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DVD第三弾波乱の撮影?

 自民党が歴史的大敗を喫した総選挙の日・台風が近づいている日・24時間TVでイモトが走っている日・・・そんな日に、クエストさんのDVD第三弾の撮影がありました。

 無事、終わった・・・と言いたいところなんですが、いやはや、今回は波乱でした。

『ぴあ』の運勢欄を見て、“最悪の日”となっていて、「気を引き締めていかないといけないぞ」と、朝からトイレ掃除をして臨んだ撮影でしたが、頼みの綱の剣術師範代が仕事でどうしても抜けられず、必然的に剣術関係の撮影は大幅に省かざるを得ません。

 のっけから「ヤバイよ・ヤバイよぉ~」と出川状態?

 何か、ヤな予感・・・?

 撮影会場についてからは、少し落ち着いたものの、ここが私の悪い性格で、ついつい撮影前に、はしゃいじゃって予行練習みたいなことやったら、左足の親指を痛めてしまい、“あ~、痛いな~”と思っていたら、何か、段々、ズキズキしてきました。

 大したことなかろうと思って、カンフーシューズ履いていたから確認せずにいたんですが、何か、歩くとジンジンするくらいに腫れてる感覚が出てきてしまいました。

 下手に運勢欄見たのがいかんかったかな~? 気にすると悪循環になるもので、平気な顔していても、足を引きずらないと歩けないくらいになってきました。

 内心、「ヤッベ~よ。今日は俺の得意な蛟龍歩マックスバージョンやって見せるつもりだったのに、これじゃあ、歩法どころか体捌きするのも難儀だべ?」と、モチベーションはダダ下がり状態・・・。

 それでも、「今日は調子が悪い。帰るっ!」っとは言えませんからね~。

 頑張って、それなりにやりましたよ。特に、歩法で左右に撹乱しながら間合を詰めるところとか、自分的にはメッチャ頑張りましたよ。

 でも、やっぱり、お見せするつもりだったスピードの半分くらいかな~? 痛めたのが親指だったのがいけなかった・・・。

 私の歩法はスリ足で動くのが特徴なんですが、親指の付け根の拇指球のところが要になるので、別の指だったらまだしも、親指が痛いと、どうしてもうまくスピードが乗りません。面目ないっス・・・。

 しかし、自分のことはともかく、この日、協力してくれたK師範代はじめ会員の皆は予想以上の出来で、アレッ、こんなにできたっけ?って思いました。

 特にK師範代の太極拳は私よりうまいくらいでした。

 技の応用もスムーズだし、喋りも落ち着いて解説していて見事なものでした。

 いや、正直言うと、もし下手だったら、私がやり直そうと思っていたんですが、冗談ではなく私よりうまく演武も決まっていました。

 主に受け役を務めてくれたY指導員も、勉強熱心な性格と、これまで学んできた流儀のエッセンスが融合してきたような一皮むけた動きを見せてくれました。

 有り体に言って、彼は器用にこなすタイプではありません。いくつかの流儀を経験してきても「素晴らしい技を教わってきたのに自分にはモノにできませんでした」と、指導を受けたかつての先生方に対する敬意をもって、決して悪口は口にしません。

 そういう謙虚な性格だからいいんです。世話になった人に感謝する気持ちと、自分の欠点をどう直していけばいいのか?と、考えて練習する。

 多少の時間がかかっても、こういうタイプの方が長く続けられるし、試行錯誤する分、人に指導するにも向いていると思います。

「名人は必ずしも名師ならず」という言葉があるように、天才型の人は苦労しないで何でもできてしまうため、普通の人を育てていくのは往々にして下手です。

 だから、私は才能に秀でた人は指導者には向いていないと思いますね。痛みを知り苦労して向上していく過程を楽しめる人でないとダメだと思います。

 自分の経験上からも、「何で、こんなに俺は苦労しなきゃならないんだ」とめげるようなことが起こった時に、諦めないで頑張っていると、今度はポーンと降って湧くみたいにラッキーなことが起こるんですよね。本当にそうなんですよ。

 だから、「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉は本当に物凄く深い人生の法則を教えているんだと思いますよ。

 現在のうちの会にいる人間は、皆、不器用だけれども自分に足りない点を考えてコツコツと真面目に練習する人ばかりです。

 苦労しないでオイシイ思いだけしようと考えてると、知らないうちにダメになっていくばっかりですよね。あるいは、ある日、突然、ドーンと奈落に堕とされるかもしれない。

 政治家や芸能人、実業家の人生にはそういうのが多いでしょ?


 久しぶりに来てくれたビジュアル系アニソンバンドやっているTさんも、滅多に来れないけれども腕前は落ちていませんでした。多分、日常的に少しずつでも工夫して練習しているんだろうと思います。

 それと、入会してまだ一年にもなっていないOさんには、いろいろと活躍してもらいました。DVD見た人が「この人、一体、何者?」と思うことでしょう・・・。


 遊心流も早いもので、10年続きました。その節目の年の節目の月に製作していただくDVDに参加してくれた会員の、予想以上の上達ぶりには、何かジーンとくるものがありましたね。

 離れていった人達も、彼らなりに頑張って、いつか私をオオッ!と驚かすように活躍して見せてもらいたいと思いますね。当時のことを思い出すと、「このバカヤロウめ!」って気持ちもあるんですけど、そのまま沈んで寂しい生き方をしていたら、何かこっちも悲しくなってしまいますからね。


 今回のDVD撮影で、師範代らの姿を見ていて、教えてくださった先生方のイメージが被さって見えたような気もしましたよ。やっぱり続けていくことが最大の力になるんだと思います。

 無論、まだまだ、この程度に満足している訳にはいかないと思っていますが、パクりパクられ(何か、最近、うちの技パクってる?みたいな人もいるような?)、オリジナリティー0の遊心流(何故、自慢げに書く?)ではありますが、“超雑種武術”としてのある種のオリジナリティーは逆に出てきたかな~?という気もしています。

 ですが、やっぱり原点に敬意を払うことが大切だと思いまして、今回は、敢えて「これは太気拳から採った」とか、「これは新体道の基本の型の・・・」と、わざわざお断りしておいて、やる!という確信犯的な解説演武をやったりしています。

 何でか?というと、いろんな流派の良い点や、もっと、こうすれば更に良くなる・・・といったところを研究家としてきちんと指摘していきたいと思ったからなんですよ。

 本音は、「流派なんかどうだっていいんだよ! 学ぶ人間の問題なんだよ! 俺は教えを受けた先生方に本当に感謝してるんだ」って、何回でも言いたいんですよ。

 だから、教えを受けた方から「長野は俺の技をパクッてる」とお叱りを受けたら、「ハイ、パクらせていただきました! ありがとうございますっ!」と言いますよ。隠したことないっスよ?

 私の立場は、「“武術という文化を世の中に役立つように社会的位置付けすること”を目標にした研究活動をする者」としての“武術研究家”なんですね。

 そして、“この仕事ができるのは俺だけだ”って自負心もあるんですよ。伊達や酔狂、あるいは逃げで言っているんじゃありません。

 大体、武術・武道の世界が、そんな口先だけで続けられるような甘い業界だなんて一度も思ったことすらないですよ。

 口先ばかりの人間をメディアが持て囃しているのも表層的なレベルのことに過ぎないし、実際は今でもメンツを立てて筋を通さなきゃ、やっていけない義理人情の任侠体質の業界ですよ。

 以前、松田先生から「長野君は任侠道の精神があるな~」と誉めていただいたことがあって、その時はピンとこなかったんですが、その後、なるほど、武術の世界はヤクザの世界と体質的には同じだな~と思いました。

 つまり、それを知っているかどうかで問題処理能力に差が出るんですね。武術の世界は民主主義じゃないんですよ。一つの組織は“親分”次第で決まるんです。


 私は親分気質じゃないので、研究家でないとやっていけない。よって、その立場をもう一度、明確に表明しておきたいと思って、今回のDVD撮影に臨んでいます。



 さて、撮影後は余った時間を定期稽古会にあてて、広い体育館で遊んで帰りましたが、台風の影響か? えらく雨が強くなっていて、ファミレスで2時間以上粘ってから帰りました。

 しっかしまあ~、町田に到着したくらいになると、もう足を引きずって歩くような塩梅で、歩く度にジンジン響いて嫌な感触・・・。

 やっと帰宅して、恐る恐る靴下を脱いでみると、左足親指が紫色に変色して腫れ上がっています。爪は割れてなかったけれど、血が溜まってジンジン疼く感じ。こりゃ、思ってた以上にひどいぞ~。
20090831.jpg


 いや~、これでよく、あれだけ動けたな~?と、私は自分に感心しちゃいましたよ。

 途中で薬買えば良かったんですが、とりあえずシャワー浴びて汗を流すのと同時に水で冷やしたら気持ちいい・・・でも、ずっと冷やしてもいられないので、早々に寝ることにして足の位置を高くして寝っ転がりましたが、これまた脈が判るくらいズキズキして血がプシューッと出るかと思いましたね。

 こりゃ、完治するのに日がかかりそうです・・・トホホ・・・。


 DVDの撮影は、相模原本部道場でも、あと少しやる予定です。居合術や槍術、武器と素手の技の連環法などを説明演武しようと思っておりますが、2006、2008と連続して撮っていただいたクエストさんには感謝の気持ちだけですよ。

 三部作のラストですから、ちゃんと怪我も治して残った撮影に臨みたいと思っております。


追伸;さて、相模原本部道場、いよいよ始動日が迫ってきました。現在、二カ月の入会金免除セール期間中ですので、ご関心のある方は、是非、いらしてください。遊心流のモットーは、「稽古は楽しくリラックスして安全に・・・、でも、実戦は捨て身の覚悟で」です。ちなみに、9/3は本部道場発足記念ですから、メイプルホールの二階にあるビアガーデンで軽くビールで一杯、打ち上げもやろうと思っております。


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自民党堕つ! 永き歴史が変わる刻・・・

 人間は、変わることに対する不安や恐怖を抱える生き物なんだと思います。

 絶望的な状況にいる人でも、いざ、その状況から抜け出していくのは物凄く精神的なエネルギーが必要なので、二の足を踏んでズルズルと救いのない状況に居座り続けてしまうもんなのです。

 昔、不登校だった人が大検を受けて高卒資格を取り、受験して大学生になり、彼女までできて・・・という時に、「君はなんで不登校していたの?」と聞いてみたら、う~んと首を捻って、「う~ん・・・何で不登校していたのか“わからない”」と答えました。

