてみてもらいたい・・・」といって自説を述べるならアリだと思いますが・・・。

 この辺りの事情については次の本で書こうと思っていますから割愛しますけれど、要は、私がいいたいのは「武術は、身体操法には大した意味はありませんよ。はっきりいって、そんなことをいくらやっても勝てませんよ。武術だって、現代武道や格闘技と本質的には変わらないですよ。ただ、戦闘の目的が違うところにあるから、それに合わせて技や武器は違ってきているんですよ」ということです。

 で、武術の戦闘理論で最も大切だと私が個人的に考えているのが、「交叉法」なんですよ。最初は直感に過ぎなかったんですが、この理合を16年以上も追究してきて、やっぱりこの直感は間違っていなかったと確信していますね。

 何しろ、感覚で処理されてきていたことが理論的に説明していくことが可能になったんですよ。

 空手の突きの意味、型の意味、先を読むということ、剣術の意味、居合術の意味、正中線の意味、死角の意味、間合の意味、拍子の意味、遠当て(気合当て)の意味・・・武道では意味不明だった事柄が次々に読み解けてきたのです。

 断言します。

 交叉法を知れば武術も武道も技術的な謎が全部解けます。身体操法では秘密は解けません。むしろ、誤解するだけです。

 身体操法から理合を読み解くことはできません。武術は単なるスピードとパワーの勝負ではないからです。

 武術に限らずスポーツは身体能力のある者が上に行けます。だから、皆、ストレッチをやり、走り、ウエイトトレーニングをやって基礎的身体能力を上げようとします。

 私だって30半ばくらいまではそうやっていました。

 しかし、30前後までは上昇しても身体能力は40、50になれば維持するだけで大変な労力を必要としますし、60過ぎたら、どんな天才的才能があっても見るも無残に衰えていきます。

 これは自然の摂理なので仕方がありません。DNAのテロメアによって決まっていますからね。

 けれども、武術の理合を知れば70歳くらいになっても戦闘技能は衰えないでしょう。

 どうして衰えないか? それは、“身体能力に頼らないから可能”なのです!

 前回のセミナーでは勁力を得る方法を指導しました。私なりの研究成果によると、勁力とは重心移動の力です。これは老人になっても衰えません。自分の筋力を使う訳ではないから衰えないのです。

 その力を用いて打たれずに打つことができれば、必然的に勝てる・・・という仕組みであり、その打たれずに打つのが交叉法という訳です。

 もっとも、誤解のないように付け加えておきますが、交叉法はもともと大抵の武術に伝わっていた理合です。感覚的に伝えようとしたり秘伝扱いしていたので失伝してしまったと考えられます。

 私は何人かの先生にこれを習い、自分で何年もかけて指導方法を精練してきました。以前は会員以外には教えないようにしていたくらいです。

 正直いって、広めたくなかったんです。指導してもらった先生方への遠慮もありましたし、下手に言葉だけ広まって、“発勁”や“合気”のように神秘化されて詐欺師やマニアの発狂化を促進させてはいけないと思っていたからです。

 それと、もちろん、これを知らない相手にはかなり一方的に有利に戦えるので、もったいなかったからでもあります。

 でも、もう、ここまで研究したら成果を還元して全国の真面目に武道に取り組んでいる人達の役に立つならいいだろうと思っています。

 何しろ、私みたいな何の素質も才能もない、おまけに持病も持ってるヘタレなオヤジですら、交叉法を知ったお陰でいろんな武道や格闘技の指導者レベルの人達にまで教えられるようになったんですから・・・。

 ただし、私も生活かかってるんで、安売りはしませんよぉ~・・・(銭ゲバか?)。


 ところで、武術に身体の動きを高める要素があると思っている人が多いようですが、武術の特色は、“心身を一致させる”ところにあって、単に身体の動きを高めようとするのは部分的な解釈なんです。

