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日子流護身術、フルコン登場!

『月刊フルコンタクトKARATE』の2009年9月号を京王線橋本駅コンコースの書店で見かけて、中身も見ないでレジに持っていきました。

 WHY?

 それは、表紙に田中光四郎先生が刀を構えている写真が掲載されていたからです。

“田中光四郎の新境地”“日子流の輝き”“新流派創設!”の文字も踊っています。

 もうね~、こりゃあ、読むしかないでしょ?・・・ってな訳で、フルコン久しぶりに買いましたよ。

 御承知の人も多いと思いますが、田中光四郎先生は、不二流体術の第二代宗家でした。

 その技術書(『不二流体術』・壮神社刊¥5000也)のライターをやらせていただいた私としては、光四郎先生=不二流体術という印象が強く、宗家を譲られた後に「不二流から袂を分かった」と人伝えに聞いた時には、本当に私は情けないというか悔しいというか、「師弟の恩って、そんなものなのか? 古賀先生が男と見込んで宗家の名を譲った師匠に対して、もっと他にやり方はなかったのか?」という憤りを禁じ得ませんでした。

 お気づきの人もいるかも知れませんが、私は、ここ最近、田中光四郎先生について書く時に、不二流体術の名称については書いていませんでした。

 それは、“憤りの感情が拭えなかったから”なんですよ。

 私は別に光四郎先生の弟子でも何でもありませんよ。だけど、直接習わなくったって、学んだ事柄は無尽蔵のものがあると思っています。だから、本当に得難い師匠のお一人だと思っています。

 私は観取り稽古に関しては誰にも引けは取らないと自負していますから、一回でも見せていただいたら実際に習ったのと同じですからね。

 例えば、私は太気拳に関しては、ほとんど直接習ったことは無いに等しいのです。それでも一日数十分から最長で二時間くらい立禅をやり、30分くらい這いをやったりして稽古に集中していた時期もありますし、稽古法として多大な影響を受けていますから、見せていただいた諸先生方には感謝しています。

 もっとも、「太気拳を勝手に名乗って教えている」と誤解していらっしゃる方もおられるように聞いていますが、もちろん、私は太気拳を専門に指導している訳ではなく、他の拳法・体術・居合術・剣術などを総合した武術全般の中の一つとして私独自の解釈を解説指導しているだけですし、「これが本当の太気拳だ」なんて一度も口走ったことはありませんよ。

 なので、光四郎先生の工夫された技の体系が何々流であるとかいった事柄には最初から興味はありませんでしたし、技そのものをダイレクトに評価していたのが偽らざるところでした。

 具体的に言うなら、読み・目付け・歩法・体捌き・交叉法・太刀構え・脱力体での受け・崩し・・・どれも武術の極意に関する内容で、光四郎先生が独力で構築されたという事実には驚愕を禁じ得ませんでした。

 よって、光四郎先生と出会わなかったら、今の武術研究家としての長野峻也はあり得ないと思って感謝しています。

 そして、最も感謝しなければならないのは、武術云々の以前に、人が人と生死をとして戦うということの意味をリアルに感じさせていただいたことです。

 それは、アフガンに戦闘に赴いてカラシニコフとRPG-7を持って旧ソ連軍との最前線で戦った・・・という体験から得られた人と人が殺し合いをする哀しさと、そうしなければ生きていけない人達への慈しみの感情を両方持っている人だった・・・ということです。

 自分から戦場に赴いた日本人は何人もいるでしょうけれど、光四郎先生はちょっと違うと思うんですよ。そして、理念はともあれ、人を殺した行為への悔恨の意識をきちんと自身の十字架として背負って生きている人だと私は思っています。

 だから、私はお付き合いできるし尊敬できる。口先だけで国防を唱え、自分の手を汚す覚悟のない連中とは違う。

 大体、私は戦争は大嫌いだし、絶対反対! ミリタリー・マニアと勘違いされることもありますが、全然、違います。戦車とか戦闘機にも興味ないんですよ。

 銃は好きですが、それは個人の武器だからです。

 私が武術やっているのは、徹頭徹尾、自分の生き方を何者の抑圧も受けずにまっとうしたいからです。徹底的に個人主義。自分が自由であること・・・それが大切。

 だけど、自分が自由であるように他人の生き方にも基本的に干渉しないようにしたいし、自分が嫌なことは他人にもしないようにしたい。互いに相手を尊重していれば争いには発展しないんじゃないか?・・・とは素朴に思いますね。

 でも、一方では「世の中、そんな甘いもんじゃないよ」というのも解ってます。人を害する人間って自分が悪いことやってるのは解ってる。倫理的にそれを抑制することができないんですよ。

 そんな心の邪まな人間を説得しようとしても無理でしょう? だから、何者の抑圧をも跳ね返す力(技能)が必要だと思って稽古している訳ですね。

 自由に生きるのは物凄く大変なことなんですよ・・・。


 余談が過ぎましたけど、私、光四郎先生に直接、不二流と袂を分かった理由についても質問したんですけれど、光四郎先生は自分の不徳だとしか答えられませんでした。

 私も会の分裂騒動とかいろいろ経験しましたけれど、確かに「主宰者として、師としての自分の未熟です」と言ってしまえばそれだけの話なんですね。

 細々した理由を並べれば、双方に言い分はあるでしょう。が、それもこれも価値観の相違という言葉で終わってしまうだけの話です。

 ならば、自分の未熟と認識してハラに収めて精進するのが修行者のあるべき態度でしょうね。光四郎先生からは、無言のうちにそう諭された気がしました。

 それに、恐らく、光四郎先生は元のお弟子さん達も可愛いんでしょう。「でかいこと言うんなら、お前ら、俺を見返すくらい大きくなってみせろよ」って気持ちなんじゃなかろうか?と、私は勝手にそう思ったりしています。

 それはまた、私自身も、時々、破門にした連中のことを思い出したりするからで、その当時は「腕の二、三本も斬り落としてくれようか?(二本しかね~よ)」くらいに激怒したりしていたものでしたが、怒りの感情って、そんな何年も続かないですよね。

「あ~、ここの稽古場はあいつが探してくれたんだよな~。元気でやってるのかな~? あいつがいてくれたから、今があるんだよな~」とか思うと、いつまでも怒ってられないでしょう?

 光四郎先生もそういう思いがあるのではなかろうか?と思いつつ、今回のフルコンの特集記事を読むと、「死出の旅路に出るのはまだ早い。老いて尚、日本男児の心意気を遺していかん・・・」という男の生きざまを感じます。

 というか・・・過日、お会いした時よりも精気・気迫共に充実されていて、ちょっと唖然とさせられました・・・。

 弟子入りされたのが女性だったというのも良かったのかもしれませんね。何だかんだ言っても、男は女の前では格好つけちゃうもんですよ。

 だから、木村さん、高屋敷さんは、光四郎先生を逆に救われていると私は思います。

 それにしても、光四郎先生は生涯一武人ですね。本物の修行者ですよ。やっぱり、『青春の門』の舞台となった田川出身の人って、戦闘民族なのかな~?


追伸;そんな訳で『フルコンタクトKARATE』、是非、お読みください(来月号にも続くみたい)。また、クエストさんから出る予定のDVD『日子流護身術』も必見ですぞ! 私、直に稽古を見学させていただきましたけど、本当に絶句するほど凄いよ!

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新体道“武踊”を観よ!

 私の世代だと“新体道”の名前は、松濤館空手道の異端の高手として著名であった江上茂翁の薫陶を受けた青木宏之先生が、武道の究極奥義を求めて結成されたプロジェクトチーム“楽天会”を結成し、それを母体に生まれた武道を超えた前衛体技として、「楽天会のメンバーは化け物みたいに強いらしい」「空手チャンピオンが子供扱いされてしまった」といった武道界の都市伝説として割りと有名だったんです。

 が、最近は「長野先生の本で初めて知って、ネットで動画見たんですがドン引きしちゃいました。いや~、高尚過ぎて私には丸で理解できません・・・」みたいな話を何度も聞きました。

 私は、「ええ~っ? 貴方達は、新体道を知らないの~?」って、逆にビックリしてしまったんですけれど、そういえば、ここ何年も新体道は空手雑誌でも扱われないし、甲野さんも本で紹介してないし、たま~に『秘伝』に出るくらいで音沙汰を聞かない印象が強まってるのかもしれません。

 もっとも、かつて新体道=遠当て=神秘武道=怪しい?という三段論法で見られていたのも事実であり、直接触れていない武道マスコミ関係者にはインチキだと思われていたフシもあります。

 例えば、現在はアメリカに帰られているそうですが、合気ニュース(現『道』)のスタンレー・プラニン編集長は、新体道はインチキ武道なんだと思い込んでいた様子で、「気で触れずに倒すなんてありえない」と編集後記に書いていたのを読んだ記憶があります。

 けれども、スタンレーさんが抜けた後は“気の力”を喧伝する宇城師範が主幹で雑誌作っている訳で、世の中、奇妙なものですね~。

 ちなみに、新体道で言う遠当ては、気のパワーで相手をどうこうするというメカニズムではなく、高度な読みによって駆使される意識と呼吸運動の繋がりを気合で分断させる結果、生じる日本古武術にちゃんと伝承されている“気合当て”の発展形であるという解説は、『あなたの知らない武術のヒミツ』で書きました。

 だから、予め暗示効果による錐体外路系の反射運動が起こりやすくなっている弟子相手でなくとも通じるんですね。

 私自身もレベルは低いですが、何度か実験して気合当てがかかるのは確認しているので、新体道訓練によって高度に高まった読みの技能があれば、そりゃあ、当たり前にかかるでしょ?としか思わなくなっちゃったんですね。

 新体道創始者である青木宏之先生からは、「長野さんも、いつまでも人殺しの技ばっかり研究してないで心法の方にシフトしなさいよ」と言っていただきまして、実際、ここ最近はそうしてきている訳です。

 心法、つまり、“読み”です。

 護身術として考えても、“読み”が深まれば、「あ~、この人、邪念があるな~。ほな、さいなら~」って具合に、君子あやうきに近寄らず戦法がとれる訳ですな。

 大体、私は何だかんだと言ったところで、本心は無駄に戦うのが好きで好きで仕方がないんでしょうね~。「オラオラ、かかってこんかい、ワ~レ~」って、人を挑発しまくってる訳ですからね。

「長野先生は、護身が大切って言いながら、自分から争いの種、撒いてるんじゃないですか?」って講座の受講生から言われて、苦笑してしまいました。テヘッ、バレたか?


 当然、青木先生にはそういうの全部、見抜かれてるだろうな~と思っているので、別にもう隠そうって気すらしませんよ。

 で、江上茂翁の期待に応えて最強の空手道を追究した青木先生は、江上翁の期待をすら超えて究極の武道の心法の世界に突入してしまったんですね。

 そうなると、人と人が拳を交えてどっちが強いか?とやってる世界は笑えてしまうんじゃないですか? 馬鹿馬鹿しくって・・・。

 私のレベルですら、「武道やってるヤツって、阿呆ばっかりだな~」とか思えるんだから、青木先生方の水準だったら幼稚園児が砂場で泣きながら組み合ってるように見えるのではないか?と思えます。

 もちろん、実体としての技が伴っていなかったら、私だって評価はしていません。口先で哲学風に喋くるだけなら気の利いた高校生にも可能です。

 しかし、縁あって新体道の武術としての奥深さに触れ得た者として、「ここは本物ですよ」と断言できます。

 全身全霊を徹底的に鍛え抜く気違い染みた訓練体系。私、全然、ついていけませんでしたね~。ムチャクチャっすよ~。あれ、続けられたら、それだけでムチャ強いっすよ~。

 これ、申し訳ないんですけど、本音で書きますね。

 新体道が今一つ世間的に普及できない最大の理由は、訓練内容が異常にハード過ぎるからだと思いますよ。

 よく、新体道の稽古風景って、皆で空を見上げて無邪気に笑いながらワ~イッて走ってたりしますけど、あれって、よくよく見ると、涙と鼻汁とヨダレを垂れ流しながら、あまりのキツさに脳内にドーパミンとかエンドルフィンとかノルアドレナリンとかバッチンバッチン分泌してるんじゃないかな~?と、私は睨んでおります。

 普及するには、もうちょっと妥協してレベルに合わせたコースをいくつも作ったらいいと思うんですけどね。

 でもね~、そこまでやらないと武道の奥義だの禅の悟りだの語れない筈で、そういう意味で新体道は本物中の本物だってことですよ。

 そして、本物は、それを求める一部の人達にしか評価されないのが悲しい世の摂理なんですよね。

 世界のアーティストが認める土方巽の舞踏や田中泯さんの舞踊・・・これらは一般ピープルが見ても?マークが無限増殖していくだけでしょ?