 多分、本心です。本当に理由らしい理由なんかないんですよ。

 彼は拒食症に陥り、ひどい時は30kg台にまで痩せ衰えて、寒い時期にはストーブの前にうずくまってウサギが震えるみたいにブルブルとしていました。

 でも、心の病が不登校の理由なのか?といったら、これも違うと思うんですよ。

「心が風邪をひく」という言い方があります。結果的に見れば、そういうことだったんだな~と思います。

「不登校の子供たちはナイーブな性格だ」・・・と決めつけてる専門家もいますが、私が見る限りはそうでない場合も多かったですね。

「協調性がないからだ」・・・というのも間違い。むしろ、過剰に協調しようとし過ぎてしまう子もいます。

 要するに類型的にワンパックにして、不登校種族みたいな“属性”を当てはめて論じたりしたいだけでしょうね。

 そもそも、「登校拒否は心の病なんだ。学校に行きたくても行けないんだから不登校と言うべきなんだ」と主張する専門家間の見解によって、登校拒否という言葉は「差別を助長する恐れがある」と、“不登校”と言い換えるように推進されたという経緯があったのです。

 私は、「そんなもん、どうだっていいじゃん?」としか思わないんですが、登校拒否と書いていると“無駄に誠実な人達”から「差別的ニュアンスの言葉を使うのはいかがなものでしょうか?」という“誠意溢れる圧力”がかかってしまうので、メンドー臭いから不登校と書いているだけです。

「大体やね~、“学校に行きたくても行けないから不登校”なんて、お前ら、本気でそんなこと考えてるの?」って言いたい。

 私は学校はあんまり好きじゃなかったな~。不登校生に聞いてみても、私が質問した全員が「別に行きたくないけど」って言ってたな~。だから、単に勉強嫌いで家でゲームやってる方が好きだっただけかもしれないよ。

 恐らく、学校の意味というのは、不特定多数のいろんなタイプの同世代の人間が集まって社会的なルールを守ることを覚えることに最大の意味があるんじゃないでしょうか。

 単に合理的に勉強させることだけが目的だったら、学習塾でも自宅でパソコンで学習するだけでも全然かまわない筈ですからね。

 それに、差別用語っていう意味なら、“義務教育”って言葉の方が差別的です。「教育を受けさせる義務がある」っていうのが、そもそもおかしい。

 私は学問は必要だと思いますが、それは義務として与えるんじゃなくて、“学ぶ楽しさ”を知らせることに意義があると思うんですね。

 義務として学問を・・・ってのはおかしいでしょう? だから、義務というのは社会のルールを教えることの方に力点が置かれているんだと思います。

 けれども、その点を弁えていれば、基礎的な学問は、社会で生きていくための最小限度のスキルを体得するためのものとして、家庭教育であったり自分で学んでいくものであったり、学校という形態にこだわらずに色々なケースを選べた方がいいと思うんですよ。

 コミュニケーションを学ぶ意味でなら、いろんなサークル活動によっても学べるでしょう?

 生涯教育という言葉があるけれど、それは純粋に楽しみとして自分で選ぶものであり、それは“義務”じゃなくて“権利”ですよね? 主体が自分にあって、“制度”ではないんです。

 学問をする楽しみというのは、自分が変わっていく楽しみなんですよ。

 私は武術を文化的な学問だと認識してやってきていますから、それを学び追究することで「変わっていっている」という実感がなかったら、つまらなくなって止めてますよ。

 普通の武道や格闘技だと、40過ぎてからは衰えとの戦いになってしまうでしょう?

 だから、やる気がしなかったですね。

「同じことを毎日繰り返すのが武道である」という考え方は、信仰心であって、稽古するのは自分が日々変わっていく過程を楽しむものである筈だと私は考えます。

 だから、“武術修行は日々の自己変革”だと私は理解しています。

 よって、義務的に練習こなしているだけなら自己満足でパチンコやるのと変わらないですよ。いや、景品もらえるからパチンコの方がいいかも?

 その気がなくても変わる稽古であれば、その気があったら、もっと変わる筈じゃないのか?と思って、私は日々変革する武術を追究してきた訳です。

 そして、変わっていくべき稽古法と、変えてはいけない稽古法があるという結論に至りましたよ。

 しかし、それはまた別の機会に・・・。


 どうも、原理原則として、変わることを本気で求める人は少ないものだと思う。

 居心地が悪くても、人は自分の慣れている環境や状況に適応したままでいたがる習性がありますね。よっぽど追い詰められないと、変化は求めないもんですよ。

 だから、民主党に人気が集まっているのは、それだけ自公政権が切羽詰まってしまっていることを反映していた筈ですよ。

 小泉さんにみんなが期待したのも、あの型破りなキャラクターに変革のカリスマ性を感じたからでしょう?

 誰もが彼を革命家だと見ていた訳でしょう。

 確かに違った意味での革命家ではあったかもしれません。“壊し屋”としての・・・。

 そして、期待を裏切られたと感じた国民は、さらなる変革を求めて民主党を選んだ。

 無論、民主党のマニフェストに対して財源が具体的でなく、抽象的な“無駄を省く”という論理ならぬ感覚的な“見込み案”を危惧する人も多いようです。

 でも、私は、民主党政権になってうまく行かずに紛糾することも含めて、今は変革すべき時期だったんだと思います。

 どうしてか?というと、自分たちの生活圏内が安定しさえすればいいと思っている日本人が、ようやく危機感を持って変革を求めたからです。

 熱狂するエネルギーがまだあるという点にこそ意味があるんです。それが無くなってしまったら、もうダメだもん・・・。

 要するに、今回の選挙は“ええじゃないか”ですよ。「一期は夢よ、ただ狂え!」で、お祭り状態になっても、それでいいと思う。

 今は失敗することを恐れずに変革すべき時期であり、国民がそれを選んで一歩踏み出した意味は凄く大きいことですよ。

 誰もが心の底では「民主党でも何でもいいから、この状況を変えてくれ」という気持ちでしょう。民主党のマニフェストに期待しているんじゃない。変えようとする意欲を示している点に期待しているんですよ。

 それにしても・・・何とドラマックな選挙だったことでしょうか?

 おごれる自民党がガラガラと軋み音をたてながら崩壊していく様子は、黒沢映画を観るように、むしろ劇的な爽快感さえ感じさせました。

 私は薬害肝炎問題で戦った福田衣里子さんが久間さんに勝ったことに国民感情が象徴されていたように思います。

 外交だ何だと天下国家を論じる政府より、虐げられた民衆の視点、生活者の観点を持つ政治であって欲しいという切実な声が、福田さんの「弱い者にも生活があるんだ。弱い者を切り捨てていく政治ではいけないんだ」という主張に共感し同調していったんだと思います。

 そして、もう一つ、公明党の現役党首が敗れたというのも象徴的です。

 今や、公明党が創価学会を母体とする宗教的理念を根底に持つ政党である事実を知らない人はほとんどいないでしょう。

 奇しくも、カルト宗教結社が世界を支配するという荒唐無稽な原作を映画化した『20世紀少年』が公開され、その内容に創価学会を暗示するようなテーマが囁かれています。

 あるいは、そこにも国民の拒否反応が出たのではないか?という気もするのです。

 創価学会が良いとか悪いとか言いたいのではありません。宗教思想に発する観念は政治とは区別されなければならないとする政教分離の理念に反するところに、拒否感が出たのでしょう。

 それは、公明党に追いつき追い越せと政治の世界にうって出た幸福実現党が、大々的なメディアを利用したキャンペーンを繰り広げたにもかかわらず、誰もが無視して取り合わなかった点にも自明でしょう。

 宗教は政治にタッチすべきじゃないんです。

 幸福実現党の過剰なまでの国防論には、終末思想テロに突き進んでいくきっかけになった、オウムの政治進出と大敗退を連想してしまわない訳にはいかないんですね。

 どうか、宗教とはどうあるべきものなのか?という点を考えて冷静に立つ位置を構えて欲しいですね。

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日子流小太刀DVD発売中!

 田中光四郎先生の日子流DVDがいよいよ発売されました!

 技もともかく、私は光四郎先生のインタビューの部分が本当に素晴らしくて感銘を受けました。

「武道と言うからには刀を振れ。そうすれば武術の理合がわかります。武術の理合をわからない人間が武道を語ることはできません・・・」といったことを言われている光四郎先生の言葉には大きくうなずかされました。

 ただ身体を動かしていても武術や武道はわからない。

 なぜなら、武術とか武道とかは“戦いに備える心”に本質があるからだ・・・と、光四郎先生は単純明快に説かれています。

 まったく、その通りだと思います。私みたいな研究家がほざいてもリアリティーが感じられないでしょうが、戦場で戦った光四郎先生の言葉なら、無視できない人も多いでしょう。

 まして、光四郎先生は、御自身が話した内容について、「・・・と、僕は思います」という具合にまったく押し付けがましさがありません。極めて謙虚に、しかし、自身の考えは決然としてブレない。

 このDVDは、ケンカの強さしか求めない武道バカ連中よりも、むしろ政治家に見せたいですね。生きざま、死にざまを恥ずかしくないように・・・という克己心を示してみせられていると思うのです。

 入門して数カ月で撮影に臨んだ、木村さん、高屋敷さんの真剣な眼差しに、死滅寸前の大和撫子の言葉がピタリとはまった気がしました。


 新体道創始者である青木宏之先生は、光四郎先生との出会いを非常に喜ばれ、日子流の技の見事さ、二人の女性門人のひたむきさを激賞されていました。

 無論、始めて日が浅い以上、未熟さは隠すことはできませんが、真摯に道を求める心映えが凛とした姿勢に現れているのです。

 むしろ、「わずかな期間でここまでできるものなのか?」と絶句させられたのが偽らざるところでした。

 武道、武術という言葉が最近、格闘技の世界でやたらに使われていますが、それを語るなら、このDVDを見て欲しい。私はそう熱望しています。

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酒井法子の子供が哀れ・・・

 子供にとって親は尊敬できて自慢できる存在であることが理想的だと私は思います。

 酒井法子が捕まってから、父親も弟も暴力団で・・・といった話ばかりが週刊誌で書かれていたり、嘘つきでヤク中のアバズレというイメージを広めているのは、予想はしていましたが、何てマスコミって日和見なんでしょうかね?