 実際、私は元々身体固いし身体能力もあまりないです。それでも、意識をコントロールして身体技能を引き出すことには長けています。これが重要なところなんですよ。

 私がダンスや伝統舞踊、演劇にも関心を持っているのは、この武術の意識コントロールに近いものを演技で出せる人がいたからです。

 これが通常、いわれるところの気のコントロールだと思ってもらっていいでしょう。

 意識を無心にして純化集中させたのが日本武術でいうところの気です。

 しかし、これに雑念やイメージをつけ加える物理的エネルギーとしての気をコントロールしようとすると、その人の無意識下の欲望が顕在化してきて人格破綻してしまったりするんです。

 中国武術や気功、ヨーガをやっていて精神疾患に陥る人は、このメカニズムによって発症すると私は考えています。

 私がイメージを用いたり呼吸法を用いないのは、肉体がパワーアップしていくような身体感覚に酔いしれてオツムがおかしくなってしまうことを自覚できなくなる人が多いからです。身近に何人もそうなっていく人間を見たから、うちではやりません。

 人間は仙人や天狗を目指しちゃオシマイです・・・。

 そういう意味で現実逃避で武術に逃げ込もうとする人も断固としてお断りします。

 セミナーは、現実社会で強く生きていくことを求める人の参加を待っています。
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ネット規制について

 自殺者が相次いでいる韓国のインターネットの規制について報道番組で論じられていました。

 また、自分のホームページで大手外食企業の名誉棄損をしていた人間が逮捕されたというニュースも新聞で読みました。

 インターネットに何らかの規制が必要だという話は10年前くらいから相当論議されていました。

 私自身も毀誉褒貶というより、ほとんどデマばっかり書かれて具体的な迷惑をこうむりました。

 けれども、私自身が活動する上でインターネットが大きな力になってきているのは紛れもない事実です。

 善か悪かの二元論で語ることそのものに大きな疑問を感じます。

 確かに悪意を増幅する面もあると思いますが、誰もが自分の意見を発信できるメディアとしてのインターネットを規制してしまえば全体主義社会へと進んでしまうだろうことは容易に予測できます。

 早い話、TVや新聞、雑誌に書かれていることが全てではないということ。どんな事件にも表に出てこない事情があるということ。当事者、関係者しか知らない、解らない事件の背景があるということ・・・。

 そういった点を補完する意味でのインターネットの存在は大きいと思います。

 無論、それなりの規制は必要かもしれませんし、無責任な流言飛語を流して摘発される事件が出るのは止むを得ないだろうと思います。

 しかし、そういう現実社会のルールと同様に次第にネットの社会としての成熟がされていけばモラルも自然に形成される筈ですし、行き過ぎたオカミの規制が先にくるのでは単なる言論封殺にも成りかねないでしょう。

 インターネットそのものは軍事通信手段として開発されたと聞きます。が、国や宗教イデオロギーを超えて個人個人を結び付けていく力があるのは間違いなく、明るい未来の到来に役立つものと信じてもいいのではないでしょうか。

 それと、イジメの道具としてのネットの問題を批判するのも道理ではありますけれど、人間はもっと打たれ強くならなきゃいかんと思いますよ。
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麻生首相は、やはり退陣すべき

 麻生首相の漢字の読めなさ加減は、もはや、ギャグを超えてホラーの領域に突入したような感じがしますね。

 見地をカンガ、決然をケンゼン、基盤をキハンって、読み間違えるほうが難しいです。

 難読漢字でも何でもないのに、ここまで漢字が読めないと頭が悪いとしかいえませんし、それとも漢字が読めなくなる病気でもあるのか?と心配になってしまいますよ。

 要するに、日本人としての基本的文化教養の基礎中の基礎ができていないということなんですから、そんな人が国を代表する首相として海外に出ていくのは日本国の恥を晒すことになる。

 ニュース番組を見ていて怖くなったのは、ブレアさんの名前をブラウンさん?と何度もいい間違えたことです。

 一回、いい間違えて、「失礼」といって直すなら解りますが、何度も間違えてしまうと、覚えていなかった、つまり、それだけ意識化していなかった・・・ということになり、失礼過ぎます。シャレになりません。

 一国の代表がそんな態度を示してしまったら、日本国に対する先方の評価も悪くなってしまうのは必定です。国益を損なうハラキリ物の大失態ですよ。

 政治の世界で失言が問題視されるのを「そんな程度のことに目くじらたてなくても」と思うのは一般人の感覚であり、国益のかかった大舞台での失言はどんな影響を与えるか判らないんです。