 本物って、そういうことなんですよ。フッフッフ・・・(・・・って、俺、宣伝で書くつもりだったのに、全然、宣伝になってね~じゃん?)。


 さて、実は私自身も、ここ最近の新体道の活動についてはよく知らなかったんですが、何と「ライブ・パフォーマンスをやる」とのことでお誘いを受けまして、「え~っ、新体道はそういうこともやっていたんですか?」とビックリしまして、それで、これは新体道に一般の人が接するチャンスだと思いまして、ここに御紹介させていただくものです。


場所;西武池袋線江古田駅下車改札口すぐ(地下鉄大江戸線新江古田駅より徒歩7分)のecoda live house BUDDY 双葉会館B2F tel 03-3953-1152

日時;8/1(sat)19:00open 19:30start

料金;adv¥2500 door¥3000

 詳細は新体道のホームページを御参照あれ! http://www.shintaido.com/

 さあて、皆様。世界のトップアーティストが認める日本武道の到達した頂点であり武道の枠を突破した新体道の心法の世界に触れるチャンスですよ(当日は大物ゲストも顔を見せるかも~?)。




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努力しているのは自分だけじゃない!

 私のところには読者から手紙が届くことが少なくありませんが、単なる読後感想文ではなくて、自分の武術に関する考えを聞いてもらいたくて書き送る人もいます。

 特に、『武術の教え』では、空手道・剣道・柔道・合気道・中国武術・武道系身体操法について書いているので、これまでの読者とは違った新しい読者からの手紙がいくつか来ました。

 まあ、普通に感想文とか励ましのお便りだと嬉しいんですけれど、自分の修行観とか武術理論とか書いてこられる方には閉口させられる場合がほとんどなんですよね。

 というのも、必ずと言ってよいくらい独善的な思い込み(誇大妄想)に過ぎないからなんです。

 そういう人達は武道を熱心にやってきた人が多い様子なんですが、慇懃無礼さが文章から滲み出てくるみたいで、それでも「読者は大切にしなきゃ~」と思って、最初の頃は返事を出したりもしていたんですが、拘わって得したことが一度もありませんでしたから、今ではほとんど無視するようにしています。

 何を勘違いしてんのかな~?と思うのは、所詮、武術だの武道だのがどれだけできても世の中に広く認められることはないと思うんですよ。

 何か、「俺は武道家だ!」みたいに偉そうに踏ん反り返ってる人もいたりしますけど、そういう態度の人って実力無かったりしますからね。劣等感の裏返しでエバりたいんでしょうね?

 この業界で大成功した人としては甲野氏がいるでしょうが、でも、私は別にうらやましいとは思わないですよね。

 だって、あんなに弱くっちゃ、いつ大観衆の面前でコテンパンにされて醜態さらすか判らない・・・心の底では怖くて怖くて仕方ないと思いますよ。

 私は、研究家として言わなきゃいかんと思うことは言ってきていますけれど、もう、どこで襲撃されても仕方がないと腹括ってますよ。でなきゃ、書けないですよ。

 武道・武術の世界にとって自分のポジションは“必要悪”だと認識しています。自分が正義だなんかちっとも思ってないですよ。普通の神経の人だったらドン引きするでしょう? だって、実名挙げて批判したりしている訳ですからね。「礼節を弁えていない」と非難されるのは承知の上です。

 それでも、誰かがそこまでやらなきゃ~、武道・武術業界の偽装体質は絶対に改善しないと思うんですよね。

 経歴を偽るとか流儀の伝統を捏造するなんて、この業界では大昔から当たり前だったんですから、「そういう真似は恥ずかしいことなんだ。捏造したら社会的制裁を受けるんだ」という観念を定着させなくちゃいけない。

 何しろ、専門誌は、インチキだと判っている人物や流派でも利潤を生むと判断すれば載せているんですから、改まる道理がありません。

 本当のことをきっちり書いてやろうとする度胸のある人間はいないと思います。それやったら、もう仕事貰えなくなりますから。

 独立して自分たちで仕事やっていた人達でも、結局、続かなくてライターに戻っている人もいるみたいです。ライターは、雇われているんだから自分の本音をそのまま書く訳にはいかないですよ。私でさえ妥協して書いてましたからね~。

 そもそも、武道・武術関連の出版業界って、そんなに売上の望める業界じゃないから、独立してやっていけるのは商才のある人に限られると思いますよ。「武道武術が好きだ」というだけの欲の無い人だと続けていくのは難しいでしょうね。


 よく、セミナー参加者とかから聞かれるんですが、「先生は武道や格闘技の専門雑誌には出ないんですか? 出たら絶対、評判になって人がもっと集まりますよ」と言われたりするんです。

 私はこう答えています。「いや~、俺を出したら他の稼ぎ頭の先生達の嘘が暴かれて雑誌が潰されかねないと警戒されてるから出してもらえないですよ。それに、自分で本書いた方が遥かに金が稼げるから、出してもらわなくて結構です。ライター時代みたいに才能を買い叩かれるのは御免だし、アイドル武術理論家のお仲間にはなりたか~ないですね」と・・・。

 でも、元フルコンタクトKARATE編集長だった山田さんとか、あの小島さんだって、そういう武道系出版業界?の中では独立して頑張ってる人達だと思いますよ。実際、沢山、本出し続けていますからね~。

 出し続けるってことは大変なことですよ。普通の人は出したくても、一生に一冊だって本を出せないものなんですから・・・。

 特に、最近は山田さんは凄いな~と、ちょっと感心しています。

 前回の沖縄空手の本も良かったですけど、今回の井上強一先生の合気道本はエポックメイキングだと思いました。合気道の理合をここまで分かりやすく解説した本は、佐原先生の本に続くものだと思いましたね~。

 合気道も、ついに技術理論が語られる時代になったか・・・?と、感慨深いものがありますね。

 何か、小難しく書くのが武道の王道みたいな風潮がこの業界にはあるんですが、そんな独善的な思い込みで書かれても、読んだ人に伝わらないんじゃ意味がないんですよ。

 特に、中国武術と合気道に関しては、その傾向が酷かったと思います。

 その傾向を改善したかに思えた甲野さんや高岡さんがまた、変に哲学的な方向に持っていってしまって、普通の読者には理解不能な世界にしてしまった印象がありました。

 宇城さんの武道論も、よく解らないですね。

 私が読んで、よく解らない本を、一体、誰が理解できるんだろうか?と思いましたけど、そんな本を「解りやすい」と持て囃す人達(勘違い)も一定数いる訳で、「あ~、武術って新興宗教を信じるみたいなもんだな」と思いましたね。

 武術に関しては、「理解できる」と言ったからには技が再現できなきゃ嘘ですよ。それを解って発言してんのかな~?と思う人ばっかりですね。

 つまり、「できないヤツはもの言っちゃダメ!」の世界なんです。

 でも、できないのにもの言っちゃう人が結構います。私はそんな人の言葉は認めません。だって、“ただの勘違い”でしょ?

 私は、自分でできると確信してからもの言うようにしています。だから、できないことは「できません」と言ってきてます。

 ただ、できるできないというのも、相対的なレベルの問題はあります。

 よって、「ここまではできる。それ以上はやってみなくちゃ判らない」と言ったり、「こういう場ではできない。けれども、こういう場ならできる自信がある」という具合に、なるべく正確に伝える努力はしているつもりです。

 武術・武道は立ち合えば結果でちゃうんですよ。どんな大層なこと言ったって、通じなきゃ間違いなんですよ。

 私が甲野さんを認めないのは、彼がまともに立ち合って勝ったことがないからです。それだけで武術としてはもうダメなんですよ。誰がどんな理屈言ったって、戦って勝てない武術は、もう武術とは言えないのです。

 もし、「戦えない武術には存在意義はないんですか?」と聞かれるなら、私は迷わず答えます。

「ありません!」と・・・。

「そんな考え方は傲慢ではないですか? 長野さん個人の考えを普遍化して語るべきではないでしょう?」と言われるのなら、続けて、こう答えます。

「武術というのは戦いに勝つために工夫され伝えられてきた技術体系です。その本質から外れるのなら、もう武術と冠する必要はない筈です。武術と冠するならば、その存在の本質である戦いから目を背けるのは文化としての武術の在り方に対して不誠実でしょう。つまり、貴方の考え方にこそ傲慢さが隠されているのではないですか?」と答えます。

 無論、それでも納得しないで理屈を言う人はいるものです。しかし、大抵の武術・武道の先生は、この手の人間は無視して相手しないでしょう。私は、屁理屈ばっかり言う人間はいきなりボコッてやるのが愛情かな~?と思うようになりましたよ。

 武術・武道は理屈を弄するものではなく、実践して体技を向上させることにしか本質がないからです。

 さらに言えば、狼藉者を撃退制圧できない者に武術を語る資格はないからです。

 はっきり言って、武術を修行するというのは、暴力の存在を肯定することです。綺麗事並べるような人間はやめた方がいい。「世の中のためにならんヤツは殺す!」ぐらいの極端な考え方のできる人間しか、残念ながら本質には迫れないんですよ。

 だから、逆説的に、よっぽど倫理的な意識と自制心が強い人間しか学ぶべきじゃないと思いますし、私は精神的に問題ありだと思う人はためらわずに入門を断っていますし、修行態度に問題を感じた人は破門にしてきました。

 趣味でヒマ潰ししたいだけなら、他にいくらでもあるでしょう? 私は本気で自分の心身を鍛えたい人に来て欲しいので、ふざけた人間はお断りしたいですね。

 無論、今どきの習い事の感覚で、金払えば何でも教えてもらえると思っている人も何人も来たりしましたが、そういう態度の人は即座に断りますね。礼儀知らずに教えることなんかありません。

 でも、上には上・・・じゃなかった・・・下には下がいるもので、金さえ払わずに教えてもらおうとする人間すらいます。

 何で、そこまで赤の他人に甘えられるのか解りません。


 以上、実は前フリです・・・。

 先日、読者の手紙で、「自分の本を出版したいから協力してください」という内容のものが送られてきて、シダックスの講座に来ると書いてありました。

 文章の書き方(貴殿、とか小生と書いている)から高齢者か?とも思いましたが、師範代や親しい居合道の先生に見せたら、「意外と若い人じゃないか?」との感想でした。

 当日、講座が2/3くらい進んだ頃に、その手紙の主がやって来ました。居合道の先生の読み通り(流石です)、33歳とのことで私より一回り以上も若いので、内心、驚きました。

 何故なら、彼は「武道の極意が解ってしまったから本を出したい」と言うのですが、武道経験は剣道だけで、それも人に教えている訳でも実績がある訳でもないようなのです。

 しかもニートで親に食わせてもらっている様子。要は引きこもりなんですね。

 私は、出版事業というのがいかに金がかかって困難なものなのかを具体的に彼に話し、また、彼の手紙を読む限り、「小学校六年生でも、もう少しまともな手紙を書くよ」と、その文章表現力の致命的な足り無さを指摘し、本を出したいなら自費出版しかあり得ないことを説き、相場として千部作るのに約三百万円くらいはかかるという話をしました。

 率直に言って、彼は引きこもって自分の観念だけに閉じこもって考えているうちに社会へのルサンチマンがつのり、誇大妄想が膨れあがっているんだな~と感じました。

 武術愛好家には病的なタイプが結構いますが、彼はかなり、その境界にいるように思えました。

 もう少しイッちゃっていたら、話すだけ無駄なので適当に追い返すんですが、わざわざ遠くから来ていたので、この日は講座後にファミレスで一時間くらいいろいろと話してあげました。

 そうすると、どうやら彼は自分の中にたまっている毒抜きをしてくれる人(話を聞いてくれる人)が欲しかったんだろうな~?という感じで、これまで剣道の先生や仲間を含めて周囲の誰もまともに相手しないで頭ごなしに叱りつけたりするだけだった様子がうかがえました。

 だから、ルサンチマンが溜まってしまったんでしょうね。

 もっとも、彼の言う恨みつらみの原因は、すべて彼自身の傲慢さにあると思ったので、「厳しいことを言ってくれる人は本当に考えてくれているもので、俺なんかも何とも思ってない相手にはテキトウに愛想良くするよ。だから、きついこと言われたら感謝した方がいいよ。だって、自分の欠点は自分じゃわかんないだろ?」と答えました。

 すると、彼もハッとした顔になって、自分の問題点を素直に自覚できた様子で、トゲトゲしていた表情が和らいで、帰る時には本心から「ありがとうございました」と言ってくれました。

 いや、正直言って、私は彼の手紙の書き方が非常にのぼせ上がった感じだったので、怒鳴りつけてやる気満々でいたんですね。

 彼が遅れてきたから練習には参加させずに見学だけ許したんですが、最初から練習に参加していたら、「この程度の腕前でつけあがるんじゃない!」と怒鳴りつけていたかもしれません。そのくらい手紙の書き方が礼儀知らずだったのです。

 でも、直接会ってみて、根本的には真面目な性格で、本人的には礼儀を弁えているつもりだけれども、自尊心が強過ぎるのと社会経験が少ないから、“人とのコミュニケーションの取り方を知らないだけ”なのが見えたので、その場で彼の対応の仕方を観察しながら応対することに方針変更したのです。