 私は臍曲がりだから、大勢が評することとは逆に考えたくなってしまいます。

 まず、酒井法子がファンを裏切ったと騒いでいますが、本当にファンだったら彼女のダメな部分をも愛するのが本筋じゃないんですかね。

 人間は善の部分も悪の部分もあるでしょう? 清純派でダメ夫を支えた可哀想なのりピーという報道から一転、散々なバッシングをするマスコミには疑問を感じます。

 少なくとも、酒井法子が覚醒剤をやっているらしいという噂くらいは知っていた筈だからです。

 酒井法子のダンナが覚醒剤所持で捕まったのだって、警察が内偵していたのは察しがついた筈で、たまたまとは考えにくいでしょう。

 マトリ(麻薬取り締まり)が内偵していたのは芸能界の麻薬汚染であって、だから、草なぎ君の泥酔騒ぎの時も彼の家まで捜索された訳で、あそこまでの騒ぎになったのは草なぎ君もクスリをやっているんじゃないか?と疑われたからでしょう。

 そのくらい芸能界の麻薬人脈の情報は知れ渡っているはずです。

 それを今更、「初めて知って驚いた」みたいな顔で書いてる連中こそ、信用ならない。

 私が一連の報道で悲しくなるのは、酒井法子の子供さんですよ。

 今は夏休みだからいいでしょうが、新学期になって普通に学校に通えますか? 彼は「俺のカアチャンは酒井法子なんだぜ」という誇らしい気持ちがあったと思うんですよ。

 周囲からも、「お前のカアチャンは有名な芸能人で羨ましいな~」みたいな感じがあったんじゃないでしょうか?

 でも、これからは「あいつの親は両方ともヤク中なんだぜ」と、後ろ指さされて生きていかなくちゃならないんです。

 もちろん、これは酒井法子と阿呆なダンナの責任以外の何でもありません。が、息子には責任ないじゃないですか?

 マスコミは報道するにしてもやり方があると思うんですよ。

 あの藤沢文学の最高傑作と言われる『蝉しぐれ』では、切腹させられた義父の遺体を荷車で運ぶ主人公が悪友たちから罵声を浴びせられるシーンがありましたが、義父と最後に面会した時、主人公に対して義父は「私のことを恥と思ってはならん」と言います。

 それは、自分が切腹させられた後に降りかかるであろう周囲の心ない対応を見越して、「誇りを持って強く生きてくれ」という最後にできる最大の心の力を伝えたかった訳でしょう。

 事実、主人公は義父の誇り高く死に臨んだ態度を心に刻んで周囲のイジメを跳ね返して生き、剣術にも励んで師から秘剣“村雨”を伝授されるまでになり、最終的には藩の命運を左右する暗闘から幼なじみで藩主の側室になった女性と赤ん坊を救います。


 幼い子供に親を反面教師として見ろというのは酷です。

 マスコミの報道の仕方にはいつも疑問ばかり感じてしまいます・・・。

 しかし、そういうものなのを認識した上で、人に見られる商売の人達は自分の身を慎んでいかなきゃならんのでしょうね。

 あっ? そうでない人でも、同じか・・・。

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相模原本部道場ついに始動!

 いや~、長いことお待たせ致しました。

 毎日という訳にはいきませんでしたが、相模原本部の道場が、ようやく決まりました。

 隔週の木曜日、夕方7:00~9:00に、相模原市のほぼ中央に位置する千代田のメイプルホールの多目的スタジオをお借りして、居合術・剣術・棒術・槍術といった得物を用いた稽古と、従来からの基礎錬体と対錬稽古、太極拳を中心にした総合型護身体術の稽古を2時間、みっちりとやっていきたいと思っております。

 月曜日(8/24)の昼に個人稽古に一時間借りて、杖術・居合術・基礎錬体・太極拳・八卦掌(走圏)・形意拳(劈拳と崩拳の単式練習)・八極拳(八極小架の前段)・劈掛掌(劈掌と挑掌)等を自由に組み合わせて練習してみました。

 このスタジオは、音楽の発表会にも使える広々としたところで、一面は鏡張りですし、床の面積も江古田ストアハウスの稽古場より若干広いくらいです。

 しかし、何といっても天井が高いのが助かります。地下になるんですが、ビルの中庭からのぞけるように広い窓ガラスがあって、非常にシャレた感じのところです。

 天井までは5.5mもあるというのですから、大太刀や十文字鎌槍も楽に振れます。

 正直、貸家を借りて練習しようと思っていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらい稽古向きの場所なんですよ。おまけに賃貸料金もそんなに高くないし、隔週だから月に2~3回やれるだけでも十分に内容の濃い練習ができるでしょう。

 もう長く空手道場としても使われているそうなので、借りやすかったですね。

 バレエ用のバーもついているので蹴りのストレッチなんかにも好都合ですし、この広々とした開放感は、一人で独占するのはもったいない感じがしましたね。

 いや、本当に、こんな素晴らしい場所が市内にあったなんて、正に灯台下暗しでした。

 体育館とかも確かにいいんですが、他の団体と場所取り合戦みたいになるのは嫌なんで、もう体育館を借りてやる気はしません。

 かと言っても、大抵の貸しスペースは狭くて高いのが当たり前。都心近郊の立地条件を考えれば、それも仕方がないよな~と思っていたんですが、まさか、こんな場所が地元にあったなんて・・・。

 相模原駅からは少々離れていてバスで行った方が楽なんですが、歩いても25分で行けたので、秋や春は散歩感覚で気持ちがいいでしょうね。

 特に春は並木道が桜満開になるから綺麗なんですよね~、この通りは・・・。

 何しろ、うちの会員さんには毎朝8kmも走ってるという豪傑(50代!)もいますから、若い人達が「駅から遠いよ~」とブーブー言ってたら、キョクシン拳をくらわされちゃいますよ~。(歩いて25分だから走れば10分で到着するよ!)

 私はこのくらいの距離は大抵、歩いて行くんですが、自転車買ってこいでいくのもいいかも知れませんね。流石に夏は汗びっしょりになってしまうので・・・。

 でも、駐車場も駐輪場もあるので、相模原市・町田市・八王子市・座間市あたりの方で車やバイクのある方はそれで来てもらってもいいでしょう。

 できれば毎週借りられたら良かったんですけど、むしろ、隔週くらいが丁度いいかもしれません。武器術に集中できるし・・・。

 最初は日曜日の午前中も検討してもらったんですが、土日はライブなどのイベント向けに利用されるそうなのです。平日の夕方もほぼ埋まっていたので無理かな~?と思っていたんですが、「隔週でもよろしければ・・・」と連絡をいただいて、即決しました。

 昼間は結構空いているので時間割りでの個人利用が可能なのも有り難い限りです。

 つまり、個人指導や自主稽古に借りることができるからです。

 自主稽古で一時間使ってみた感想としては、独りで使うにはもったいないな~ということですかね~。贅沢過ぎるよな~と思いました。

 特に、おニューの真剣(モンモン?の入ってる古刀)をウキウキして居合抜きしていたんですが、こんな広いところで振るのは久しぶりなんで、足を止めずに動き回りながら曲抜きみたいなことやっていて、つい調子に乗って真剣だったのを忘れてしまいまして、納刀の時にチクッと左手の親指先に切っ先がわずかに刺さってしまいました。

 血は出ないかな?と思ったら、運動して血の巡りが良くなってるもんだからちょっと出てきて中々止まらない。しょうがないから居合は中断してティッシュを折り畳んでヒモみたいにして巻き付けて止血し、太極拳の練習に切り替えました。

 やっぱり油断は大敵ですな~。いや、それとも・・・この刀が血を吸いたかったのか?・・・なんて、『サンゲリア』を観たばっかりだから、ホラーなこと考えちゃったよ。

 ともかく、游心流も紆余曲折テンコ盛りでやってきて、ついに10周年! 今年中はもう無理かも?と思ったものの、この節目の年に、何とか“相模原本部道場”が開設できたのは感慨深いです。

 本当に縁だとしか言えないんですよ。たまたま地元新聞の取材で、このメイプルホールの喫茶店に来て、話のついでに見せてもらってオーナーとおしゃべりして事務局の方と名刺交換して・・・。

 でも、この時点ではまだ具体的に借りるつもりはなかったんですがね。

 師範代を連れて先週下見に来て、料金表とかいろいろ見せてもらい、師範代も「こんな立派なところだとは想像もしていませんでした」と驚くと共に気に入って・・・。

 でも、道場として人が来られる時間帯はほとんど埋まっていて、借りられるかどうかも不明だったんですがね。

 連絡がきたのは丁度7日後で、稽古会の後でファミレスで「連絡ないからダメかな~?」みたいな話をして帰宅してしばらくしてから・・・。

 とにかく、隔週でも活動できれば、ここなら立派な本部道場として自信をもってアピールできますからね。

 初めて流派を名乗ったのが1999年秋(多分、9月だった)。当時の会員はほとんど来ていないけれど、去る者追わず、来る者選んで(普通は選ばない?)早くも10年・・・月日の経過は早いもんだな~?

・・・ってか、よく続けられたもんだよな~?って、我ながら感心しちゃいますよ。

 何年も前から、私は完璧に運命論者の考え方になってしまいまして、「この世に偶然はない。すべてが縁によって繋がっておるのじゃあ~」みたいな実感があったんですけど、今回もまさにそんな感じでしたね。

 なので、事務局で契約する時に、「いつからにしますか?」と聞かれて、「早速、9月から!」と、善は急げで決めちゃいましたよ。

 何しろ、丁度、10年目ですから、区切りの良い時期が良いと思ったんですね。

 そんな訳で、遊心流相模原本部道場は、2009年9月3日、木曜日の夕方7:00から始まります。

 9月は3日と17日の二回ですが、やっぱり人数それなりに集めたいのと、不況でもあることですから、遊心流活動10周年記念で二カ月限定の入会金免除とします!(太っ腹だな~、オレ)

 あっ、それから月謝などはありません。参加した回に2000円ずつ頂いておりますので、よろしくお願いしまっす(賃貸料がかかるんで、お願いしま~す)。


※事務担当からの情報※
一番上の『事務担当からのご連絡』に詳細が記されてますので、ご確認ください。
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つばさ基地アクションパーティナイト3開催!