 ニュースで見ていて思うのは、現在の政治家は概して言葉に対する認識が非常に不足していますね。

 麻生首相の問題点は、人を人とも思っていない傲慢さが、こういった言葉の端々にのぞいてくるところにあります。

 日本人は謙虚で誠実、礼儀正しいという評価があったのに、それをだいなしにしてしまうような人物を国の代表にしているのは、極めてマズイ状況です。

 しかし、笑ってしまったのは、中川さん。渦中をウズチュウと読んだというのは、ギャグのつもりだったんでしょうか?

 日本の政治家って、こんなに教養がない馬鹿が揃っているのか?と嘆かわしいですね。
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斬鉄剣、完成!

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 いや~、完成しましたよ。まあ、見てやってください。


 南蛮鉄で作ったという、この相州住藤原綱廣ですが、飛び焼きが地肌や棟にまで及ぶ皆焼(ひたつら)風の互の目大乱れの刃文で、二尺一寸五分という短い寸法の刀ですが、居合術に用いるには最適で実戦的です。

 よって、外装も今回は結構、凝って作りましたよ。

 柄木は桜材に針金巻いて強化。柄の下方にカーブをつけて縁頭が張り出すようにしました。このカーブの引っ掛かりを利用した技をいくつか考えたんです。

 今までは割りとずん胴に作っていたんですけど、居合道の本に載っていた写真を見て、柄の操作でちょっとした技ができるように工夫してみました。

 柄巻きの鮫革(実際はエイの革)は、町田の東急ハンズの皮革コーナーで買った赤染めの革を貼りました。これに金龍の目貫と黒牛革の柄糸巻きにしました。

 ちなみに、一度、諸捻り巻きにしてみたら柄が太くなり過ぎたので、今回は全面的に平巻きにしてみました。これで、やや太いかな?くらいになったので、よしとします。

 目釘は二本目釘にしました。この刀は目釘穴はいくつもあったので、三本目釘くらいにしてみようか?とも思ったんですが、ウザイから二本にしておきました。

 ちなみに、日本刀に詳しい剣術師範代から聞いた話では、この刀の目釘穴は、縁起物の瓢箪の形になっているそうで、確かに、よく見ると意図的に穿っているようで、瓢箪の口のところも刻んでありました。

 ただし、これらの穴は明らかに後から穿ったものと思われ、銘の文字が隠れたりしていますし、目釘穴の一つは真鍮(黄銅)で塞いであります。代々の持ち主が加工したと思われます。

 で、“甲を断絶した”という試し斬りの銘は作られた当時に試したものと思われるんですが、銃砲刀剣類登録証が交付されたのは昭和50年の七月十五日となっていますから、現代刀じゃないだろうから、どこかにずっと眠っていた刀だということになります。

 こうなると、茎(なかご)の錆び具合からして古いものだとは思われますが、南蛮鉄でできているからか、地肌が明るく、一体、いつ作られたものなのか解りません。南蛮鉄って新刀の頃から輸入されているという話もあるし・・・。

 腰反りだから、かなり古いような気もしますけれど、新々刀の頃にもこういう刀が作られたそうなので、やっぱり解りません。綱廣の名前は末相州と小田原相州に名前がありますが、どちらも古刀と新刀の転換期くらいの刀匠ですし、作風からすると末相州の綱廣のようにも思えます。

 が、新々刀期にも綱廣の刀が新選組の隊士の遺愛刀で残っているようなので、綱廣は代々、新々刀の頃まで続いていたのでしょう。そうすると、かなり新しいかもしれません。

 どっちにしろ、私はこの刀が非常に気に入っているので別に構いませんがね。

 鞘も栗型の下緒を通す穴にヒトドメを装着して、コジリも付けて黒漆塗りにして金粉と銀粉を適当に撒き散らしてオシャレにしてみました。

 いつもは金か銀のどっちかにしているんですが、どうせだからゴージャスにしてみようか?と思って両方使いました(でも、この作業やった後、金粉だらけになっちゃうんですよね~)。

 柄も黒革巻きの下から赤い鮫がのぞいてデラックスにしているので、このくらいキンキラにしてもいいでしょう。

 という次第で、斬鉄剣の拵えは完成しました。

 ムム~、また、つまらぬものを斬ってしまうのか・・・?