 お日様と北風の話みたい?で、やっぱり、感情的に優しく説明してもらった方が素直に受け止められる場合が多いでしょうね。

 彼の本音は、「人に認めて欲しい」というのが根本にあったんじゃないか?という感じがしました。

 私は認めた訳じゃありませんが、彼の話を正面から受け止めたので、それが彼にとっては滅多にない経験だったのかな~?という気がしました。


 しかし、後からふと思ったのは、私自身も昔はあんな感じで、身の程知らずに自信だけ過剰にあって、周囲からは生意気なヤツに見えていたんじゃないかな~?と・・・。

 人のフリ見て我がフリ直せ・・・ってのは、名言ですよね。

 やっぱり、努力してるのは自分だけじゃないですからね。そういう自分を客観的に見れないとジレンマに陥ってしまう訳ですよ。

 自宅に引きこもって趣味に埋没して生きていると、世の中の作法について学ぶ機会がなくなってしまうものです。積極的に自分から人との直接の繋がりを持っていかないと、取り返しのつかない事態に陥るかもしれません。

 だから、武術の独修は毒修になりかねませんから、きちんと習いに行きましょうね。


追伸;二尺五寸六分の刀の拵えが出来上がりました。なかなか良い感じでできたかな~?と思います。樋は入ってないんですが、軽くて刃渡りが長いので、振るとピューッと風切り音がします。先細りしているので実際より長く見えて居合の稽古には使いやすい感じがします。試し斬りには華奢ですが、演武用には良いかな・・・と思って、今回は鞘のコジリ金具は装着しないでアクリル板を張り付けて成型してみました。安上がりな割りに、これも感じがいいかも知れませんね? 現代刀みたいな格好良さはありませんが、私は古刀が好きですね~。

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WOWWOWドキュメンタリー田中泯

 常設道場開設を諦めたものの、その分、稽古の質を上げることに専念しておりますが、やはり、日々の修行の積み重ねというのは大切なものだな~・・・と痛感。

 シダックスの講座を写真撮影用に取材(相模経済新聞)してもらった日、記者の方が帰られてから、人数も少なかったので、受講生と推手をやったんですが、至近距離から逆関節取ってきたり肘打ちを繰り出してきたり、以前とは比べものにならないくらい厳しい技を出してくるので、内心、魂消ました。

「Yさんから教わった技を試してみたんですが、やっぱり先生には通じません・・・」と困った顔をしていましたが、そりゃあ、そのYさんに教えたのは俺なんだから、通じないのは当たり前なんだけどね~。

 でも、腕を捌いて瞬時に背後に回り込みながら首にスリーパー決められたのには驚きましたよ~。小癪な真似するようになったな~。

 彼は絞め技知らないもんだから、チョークスリーパーになってて、しかも、そのまま喉仏を絞めようとするから、“やべっ!”と思って、秘技首抜けの術を使って首を抜いたんですけど、この技が使えない一年前だったら危なかったですよ。タップするしかない。

「えぇ~! 絞め技、今、完全に入ったと思ったのに~?」と驚いてましたけど、私に関節技や絞め技は通用せん(豪語)のですよ! でも、ちょっと焦っちゃったよ~。

 それにしても、何か、みんな、異様に上達してるぞ? 本人、気づいてないみたいだけど・・・。

 師範代の一蹴りで二連蹴る技なんかも龍王院弘の双龍脚(キマイラ・シリーズ)みたいになってるぞ? 私の眼でも二回くらい観えなかったので、ビックリした。モーションが消えたまま蹴れるようになりつつある・・・。

 50歳のSさんも、動きがサイボーグっぽくシャカシャカッと動いてババババッと回り込みながら打撃を繰り出していって、これ食らったら相手は何が何だか認識できないまま昏倒するだろうな~?

 何か、スゲーな~・・・と、ちょっと感動しちゃいましたよ。私もちゃんと練習しようと思いました。


 さて、先日、WOWWOWで放送された田中泯さんのドキュメンタリー番組を録画してもらって観ました。

 しっかしま~、泯さんって、こういうドキュメンタリー番組にいくつも採り上げられていますけど、毎回、ため息が漏れるような異能の人ですね~。

 毎回、「ええ~? マジっすか?」っていう驚きが有ります。

 特に今回は、土方巽さんの生誕記念パーティーの時に取材スタッフがいらしたので、一瞬、私も背中だけ映っていましたから、何か、特に感慨深く観れました。

 それにしても、「農地開拓している広さは東京ドームの4/5くらい」みたいなコメントを聞いて唖然としてしまいましたよ。

 機械とか使っても大変なのに、泯さん達は人力で開墾してきたそうですし、私なんかは子供の頃に田舎で稲刈りや田植えの手伝いをチョロッとやっただけで腰が痛くて悲鳴をあげてましたし、せいぜい、畑を少し耕すとか薪割りやる手伝いしかしていないんですね。

 それでも少しは経験があるから、それを専門で日常的に続けていく大変さだけは想像がつきます。

 今、それをやろうとしたら、多分、数分でへこたれるでしょうね。

 高校の頃とかは夏のキャンプとか喜んでやってたし、割りとアウトドア指向もあったんですけど、都会で長く自堕落な生活を続けていくと肉体も精神もブヨンブヨンになっていきますね~。

 最近、夢で昔飼ってた猫とか犬とか鳶(小学校に勤務してた母親が学校に迷い込んだのを持ってきて、おっかなびっくりで小屋作って飼ったけど、エサが合わなかったのか、すぐ死なせてしまった)とか出てきて、田舎暮らしを思い出したりするんですね。

 やっぱり、作家だけで食えるようになって、武術は趣味で教えながら天草で晩年を過ごすというのが良いかな~?と・・・、泯さんの生きざまを見ていると、どうしてもそういう想いが湧きます。

 それがまた、いいこと言うんだもん・・・。

「中心はどこにでもある」

 つまり、「東京でないとダメみたいな決めつけじゃなくて、田舎でも魅力があれば人は集まって来る。そうすれば中心はできる」という論理。

 まったくもう、おっしゃる通り。地方で町起こし村起こしやっている人達にとって、こんな力強い言葉はないですよ。

 ただ、田舎で生まれ育って都会に出てきた私なんかは、田舎の嫌なところも熟知しているので、そうおいそれと田舎に戻ろうとは決心できないんですね。

 一番、ネックになるのは話の合う仲間がほとんどいないってことですね。

 帰省した時にいつも思うのは、親兄弟とは話が合わないということ。そして、私の場合、仲のよい友人も郷里にはほとんどいないのです。

 だから、家の中で昔の思い出を懐かしんで過ごすだけ。

 刀とか手裏剣とか持参した時は練習して気を紛らわせたけど、こういうのはあんまり持ち歩けないし、親兄弟から変人扱いされるだけ。

 だから、こちらでよっぽど大成功して、行ったり来たりできる経済力がないと帰るのは無理だな~と思っている訳です。

・・・とまあ、こういう凡庸な悩みを持つ私にとって、泯さんの凄さは、何といっても、あの、人を惹きつけてやまない人間磁力?みたいなところに有ります。

 正直、私は怖い!

 あの磁力圏内に入ったら、アントラーの磁力光線に捕らわれたウルトラマンみたいになってしまいそうなのです。

 これは凄いですよ。恋愛でもあ~は、ならない。

 何と言うか、「昔気質のヤクザが親分に惚れる」とか、「植芝盛平が出口王仁三郎に師事する」とか、“悪魔に魂を取られました”みたいな感じ?・・・かな~。

 今回の番組を観ていて、泯さんに師事した石原志保さんの、「女優として共演した泯さんに惚れ込んで弟子入りし舞踊家の道に進んだ」という逸話に、「なるほど、話には聞いていたけど、そういうことだったか・・・」と、妙に感慨深かったと共に、「解る解る・・・」と頷いていました。

 多分、泯さんもまた、暗黒舞踏の祖・土方巽と出会って人生観が根本的に変わった感覚があったのではないか?と思います。

 番組中では、泯さんの立派さというか凄さ、偉さという部分しかクローズアップされていませんでしたが、そういう“まとめ方”は、わかりやすくて視聴者受けはすると思うんですけれど、もっと、彼の中の闇の領域・・・漆塗りの黒々としたブラックの中に青や赤、茶、紫の色合いが混じっている・・・あの深く沈んだ精神領域を掬いあげていたら、もっともっと凄味があったと思うんですけどね。

 たとえば、土方巽生誕パーティーの時は、結構、泯さんも荒れていたと思うし、それはつまり、「お前ら、ドキュメンタリー撮るんだったら、俺のこういうところも撮れるか?」という挑発の意識もあったと思うし、そこをアッサリ切ってしまうのも何かな~?

 ドキュメンタリーって、光ってるところだけじゃつまんない。きわどいところがあってこそ面白いと思うんですけどね。

 だから、私なんかキワキワのことばっかり文章で書くでしょ? 単なる偉人伝じゃ、つまんないでしょ?

 芸術家の価値って、露出狂みたいに自分の生皮剥がして筋肉も骨も内臓もズルッと晒して見せるところにあると思うんですよ。

 私も最近、反省してることがあって、あまりにもタヌキになり過ぎてるな~・・・と、自分で思ったりする訳ですよ。自分の感情をコントロールし過ぎているかな~と。

 それに、先日、久しぶりにTVで観た『たそがれ清兵衛』の印象が強かったから、今回のドキュメンタリーがぬるく感じてしまったのかな~?とも思うんですが・・・。

 やっぱり、ドキュメンタリーよりドラマの方が逆に本質が出る場合があるのかな~?とも思うんですよ。

 一つ、提案として、「田中泯さんに主演して欲しいストーリー」を出してみます。

 それは、松田優作が企画から関わって主演し、それまでのハードボイルドなイメージを打ち破った『探偵物語』の後日譚。

 あのドラマの最終回は、街の仲間を次々に殺された工藤探偵が、飄々とした顔を捨てて復讐して回り、最期はナイフで刺されて生死不明になって・・・エンドロール前に赤い傘をさして街を歩いている幻影?とも思える姿で終わる・・・アレです。

 松田優作が癌から生還したら主演しようと考えていたという彼の出世作、遊戯シリーズの新作脚本が基になっているという藤原竜也主演の『カメレオン』を東映チャンネルで観ましたが、これは非常に面白かった!

 この話も『探偵物語』の最終回と構造的に同じなんですけど、仲間を惨殺されて怒りに燃えた主人公が殴り込みするところとか、かつての優作を彷彿させています。

 ただ、藤原竜也は顔が優し過ぎるし若過ぎるんですね。演技は素晴らしかったんだけど、キャラクターが違うかな~?と・・・。

 だけど、泯さんだったら、もし工藤探偵が生きていたとしたら・・・という設定に年齢的にも風貌的にもピッタリだと思うんですよ。

 無論、別にそのマンマ『探偵物語』の続編として描く必要はないと思うんですが、新宿に記憶喪失の初老の男が現れて、かつての工藤探偵を知る人間達の間で「工藤ちゃんが戻ってきたんじゃないか?」と噂されて・・・みたいな展開でストーリーはどうとでも転がせるでしょう。

 まあ、記憶喪失ってところは松田優作唯一の監督作『ア・ホーマンス』みたいですけど、人間としてのしがらみとか感情とかから超然としたキャラクターが泯さんには合うと思うんですよね。

 そして、暴力団とかに襲われている人を助けちゃったりして、必殺仕事人みたいに簡単に倒してしまう・・・実は男は戦場を渡ってきてPTSDで記憶喪失になっていたけれども、身体が覚えた戦闘術は勝手に出てしまい・・・。

 あ~、何か、そういうハードボイルドな作品が観たいな~・・・。『鉄コン筋クリート』のネズミの声を演じた泯さんは、きっとハードボイルドが似合うと思うんですよ。

 ちょっと、これ、小説で書いてみようかな~? 何か面白いのが書けそうな気がしてきたよ・・・。

 余談ですが、お友達の編集者に小説の原案話していて、ゴジラの時代劇版の話していて、「やっぱり、決闘シーンが必要だから、メガロドン(ホオジロザメの先祖で15~20mくらいある)とか大蛸とか出てきて三つ巴で戦うんですよ。それにウツボ船(UFO)が出てきてSF作品になって・・・」とか、はしゃいで喋っていたら、「それって、小学生が考える話ですよ・・・」と言われちゃいました・・・グッスン・・・。

 あっ、そうだ! もう一つ、バッチシのが有ったよ。

『七人の侍』の志村喬が演じたリーダー格の勘兵衛役。これはもう田中泯さんしかいないでしょ? で、菊千代はオダギリジョーで、堤真一、真田広之、阿部寛、ジャニーズの若手の誰か、竹中直人とかではどうか?

 野武士も個性的な人を色々出すといいですね。

 リメイクには二の足踏む企画だと思いますけど、今だからこそできることもあると思うし、景気付けにいいんじゃないですかね?