 つばさ基地の恒例になっているアクションパーティナイトの第三弾が9/5(土)に渋谷のclub asia(渋谷区円山町1-8 渋谷駅から徒歩8分)にて開催されるそうです。

 結局、私、第一回から見ておりまして、第二回は恥ずかしながら審査員も勤めさせていただきました。

 あ~、もう一年たったんだな~。早いな~。ほんの3~4カ月前だったような気がしますよ。シャリバン(渡洋史さん)とコブラ(野沢那智さん)に会ったのは・・・。

 まあ、今年は、観客に徹して拝見させていただこうと思っております。

 本当にいろいろなパフォーマンス(殺陣・ダンス・アクロバットなど)がガバチョッと見れるので、こんな凄いイベントは他にはないと思います。

 関心のある方は足を運んでみられると良いと思いますよ。


 9月は高瀬道場の恒例の技芸会もあります。こちらも楽しみです。


 やっぱり、思うんですけど、武術ってリアルに追究すると心がダークネスになるばっかりで、精神衛生に悪いような気がするんですよね。

 人様に見ていただいて感動してもらえるような、技や型の美しさを表現手段として追究するのも、それはそれで良いかもしれないな~と思いますね。

 まあ、そういう意味での私共遊心流はまだまだヨチヨチ歩きのレベルでしかない。到底、人様の前で演武できるような水準じゃありません。

 だから、本当はあと二年くらいはクエストさんでのDVDは作りたくなかったんですけどね~。もっと会員がレベルアップしてから撮って欲しかった。今の段階ではまた私がほとんど実演解説しなきゃならない。もう隠居してる予定だったんですけどね。

 でも、声かけてもらえるのは有り難いことですから、8/30には頑張って撮影してもらいま~す(あっ、不在者投票しなくっちゃ~。やっぱ民主にするか? 変革して欲しいしね)。

 ヒマのある会員さんはできるだけ参加してくださいね・・・。


追伸;新型インフルエンザが静かに進攻してますね。真夏に広がるなんて前代未聞ですけど、注意しましょう。

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トレーニングについて思うこと・・・

 真剣を一振り譲って欲しいと言っていた武友から「金の余裕がなくなったのでキャンセルしたい」との電話がありました。

 何と、急性心不全で死にかかってしまったというのです。

 要は、入院費用などで金がかかるから余裕がなくなったということなんですが、それどころの話じゃありませんからね。

 それよりも彼にとって一番のショックだったろうな~と思うのは、医者から「あと一時間遅かったら助からなかった。もう一生、激しい運動とかはやってはいけない」と言われたということです。

 若い頃からハードなトレーニングを続けて丈夫な身体なのが自慢だった彼も、何年か前から病気がちになり、克服しても新たな病気が出て、今度はついに運動禁止令が出てしまったという訳で、懸命に続けてきた武道ができなくなることの方がショックでしょう。

 しかし、気の毒ですが、私は以前からそうなっても仕方がないだろうな~と思っていました。

 武道家や格闘家には短命な人が結構います。それも特別ハードな練習を続けてきた人ほど、そうなってしまいます。

 強くなろう、強くなりたい・・・と、そればかり念じて懸命にハードな練習に耐えてきた人は、逆説的に身体の奥底にまでダメージを蓄積させてしまっている場合がある。

 若いうちは耐えられても、中年過ぎてからは若い頃に受けたダメージなどが知らない間に肉体を侵食していっているようです。

 意外にも健康法を創始した人なども短命な例が多いのです。

 元々が身体的に虚弱だった人が肉体改造を思い立って研究し、それが健康法の専門家になった・・・という例が多いので、元来、無理が利かない体質であったりするのです。

 超人的に見える鋼の肉体を持っているか・・・と思えた、ブルース・リーやアンディ・フグがあっけなく死んでしまった時、“健康体”という概念のあやふやさを痛感させられたものでした。

 武道や格闘技、あるいはプロスポーツの世界でも猛練習は必須であって、練習を怠ける者は存在意義がないみたいに罪悪視する人がほとんどで、それは疑義を差し挟む余地のない唯一絶対の真理そのものという、信仰心にまで高まった強固な価値観なのです。

 私が尊敬する先生方。青木宏之先生、田中光四郎先生・・・といった先生方は世間的には老人扱いされる年齢になっているのに尋常ではない猛烈なトレーニングを続けられています。

 それがやれるという事実が驚異的ですが、しかし、やはり身体は壊されています。

 以前、付き合いのあったプロ格闘家の人達も、まだ30そこそこの年齢でしたが身体は壊れかかっていました。

 俺はいつ死んでも本望だ・・・という達観をしている人なら、それでも構わないでしょう。が、健康になろうと考えているのなら、猛練習は考えるべきです。

 私も一時期は、かなり限界に近いと思えるくらい猛練習をやっていた時期もありましたが、結局、今はほとんどやらなくなりました。

 ほどほどのトレーニングでないと、無理して鍛えても身体が強くなったりはしないのだと思うようになったからです。

 十数年、いろいろな流儀の人達に武術の指導をしてきましたが、長年頑張っている人が必ずしも身体的に優れているとは言えないことにも気づきました。

 肉体の条件に頼らない技を工夫するようになったのも、私が30過ぎてから武術の可能性に開眼したからです。それは肉体の力に頼るのが武術ではないと確信したからです。

 むしろ、「これまで金科玉条のように言われてきていたことは、実は根拠がないのではないか?」と考えたからです。

 事実、重心移動によって発生する威力を用いるようになってからは、「筋肉を鍛えることには意味がない」と考えるようになりました。

 となると、「ハード・トレーニングは意味がない」という結論になります。

 トレーニングというと、“筋肉を鍛えて太くする”ということばかり求めてしまいますし、「基本はランニングだ。走って心肺機能を高めるんだ」という考え方も、中年以降の人間には問題があります。

 どうも、何か肉体に付け足すことばかり求め過ぎているのではないでしょうか?

 私は、逆に、余計なものをそぎ落としていった方が、人間本来のもっとも自然な能力が発揮できていいのではないか?と考えるようになりました。

 恐らく、私は武術の指導者としては日本一練習しない人間だと思います。それは、徹底して無理をしないように心掛けているからです。

 実際、丸っきり練習らしい練習はしていないのに、指導している時はどんどん技が勝手に出てくるのですが、それは日常生活の中で自然に武術的な動きを追究する癖ができているからだと考えています。

 セミナー参加者から、「遊心流には一体、どれだけの技があるんですか?」と聞かれることが多いんですが、あんまり色んなことをやるので呆れられるみたいです。

 が、基本の技はそんなにないんですね。セミナーでは応用変化させて使っているだけです。

 それでも、組み合わせていくと膨大になる訳ですが、それは私自身、一つずつ覚えている訳ではないのです。相手の技や体格、技能や反応の仕方に応じてアドリブで変化させているだけ。だから、二度、同じ技はできなかったりするのです。

 それではセミナーで困るので、実は、なるべくシンプルになるように注意してやっているのです。

 ですが、普通の武道では一つ一つ技を覚えていき、それを繰り返し練習するのが当たり前なので、大抵の人は「こんなに膨大な数の技を一体どうやって覚えたんだろう?」と面食らってしまう・・・という訳です。

 何てことはありません。“覚えてないからできる”んですよ。感覚に任せているだけ。

 無論、型や基本技が必要ないと言うつもりはありません。

 手掛かりがまったく無いと応用変化もできませんから、初心者には基本は必要です。

 しかし、手掛かりはなるべく単純な方がいいと思います。複雑で長い型より短く抽象的なくらい簡単な型の方がいいと私は思います。

 具体的な技や型は特定の用法に拘りが出てしまうからです。

 私が好きなのは、サンチンとか天真五相とか簡化24式太極拳とか形意五行拳とかですね。型というより単式練習みたいなものの方が応用を考えるといいですね。

 太気拳・意拳の立禅や試力の動きに武術的応用を考えたのも、そういう観点から読み解いた結果であって、別に誰かに習った訳ではありません。

 拳法と言っても、別に殴る蹴るしかない訳ではなく、逆技や崩し投げ技といった技が複合的に内蔵されているのであって、それを読み解いていけば技は無限大で開発できていくでしょう。

 なので、私は例えば太気拳の構えを取った時にも、打撃・逆関節・崩し・投げへと技をどんどん変化させて使ったりしていますから、もう太気拳とは似ても似つかないスタイルになっているのですが、要は、固定した技の使い方しか考えないから発展しないのだし、もっともっと技の展開を広げて考えたらいいと思うのです。

 しかし・・・というか、誰もそんなことは考えないでしょう?

 けれど、そういう応用性を考えていくことで、いろんな武道の稽古法から様々な発見があると思うんですよね。

 本当にできる人は、トレーニング法は自分で考えますよね。教えられたものを実践する中から自分なりの解釈で改良していく・・・これは自然な流れです。

 無論、勝手な解釈でダメになる場合もあるでしょうが、それでもやはり、伝えられたものを金科玉条に崇めるよりはいいと思います。伝統を大切にするのと伝統を信心して神棚に祭り上げるのは別のことなんです。

 やっぱり、発展し進化させていくのが人類の自然な営みであって、古ければ古いほど良いと考えるのは後ろ向きな考え方でしょう。

 だから、私は古武術という言葉は嫌いです! 古いから良いのではなくて、武術の本質を秘めている点に価値がある訳で、それは現代の武道にも採り入れていくべきものでしょう? 

「現代では使えません」という武術では創始者は納得するでしょうか? 創始者が工夫した当時は最新最強を目指していた筈なんです。継承者も時代の変化に対応して新しい技を付け加えていった筈です。

 が、現代ではそれをやってはいけないと決めつけてしまう・・・。創始者が見たら「嘆かわしい」と呟くに違いありません。


 ところで、昔の武術にはあんまりトレーニング法が伝わっていません。日常生活で鍛えられていたから、それ以上の特別なトレーニングとか必要なかったんじゃなかろうか?とも思えるんです。

 中国では様々なトレーニング法が伝えられていますが、これは“修行”のためにやっていたものから転用されたんじゃないか?という気もします。


 まあ、ともかく、ハード・トレーニングで逆に身体を壊すよりも、身体に負担をかけない養生的な稽古法の方が、息の長い技能向上が望めると思います。

 その代表格になるのが太極拳や居合術だと思うのです。

 福沢諭吉なんかも立身新流の居合を健康法として生涯続けていたといいます。

 無理なく自然に、日常生活に溶け込んだトレーニング法として武術に取り組むのが結果的には良いと私は思っていますし、現代に生きる人間にとって悠長にトレーニングしている余裕そのものがないでしょう。

 ならば、日常生活の中で自然に鍛えられるものが必要だと思いますし、トレーニングの質と効果について、根源から検討し直す必要があるのではないか?と私は思っています。

 パンチ力一つとっても、武道や格闘技を志す人間は、「どうやったら一撃で相手をKOできるか?」と考えるのが普通です。

 ですが、重心移動の力を用いれば、誰でも簡単に1tくらいのパワーが出せると言われています。

 よく私も、「長野さんは身体の割にパンチ重いですね~」なんて昔から言われたものですが、冗談じゃありません。発勁がきちんとできるようになってから、本気で打ったことなんか一度もないんですよ。

 確かにパンチの重さは1tくらいは簡単に出せるだろうな~と思うんですが、そんな全力パンチを打てば、下手したら自分の手首が折れるかもしれないし、密着したまま打てるんだから胸骨なんか確実に叩き折れるでしょう?