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甲野氏の常識批判は自己弁護?

 甲野氏が『コンバットマガジン』で連載するようになってから、ついつい書店で立ち読みする(毎月、ざっと立ち読みして気に入ったら買ってます)ついでに読むようになってしまいました。

 ここ何年も本も買わなかったし読んでなかったんですが、話している内容が20年前から全然、進歩していないんだな~と、苦笑するやら呆れるやらで、人間って本当に進歩しているつもりでも変わらないものなんだと思います。

「人間は天敵がいないから自ら天敵にならざるを得ない動物なんだ」と、戦争やテロや通り魔をも擁護しかねないアブナイ論理を振りかざしてみせたり、「さっすが、高校生に日本刀の切っ先突き付けて脅しつけるヤツはブッ飛んでるよな~」と、昔の講演会の大暴走事件を思い出しましたよ。

 あの時は助手として同伴していて共犯者?になっちゃったから、困りましたよね。マジで・・・。

 甲野氏を見ていると非常に新宗教の教祖的気質の持ち主なんだと思います。視点が神様なんですよ(するってえと、オレはピッコロ大魔王ってところかな?)。

 ただし、自分が中心になって組織的活動をするようなことは苦手な人なのが救いですけどね。アノ気質で組織権力を握ろうとするタイプだとオウムの松本になっちゃいます。

 何せ、神様だから、自分だけは何やっても許されるという奇妙な自信があるみたいで、人を人とも思わない傲慢さがのぞく時がありましたけれど、やっぱり、これは持って生まれた性質だから直らないみたいですね。

 もう、60歳くらいだから、そろそろ老害というか自分の考えに凝り固まってくるところも目立ってきているみたいで、また誇大妄想が沸き上がってるみたいですね。

 それにしても、刀持ってる写真を見ると、きちんと研がれていない(自分で研いだんでしょうけど)刀を担ぎ持ち(両手の持ち位置が悪い)して、痩せた頬に細い首・・・「益々、弱くなってるな~」と、見ていて哀しくなりました。

 年とっても遣える人は眼に力があるものですし、さりげない姿勢でも咄嗟の襲撃に応じられる用意があるものです。剣道家の森島先生なんて、写真見ただけで背筋にゾゾッときましたからね。

 やっぱり、剣道五段の先生に30分間打たれっぱなしだったという話は真実なんでしょう。見ただけで判る。・・・というか、以前よりずっとダメになってます。以前より意識が薄くなっていて正面がガラ空き。

 最近、青木先生の剣術を見て練習したりしているので、ダメなの見ると頭が痛くなってくるんですよ。ここまでヒドイと冗談にもならない。

 それで、書いてる内容も頭が悪過ぎて、泣けてきましたよ。

『君は何と闘うのか~世間の常識との闘い方~』ってんですけど、「居酒屋の畳ひっぺがして手裏剣打ってみせるお前には、そもそも常識ないだろ?」ってツッコミ入れたくなりました。

 あっ、そうか? 自分に常識がないから世間の常識を目の敵にして自己弁護してんのかもしれないね?

 でも、さっすが、神様。TV番組に出た時の感想で“現代は科学に対する盲目的な信仰心があるからいかん”といいたいらしいんですけど、大学の先生の科学的分析のレベルが低過ぎて自分の技(古武術介護)の分析が的外れだとオカンムリ。

 ですが、そもそも、甲野氏は自分のやってみせる技術について要点を踏まえて解説する能力が欠けているのですし、わざと必要以上に難しい言葉で説明して混乱させています。

 例えば、“足裏の垂直離陸”なんて、「一瞬、膝の力を抜いて体重の支えを外すと、重心がストンと落ちてくる。その時に体重の支えから解放された脚が浮き上がって見える。従って、見た目には足裏が垂直に浮き上がるように見えるけれども、実際には重心が落下しているので“沈身”のエネルギーが発生して相手に作用する力に重さが加わって技の威力が倍加するのです」と説明すれば、非常に科学的に明確に伝わるでしょう。