追伸;常設道場は当分延期にしましたが、週一で借りられそうなところが相模原市内で見つかりました。練習日とか決まったら発表します。

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武術修行は心の修行ぞなもし

 7月の月例セミナーでやった“読み”は、皆さん、難しさを痛感しているような感想ばかり頂戴しています。

 でも、これは成功だな・・・と思っています。

“読み”がきちんとできたら、それこそ達人、名人の心境になる訳で、言ってみたら現代の武道の世界でも数人しか達していない水準だと思うんですね。

 そんなレベルのことを「解った」なんて言う人がいたら、“99パーセント、誇大妄想”であると断言できます。

 第一、教えている私自身、自分が“読み”を体得しているなんて到底、言えません。

 私が知る小林先生、友寄先生、青木先生といった“読み”の遣い手の水準からすれば、私のレベルは比較にもなりません。

 でも、ほんの入り口が観えているだけでも、まったく観えていない人の動きは丸観えになる訳で、ガチンコで戦ったら絶対に勝てないだろう相手と手合わせする場合でも、実は不安を感じない場合が多いのです。

 それは、相手が攻撃力を発揮できないように先回りし、更に相手が知らない技を遣えば一方的に制圧できるという戦略をたてるからです。

 この戦略の有無が武術の特徴であって、相手と五分五分の勝負をやるのは、もう武術ではなく、単なる腕試しとしか言えません。

 私は本気で、腕試ししたがる人の気持ちがさっぱり理解できないのですよ。厳密に言えば、真剣勝負というのはどっちか死ぬのが本当でしょう? 死なない前提で真剣勝負だの実戦だの言うのはフェイクですよ。

 だから、私は武道や格闘技の試合はスポーツなんだと弁えて、おかしな実戦論は語るべきじゃないと思いますよ。

 もし、本気で殺す気のある人が相手だったら、腕試しとかできますか?

 普通は逃げますよね? 逃げられない時に仕方なく戦う・・・その最終手段として武術を探究しているので、相手の殺意を圧倒する情容赦のない必殺技を体得していなかったら話にならないでしょう?

 そういうシチュエイションで卑怯もクソもないんですよ。生き残るためには相手を殺すしかない!という場で用いるのが武術の技なんだし、そりゃあ、刃物だって銃だって何だって遣える武器は何でも遣わなきゃ~ダメでしょ?

 小島一志さんみたいに実戦武道がどうのこうのと言うのなら、人の何人か実際に殺した経験が無かったら真剣勝負云々なんて言っちゃダメですよ。それ口にした段階で既に誇大妄想でしょ?

 私は人殺しにはなりたくない(当然!)。だから、「実戦武術教えます」みたいな看板は出せません。

 が、この論理は現時点での日本に住んで武道スポーツが当たり前の時代だから成立している訳です。

 戦闘殺人が当たり前の時代や地域では成立しません。

 武術は実用を本分に生まれたものであって、考案された時点では最先端の戦闘技能体得の教育プログラムだった訳です。

 それは実用を考えているから、そうなった訳です。

 だけど、武道や格闘技を見ていて、あれはスポーツ以外の何物でもなくなっていますでしょう? 人を殺傷するような技術は省かれて安全性に注意を払っています。そのくせ、不合理なトレーニングや無意味な根性主義、視野狭搾の考え方、形式ばかりの虚礼が蔓延してしまっています。

 でもまあ、それはそれでいいんですよ。やりたい人達がやる分には、どうぞ、お好きにおやりください。スポーツ結構。社会体育結構・・・。

 でも、私は興味がない。武術の生み出された原点に立ち返りたい。命を護る乾坤一擲の一瞬の勝負に勝ち残るギリギリのサバイバル術の理に達したい。

 本当の生きるか死ぬかの戦闘に勝ち残る根源的な理を体得したい。

 それが“読み”です。

 だから、「これを追究していけば、現代の武道の世界の到達している水準の上へ行くことができるだろう」と思ってメインの研究テーマにしてきた訳です。

 思えば、私が本当に凄いと思えた先生方は、皆、この“読み”が凄かった訳です。

 突き蹴りの威力が凄いとか、内功が凄いとか、「そんなものはどうでもいい。俺にとっては無価値だ」と思えるくらい、“読み”ができるということが大切なことでした。

 つまり、それが“心法”です。

 身体の動きかどうこうという低レベルな考えで技をどうこうしようとしていても仕方がない。

 何故なら、肉体はどんなに頑張っても時間と共に衰えていくからです。

 反射神経は16歳でピークに達して、およそ25歳くらいまで維持できるとされますが、それ以降は衰える一方だとされます。

 最近はトレーニング理論が発達したお陰で、35歳くらいまでピークを維持できる場合もあるようですが、でも、40歳過ぎて維持するのは無理でしょう。

 そもそも、体力や反射神経のピークを維持して戦おうと考えるのが間違いで、年齢に応じた戦い方を工夫しない者が勝てる道理は無いでしょう。

 体力が無くなれば体力に頼らない技、反射神経が衰えたら反射神経に頼らない戦法を取ればいいだけです。

 ところが、現代の武道や格闘技は、体力と反射神経に頼り過ぎているので、それに変わるものを提示することができないのです。

 何故か?

 簡単な話で、試合ルールに合わせているから身体性をそれに無理やり合わせようとしているからです。

 スポーツとして楽しむ分には、それはそれで構わないと思うのですが、やはり、そこで勝ちたいという気持ちを拭い去ることは難しいのではないでしょうか?

 私自身は、試合ルールで闘って勝つことには興味がないし、そういう場所での自分の強さを求めたいという欲求はありません。

 これは、悟っているからとかいう意味ではなくて、46歳の今、そういう場所でルールに沿った闘い方で勝てるという自信がまったくないからです。

 私はこう見えても異常に負けず嫌いなので、勝てない勝負はしたくありません。もう、どんな汚いことやっても絶対に勝ってやる・・・という異常な精神構造なんですね。

 必要とあらば、私は暴漢の腕や脚を叩き折ることに何の躊躇もしないと思いますよ。そういう冷酷さが自分の本性だという自覚があります。

 だから、勝てる確信のない勝負は最初からやらない。試したいという気持ちが欠落しているんです。だって、武術の想定する勝負はDOA(デッド・オア・アライブ)ですからね。

 しかし、40、50過ぎても諦めきれずに試合で勝ちたいという思いを捨て切れない人の気持ちもわからなくはありません。それをアイデンティティーとして10年も20年も続けてきた人ならなお更でしょうから、何とか勝てるように工夫して教えていきたいと思ってはいます。

 もっとも、それは、早くそういう試合で勝つ快感からは卒業して欲しいという気持ちがあるからなんです。試合で勝つことにはスポーツ的な意義しかないし、ある程度の年齢に達したら、本来の武道の目的はそうではないということを後進に伝えていかなくちゃダメだと思うんですね。

 恐らく、試合で勝つことの強さを追求して武道や格闘技に取り組んでいるのは日本人だけではないか?と、私は考えています。

 海外のマーシャルアーティストを見ると、ほとんどが複数の流儀の混合されたスタイルをもっています。

 日本人の感覚からしたら「節操がない」となるでしょうが、戦いの強さを多角的に追求した結果として、そうなっていかざるを得ないのでしょう。

 一つの流儀ですべての戦闘状況に対応できる道理はないのですが、日本人はそれを考えません。近視眼的に「一番強い流儀はどれだ?」と考えて、それに飛びつくのです。

 何だか、宗教団体をハシゴして回っているみたいです。

 つまり、“信仰心”が先にたっていて、自分の見識を磨いて本質を追究しようとしていないのです。

 ほんの30年か40年前の武道家には、空手・合気・剣術・居合術・・・等の複数の流儀を研鑽する人が少なくありませんでした。

 江戸時代の剣術流派には、居合・柔術等を併伝するところが普通でした。

 現代ではまったく別物と思われていても、いろんな戦闘状況を想定して対応しようと考えると、自然に様々な種類の武術を学ばざるを得なくなる。

 私は試合に勝ちたいとは全然思わないのですが、オヤジ狩りや通り魔に遭遇した時は撃退できる技能を持っていたいと考えているので、それに適応した技を追究しているのですが、その意味でも、最も役立つのは何か?と考えると、“読み”しかない。

“読み”は、無益な戦いを避けるためであり、護身の究極としての“心の備え”になるものです。

 そして、自分の身を護るだけではなくて、人を助けることもできるし、生き方の指針にもなります。

“先を読む”から、それができる訳です。

 武術が最も世間一般に役立つものがあるとすれば、それが“読み”だと私は思います。

 人を読む。世相を読む。情勢を読む。時代を読む。世界を読む・・・。

 それが、“大の兵法”です。

 現在の政治の混乱っぷりも、結局、“読み誤り”が重なっているからのように思えますね。

 本来の政治は滅私奉公が基本でしょう。

 そこに私心がのぞくと、どんな大義名分を掲げても嘘臭くなる。

 麻生さんの不人気や東国原知事の国政進出への大ブーイングも、メディアが煽ったからと言っても、やはり、そこには権勢欲への私心がのぞいたからこそ・・・だったと思います。

 日本人は謙虚で誠実、嘘をつかない人間が好きで、大言壮語してハッタリをかます人間が嫌いです。私も自惚れたり勘違いして悟ったような言葉を口走る人間を見ると、いきなり顔面に平手打ちしたくなります。

 もっとも、私は、“実力が伴っていたら”大言壮語されても「おっしゃる通りです」と納得するのですが、麻生さんのド外れた漢字の読めなさと曲がった口(観相学的に嘘つきの口とされる)、偉そうな態度やものの言い方には嫌悪感しか湧きません。

 東国原知事に関しては、時々、出てくる生々しい野心や居丈高な態度が、普段の必要以上な謙虚さが慇懃無礼な仮面に過ぎないことを匂わせるので、最初から期待していなかったんですが・・・。

 まあ、そういう意味で、北野武って、何て優しい人なんだろうと思いましたね~。

 わざとギャグめかしてきついことを言うことで、東国原知事を助けてあげていましたよね。やっぱり、器が違うな~と思いましたよ。芸能界のトップにいるからこそ、逆に人気の本質が分かっているんでしょうね。

 ついでに、都議会選挙の民主躍進についても感想をちょこっと・・・。

 これは、民主党はこれからどんどんきつい立場に立たされることになる訳で、これまでのようには行かないですよ。

 総理になるのも鳩山さんでなくて岡田さんをたてた方がいいと思いますね。鳩山さんがなったら政治献金問題をいつまでも追及されて政治が進まないですよ。ちょっとアレは謝って済む問題かな~?という気がしますからね。

 まあ、それにしても・・・麻生さんは外さないな~。「それやっちゃダメでしょ?」ってことを必ずやるんだからな~・・・。自民党も既に死に体か・・・?


追伸;地元紙の相模経済新聞の取材を受けました。取材時に頂戴した号では柳生新陰流(小山将生氏主宰)の稽古会も紹介されていて、相模原近辺の武道クラブも色々と紹介されているのかも知れませんね。掲載紙が出たらお知らせします。

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七月“読み”セミナー報告

 七月の月例セミナーのテーマは“読み”でした。

 御承知の通り、遊心流では最も重視している要素であり、「読みと交叉法、それに歩法と脱力が肝心」と解説しています。

 中でも、“読み”は、武術の根幹にかかわる要素でありながら、具体的な体得していくための稽古法が確立されていないものです。

 私も、目付けの初歩を習った以外に、具体的な方法論は実はほとんど教わったことがありません。それでも、戦闘法そのものがガラリと変わってしまいました。

 ですから、ここ十数年間は、特に“読み”を深めるための研究を続けてきました。

 で、何から研究したか?というと、生理解剖学であり、観相学(人相を観て性格や運勢を洞察するというアレです)、心理学、舞踊等々です。

 つまり、意識と身体の動きに関する研究をしてきた訳です。

 意識の働きは身体性に必ず反映されます。それは、動こうとする意識の働きが必ず予備動作として外見に表出してくる。

 それを“読む”のです。

 何故、ロボット工学の研究家から声をかけてもらって学会誌に原稿を書いたのか?ということは、私が意識と動き(モーション)に関する研究をしている点に注目されたからでしょう。

 もっとも、この辺りの研究は武術の世界でも抽象的な言葉で語られるだけで、ほとんど誰も具体的な解説をしていません。

 強いてあげれば、宮本武蔵が「枕をおさえる(相手が動こうとする出合い頭をおさえる)」と表現したくらいでしょうが、これもまた、「では、どうやって出合い頭のタイミングをとらえるのか?」という具体的なやり方は一切、書かれていません。

 これは現代でも同じで、「相手の先を取るのだ」と言うものの、「だ~か~ら~、どうやって先のタイミングを察知できんのよ?」って、言いたくなるでしょ?