 私は「密着したらどんな体格差のある相手でも倒す自信があるよ」と、最近は豪語しているんですが、これは実感であって虚勢を張っているんじゃないんです。

 それくらい重心移動で生まれるエネルギーは圧倒的なんです。コントロールしなければ確実に殺人技になってしまうでしょうし、下手したら自分の手首を複雑骨折させかねません。

 私が掌打や肘打ちを多用するのは、別にそれが得意だからという理由ではなくて、実は、重心移動によって生じるパワーで自分の手首を壊したりしないようにエネルギーを効率よく相手に作用させる打撃法として、そうなっただけなのです。

 これは中国武術で威力が強大と言われている拳法を見ればわかるでしょう? 八極拳の李書文が掌打で相手の頭を打ち下ろしたら七孔噴血(両目・両耳・鼻孔・口の七つの穴から血が噴出するという意味)で即死したという言い伝えも、あながち嘘だとは私は思いません。

 特に肘打ちはきちんと決まれば確実に相手の内臓を破裂させてしまうでしょう。致命傷になるのがわかりきっているから恐ろしくて本気で打つなんてできません。

 そして、これは“鍛えなければ出せない威力ではない”という点に、武術としての秘伝性があった訳です。

 つまり、“誰でもやり方を覚えたらすぐに出せるパワー”なのです。だから恐ろしいんですよ。私も技の原理とそれに沿った打撃法のコツを体得した次の瞬間には威力が突如として倍増してしまったのです。はっきり言って、何のトレーニングもしていないんです。

 ただし、このパワーを獲得するのに最大の障害になるのが、“過剰な筋トレ”なんですね。ウエイトトレーニングをガシガシやっていた人ほど体内の重心移動が下手で、すぐに足や腰や腕の筋肉を力ませて全身で居着いてしまい、重心移動を自分で止めてしまうのです。

 やはり、空手を熱心にやってきた人ほど、この身体操作を体得するのが難しく、何年やってもまったくできない人もいます。が、これは仕方がありません。何年も頑張ってやってきたことのまったく逆のことをやる訳ですから、頭でわかっても身体が反射的に力んでしまうからです。

 まったく武道経験がない人や、太極拳のような脱力系の武術をやっていた人なら、教えたそばから体得できたりするんですが、いかんせん、そういう人の多くは人と戦うことに対する心の備えがなかったりするので、これまた宝の持ち腐れになったり、戦った経験がないから誇大妄想に陥ったりするのです。

 ただ、肉体の出せる力は限界があります。しかも、頑張ってもやがて失うだけです。

 そうではなくて、自然界に働いている力(重力)をコントロールして用いれば、あっさり自分自身の限界突破できるのです。

 身体を鍛えることは悪だ!とまでは言いませんが、もっと自分の身体の機能を理解して合理的に使うことを考えるべきでしょうし、固定観念を取り払っておおらかに考えることが重要だと私は主張したいものです。


追伸;8/30はクエストさんから出す第三弾のDVDの撮影を高田馬場の体育館で実施します。多分、撮影時間が余ると思いますので、そのまま定期稽古会になだれ込もうと思います。日頃、来れなかった会員さんも宜しかったらおいでください。詳細はメールで。

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上川隆也主演『その男』

 NHK教育の芸術劇場で芝居『その男』が放送されていたので見ました。

 このお芝居は劇場に行ってみたいな~と思うくらいだったんですが、最近、出不精が酷くて、見たい映画もほとんど劇場に足を運んで見ないで、CSで放送されるのを待つようになってるもんですからね~。

 何しろ、CS見るようになってから、レンタルビデオ屋通わなくなりましたからね。

 DVD借りて見ても、しばらくしたらすぐCSで放送されるから、慌てて借りる程でもないな~と思うようになりました。

 学生時代はレンタルビデオ屋の会員カード4~5枚持ってたりしてたんですけどね。

 今はいい時代ですよ。TVさえあれば、老後も寂しくないだろうな~と思ったりしてますよ。ガキの頃からTVっ子でしたけどね・・・。

 で、最近は地上波はニュース番組かワイドショーしか見ない日もありますよ。

 何でか?ってぇ~と、女子アナ・ウォッチャーだから。朝は西尾さん、昼は丸岡さん、夕方は笛吹さん、夜は市川さん、深夜はダブルA(相内&秋元)が鉄板。

 TV欄にすらタイトルが出ない月イチ早朝放送の『およよん』は、徹夜して見ますからね。

 吉田豪さんと丸岡いずみさんが、話題のニュースとかスイーツで緩いトークをするだけなのに、何か最近は私みたいなディープなウォッチャーが増えているみたいで、8月はワイド版になって海の家でロケしてたり、『およよん』のテーマソングを皆で歌うという展開になっていて、女子アナ30歳定年説を根本から無視した童顔の丸岡さん(38歳)の人気は完全に日テレ・イチオシの若手美人アナ、夏目ミクを凌いでいますね。


 まっ、それはそれとして、『その男』です。

 このお芝居は、松竹で映画化されて大映時代劇で有名な巨匠、三隅研次監督の最後の映画作品である『狼よ落日を斬れ』と同じ原作なんですよね。

 この『狼よ落日を斬れ』は、高橋英樹演じる市井の天才剣士が、幕府隠密である彼の剣の師匠(田村嵩)を斬ったのが親友の中村半次郎(緒形拳)であると明治になって侍を捨ててから知り、師匠の仇討ちに鹿児島の半次郎を尋ねていって決闘を申し込むクライマックスが良かった。

 西郷輝彦の沖田総司(天然理心流)や、近藤政臣の伊庭八郎(心形刀流)とも関わりながら、結局、主人公は師匠の命令で権力に背を向けて生きるところが良かったんです。

 この映画版とどう違うのかな~?と思いつつ見たんですが、上川隆也は木訥な主人公にピッタリで、時代劇は多くやっているから殺陣もしっかりしています。二刀流も見せてくれてテレ東の宮本武蔵を思い出しましたよ。

 沖田総司は出てきませんが、ライオン丸Gの波岡さんが伊庭八郎を演じていました。

 半次郎を演じた役者さんが凄く上手くて、ジゲン流の剣捌きも良かったしトンボを切ったり殺陣が上手かったですね。

 師匠役の平幹二郎も流石の貫禄でした。

 それにしても、このお芝居は、映画版が半次郎が西南の役で戦死したことを伝えるカワラ版を主人公が見たところで終わっているんですが、何と、昭和の2.26事件の時まで生きているという設定で、ラストは主人公が若かった頃の賑やかな町並みの幻影に包まれて終わる・・・という実に素敵な終わり方でした。

 これはNHKの大河ドラマになってもおかしくないな~と思いますし、ちょっと帝都物語みたいな印象も受けますね。

 幕末から明治、大正、昭和へと激動の時代を生き抜いた男のドラマ。これはいいと思うな~。



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特撮ヒーロー役者の人生

 何年か前、当時、役者をやっていた友達が、「特撮物とかに出たら役者人生はお仕舞いだから・・・」ということを言っていました。

 彼はオダギリジョーが芝居の勉強をしている時期の同級だったらしいのですが、オダジョーは、NHKのトーク番組に出た時に、「仮面ライダーの主役に決まった時は嫌で嫌で役者をやめようかと悩んだ」という身も蓋もないコメントを言って、司会者をドギマギさせていたので、まあ、当時の若手役者間ではそういう話をしていたんでしょうね~。

 実際に、かつて特撮ドラマに主演した役者はその後の仕事で主演とかできずに悩んでやめていってしまう人も多い様子ではあります。

 プロの間でも特撮物を“ジャリ番”と蔑むような言い方をする人もいますし、有名になってから、自分がかつて特撮物に出ていたことを隠したがる役者さんも多いみたいです。

 でも、今はもう特撮物に出演するのは若手の登竜門みたいな感じになっていますし、ほぼ一年間の厳しい現場で叩き上げて一人前の役者に育ててもらう・・・みたいな若手育成番組としての役割も果たしてきているようです。

 大体、役者というのはどんなキャラクターでも演じないといけませんから、極端に特殊な世界観のキャラクターを演じておくと、普通の役柄は相対的に苦労しないで済むんじゃないかと思いますね。

 それに、特撮物だとアクションもあればワイヤーで吊られたりイベントに行ったり普通の役だとやらないようなことも色々ありますからね。

 例えば、私は自分が役者とかやりたいと思ったりは全然しないんですけれど、「殺陣シーンの吹き替えやります?」と言われたら喜んでやりますよ。演技でしゃべったりするのは苦手だけど、殺陣だけならやりたいですもんね。

 特に時代劇の殺陣シーンを見ると、ウズウズしますね~。

 最近見たのでは、時代劇専門チャンネルで『山桜』の殺陣が非常に良かった! 東山君のストイックな雰囲気は稀に見る侍っぷりで、非常に抑えた演技で悪家老の取り巻きを柄当てと峰打ちで倒し、家老だけは刃を返して一撃で袈裟懸けに斬って捨て、その足で目付に届け出るという潔さ・・・。無駄を徹底してそぎ落とした演出が素晴らしい!


 時代劇と特撮物は共通点があると思うんですが、ファミリー劇場で特撮ヒーロー物に出演していた役者さんたちのトーク・イベントを収録した番組を放送していました。

『キカイダー』『イナズマン』『イナズマンF』『忍者キャプター』『バトルフィーバーJ』に出ていた伴大介。

『ウルトラマンレオ』『ゴレンジャー』『バトルフィーバーJ』に出ていた伊藤幸男。

『仮面ライダー・スーパー1』に主演した高杉俊介。

『魔法戦隊マジレンジャー』の別府あゆみ。

・・・の四人がトークしていたんですが、ゲストで牧れい、宮内洋、小野ひずる(VTR)といった人も出てこられて豪華な感じでした。

 まあ、宮内洋は特撮物では『仮面ライダーV3』『ゴレンジャー』『快傑ズバット』『ジャッカー電撃隊』『オーレンジャー』『ウィンスペクター』『ソルブレイン』等々、ゲスト出演を含めるとどのくらい出ているのか判らない人ですから、出てきても驚かないんですけど、牧れいと小野ひずるはビックリ!