 TV番組批判をする前に、自分がもっと協力的に説明すれば良かったのです。要するに、大学の先生という権威をやりこめてみせる快感を味わいたいだけで、わざと肝心なことは説明しない・・・。

 昔からそうだったけど、20年、何の進歩もしてないんだな~と思うだけです。

 甲野氏は科学信仰に陥っている現代社会への批判論をとっているのだと主張したいようですが、それは彼の勝手な思い込みでしかないし、自分のやっている技の高度さをアピールしたいためにシンプルに説明されるのを嫌ってイチャモンをつけているだけでしょう。

 私が彼の技を物凄く簡単に説明して、しかもわずか数分でズブの素人に体得させてしまったりしても、「そんな簡単なものじゃない。簡単に説明することには意味がない」とか逃げ口上を並べて、彼の信奉者(内田樹さんとか)もオウム返しに同じこといったりしていて笑わせてくれます。

 できないヤツはものをいうな!というのが武術の世界ですよ。まして、甲野氏のやって見せる技は武術じゃなくって“奇術”の範疇に入るものであり、武道を真剣にやってきた人ほどできなくて当たり前。問答無用で立ち会えば自分が圧倒的に勝てるのに、ハハ~と感心して崇めたりしているんだから、「恥を知れ(オバマ大統領?)」といいたい。

 まったく、いつまで、あんなインチキ親父にヘーコラしてるんでしょうね~、信奉者の人達もマスコミも・・・。


 科学の発展というのは人類に益するものであるべきですが、人類に益することは環境破壊や戦争によって達成できるものではない。そのことにはもうとっくに誰もが気づいているから、「環境を守ろう」「戦争はやめよう」としている。

 しかし、甲野氏の論理は逆ですよ。「環境破壊に手を貸す人類は戦争をやらずにおれない生物だ。科学の盲目的な発展は地球を滅ぼすだろう」という考え・・・。

 だから、かつて彼は本の中でオウムの地下鉄テロ事件に関して、「地球環境破壊に好むと好まざるに関わらず手をかしている人類の誰が彼らを責められるだろうか?」なんて神様発言があり、私は激怒して、「お前は被害者の前で同じこといえるのか? そんなに人類原罪説をとりたいのなら、テメーが人類を代表して率先して腹切って死ね!」と書いた手紙を送りましたよ。

 どうです? 泰葉みたい?

 でもね。私がいいたいのは、「確かに人間はそんな綺麗に生きることはできないドブネズミみたいな存在ですよ。だけど、生きてる以上は幸せを求める権利はあるだろ? いい悪いじゃないんだよ。いずれは誰でも死ぬんだから、良く生きたいと誰もが思ってあくせくしてる訳でしょ。それを発狂した狂祖の妄想でいきなり殺された人達はどうなるの? いや、魔教の教えで人殺しをやってしまった人達も不幸だよ。アンタの理屈はマツモトチズオとおんなじなんだよ」ということです。

 私は、古武術介護というものにも何か釈然としないものを感じるんですが、それは、人を介護するということは、根本に“その人を助けてあげたい”という愛情が無かったら意味がないと思うからですよ。

 宅急便の荷物扱うような感覚でやられちゃ困る・・・いや、失礼。宅急便だって荷物を大切に扱う会社も多いですよ。

 確かに介護は重労働だろうと思うし、ラクにやれるのは有り難いことだと思います。だけど、単にラクにやれることばかりに注目されていて、相手の尊厳を無視して“重い荷物を扱う時のマニュアル”みたいに見てるところがないですか?