 具体的な体得するための肝心要のやり方は、「それは秘伝だ」とか、「30年修行すれば自然に解る」とか、物凄くテキトーなことを言われたりするんです。

 が、要するに、体得している本人にとっても、感覚的にこなしているだけで、どうすれば体得できるのかは解らない。だから、説明したくてもできないのでしょう。

 悪気があって隠しているのではなくて、言葉で論理的に説明することができない。

 それは、“読み”を体得するには原始的な脳幹の感覚を活性化するために、感性脳である右脳に偏った使い方をするからではないか?という気もします。

 実際、武術・武道を熱心に修行してきた人は、「左脳が無いんじゃないの?」と思えるくらい論理的に物事を考える能力が致命的に欠落している人がしばしば見られます。

 なので、武術家、武道家が書いた本を読むと、一体、何を伝えたいのかさっぱり判らないような本が多く、この分野では千部から二千部売れたら大成功だと言われるような体たらくです。

 まあ、ジャンル本として一定数の売上は望めても、それ以上には増えない。買う人間は決まっているので、内容は問われない。

 だから、ファンを開拓するために面白い本を作ろうという意識そのものが、出版する側に抜け落ちてしまうのです。

 そんな業界なので、論理的に理解できる内容にしようという意識が最初から無い。これじゃあ、理論倒れっていうものです。

 ところが、その理論倒れの曖昧なところが武道・武術の世界では有り難がられてたりするんだから、バカ・ワールド過ぎて一般人が入り込めないところだと思うんですね。

 セミナー後の懇親会で、F県から参加された方から聞いたところでは、最近、地元で甲野善紀氏の介護古武術(だから、そのネーミングはいい加減に止めんしゃ~い!)のセミナーがあって、覗いてきたんだそうですが、百人(スゲ~!)くらいいる中で介護関係のオバチャン達が八割を占めていたそうです。

 そして、開会始めに甲野氏の“物凄く使えない抜刀術”とかの演武があって、「どうですか、皆さ~ん。達人でしょ~?」ってな感じで掴みはオッケー。

 続いて、介護古武術の実演解説が始まったそうなんですが、そこは現場で苦労している人達ですから、遠慮会釈ない質問が出たそうです・・・が、甲野氏は答えられなくて、気まずくなる・・・。

 と、またもや抜刀術を披露して観衆の度肝を抜き?・・・ということを繰り返していたらしく、その方は「あ~、長野さんが書いてた通りだ・・・この人はバッタモンだ」と思ったみたいです(ちょっと、意訳させていただきました)。

「う~ん、それって、ガマの油売りみたいですね~」と私が言うと、「そうです。マンマ、そんな感じだったんですよ」と笑っておられましたけど、やっぱり、私が心配していた通り、メッチャ使えない偽装古武術の布教伝道師と化してしまいましたね~、甲野氏は。

 まあ、古武術パフォーマーだと思えばいいのかも知れませんけど、でも、パフォーマンスで食ってる人達だって、あんなに下手くそな人はいないと思うんですよね。あんな、実用性も無くて芸としてのパフォーマンスも低い武術みたいな演技で大衆を騙すのは、いい加減にしてもらいたいです。

「介護やスポーツに役立つ身体操作法の研究をやっています」とだけ名乗って活動すればまったく何の問題もないでしょう?

 何で、そこでヘッタ糞な演技をやって見せる必要があるのか? アクション俳優の演技みたいにレベルが高ければ別ですけどね。

 私は人前で技見せたりするのは実は恥ずかしくて仕方がないんですよ。映像作品では説明しながらやってますでしょう? アレは黙って技だけやったら見られた代物じゃないと思ってるからなんですよね。

 演武みたいなこと、頼まれてやったことも何度かはありますけど、我ながら下手糞過ぎるな~とミジメになりますよ。人を感動させるようなパフォーマンスを示せるプロの芸とは比較するのも愚かです。

 ほめてくれる人もいますけど、いや~、自分で見たら恥ずかしくって仕方ないです。逆に言うと色んな武術家の映像作品とか見ていて、「よく、こんな下手糞で演武してみせる気になるな~?」って、唖然として逆の意味で感心する場合が多いですよ。

 人間、自惚れるってのは怖いですね・・・。


 さて、今回のセミナーでは、教えたその場で違いを実感してもらうのは流石に無理だと思ったので、久しぶりに資料のプリントを用意しました。

“読み”に関して、文章で書いた資料ってのはほとんど皆無に近いと思いますから、その点、今回の参加者は得したと思っていただきたい!

 目付けに関しても、最初に習ったことの20~30倍はやり方を増やしていますし、去年と今年でも二倍くらいにはなっているでしょう。

 以前だったら隠しておいて、二代目を襲名する時に極意相伝で教えるつもりだったことも、今は普通に喋ってます。

 それでも、今回の資料を読んだ会員さんからは、「こんなの初めて聞きましたよ~」と言われるような事柄も書きました。

 やっぱり、自分の一生賭けるに値する研究だと思ってますからね。

 私が、「以前、習いに来ていた会員さんもおいでなさい」と書いたりしているのも、その後の研究が何十倍も進んでいるので、それを教えてあげたいと思っているからなんですね。やる気のある人は来てもらいたいですね。マジメに以前とは全然違うので・・・。

 ちょっと前のDVDを見た新しい会員さんは、「全然、違ってますね。この時はまだ間合が遠いですね」と評していましたし、師範代は「いや~、全然、違ってますね~」と笑っていました。

 普通、武術の流派では内容が減ることはあっても増えることは滅多にありません。

 どうしてか?というと、増やしてはいけないと思い込んでいるからです。

「昔から伝わる型を一切崩さずに伝えていくのが伝統武術だ」という考えは、別に間違いではありません。伝統芸能の文化伝承としては正しい態度です。

 しかし、私は現実に今の時代に使える技と教えを備えた武術を研究しているので、伝統武術で正しいやり方をそのまま踏襲するつもりは皆無です。

 あくまでも武術は護身健身に役立つかどうか?という観点でしか研究するつもりはありませんし、事実、そのように研究してきています。

 いくら世間に評価されるような他の分野への応用が利いたとしても、武術の本分は護身戦闘にある訳で、それに使えない武術は、もはや武術と名乗るに値しないと思っていますから。

 だから、最近、伝統的な武術の型が見直されて、「型は一片たりとも変えてはいけない」といった趣旨の発言を読んだり聞いたりして、その言葉に呪縛されてしまっている人が少なくないのを見ると、「これはいかんな~」と思うんですね。

 型を大切にするのと、型から学ぶのは全然、別のことなんですよ。

 型信仰からは何も生まれませんよ。

 型稽古の意味するところは、「基本の徹底」であり、それができたら型の動作は捨てて臨機応変に変化応用できなきゃ意味がないんです。一つの動作に一つの対敵の意味しかないと考えるのはバカチンです! 最低、三つか四つの応用は含んでいるものだし、真に型の意味を掴んでいたら、その場で自由自在に十や二十の応用変化技を生み出せて当然なんです。

 もし、それができないようなら、型の神髄を理解体得していないということになりますから、型について語る資格はないでしょうね。

 基本というのは、その武術流儀の戦闘理論の根本原理のエッセンスなんです。

 那覇手のサンチン、首里手のナイハンチ、八卦掌の単換掌、形意拳の劈拳、一刀流の切落とし、ボクシングのワンツーみたいなものです。

 古流剣術で言うなら、刀法の基本の操刀法の中に、その流儀の戦闘理論の原理原則が内蔵されている訳で、その原理原則さえ理解できれば操刀法は変幻自在に相手に応じて千変万化していかなきゃ嘘なんですよ。

 そういう意味で型の形を崇めてアンタッチャブルにするのではなくて、型の形に秘められた戦闘理論を読み解かなければ、その流派の技と戦術を体得することは不可能なんですよね。

「型を変えちゃいけない」と説く人が本当に言いたいのは、「型の形にはうちの流派の戦闘の極意が溶け込んでいるんだから安易に変えたら全部がダメになっしまうんだ」という意味なんですよ。

 逆に言うと、その戦闘の極意を体現できていたら、型の形にこだわらずに変化応用は自在にできる筈なんですね。

 それが、書道で言うところの楷書・行書・草書になる訳で、60歳70歳になっても楷書しか書けなかったら情ないでしょ? でも、その情ない状況に何も疑問を感じない人が大勢いるんですよ。

 もっとも、楷書から始めないで草書の外形だけ真似て書いていたって文字としてはダメでしょう? それが、基本を大切にしなければならないという言葉の意味なんです。

 基本を体現してから臨機応変に崩して使うのと、基本を知らない者の一見、もっともらしい技というのは現実に使えるかどうかを見れば一目瞭然なんですが、指導者レベルでこれが見抜けない人は、初歩から基本をやり直すべきですね。

 その判断基準としての甲野氏は格好の試金石ではあるかもしれませんね。アレが使えるかどうかを観抜けるかどうかで、武術を読む能力の有無が判りますから・・・。


追伸;今回のセミナーで配布した資料は、詳しく解説を施して本にするつもりです。やはり、この“読み”を知らなければ武術を本当に理解することはできないと思うし、現代武道で最も抜け落ちて神秘的に誤解されてしまっている点だと思っています。桜井章一氏の本でも具体的なやり方についてはほとんど載っていなかったので、今、書く意義はあると思っています。

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7月セミナー“読み”について

 早いもので、2009年の月例セミナーも半ばを越えました。

 先月、先々月はクエストさんから出る新作DVDの特典映像用にセミナーの様子を撮影してもらいましたが、今回は撮影はありません。

 どうしてか?と言いますと、今回の“読み”に関しては、あまり表だって公開したくないからです。

 数年前まではかなり制限していましたし、ある程度、セミナーなどでも公開するようになっても、やはり、なかなか理解し難いみたいです。

 私が武術の最大の研究テーマとしてきたのも、“交叉法と読み”だったんですが、これは技術としての形式で覚えようとしてしまうと応用が利かなくなる恐れもあります。

 恐らく、これまで指導してきた中でも一番、伝わり難いものだったのかもしれません。

 どうしてか?と言うと、現代の武道では交叉法も読みも、ほとんど失われかかってしまっているからです。

 個人的に体現している人であっても明確な説明ができず、“気”を察知する・・・とか、呼吸を盗む・・・とかいった、甚だしく抽象的で曖昧な言葉でしか説明できなかったからです。

 例えば、U先生のやって見せている空手の技は、私から見たら交叉法そのものです。読みのレベルが高いから名だたる空手家、格闘家を一瞬で制してみせている・・・と解釈しています。

 交叉法は簡単に言えばカウンターです。

 ただし、単純に拳でタイミングを合わせて突くだけではなく、交叉ずれ込み突き・交叉巻き込み突き・受け同時合わせ突き・・・等々を、拳・貫手・掌・肘等を用いて変幻自在に打ち込みます。

 無論、手技だけでなく、蹴り技や、受け崩し技、いなしての投げ、瞬間の逆技、関節挫き技・・・等々もカウンター理論で用います。

 あの生前から伝説的な名人と噂されていた大東流の佐川先生の合気技の連続分解写真を見ても、典型的な交叉法を用いて接触した瞬間に合気を施していることが判ります。

 素手だけでなく、剣術や棒術であっても、理論構造的には同じ原理です。

 私は剣道は少しやったことがありますが、剣術や居合術を本格的に修行した経験はありません。無刀捕りなども習ったことはないのです。

 しかし、交叉法と読みを原理から探究していく過程で、勝手にこなせるようになっていったのです。

 正直言って、読みができればスピードは必要なくなります。

 相手が攻撃しようとする意欲が動けば、それは外見の変化として現れます。

 桜井章一氏は、それを“違和感”と表現していましたが、これも抽象的に過ぎるでしょう。

 心の動きは眼球の動きに現れます。それを察知されないようにしようとする訓練をしている人間は、自然に目を細めた半眼になります。

 こういうタイプは技術的に相応のレベルにあると判断して間違いないでしょう。つまり、自分の心をコントロールすることで身体操作に支障を来さないようにしているからです。


 人間は、イライラすると貧乏ゆすりをしたり、人と話す時に目線を外したり口元を押さえる癖があったり、心の動揺はよくよく観察すれば必ず外部から発見できます。

 だから、“読み”というのは、そんなに神秘的に解釈する必要はないのです。

 ただ、これをマニュアル化するとマズイ場合もあります。人によって現れる癖は違うからです。

 いかにも、「私は武道をやっています」と言わんばかりに背筋をピンと伸ばして脊柱起立筋を緊張させている人が日本の真面目な武道修行者には多いものです。

 しかし、こういう姿勢を固めている人は、固めているところが弱点になることを理解していません。もっと、フワリと力まずに自然にスゥーッと背筋が伸びて骨盤が座って安定しているような人が本当にできる人です。

 また、“読み”というと、電話で話している時の言葉の響きの安定度でハラの出来具合が察知できますし、文章を読んでいても実力が推定できます。

 自分を大きく見せたがったり、必要以上に謙虚そうに振る舞ったりするタイプは未熟者です。しかも、自分の未熟さを自覚しておらず、過大評価しているタイプです。

 こういう“読み”を探究していくと、勉強すべきことは物凄く増えていきます。

 よく、読者の方や会員さんからも、「長野さんは、何でこんなにいろんなことを知っているんですか?」と聞かれるんですが、それは、“読み”を磨くためには幅広い知識が必要だと思っているからなんです。

 本を沢山読むのもTV番組を沢山観るのも、私にとっては単なる娯楽じゃないんですよね。私は常に、「武術の技能を上げるヒントにならないか?」と考えています。

 だから、発表していないだけで研究しているものは膨大にありますよ。ある程度、研究成果が確認できないと発表できませんから、同時進行でいろんなことやっているんです。

 でも、それらは全て“自分が追究する理想の武術”のためにやっていることです。もう、それさえできれば後はもういいや~と思っていますよ。

 武術は二進法でできています。0か1。

 交叉法は、0で対して、1で合わせ仕留める。一撃で倒しても連撃で倒しても、1は1なんです。1、2。1、2、3・・・といったリズムで戦うことは本来はしません。

 私は、0で対して、相手の攻撃しようとする意識の先を制して1で入って制圧する戦法をとりますが、1で入って制圧するまでに4~5発の打撃と崩しと逆関節極めと投げを一挙動で極めるのが“常”です。

 一発技を出して、受けられたら引いて、もう一発・・・みたいなやり方はしません。

 言葉にするとほとんど不可能みたいに思えるでしょうが、慣れればむしろ誰にでもできることです。筋力もほとんど必要としません。体得してしまえば、こんなに無理なく自然にできるとは誰も予想できないでしょう。

 私は、逆に通常の武道や格闘技の試合とかを見ていて、そっちの方が遥かに難しく危険なことをやっているように見えます。

 何故、あんな危険なやり方を誰も疑問を感じないで続けているんだろう? あんなやり方では体格体力に優る相手に勝てる道理がないじゃないか?・・・と、そう思うようになってしまいました。

 そして、「おかしい。本来の武術はこんな体力勝負をしていたんだろうか?」と疑問に思うようになったのです。

 では、何が最も違うのか?と考えた時、私が結論として至ったのが、“読み”だったのです。

 交叉法そのものはカウンターという形で伝わっていることは伝わっています。

 しかし、“読み”はほぼ失伝してしまっています。相手の動きを読んで制圧するという考え方そのものが失われ、相手がこうきたらこうする・・・というコンビネーション理論が主流になっています。

 よく、「相手の動きが見切れている」とは言いますが、「相手の動きが読めている」とは言わなくなっているでしょう?