 小野ひずるさんはもう役者はやめているらしいんですが、V3の珠じゅん子役が有名です。『ウルトラマンレオ』にもゲストで出演していました。しかも、あんまり外見が変わってないのも驚きます。

 牧れいさんは、私もブログで何度もしつこく書いているので御承知と思いますが、『スーパーロボット・レッドバロン』『緊急指令10-4-10-10』の女性隊員が有名ですが、『怪獣総進撃』のキラアク星人の一人を演じていたそうです。

 この牧さんが登場した時は伴大介がデレデレになってしまって、「実は昔、一緒に映画『マッドマックス』を観に行ったことがあって、その時に革ジャンに革のパンツを着て来たのがカッコ良かったな~」とか驚きの打ち明け話をするのでした。

 しかも、伴大介は懸命に牧れいさんに連絡先を聞いたりしていて、牧さんが「私、人妻ですけど・・・」と困惑発言があったりして面白かったですね~。

 このトーク番組は、私のようなマニアにとったら夢のような番組ですが、中でも驚かされたのは、スーパー1に主演した高杉俊介の超真剣な変身ポーズと熱唱!でした。

 もう、藤岡弘、を超えるくらいの凄い真剣な顔でやるので、伴さん、伊藤さん、別府さんが照れ臭そうにやっているのと比べて“浮く”というよりも、唖然となるくらい。

 しかも、この人、演じていた当時とほとんど外見が変わらないんですよ。もう30年くらい経過している筈なんですけどね~。赤心少林拳修行した成果なのかな~?(ちなみに赤心少林拳は故・龍明広老師が伝えた門派で、心道の河野智聖氏が一度、『秘伝』だったか?で紹介していました。龍老師は日本人だという話ですけどね)

追伸;山城新伍さんが亡くなられました。70歳というのは今では若い気がします。糖尿病だったそうですが、山城さんが親分と慕っていた若山富三郎先生と同じ病気ですね。山城さんはバラエティー番組で三枚目のイメージがありましたけど、若い頃は『白馬童子』でバリバリの二枚目剣劇役者だったし、晩年は渋い役柄や映画監督にも挑戦されていて才能豊かな人というイメージがあります。御冥福を祈ります。

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お盆ですね~

 たまの盆にはお墓参りでも・・・と思いつつ、不況金欠で田舎には帰れない。それで、従兄弟に頼んで叔父の墓参りに行きました。

 叔父は相模原市田名地区では、ちょっとした有名人でしたが、10年くらい前に風邪をこじらせて急逝してしまっていました。

 親戚中ではほとんど唯一、私の活動を味方して応援してくれていたんですが、周囲に変わり者扱いされている私を自分に似ていると思って特に世話を焼いてくれていたのかも知れません。

 墓参りには生前の叔父の活動をサポートしてくれていたAさんも来てくださいましたが、Aさんは、先日、地元紙の取材をしてくれた記者の方で、昨年だったかに従兄弟の写真展で出会って、亡くなった叔父に私が雰囲気とかそっくりだと言われて面白がられていたんですね。

 なので、取材を受けていろいろ話していて、余計に面白がっていただいたみたいですけど、主婦として子育ても一段落したので地元紙の記者を始めたらしく、やっぱり、人間は社会的な活動をしているのが家にこもって趣味に惚けているより楽しいですよね。

 もっとも、私自身は常に人と関わっていないと落ち着かないタイプだった外向的な叔父と違って、基本的に自分の道楽に熱中するタイプなので、人付き合いも誰とでも仲良く・・・とはならないんですね。

 自分大好き人間なので、万事、自分中心でしか考えません。

 なので、例えば憧れる人がいたとすると、ファンみたいにはならなくて、目標に置くんですね。「よし、この人を超えてみせるぜっ!」としか考えない訳ですよ。超負けず嫌いなので・・・。

 向上心と野心、自己実現欲というのは表裏一体のものだと思うんですね。

 もうね~、私の基本路線って、『狂い咲きサンダーロード』のジンさんの気分で「やってやろうじゃないの~」って感じなんですけど、こういう精神構造の男って最近、少ないみたいですね?

 従兄弟と話していて思ったのは、「何か誰かに認めてもらえないと自分を維持できない?みたいなポヨ~ンとした他力本願願望が根強い人が大多数になってんのかな~?」ってことでしたね。

 何で、他人に解って欲しがるんですかね? 「良い面も悪い面も含めて包み込んでくれるような人と出会いたい・・・」みたいな寝ぼけたこと言う男って気持ち悪いんじゃないかな~? 私が女だったら、そんな甘えん坊は嫌だと思うけどな~。

 やっぱり、男としてカッコイイのは織田信長タイプでしょ? 他人に認めて欲しいとか考えてるヤツは認められるべき努力をしていない人間ですよ。

「いや~、長野さんはいい仕事してますよ~」とか、ちょい上から目線で言ってくるヤツが、私は一番、嫌い!

「お前、俺のやってること、本当に理解してもの言ってんのか? なめたこと言ってんじゃねえぞ、コラッ!」って内心で毒づきながら、そんなのおくびにも出さずに「あっ、ありがとうございますぅ~」とか言ってますけどね~。フフフ・・・。

 大体、世の中というのは、よっぽど、ず抜けて目立つ実績示すような人間しか認められないもんですよ。今の私じゃ、まだまだ実績が不足しているのは解ってますよ。

 武術の世界でビッグネームになっても世間的にはまったく無名だったりするでしょ?

 武術家が武術以外のスポーツだの介護だの身体操作だの健康法だのといった分野で名前を売ろうとするのが、その証拠です。日本で武術はマイノリティーなんですよ。文化として正当に扱われていないんです。

 甲野氏に代表される人達って、武術の世界で勝負できる自信がないから外部にアピールしていったのだろうし、結局、自分を売りたいのが最終目的なんでしょう。

 それはそれで目的達成にはなっているだろうし、うまく他分野の権威者に取り入って利用していっているんだから、本人的には満足できているんじゃないですか?

 だから、人並みか人並み以下の実績しか示せない人は大衆の中に埋もれてしまうのだし、ましてや何の実績も示していないのに「俺は認められない」と、思い込みの世界にどっぷりはまっている人間もざらにいる・・・。

 何か、インターネットが普及して誰もが自由に発信できるようになったから、勘違いする人が増えているんじゃないですか?

 人から認められるということは、実力と実績とアピール力が備わってこその結果であって、自分の実力を磨こうともせず何も実績を示さずアピールの仕方も知らないような人間は誰も相手にしませんよ。

 そんなことは考えるまでもないと思うんですが、認識できない人もいるものです。

 まあ、世の中で揉まれて、手痛い思いを何度も味わって学習していくしか道はないですよね~。昔も今もこの点は変わらないですよ・・・。


 さて、墓参りから帰宅して郵便受けを見ると、奇しくも、松田隆智先生と青木宏之先生からお手紙が届いていて、ビックラこいちゃいましたよ~。

 何か凄いな~。武術界の超ビッグネームお二人から同時に手紙を頂戴するなんて、私はなんて果報者なんでしょう? 「長野さんはただのオタクだからね~。フフフ」って武道業界関係者に嘲笑されていたって、全然どうってことありません。斯界の巨匠に目をかけてもらえて、本当に私は幸せ者です・・・。

 思えば、中学時代、イジメに悩んでいた頃に松田先生の本に希望を繋いで幾星霜・・・まさか自分が武術研究家なんて名乗って生きていくようになるなんて・・・?

 松田先生は以前にお送りしていた本の御礼ということでしたが、御家庭の事情で自由に動けない御様子で、それでも“行”は続けられているとのことで本当に生涯一修行者を貫かれているんだな~と感銘を受けました。1000万回の突きを目指して“行”をされているそうなんですが、齢70にして、この飽くなき修行魂には頭が下がります。

 私は怠けまくってるから恥ずかしいですよ~。これは松田先生が喝を入れてくださったんだな~・・・?

 しかしま~、今は中国武術の専門誌も無い(『武術ウーシュウ』復活の兆しもなく、『功夫』も『Jカンフー』も一号止まり、『武芸』を年一回でいいから『秘伝』の別冊で出したらどうかな?)。寂しいですな~。

 一方、青木先生は、先日の新体道ライブの時に、田中泯さんのWOWWOWのドキュメント番組を会員が録画してくれたものをプレゼントしていたので、その感想などを書いてくださいましたけどぉ~・・・何か、えらい自虐モードになってて、どったの?って感じで(心配になったので電話した)したけど、それくらい感動されたということみたい?・・・です。

 松田先生も青木先生も、もう武道家としての評価なんかどうでもいいみたいですね。ただ無心に稽古することそのものが楽しい・・・そういう自然体の境地であるようです。

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八月“聴勁”セミナー報告

 まず、最初にお詫び申し上げます。

 今回のセミナーへの申し込みされた方に事務局からお返事のメールを返したところ、設定が合わなかったものか、メールが届かずに弾かれてしまったそうです。

 申し込み受諾の連絡が出せなかったので、もし当日、来られたらそのまま受付しようかと思っておりましたが、来られませんでしたので、そのままになってしまいました。

 せっかくお申し込みいただいたのに相済みません。

「申し込みが繁雑なのでは?」との御意見もうかがうことがあるのですが、武術のセミナーというものは、悪用しようと思えばいくらでも悪用できる内容のものを解説指導するので(一般の武道・格闘技で禁じ手にされている技がメイン)、やはり、一般常識を弁えた節度のある方でないとお伝えできないと思っておりますので、その点は御理解いただきたいと思っております。

 たとえ、どんなに金を積まれたとしても、その人にとって武術が害になってしまうと考えられる人には、私は教える訳にはいかないですよ。だって、素手で簡単に人命を奪うことのできるテクニックというのは、ある意味、拳銃より物騒なんですから。

 他所の道場でも自分が教えた人間の中にもいたんですが、多少、技を覚えると向かうところ敵無しみたいに自惚れて誇大妄想に陥り人格が豹変する者がいるんです。

 伝統的な武術の流派では、上の技を習っている人間には下の段階の技しか習っていない人間では、どんなに実力があろうと勝てないようにカリキュラムが作られているんですが、それは、舞い上がって増長傲慢になった者が悪さをしでかす前に始末するためなんです。

 ひどいと思われるかも知れませんが、これは流派の威信を護るのと世の中に狂犬みたいな武術者を出さないための掟なんですから、責めることはできません。

 今の時代だから私は破門にするだけですが、もし江戸時代だったら、私は増長した弟子を稽古中に事故に見せかけて抹殺したりしなきゃいけなかったかもしれませんからね。

 けれど、恐らく、今でも場合によっては殺ってしまう師範もいるかも知れませんね。伝統武術の伝授は時代によって変えてはいけないと頑なに護っている師範もいる筈です。

 もっとも、そういう階層的秘伝伝授方式だったために伝統武術はどんどん形骸化したり失伝したりしてしまったんですが・・・。

 私は25歳から人に教えはじめていますので、もう20年以上の指導歴はあります。

 教えながら技の研究をしてきた・・・という点では、常に試行錯誤を繰り返してきている訳なんです。

 既に長い歴史のある流派を習う場合は、「これが正しいやり方だ」という確信と安心感で学んでいる人が多いと思うんですが、私の場合は最初から疑ってかかって「本当にこれが正しいやり方なのか?」という疑問をもって、稽古方法や技の用法を研究してきたので、少なくとも20代後半から30代の頃は迷いまくりましたね。

 それでも、交叉法を知り、読みを追究するようになってからは、気持ちの上ではまったくブレはなくなりました。

「あっ、コレだな。これさえ解れば、後は質を高めていけばいいんだ」と確信してから流派を名乗り、そして10年が経過しました。

 自分では間違っていなかったな~と思っています。が、だから、「これだけが正しいのだ」と気張って喧伝する気はありません。

 所詮、武術はできてナンボ。どんな大層な理屈しゃべくっていても、素人のパンチに粉砕されてしまうようでは無意味ですし、まして殺意をもって襲撃してくる敵を想定する武術で理屈は無用です。

 ブルース・リーは「ドント・シンク! フィ~~~ル・・・ドゥ・ユー・アンダスタンド?(考えるな! 感じるんだ・・・解るか?)」と申しておりましたが、まさにアレ!