 やっぱり、人間は苦労して痛みを知らないと成長しないと思いますよ。

 私は両親とも学校の先生で公務員だったから経済的には割りと安定した家庭で育ちました。小学生までは特に苦労した記憶もありません。

 だけど、中学で自殺まで考えたくらい酷い暴力教室体験をしたし、大学中退してからはド貧乏生活をずぅ~っと続けてきました。

 本当に挫折挫折挫折・・・失敗失敗失敗・・・の連続ですよ。

 だけどね~、やっぱり苦労したからうたれ強くなったし、馬鹿にされてホサれても「必ず見返してやる」という気持ちになった。親の期待も外して迷惑ばかりかけてきたから、その分を取り返そうという気持ちもあります。

 気づいている人もいると思いますけれど、私は問題起こした芸能人とかに意外と優しいコメントする時があるでしょう? これは、自分が問題起こしたり、問題の責任を押し付けられたりした時の悔しい経験がゴマンとあるからなんですよ。

 だから、失敗は成功の素と考えて乗り越えて自分を変えていって欲しいと思う訳です。

 元々が呑気な性格だから、こういうモチベーションを維持するためには、マイナス要素が今は全部、プラスに働いているな~と思いますよ。

 でも、何か、失敗したり挫折することを恐れて小さく縮こまって生きてる人が多いように思うんですね。異常だと思いますよ。打たれ弱過ぎる。打たれる前からビクビクしている・・・。

 イジメを苦にして自殺するとか、どうせ死ぬなら戦って死んだほうがいいとは思わないのかな~? 何か、戦うことを悪だと思い込ませた弊害なんじゃないか?と思えるのは考え過ぎでしょうか?

 何もしなければ傷つかない。だけど、何もしなければ何も得られない。

 な~んか、ラクすることとか上っ面の優しさばっかり求める人が多い。これって精神の耐久力が無くなってるんじゃないか?と思えて逆に心配ですね。

 芝居なんかでも、ラクして覚えた演技や殺陣で観客が感動しますか? 優しく傷つかないように演技指導していて役者が良くなりますか? 悪い点を的確に指摘して直していかないと技量は向上しないですよ。

 ねっ、ラクして優しくしていたらダメになるんですよ。もちろん、ただきつくして厳しく叱りつけるだけじゃ~ダメだと思いますが、自己満足しか求めなくなったら自惚れて自分が見えなくなるだけで何の向上もないんですよ。商売だって投資だって何だって同じでしょう。

 はっきりいって、私は、「こんなヤツはどうでもいいや。オレの知ったこっちゃない」と思っている人に対しては一切、厳しいこといわないですよ。

 愛情ないから放置プレイしているだけ(本気で嫌いなヤツは批判しないとか)。

 親なんて説教ばっかりして小うるさいだけだと思いがちですが、それは愛情があって、良くなって欲しいと思っているから叱る訳でしょ? 表面的な言葉に反応していちゃダメなんですよ。

 私が恵まれていたのは、厳しく叱ってくれる先生とか周囲にいてくれたことです。

 だけど、今はこちらの気持ちの真意を洞察できなくて、ちょっと厳しくするとヘソ曲げるヤツが結構、いますね。そんな態度なら他人にものを習いにいくべきじゃない。

 頑張ってやることに意義があると私は思います。今は結果さえ良ければいいと思う人が多くて、過程を無視するでしょう? 揚げ句に、いかにラクして結果を得るかという甘い考え方を平然として「合理的だ」とか勘違いしている。

 そんな風にして覚えた技なんか勝負に通用しませんよ。一度でも真剣に闘ったことがあれば理解できる筈です。

 私は以前は日本刀って高過ぎると思っていましたけど、今は全くそう思いません。どうしてか?というと、自分で鞘や柄を作ったり研ぎにも挑戦したりしていて、いかに大変なことなのか?ということが理解できたからです。

 過程を知らないと物事の価値って実感できないですよね。

 甲野氏が「常識を疑え」みたいなことばかりいうのは、常識というのが世間のバランスを保つ知恵であることを知らないからだと思うんです。

 常識というのは一見、非常に不合理なこともあります。けれども、その不合理さは世間の中で人と人が関係していく中から調整されてできてきたものなんです。だから、一面的な見方で常識を批判するのは間違いなんですよ。

 甲野氏は普通に働いた経験がなくて生活の心配しないで生きてこられた人ですから、社会生活の中で人と人が係わりあうことの微妙な感覚を知らないんですね。だから、本人がそもそも常識の重要性が理解できないんですよ。ある意味、哀れですね。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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