“見切る”というのは、相手が動き出した“後”のことであって、“読める”というのは、相手が動き出す“前”のことなのです。

 ですから、“読み”というのは、あくまでも相手が攻撃を出す前にそれを察知することなのです。

 これが完璧にできれば、相手が技を出そうとする前にそれを出させずに制圧することが可能になる訳です。それが「先の先、先々の先を取る」という言葉の意味です。

 もちろん、こんな超能力紛いの技能がそう簡単に体得できる筈はありません。

 ですが、体得していくための方法論はあります。それは私が考案しました。今回のセミナーでは、そのノウハウを解説指導しようと思っています。

 無論、今回は極意中の極意、奥義の解説となりますから、その場ですぐに体得できる人は少ないでしょう。けれども、知らずに稽古するのと知って稽古するのでは、一年後、二年後・・・十年後に決定的な差がつきます。

 そこを考えて将来的に武術の奥義に近づきたいと思っている方の参加を期待します。

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刀は刀を呼ぶ?

 いつもお世話になっている横浜名刀会さんに、彫刻入りの古刀の残額を支払いに行って、引き取ってきました。

 何しろ、店頭で見せてもらった時に一瞬で一目ぼれした刀で、彫刻の入った刀というのは何か特別な感じがするんですね。

 もっとも、あんまりゴテゴテとデコレーションし過ぎたような、いかにも厚化粧な感じの刀は、実用を考えていないようで好きじゃないんですが、この古刀の彫刻は、歴史を感じさせる素朴なもので、ちょっと典雅な雰囲気がするのです。

 この刀、恐らく室町時代初期の作と思われて、平安・鎌倉時代の太刀姿に似ています。

 小鋒で先細りした姿は実際以上に長寸法に思わせ、二尺七~八寸くらいの刃渡りがあるようにも見えます。

 お店で持った時もあまりの軽さに驚いたんですが、丁度、その後にシダックスの武術講座があったので、そのまま持参して受講生の皆さんにも持ってみてもらいました。

 刃渡りは77.5cm(約二尺五寸六分)もあるのですが、二尺四寸五分の居合練習模擬刀より軽いんですね。

 ちなみに模擬刀は亜鉛合金なので鉄より比重が軽いのですが、二尺六寸近い刃渡りでここまで軽いというのは、細身の刀であっても、ちょっと信じられません。

 以前、やはり古刀の二尺五寸くらいの太刀姿の刀の拵えを製作しましたが、これはえらく重くて、片手で振ったら手首を挫いてしまいそうなくらいだったので、重心のバランスを調整して製作しました。

 ところが、もっと長い刀なのに比べものにならないくらい軽くて、片手でヒュンヒュン振れるくらいです。

 もちろん、重ねも厚くはないし、先端がかなり細くなって切っ先も小さいんですが、元身幅はあるし、鎬も高くてひ弱な印象はありません。

 密教の素剣と護摩箸の彫刻が入っているので、実用より宗教的な飾りに用いた刀なのか?という印象も受けるんですが、ところが、この刀、実際に戦闘に使った形跡があるのです・・・。

 それは、主に二か所。峰に斬り込まれた跡があるのと、先端から1/4くらいの鎬の左側(構えた時の左側)に集中的に錆があったのです。

 この箇所の鎬に疵が付くとしたら、それは、この刀で斬り落としの技を使ったのではないか?と考えられます。

 つまり、この箇所の鎬を敵の刀の斬り込むのに合わせて擦り落とした時の擦過疵の跡ではないか?と思うのです。

 何しろ、古い刀なので鍛え割れも出ているし、恐らく完全に錆びた状態で発見されて研ぎ直されたものではないか?と思うのですが、鍛え疵を隠すのに後から彫刻を入れたらしく、不自然な箇所に梅の枝の彫刻が入っています。

 梅の彫刻は、もっと後の時代で流行ったらしいので、これは後から入れられたものなのでしょう。

 茎(なかご)の目釘穴も三つも開いていて、何度も拵えをつけ替えたらしいことが想像できます。こういう刀はかなり古い刀に多いものです。

 要するに、実戦向きの刀として歴代の所有者が大切にしてきたのでしょう。

 彫刻の素剣の上には梵字が彫られていたようですが、これは研ぎを繰り返して部分しか残っておらず、何と彫られていたのか判りません。

 しかし、これだけ彫刻がされているのに作者の銘は無いのですから、ちょっと不思議な刀です。


 ところで、帰宅して気になる錆びを簡単に取り除いていて、「この刀の彫刻は、以前買った平造りの脇差の彫刻と似てるな~?」と思い、脇差を抜いて見比べてみました。

 すると、何と驚いたことに、この刀と脇差の素剣、護摩箸の彫刻は裏表が対象になっていて、二刀構えでクロスさせると素剣の部分が対応関係になるではありませんか?

 アレッ?と思って、刀身を見比べてみると、鍛え割れの具合なんかも非常に似通っています。

 どちらも無銘・・・、でも、どちらも密教の彫刻が入っていて製作年代もほぼ同じと思われる・・・。

 これは、もしかして同じ作者が打ったものなんじゃないか? そして、刀が刀を呼んだんじゃないか?

 何だか、そんな不思議な感じがしました・・・。


 ルパン三世の第二シリーズで、五エ門の斬鉄剣は大刀と小刀の雌雄一対で作られていて、何十年だかに一度、添い寝させないと斬れ味が悪い鈍刀になってしまう・・・という話がありましたけれど、何だか、その話を思い出してしまいました。

 あ~、そういえば、その彫刻入りの脇差を買った時、その脇差には“ハバキ”が付いておらず、木製のハバキが白鞘と一緒に付いていたんですが、今回の刀にもハバキは付いていなかったんですよ。

 ちょっと、偶然とも思えないですね~。やっぱり、この刀は揃いだったのかもしれませんね~?

 刀には打った刀匠の魂が宿ると言われますが、買った店は全然違うんですけど、丹下左膳の乾雲・坤竜の話みたいに、互いに呼び合っていたのかもしれませんね~。

 まあ、そこまで怪談染みた話でなくとも、私は昔っからシンクロニシティーとかやたらに起こりやすいんですよね~。だから、合理主義的考えなのに運命論者なんですな~。

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最近の定期練習

 日曜日の定期稽古会も、最近はもっぱら雨との戦いです。

 公園の中央にある築山の東屋が、唯一、雨をしのげる場所。八畳くらいの広さに木製の腰掛けが八つ。数人で立禅や推手くらいなら、ここでも練習できます。

 多少の雨の場合はここで練習したりするんですが、この前は朝から結構雨が降っていたにも拘わらず、腕組みして座っているオッサンがいたりして、「こんな雨の日にまで公園に来るのか?」と、自分たちのことはさておいて、思いました・・・。

 さて、今週は、また試合に出る会員さん向けに試合に使える技の研究をしました。

 形意拳の基本母拳“五行拳”の更に基本となる劈拳の使い方。

 これは、太気拳の岩間統正先生が得意技にされていましたし、私が形意拳を習った先生方のいずれも大切にされていらっしゃいましたので、自分でも随分、研究しました。

 結果、うちの基礎錬体・第二試力の縦試力の錬法で養成する骨盤の縦回転の動きで背骨をしならせるように伸縮させて打ち下ろす打法の実用法の典型例として、劈拳の用法を説明することが多かったものです。

 ちなみに、この身法に関しては、形意拳系統以外では通背拳にも見られますし、同様の身体運用では日本刀の真直斬りもこれに相当します。

“劈”というのは、斧や鉈でザクッ!と斬り込むという意味なんだそうです。上から下に向かって斬るようにするため、腹圧を圧縮する動きになり、高い威力が出るとされ、使いこなせるようになるといろんな応用打法も使えます。

 私は、打ち方(打撃訣)も工夫して打つポイントや力の作用のさせ方でダメージを激増させるやり方も工夫しました。が、これは危険過ぎるので公表は控えます。

 うちの場合は流派の比較研究を普通にやっているので、こうしたいろんな流派の動きの共通点や違いについても発見することが日常的になっています。

 なので、劈拳の前段で差し手したところから、場合によっては八極拳の頂肘に変化したり、そのまま体の合気みたいに発勁してふっ飛ばしたりすることも可能になります。

 結局は、“~流が最高”などという発想そのものが井の中の蛙でしかないと私は確信して微塵も疑わないのです。

 できる人は何流でもいるし、また、できない人もいる。技を深めるかどうかは個人の探究度によるものです。できる人とできない人では同じ流派でもまったく別物に見えるものなのです。探究心の足りない人は、どんな優れていると言われる流派を学んでもダメでしょう。

 自分の修行する流派こそが実戦的で他流は弱い・使えないと論難する人は、自身の無知蒙昧さをアピールしているに等しいのです。

 それに、“実戦的”という言葉も、使い古されて抽象的になり過ぎていますね。

 私は、“実戦的武道”を標榜している人達が、何故、一対一の素手でルールのある試合しかやらないのか、どうにも理解できません。

 普通にストリートファイトでそんな状況の方が珍しいでしょうし、酔っ払いにからまれた程度で一々顔面パンチしたりしますか? そんなの弱い者イジメではないですか?

 冷静に判断すれば、武道家の考える“実戦”というのは少しも現実的ではない場合がほとんどなんですよ。今時、素手で殴り合いする実戦イメージなんか頭に浮かぶのは梶原一騎原作の劇画世代(40代以上)くらいしかいないでしょう。

 私が、「実戦の時は刀でも手裏剣でも使う」と言えば、「長野はあぶないヤツだ。武器を使うなんて卑怯だし臆病者だ」なんてよく言われるのですが、「ナイフや鉄パイプ、木刀、金属バットなどで武装した多数の人間に襲われるのが実戦の基本形」だと私は考えているので、素手で対処しようなんて甘いことを考える人は阿呆だとしか思えません。

 夕焼け番長ノスタルジーに浸っているオッサン世代は、武装して複数で囲んでボコボコにすることに良心の呵責を感じない世代を劇画のヒーローが素手で制圧する空想に浸って寝ぼけているだけですよ。

 相手が素手でも三人に囲まれたら、そうそう簡単に制圧できるもんじゃないですよ。ましてや武装していたら素手で立ち向かえる道理はありません。一対一で闘うことに慣れていたら、まず囲まれてやられてしまうでしょう。実験してみたら、すぐ判りますよ。

 もっとも、私自身は、痴漢や酔っ払い、暴漢に遭遇した時は、これまでほとんど武術の技を使わずに済ましてきました。

 何故なら、殴り合いにまで発展させなかったからです。

 殺意をもって襲撃してくる相手か、そうでない相手かの区別もつけずに「敵は抹殺」みたいな単細胞な考え方をしますか? 状況に応じて適切な対処法をするのが武術の想定する“実戦”です。口八丁で煙に巻く話術の方がよほど役立ちますよ。

 私が小島一志さんに疑問を感じるのは、彼はヤクザとの繋がりをほのめかしたり、空手の技を“脅し”に使うようなことばかり文章に書きますよね?