 前回の目付けはまだ理論付けられました。

 しかし、今回の聴勁の訓練法であるところの推手は、徹底的に感覚がものを言う世界なのです。どんな理屈を言っても感じ取れない者には何も得られないのです。

 ところが、この“感覚”というものは実に厄介で、結局、脳の誤作動であるところの幻覚・幻視・幻聴といったものに支配されると精神疾患まっしぐらになりかねない。

 いわゆる気の武道を標榜する人達には、この精神疾患の領域に入り込んでしまっている事実に気づかないでハイテンションになっている人が少なくない・・・というより“多い”のです。

 気の武道を学べば、軽度の禅病には、ほとんどの人が罹患すると言っても間違いとはならないでしょう。

 そこで歯止めをかけてくれるのが師匠の役割だと思います。

 だから、師匠の様子を見れば、その団体がまともかどうかが判ります。師匠が阿呆だったり気違いだったりすれば、弟子も必然的にそうなっていきます。

 無論、その逆の場合もあり得ます。弟子がきちんとしていたら師匠の躾の良さの証明となるでしょう。

 なので、私は人格的に問題を抱えている人や雰囲気の暗い人、人相の悪い人には教えたくありません。性格が素直で自分を変えたいと思っているのなら別ですが、武術好きな人には現実逃避癖の強い社会に適応する相応の努力をしようとしない人も多いのです。

 正直、なんで、こんなにダメ人間の巣窟みたいなんだろうか?と思ったものです。

 要するに、他人の持っていない特殊な技能を得て、一気に社会のトップステージに立ちたいという大タワケ者が武術を学びたがる例が多いようなのです。

 でもね~。そんなの勘違いもいいところですよ。そんな甘い考えで体得できる道理がないですよね~。

 確かに体力や体格は無関係だと私は自信をもって言えます。ですが、武術を真に駆使するには、人間離れした度胸が必要です。

 最低でも、「相討ちで死ぬ覚悟」くらいは必要なんですよ。

 お断りしておきますが、これは“最低でも”の話ですから、誤解しないでくださいね。

 もう、体格やら体力なんかは全然問題にならないんですよ。死ぬ覚悟してる人間って恐ろしいですよ。武術でも、生きる死ぬの不安や恐怖を一瞬に払拭できる悪魔のような精神力があるからこそ、相手を虫けらを潰すみたいに対していくから、可能になる訳。

 生まれつきそういう精神力の人もいますし、大昔は沢山いたでしょう。が、今の日本でそういう精神力のある人は稀れでしょう。暴走族とかヤクザでも滅多にいないと思いますよ。そこまでハラの座ったヤツは・・・。

 考えてみてください。

 刀剣で斬り合ったりする技を工夫するのって、恐怖心があったらできないですよね?

 でも、昔の侍にとっては当たり前のことだったから、それができた。必要とあらば相手り心臓を突き刺し、首を斬り落とすことができる前提で、剣術が工夫されたのです。

 私が剣術や真剣にこだわる理由がよく理解できない人もおられると思いますが、これは、生き死にを扱う技を、生き死にを決めることのできる得物を用いて修練することで、今の単なる技比べしか考えない人達に絶対的な精神力を得させていきたいと考えているからなんです。

“武術=身体操作”という風潮に私が批判的であり続けた理由が、「現代日本で武術を真に役立てるのは精神力の養成以外にあり得ない」という考えがあったからです。

 ですが、武術=精神というと、単なるシゴキと根性主義へと誤解されていってしまう。

 それでは精神力の養成にはならないんですよ。むしろ、逆に精神を鈍感にして“鈍重さ”を忍耐力と勘違いしているだけです。

「真剣にやれ!」って言葉は、「真面目にまっすぐに物事に取り組みなさい」という教えだと思う人が多いと思いますが、重大な要素が抜け落ちているんですね。

「真剣にやれ!」というのは、「真剣にかけてやれ!」という意味で、つまり、「失敗したら切腹して責任をとれ!」という意味なんです。

 うちの会員さんがブログで酔っ払い議員の中川さんが断酒宣言しているのに怒っていましたけれど、こういう場合は「失敗したら俺はハラを斬る」と宣言するくらいの気概を示してみせなきゃダメですよね。

 言葉で何を言おうと、政治家が真剣に考えているとは国民はもはや思えないでしょう。

 それはそれとして、私が本当に伝えたいのは武術は精神力を無視したら体得できないということです。

 そこで、今回の推手のやり方は、すぐに目を瞑って「考えるな。感じるんだ」の世界を味わうようにしてもらいました。

 それから、ブログで書いていた観念運動の実験もやってみましたが、タコ糸で五円硬貨を吊るして腕を延ばしてリラックスして持ってもらい、左右に揺れたり回ったりする様子をイメージしてもらい、硬貨の動きを見てみたんですが、驚いたことにさっぱり動かない人が半分くらいいました。

 この訓練法は催眠術(自己暗示)の初歩訓練なのですが、どうも、気の技は暗示でかかってしまうから暗示がかからない方がいいと思っている人が多いのかも知れません。

 ですが、この場合は自在にイメージするだけで動かせた方がいいのです。

 どうしてか?というと、それだけ自分の身体がリラックスして意識と結びついていることになるからです。

 つまり、これが動かないということは意識と身体が繋がっていないということを意味するのです。

 単純に言えば、リラックスできていない。そして、脳のイメージ力が弱いということです。

 こういう人は自分の身体の細部を有機的に細かく使うことができませんから、技も力任せになり相手の攻撃にも鈍感・・・ということになってしまうのです。

 加えて言うと、身体の局部に瞬間的に重心を集めて打ち込む抖勁も使えないでしょうし、合気的に相手の加えてくる力の圧力の微細な変化を読んで受け流すことも下手。

 高度な技はえてして鈍重なタイプには通用しません。ですが、鈍重なタイプは全身スキだらけなので単純に急所を打てば倒せるのです。

 ここを勘違いして力任せで戦ったりする人が、特にフルコンタクト空手の試合を見ていると少なからずいます。

 試合だからさして問題となっていませんが、こういう戦い方を標準装備としてしまうと、別の戦い方の餌食になってしまうでしょう。

・・・ともあれ、観念運動をやらせてみてはっきり判った問題点は、今後の指導の指針としたいと思いました。

“読み”というのは相手の身体の表層に出てくる変化から心の変化を読み取るものですが、その身体内部の動きと心の動きを知るためには、まず、自分自身の身体内部の動きと心の動きの関係性を自覚しておかねばなりません。

 そのために観念運動の訓練をやってみていただきたいと思います。

 今、定期稽古会でも心法技術からの武術の技の展開を考えて指導していますが、普通に長く武道や格闘技をやってきた人でも、まったく初めての経験だと言われます。

 ですが、実は、ここを知識として知ると、従来の武道の稽古の奥に隠れていた意味合いが読み解けてくるのです。

 例えば、ある会員さんは「自分は空手を長くやってきましたが、空手には推手のような訓練法がないので・・・」と話されたので、「それは違いますよ。空手にもカキエー(掛け手)という訓練法があります。あれを柔らかくやれば推手と同じです」と話しました。

 要は、気づかないうちに実は同じ原理のものをやっていたりするんです。

 これは日本剣術にもあるし、合気道にもある。中国武術では太極拳だけでなく、形意拳、八卦掌、意拳、詠春拳、白鶴拳等々にもあります。

 手法は違っても原理的に見れば同じところから流儀の戦闘理論に沿って変化していったと考えて良いでしょう。

 どんな流儀も行き着く頂点は同じになっていくものです。

 先日、新体道の青木先生とお話していて、「どんな流儀でも合理的な技を工夫していけば最終的には同じようなものになっていってしまう」という話をされていました。

 私は多くの流儀をパクッていますから、自分で使う場合はなるべくオリジナルになるようにしようと考えてきていましたが、結局、独創したつもりでも既にどこかの流儀にそっくりそのままあったりするんですね。

 例えば、猪木が始めて広まった骨法の浴びせ蹴り。アレも、『空手バカ一代』の映画版で千葉ちゃんが石橋先生に決めていましたから、堀辺さんはこの作品を見てパクッたんじゃないかな~?

 が、備中伝竹内流柔術の稽古を取材した時に、技の流れの中で隠し技として浴びせ蹴りのような決め方をやっていたりして、おお~っ!と思いましたね~。


 無論、似ているけど原理は全然違う・・・という場合もありますが、それは少ない例ですね。

 なので、最近はもう独創にはこだわらなくなりました。より合理的と思う技を追究すればそれでいい。オリジナリティーにこだわって糞の役にもたたない改変をしても化けの皮が剥がれたら恥をかくだけです。

 推手も、推手のための練習になったらつまんないので、どう武道・格闘技に活かすか?と考えて、差し手からの推手や、構えを崩して封殺していく推手のやり方を指導してみました。

 この辺りのやり方はすべて自分の経験を踏まえて作ってきた“招法(仕掛け技)”なんですが、伝統武術では最も秘伝にして教えない部分みたいです。

 だから、私は原理的に考えて自分で工夫しましたからね。「こうやられたら人間は反応できなくなる」とか、「こうされたら反射的に力んで居着く」とかいった生理的な反射運動の逆手をとって考えていったんですね。

 すると、SATマガジンのイチロー・ナガタさんの考案したタクティカル・ペン“クナイ”の護身術解説文のところで、説明はしていなかったんですが、「こうすると相手は反応できなくてバスバス、入る・・・」みたいに写真のキャプションに書かれていて、「ははぁ~、こうやったんだな~?」と、私はニヤニヤして読みましたよ。

・・・おっと、これは無料で教えるのはもったいない。ヒミツにしとこうっと・・・。


追伸;相模経済新聞第1251号に取材記事を載せていただきました。相模原にお住まいの方はよかったら読んでみてください。上溝駅近くの中村書店、相模大野駅南口のブックスアミ、渕野辺駅北口近くの宝月堂などで販売。月三回発行で一部二百円とのこと。

追伸2;台風に加えて静岡での地震。どうも今年は天変地異の前触れなのかも?という気がします。世の中が乱れ、自然も乱れ、人心も乱れる・・・こういう時こそブレない心が必要なのではないか?と思いました。また、災害に遭われて命を落とした方々の御冥福を祈ります。

追伸3;のりピー、逮捕されちゃいましたね~。でも、不起訴になるんでしょうか? 事務所の社長さんの憔悴した顔を見ると、本当にクスリに手を出したら大変なことになると思いましたね。CFやアルバム、広報映画・・・経済損失の額を聞くと、あらためて酒井法子という人はここまで活躍していた人だったのか・・・と感慨深くもあり、また、物悲しくもあります。軽い気持ちで手を出して人生を台なしにしたんだから・・・。

追伸4;シダックス橋本駅前店15日(土)はお盆休みになりますので、宜しく御了解ください。日曜日(16日)の定期稽古会はいつも通り、朝10:30に渕野辺駅集合で予定通り行います。

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8月セミナー“聴勁”について

 え~、8月の月例セミナーのテーマは“聴勁”でございます。

 7月が“読み(目付け)”だったのですが、視力が弱い人にとってはハンデがあるやり方ではありました。

 特に眼振の病気があると言われる方もいらして、「目付け以外の読みの方法はあるのか?」との御質問も頂戴していました。

 無論、あります!