 仮にも武道を修行し、武道についての本を世の中に送り出している人間として、あまりにも軽率で品が無い。江戸時代だったら、とっくに誰かに叩っ斬られているでしょう。

 私は、メディアに携わる者に批判精神は必要不可欠だと思っています。その点で小島さんを責めるつもりはまったくありません。

 ですが、やり方がおかしい。

 吉田豪さんが最初にゴン格で指摘したのは、そのことだったのであり、反論どころか脅しを書くなんて、小島さんには品性に問題があり過ぎますよね。

 もっとも、彼のブログを読むと、基本的に自省心が甚だしく欠落していて他人の気持ちをさっぱり考えない人間なのが解り、吉田さんも書かれていましたが、私も何だか、可哀想に思えてきたんですね。

 もっとも、そういう人がプロとして情報発信していくのには問題もある訳です。が、職業選択の自由もある。

 よって、「フィクションの作家を目指したらどうか?」と私は書いた訳です。実際、私は読んでいませんが、小島さんは小説も書いていたでしょう? そっちで勝負した方が彼の才能も生きるし周囲の人を傷つけないで済むと思ったんです。

 人間は適材適所ですよ。自分の能力が発揮できて、それが多くの人達に喜ばれる仕事をするのが一番です。フィクションの作家だったら、誇大妄想狂でも何ら問題無いんですからね。


 おっと、また、脱線してしまいましたね~。

 え~、形意拳ともう一つ、試合向けに詠春拳の連続打法も解説しました。至近距離からMP-5サブマシンガンを撃つようにダダダダーッと打ち込めば、相手は反撃の暇もなく体勢が崩れ、そこにトドメのハイキック一発?・・・なんて戦法はどうかな~?と思ったのですが。

 一般に、フルコン空手の試合を見ていると、前手・前足を攻撃に使うことが少ないようです。ボクシングではジャヴをリードブローとして、そのままフィニッシュに用いる人もたまにいますが、フルコン空手では使いこなしている人をほとんど見かけません。

 蹴りもほとんど奥足を腰を回して蹴っていっていますが、これではモーションが大きくて読みのできる人間には通じないでしょう。

 受けて返す、出して受けて返す・・・といった技のリレーをする癖がついてしまって初撃で打ち倒すという観念がなくなってしまっているのでは?と思います。

 交叉法と読みを駆使する武術では、相手が攻撃を出そうとする初撃のタイミングが絶好の迎撃ポイントとなります。決して間合を保ったまま打ち合いしたりはしないのです。

 故に、「何もできずに攻撃した瞬間には一瞬で倒されてしまった。凄い達人だ!」という現象が現れる訳です。

 なので、私は「~先生が空手チャンピオンを一瞬で倒した」みたいな話を聞いても、ちっとも驚きません。交叉法を用いて読みができれば、それができない相手に対して、そういう結果になるのは必然であって不思議でも何でもないからです。

 しかし、交叉法も万能ではありません。読みも、より高いレベルの相手には通じないでしょう。

 無論、私は破り方も研究していますし、欠点を穴埋めする研究も続けています。

 三カ月経過したら、それ以前の技は通じなくなっていると考えてください。武術は常に進化していないと絶対にダメですよ。

 定期稽古会やシダックスの講座でやっている内容は、技の進展と、その破り方、さらにその破り方の防ぎ方、技の欠点の発見と改善法・・・等々、あくまでも現実的実戦状況に即した多面的なものです。

 例えば、小砂利で地面が覆われていて、交叉法で先を取るのに間合を詰めようとして地面を蹴って出ると小砂利で滑ってしまう・・・「足で蹴らずに体幹部から重心を動かして、それに足をくっつけていく・・・そうすると滑らない」と、ここで縮地法の原理的な利点が体感できる。

 実戦を考えれば、地の利や時刻の利についても考えねばなりません。

 夜間の視界の悪いところで襲撃されたらどうするか?とか、狭くて体捌きができない場所だとどうするか?・・・といった具合に考えていなくては、即戦対応はできません。

 武道をやっている人にありがちなのは、一つ、何か重要だと思ったら、そればっかりに固執して他を受け付けなくなることです。

 本当に実戦を考えれば、“臨機応変”。これしかない?ですよ・・・。


追伸;先日のブログでシュマイザーMP38と書いたら、「シュマイザーは間違いではないか?」という匿名の意見をメールされてこられた方がいました。私は、匿名で意見を送るのは相手に対して非常に無礼なことだと認識しておりますので、通常、返事は返しません。また、マニアックなメール交換をする趣味も持ち合わせておりませんから、この御意見は無視させていただきました。ところが、この方はアスペクトに同じ内容の意見を葉書で書いて送ってこられ、またも無記名という非常識さで、無礼にも程があると憤りを感じましたので、コメントしておきます。ちなみに、シュマイザーというのはこの銃の製作者の名前ではなく、通称として広まっているものです。正式にはエルマ・ベルケ社が製作したのでエルマ・ベルケMP38と呼ぶべきとされますが、私のようなオールドファンにはシュマイザーと言った方が通りがよく、このような通称が広まっているのは銃に限ったことではなく、例えば、日本では劈掛掌をヒカショウと呼ぶのが定着していますが、「日本語読みするならヘキカショウと呼ぶべき」と専門誌に書かれたものの、ヒカショウの呼び方は通称として広まっていたので変わりませんでした。功夫という言葉も中国武術マニアはコンフーやグンフー、クンフーと呼ぶのに拘るものの、アメリカ式にカンフーと呼ぶのが普及しているので改まりませんでした。銃の呼び方も、モーゼルがマウザーに、シェイタックがシャイタックに、ワイルディがウィルディに・・・といった具合に拘る人はやたらに拘るものの、それはマニア特有の偏狭な拘りでしかありませんから、間違いとは言えないと認識しています。子犬をチビと呼んでいたらえらいデカくなってしまった・・・なんてこともあります。ですから、私自身は特段に訂正をする必要も感じなかった訳です。それに、この方がマニアックに銃について一家言を持つのであれば、訂正を求める時点で、もっと具体的に「これこれこういう経緯でシュマイザーと呼ぶのは間違いであり、妥当ではない」と、きちんと論理的に書き、自分が何者であるかを明かして意見を送るべきでしょう。匿名で意見するは、論拠も書かないは、出版社にまでわざわざ無記名で葉書を出すは・・・無礼千万!と言わざるを得ません。

 私がやブログに書いている文章は、エンターティンメントとして読者に楽しんでもらいたいと思ってサービス精神で書いているものですし、私自身は割りと礼儀作法は気にするタイプです。直接、メールをされる時は礼儀は弁えていただきたい。どうも、単なるおフザケとユーモアの区別のつかない人が最近は増えているように思えますし、無記名でメールすれば悪意のある悪徳業者か何か?と警戒されるに決まっています。相手がどう思うか?ということを何故、考えないのか?

 意見してくれるのは有り難いことです。が、相手を不快にするだけの文章を平然と書きおくる不心得者がいる。ブログとメールは違うでしょう?

 この方に限ったことではありません。どうにも、まともに他者とコミュニケーションがとれない人がいるものです。例えば、「どこそこの道場や先生を紹介してください」とか、「金がないので無料で教えてくれ(しかも地方在住)」とか言ってくる非常識な人もいます。

 縁もゆかりもない人品も解らない人間を名のある人に紹介できますか? 生活費にもことかく人間が趣味道楽に耽る余裕がありますか?

 私は基本的に道楽者です。が、道楽を通すために人並み以上に苦労してきました。バイト帰りに交通費が無くて海老名から上溝まで歩いて帰ったこともありますし、本当に金が無くて電気も水道も電話も止められて数日、雑草食って飢えを凌いだこともありますよ。

 人間は苦労して得たものしか役立てられません。他人に甘えて自分の享楽に耽ることしか考えない人間は死になさい! 無駄飯食らって長く生きて他人に迷惑をかけるんじゃありません。そして、脳みそ治して生まれ変わってきなさい!

 武術を学ぶことを、何故、「修行する」と言うのか解りますか? 身体を鍛えて心を磨くから修行と呼ぶんですよ。心が磨かれないなら、単なるトレーニングにしかならないんです。それじゃ、トレーニング・ジャンキーです。

 じゃあ、修行して何をするのか? 決まってますよ。世の中に役立つ仕事をするんですよ。世の中に役立って、自分も満足できる仕事・・・それが天職と言うものです。


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吉田豪さんvs小島一志の行方は?

 ゴン格の吉田豪さんの連載記事で、またも小島一志さんのブログ・ネタが書かれていて、「吉田さんは、小島さんをイジリたくて仕方がなくなってきたんだろうな~」なんて思ってしまい、ちょっと、嫉妬しちゃいましたね~。

 だってね~。最近は大槻ケンヂさんも、さっぱり私の本を取り上げてツッコミ入れてくれないしね~。ツッコミ入れやすいように工夫して書いてるんだけどな~・・・。

 やり方があざとかったかな~?

 ちなみに、日テレの未来創造堂で大槻さんがヌンチャク・マニアとして登場して、「芸能界のヌンチャク四天王の一人です」と言いながら蘊蓄とヌンチャク秘技を披露していましたが、思っていたより、なかなかどうして、上手でしたよ。

 こうなったら、侍戦隊シンケンジャーに出るしかないでしょう。及川奈緒も牙狼やセブンXやゴーオンジャーに出てたんだし、特撮マニアとしては出るしかないですよ・・・って・・・、あっ、そういえば『極道忍者ドス竜』とか、キューティー鈴木がゾンビと戦う映画とかにも出てたような・・・?


(スンマセン。脱線してしまったので軌道修正!)

 私は未だにパソコンできないからネットで他人様のブログを読むということはできないので、会員さんから報告してもらって知るだけなんですが、プリントしてもらったのを読む限り、小島さんのブログって、何やら、しっちゃかめっちゃかで(いえ、私のもそうなんですけど、これは芸風で書いているだけで、本人は至って真面目ですから? だって、真面目な文章読んだってつまんないでしょ?)、しかも、会員さんから聞くところでは、しょっちゅう、出したり消したりを繰り返しているんだそうですね。

 しかし、吉田豪さんは、しっかりチェックされていたみたいですね。“息子になりすまして書いてるみたい”との感想は、私もまったく同様に感じたんですが、やっぱり、もの書き仕事やっている人間からすると、「これはヘンだな~」って、感づきますよね~。

 でも、吉田さんは、小島さんの文章読んでいたら精神が曖昧な人なのは察知されたと思うんですよ。とにかく、文章がコロッコロ変わるらしくて、あの全身全霊LOVE宣言していたTさんのことすら、冷たくされて(そりゃ~、あんな文章書かれたら誰だって嫌がるよ)悪口書いたりしていたみたいですがね~。

 いやはや、本当に、小島さんの独善思考はどこまでいけば内省に到るんでしょうか?

 でも、妙に強がって見せる男ってのは実は小心者で、虚勢を張って他者を攻撃し続けることでしか自分を保てない人だったりするもんですよ。

 小島さんの場合、年齢重ねて自然に経験知で自制していく筈のトラウマと他者への攻撃性を未だにコントロールできていなくて自分でも苦しいんじゃないかと思いますよ。

 だから、最初に吉田さんにおちょくられた時に、自分の問題点を自覚して硬派キャラを変えてお笑いキャラになるくらいの精神的図太さが示せたら良かったでしょうけどね。

 吉田さんも「本気で心配になった」と書かれていましたけど、私も段々、小島さんが哀れに思えてきましたよ。

 だって、客観的に自分を内省できる人間だったら、他人のことをとやかく書き散らしていたら人が離れていくのは当然のこととして諸悪の根源が自分の独善思考に在るという真相に気づく筈なんですからね。他人のことをとやかく言えないんですよ。

 私も毒舌では有名ですが、自分が正しくて相手が一方的に悪い、間違っているんだと考えたことは一度もありません。罪を憎んで人を憎まずって言うでしょ? 批判は反省を促すために必要なことだと思っているからする訳です。

 そこまで察してくれなくて、単なる悪口言うだけの人間だと思って離れていく人達を引き留めようとは思いません。それはそれで自分の不徳だと思いつつ、それでも自分の使命として続けていけば、いずれ理解してもらえるかもしれないし・・・程度に思っていますよ。人に期待するより自分の役割を忠実にまっとうするのが先決だと思ってますから。

 だから、言うだけ無駄だと思う人や、社会的に影響力が無いような人だったら、いちいち批判しませんよ。それは私の役割じゃないから、ファミレスでバカ話のネタにするだけです。

 それに、批判してもそう易々と相手が変わる訳がないのも解ってますよ。大抵、その本人は自分は正しいと思ってやっているもんです。まあ、小島さんはその典型ですね。

 しかし、他人への批判であっても、自分の心に照らして考える人というのは少なからずいる訳で、私が有名人を批判する文章を読んで、自分に照らして考えてくれる人が増えていってくれれば恩の字でしょう。

 私が活字中毒なのも、10冊に1冊くらい、凄く考えさせてくれる本に出会うことがあって、自分でもそういう本を書きたいと思う訳ですよ。

 そういう考えからすれば、批判されるのは自分の気づかない問題点を指摘してくれているんだから有り難いと受け止めた方がいいんですけどね。ホント、小島さんはちっちゃい男だね~。

 もっとも、単なる誹謗中傷では感情的に気に入らないから否定しようとしているだけだったりするから、それはもう「出る杭は打たれるもんだ。俺も有名になったんだな~」と光栄に思って無視するしかないでしょうね。相手しても無駄なんだから・・・。

 世の中、器の小さい人間の方が多いでしょうからね。

 詳しいことは書けませんが、新体道の青木宏之先生は、やっぱり器が大きい人です。この前、お電話を頂戴した時に愚痴こぼしてしまったら、すぐ助け船を申し出てくださって、本当に有り難かったですね。しかも、私、ちょっと内輪のことまで余計なことを言ってしまって、本来は決して部外者には話されないであろうことまで言わせてしまう形になって、「あ~、しまった」と思ったんですが、それはつまり、それだけ私を信頼してくださったから口にされたということを意味しますから、本当に申し訳なかったですし、これはどうやって恩返しできるのかな~?と、今、思案中です。

・・・と言うか、私は恩返ししなきゃいけない人が多過ぎて、本当に早くブレイクしなきゃいかんな~と思ってるんですけどね。助けてもらいっぱなしなんですよ~。このままだと男がすたりますから・・・。

 小島さんも、どれだけ周囲の人達から助けてもらってやってこれているか?ということを自覚しなきゃダメなんですよ。助けてくれた人達を軒並み誹謗中傷して回るなんて、そんな悲しいことやっちゃダメっすよ~。


 最近は、他人と朝まで生TVみたいな討論するのがコミュニケーションになると勘違いしている人がたまにいたりしますけど、そういうのは学術探究の場以外でやれば、単なる“礼儀知らず”でしかありません(と言いつつ、昔の私もまさにコレ!)。

 私は、そういう根本的な礼儀を弁えない人は嫌いだし付き合いたくありません。それなりに相手の立場を侵さずに尊重するのは人付き合いの基本だと思いますよ。

 でも、どうも、最近はこの間合の感覚が解らない“俺様人間”が増えてきたような気がします。会ったこともないのに友達感覚で対等に付き合おうとする社会性の欠落した人も結構います。「アンタ、何様のつもり?」って言いたくなるんですけど、言っても無駄だからフェードアウトするだけです。

 小島さんも、この間合の感覚「親しき中にも礼儀あり」という観念が欠如しているみたいに思えますね。月刊空手道時代にはペンの暴力で大道塾の東先生を異常攻撃したり、芦原先生本の事件やら何やら・・・そして、今度は最愛のパートナーと公言していたTさんに冷たくされたからと悪口書いた?って・・・その自己中心的思いやりの無さというのは、最早、人間としてダメですよ。

 あの熱烈LOVE宣言(そんなもんブログに書くバカがいるのか?)を読んだ時は、「Tさんはこれを読んだら逃げるんじゃないかな~? 恥ずかし過ぎるよな~」と思いましたけど、やっぱし・・・?

 しかしまあ、小島さんは本当に他人の気持ちを考えないというか、空気が読めないというか・・・。まあ、『ゆきゆきて神軍』の奥崎さんでさえ、暴れる前にはちゃんと「暴れますからね」と言っていたそうですからね。キチガイに見せかけて意外とノーマルだったりする人いますからね(オレだよオレ・・・)。

 小島さんは吉田豪さんみたいに強くないんですよ。心がか弱いんですよ。愛に飢えているんですよ。多分・・・。

 だから、自分の周囲から離れていった人達への憎悪に凝り固まってしまって、テメ~のことは棚に上げて誹謗中傷しまくることで自己を保っている。

 似たような人を何人か知っているんですけど、こういう愛飢え男は、第三者からすれば単なる“困ったちゃん”ですからね~。



 しかしま~、私は吉田豪さんも小島さんも、どちらもうらやましいですよ。

 吉田さんは『およよん』で日テレの丸岡いずみアナと一緒に仕事できてるし、普段、ポーカーフェイスの丸岡アナが『およよん』の時はキャッキャ笑ってるし・・・。あ~、うらやましい~・・・。

 女子アナ好きの私としては、アイドル・バラエティ路線の女子アナは好きじゃないんですよね~。やっぱり、アナウンサーとしての仕事がきっちりできて、でも、よく見ると美人!という感じの人がいいです。可愛さをウリにしている人には興味がわきません。


 小島さんも、ある意味、うらやましいですな~。

 何でか?と言うと、私が小島さんネタ書くと、閲覧者数がハネ上がって、あり得ないくらい拍手数が上がる・・・いつも、せいぜい10~18拍手くらいで20拍手越えることは滅多にないんですけど、小島さんネタが入ってるだけで100~200拍手超えちゃうんだから驚きます。

 これって、アンチ小島ファンの人達が、このネタの時だけ私のブログ読んでるってことでしょう?

 凄いよな~。私の本だって武術の本としてはかなり売れてるとは思うんですけど、所詮はマイナー・ジャンルですからね。一万部くらい売れて喜んでる程度じゃ論外です。

 何だかね~。嫉妬しちゃいますよね~。アンチでいいから、私もファンが倍増して本が10倍くらい売れて欲しいですよ。そうしたら道場くらいすぐ持てるのに・・・。


 もう、何冊も本書いてるし、いっぱしの文筆家のつもりになっていたんですけど、やっぱり、吉田豪さんに書評を書いてもらえるぐらいにならなきゃダメだな~と思います。もの書き修行は武術の技の研究より大変だよな~・・・。


追伸;引っ越し荷物を整理していたら、福昌堂でライター仕事していた頃に貰った名刺が出てきました(I島さん、S原さん、K池さん、K林さん、M口さん、M上さん、N村さん、S沢さん、皆さん、元気でやってますか?)。もう10年以上経過しているので、自分でも忘れていたんですが、懐かしいからお見せしまっす。

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時代劇の殺陣

 先日、久しぶりに『たそがれ清兵衛』を見ましたけれど、やっぱり真田広之は凄いな~と唸ってしまいましたね~。

 小太刀の技もともかく、あの俊敏な体捌きには驚かされます。中盤に大杉漣と手合わせして翻弄するシーンの見事さは時代劇の殺陣シーンでもトップレベルの技術戦と言えるでしょう。

 そして、クライマックスの田中泯さんとの室内での死闘は、映画史に残る名シーンだと思いますよ。

 殺陣というと技を見せる点ばかりに注目しがちですが、ここでは泯さん演じる余吾善右衛門との言葉のやり取りが既にスリリングな展開で、「逃げるから見逃してくれ」と言われて安心して話に付き合っていた人の好い清兵衛が、うっかり大刀を質に入れた話をしたことから、「何・・・おぬし、竹光でわしを討ちに来たのか?」と、いきなり激怒して刀を取る泯さんの不気味さ、慌てて馬鹿にした訳ではないと釈明する真田さんの慌てっぷりが緊迫している中の妙なユーモアまで醸し出して、非常に味のあるシーンです。

 死んだ娘の骨を見せて、「どうだ。綺麗な骨だろう」と清兵衛に見せて、その骨を食べる余吾の姿を慄然とした表情で見る清兵衛・・・といったところといい、斬られてスローモーションみたいに倒れていきながら、「たそがれ~、おい、俺は逃げるぞ、何も見えんぞ・・・」と夢うつつの状態で死んでいく余吾の姿には権力の犠牲にされた人間の哀れさがにじんでいます。

 これが俳優デビューだったという田中泯さんが、いきなり日本アカデミー新人賞を取ったのも頷けます。

 この作品は何度も見ているんですが、見る度に新しい発見があって、少しも飽きませんね。これが名作の証明なんだと思います。


 さて、ここ最近、時代劇をよく見ています。

 東山クンや松岡クンが演じる新生必殺シリーズも、なかなか良かったな~と思っていましたが、最終回は東山クンの大殺陣が見れて、非常に良かった。上手いという評判通り、これからの時代劇をけん引していける技量があるな~と思いましたね。

 何でもかんでもジャニーズばっかりだな~という気もしていたんですが、これだけの技量を見せられると当然だと思います。

 時代劇チャンネルでは、『新・座頭市』『忍法かげろう斬り』が殺陣の工夫があって面白いですね。

 勝新の逆手居合斬りは、意外と武術的な技巧をこらしているから参考になるんです。特に、今回のシリーズでは映画版で河津清三郎が演じていた市の剣の師匠を丹波哲郎先生が演じていて、知らずに斬った市が、手傷を受けて後から自分が斬ったのが師匠だったということに気づいた慚愧の表情で終わる・・・とか、映像表現的に映画版より傑作でした。

 一方、『忍法かげろう斬り』では、渡哲也演じる忍者“鷹”と、くノ一の百舌、鴇が従うんですが、ミニスカ風着物に網タイツというセクシー女忍者の衣装のルーツがこの作品か?とか思いましたよ(『赤影』だったかな~?)。

 ちなみにこの作品、病気か怪我で途中降板した渡さんに代わって、実弟の渡瀬恒彦が主演することでもマニア間で知られています。

 こういう主役が途中降板して弟が代わった例では、田村正和サマの『勝海舟』が弟の亮さんで完結した例とか、萬屋錦之助が宮本武蔵の舞台公演を途中降板して弟の中村嘉津男
がつとめたという例とかがあります。

 渡さんは大学空手部の主将だったということですが、渡瀬さんは居合術を修行されていると映画仲間から聞いたことがあります。『激突・合気道』でも道場で居合術を稽古している渡瀬さんを主演の千葉治郎さんが外から見ている意味深なシーンがありましたが、両者の対決もからみも皆無で、何のためのシーンだったのか謎でした・・・。

 最近、見た時代劇の殺陣で、オオッ!と驚かされたのは、『陽炎の辻』でした。

 道場内で稽古するシーンで師範代の坂崎磐音に立ち向かう元女忍者だった門弟が、小太刀で立ち向かうんですが、何と! 壁をタタタタタ~ッと横走りしたりするんですよ。

 柔術の達人にそんな逸話があったけどな~と、ギャグすれすれの演出にワクワクしてしまいました。何かカンフー映画っぽかったりして、『陽炎の辻』はお薦めです。目ン玉ひん剥いた竹内力の演技もギャグすれすれですけどね・・・。

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訃報相次ぐ・・・

 朝のニュースを夢うつつで聞いていたら、「マイケル・ジャクソンが亡くなった」という声が聞こえて、ギョッとしてTVを見たら、50歳での突然死という不可解な最期で、驚かされました。

 スーパースターの衝撃的な死に相応しく、急遽、フジテレビでは特別追悼番組を放送していましたが、奇行や裁判、整形ネタで散々誹謗中傷も集めていたマイケル・ジャクソンにしてみたら、果たして幸せな人生だったと言えるのでしょうか?

 それにしても、マイケル・ジャクソンこそは、まさにスーパースターと呼ぶに相応しい存在だったんだな~・・・と、亡くなってから気づかされるような思いですね。

 出世作となったスリラーのプロモ・ビデオは、その後のプロモーション・ビデオが映像作品として定着するきっかけにもなりましたし、ゾンビと一緒に踊るという斬新な映像が無かったら、ホラー映画のジャンルとしてのゾンビ映画も、今みたいな広がりはなかったのではないか?と思うのです。

 大体、吸血鬼や狼男というのは、ダークヒーローにもなり得るキャラクターですが、ゾンビというのは、“腐ってウジをわかせた死体がノロノロ歩いてきてバクッと食いついてくるだけ”・・・汚いし臭いし醜いし、キャラクターとして人気が出るとも思えません。

 G・A・ロメロのリビングデッド・シリーズにしろ、ルチオ・フルチの『サンゲリア』『ビヨンド』『地獄の門』『墓地裏の家』などにしろ、ゾンビは汚いばっかりです。

 それが、スリラーの大ヒットによって、ダンスを踊るお茶目なアイドル・キャラクターへと変貌したのですから、凄いものだと思います。

 また、そのダンスが凄かったですよね~。マイケル・ジャクソンのダンス・テクニックの凄さは、今見直しても凄いですよ。ムーンウォークやスピンの見事さには舌を巻きますが、彼が来日した時に宿泊していたホテルの一室を、ダンス・トレーニング場へと改造して特訓していたという話は壮絶です。

 掃除に入ったら床が汗でビショビショになっていたというのです。スーパースターが単なる才能で実現したのでなく、徹底した努力の賜物だったという真相を明かす証言です。

 マイケル・ジャクソンは、確か士道館の添野館長から名誉五段を授与されていましたが、多くの武道関係者は、有名人だからこその名誉段位に過ぎないと思っていたでしょう。

 しかし、あの徹底的な訓練によるダンス・パフォーマンスの体得を思えば、決して単なる名誉段位とばかりは言えないでしょう。

 また、ライアン・オニールと正式に結婚したというファラ・フォーセットが、癌闘病もむなしく亡くなりました。

 末期癌だったからこそ、オニールは正式に結婚したのでしょう。

 ファラ・フォーセットと言うと、私はついつい、ファラ・フォーセット・メジャースと呼んでしまうのですが、この名前は最初の夫、リー・メジャースからのものなのです。

 リー・メジャースはサイボーグになって蘇った宇宙飛行士が活躍する『600万ドルの男』の主演で有名ですが、同作からスピンオフした『バイオニックジェミー』の方が人気が出たりして、B級作品に主演する俳優という印象しかなかったですけどね。

 ファラ・フォーセットは『チャーリーズ・エンジェルス』でダントツ人気でしたが、主演映画となると、パッと思い浮かびません。『スペースサタン』とか・・・?

 いずれにしても、マイケルもファラも、死ぬには早過ぎる。御冥福を祈るばかりです。


 追悼ということでは、もう一つ。S道流空手道のZ・N先生もお亡くなりになられたと聞きました。もう、九十代半ばだったそうで、空手家という枠組みを超えて活動していくことを選んだ宇城憲治氏の将来を心配しておられたという話も耳にしていましたが、沖縄武士らしい慎ましい静かな最期を迎えられたことと推察します。

 心より御冥福をお祈りします。

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著者プロフィール

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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