 聴勁というのは、「力を聴く」という意味なんですが、基本的には皮膚感覚(触覚)で察知するものなんですね。

 聴くと言うと耳で音を聴くイメージがあると思いますが、要するに、五感(視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚)をフル活動させて用いる訳ですね。

 このうち、視覚は目付けなんですが、聴覚と触覚を駆使して敵の攻撃を察知しようとするものが聴勁だと思ってもらっていいでしょう。

 何だか、座頭市みたいですが、目の見えない人は聴覚が異常に鋭敏になると言われますね。それと同時に触覚も鋭くなるようなんです。盲目の人がマッサージ業を営む理由がここにあります。

 人間って、身体のどこかが悪くなると、それを補うために他の器官が発達するんです。

 だから、野口整体なんかでは「目が悪くなったら逆に使え。そうしないと休ませると機能が落ちる一方になる」なんて指導をするそうです。

 きついトレーニングを始めると最初はしんどいけれど、段々慣れていくでしょう? 身体の適応能力なんですね。

 よって、休み過ぎると身体は弱くなってしまうんですよ。

 ところで、嗅覚と味覚は武術と関係ないと思われますか?

 いや、そんなこともないんですよ。昔は毒殺も武術の裏技だったので、嗅覚と味覚でそれを察知するのも重視されたんですよね。

 これは別に忍術だけに伝わっていたんじゃないんですね。昔の古武術は医術も伝承していたから薬方も研究されていたんですよ。

 それはともかく、聴勁で最も根本になるのは、“推手”です。

 つまり、触れたところから相手の攻撃しようとする意志を読んで、先に潰していくものです。

 何故、触れただけで読めるか? それは、攻撃の意欲がわくと筋肉が微細に収縮して圧力が出るので、その接触している接点の圧力変化を読む訳です。

 催眠術の暗示効果で“観念運動”というのがあるのはご存じでしょうか?

 糸に五円玉を吊るして片手の指先で吊るしておいて、「右に揺れる」「左に揺れる」「右に回る」「左に回る」と声をかけることで、五円玉が独りでに言われた通りに動き出すもので、気功団体なんかでもパフォーマンスでやって見せたりします。

 これは、言葉の暗示によってイメージが発生することで、無意識に筋肉に信号が送られて、イメージの通りに動く無意識の反射運動なんです。

 推手の上手い人になると、その微かな接点圧力の変化まで読むことができるようになり、徐々に相手に触れなくとも察知できるようになります。

 そうなると、それこそ空気の流れの変化まで察知するように聴くことができる。だから、“聴勁”と呼ばれる訳ですね~。

 で、セミナーでは、この推手の訓練法と、更に推手からの打撃技や逆技、崩し技などまで解説指導する予定です。

 目付けの場合は触れ合う前の間合から始まりますが、聴勁は触れてからが勝負になりますので、その触れていく要領についても指導しようと思っています。

 前回の目付けがうまくできなかった人は、聴勁を駆使することで多彩な戦法が使えるようになりますし、また、通常の打撃技をすべて封殺してしまうことができますから、総合格闘技なんかにもかなり有効性が高いのではないかな~?と思っています。

『オルトロスの犬』という番組で、「触れただけで人を殺せる特殊能力」の持ち主が登場していましたが、それに近い技が駆使できるようになってしまいます。

 白猿通背拳らしい技の遣い手で酔鬼張三という実在の武術家がいて、その逸話に、車夫と口論になった張三が、車夫の胸に軽く触って立ち去ったところ、一瞬遅れて車夫は昏倒してしまい、助け起こされた時にはもう絶命していた・・・というものがあります。

 これは暗勁(浸透勁)の高度なレベルに達した人の打撃技の様子です。

 もちろん、私はこんな技はとても使えませんが、軽く打った会員が、翌日、身体がだるくて起き上がれなかった・・・といった事件が3~4回はあり、それ以後、なるべく威力が浸透しないように注意するようにしています。

 浸透勁の打撃法は、その場で大したことがなくても、後から後遺症が出る危険性があるのです。これで打たれると、何とも言えない気持ちの悪い溶けた鉛がズーンと体内に浸透し沈殿してくるような不快な感触があります。

 私は実験でわざと打たせてみて解ったんですが、本当にこれは危険だと思います。太極拳なんて、こればっかりですからね~。本当に陰険な拳法だと思いますよ・・・。

 力が後ろに抜けるようにふっ飛んだ方が安全なんですね。

 ちなみに、“毒手”というのがありますけれど、毒薬に浸して鍛える鉄砂掌や朱砂掌のイメージで、「打たれると毒が浸透して・・・」という刃牙が柳龍光にやられたアレを思い浮かべるかもしれませんね。

 しかし、毒手という言葉の意味は、殺人的な暗勁(浸透勁)の打撃技の異称なんです。

 大体、劇毒に浸して鍛えたりすれば手の方が爛れて壊死してしまうでしょう? 毒を遣うのなら、暗器(隠し武器)に塗るとか飲食物に混ぜるとかした方が効率的ですよね。


 おっと・・・何か、ヤバイ方向に話が進んじゃいましたね?

 まあ、推手の実戦性の背景を知ってもらいたいと思ったんですが、稽古する分には楽しくやりましょうね。

 実際、格闘技には非常に応用が効くと思いますよ。


追伸;游心流壮年部フルコンタクト派?の会員さんが試合でカカト落としを食らってKOされてしまった・・・との連絡を受けていたんですが、定期稽古会で試合の様子を聞きました。何と、相手は57歳だったそうで、その年齢でカカト落としを繰り出すというのはビックリ! これはもう負けても仕様が無いな~と思いましたが、試合内容的にはかつてない調子の良さを感じて満足できたそうでした。が、「やっぱり、慢心したのか(カカト落としを)食らったのも全然覚えてませんでした」とのことで、この敗戦はむしろ得難い経験なんじゃないかな~?と思いました。ただ、試合当日ではなくて後日、鞭打ちみたいに首が痛くなってしまったそうで、多分、頸椎がズレたりしているんだろうな~と思いました。直接打撃制試合はやはり注意しないと後遺症が出ますからね。皆さんも御注意くださいませ・・・。

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刀ってよく斬れるな~

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 外装もできあがり、無理やりハンマーで嵌め込んで割れてしまっていたハバキのデコボコになった箇所や割れ目のところを混合粘土型エポキシ接着剤で埋めて、結構、外見上もカッコ良くなった彫刻入りの古刀が気に入っていて、夜中に居合の練習を夢中になってやっています。

 この刀、刃渡りは長いけれど、薄刃で太刀仕様なので片手でピュンピュン振れます。居合にはもってこいです。

 古刀の斬れ味はどうかな?と思い、適当な竹とか無かったので、試しにガマの油売りがやるように紙を切ってみたんですが、これがカミソリみたいにスルスル切れて、ちょっと怖かったですね。

 他の刀でも試しているんですが、途中で引っ掛かって破れたりすることも多いんですよね。新聞に挟まっている宣伝広告のチラシを片手で摘まんで、刃を当ててスーッと引くとシュルル~ッと抵抗無く綺麗に切れます。

 これってカミソリとかの刃物じゃないと上手く切れないですよ。

 他の刀でもこんなに切れたのはありません。日本刀の刃って刃先の角度が割りと鈍角になっているから、こんな具合に切れないんですよ。

 でも、戦闘で使うには薄刃過ぎて刃毀れしたり折れたりしそうで怖いですけど、居合の稽古にはいいです。軽くて長いから扱いにストレス感じません。真剣なのを忘れてしまいそうで、クルクル回して納刀したりしています。

 軽量なのと目釘穴が三つもあったので、柄木を細く削っても二つ目釘にして茎を固定すれば柄折れの心配はないだろうと思って、今回はかなり削り込んで作ったので、紺色の鮫を巻いて、焦げ茶色の革を諸捻り巻き(一番多い柄糸の巻き方)にしてみました。

 いつもは柄木を薄く削り込むのが強度的に心配なので、程々に削って、柄巻きは平巻きにして握りの太さを調整していたんですが、今回は諸捻り巻きでも違和感のない太さにできました。

 鐔も透かし鐔にしたので、かなりオシャレな感じになったと思います。


 ところで、時代劇チャンネルで必殺シリーズのスペシャルが特集されているんですが、清河八郎、千葉周作、平手美酒などの役で滝田栄が仕事人の臨時の仲間を演じていたりするんですが、これがまた惚れ惚れするような見事な殺陣で、本当に素晴らしいです。

 このスペシャル版のチャンバラの見事さが評判になったのでしょう。必殺シリーズの最後『必殺仕事人・激突』では首斬り朝右衛門を演じてレギュラー入りしていました。

 滝田栄と言えば、最近は仏像彫刻が有名になっていますけど、これだけの実力を埋もれさせるのはもったいないですから、テレ東やNHKの時代劇とかに出演して欲しいものですね。山岡鉄舟とか晩年の宮本武蔵とか合うと思いますけどね。

 滝田栄は榎木孝明や阿部寛、藤岡弘、が学んだ斬心塾の東郷秀信師範に習われていますが、腰の座り具合や無駄な力の抜け方とかでは断トツに見えます。

 複数の相手を流れるように一挙動で撫で斬りにしていくところなんて、日本刀の構造を熟知した人間にしかできないですよ。

 それに、片手に傘を持ったままダンビラを片手で振って斬っていくところは本当に素晴らしい。刃筋が狂わないんですよね。片手でも・・・。

 これだけ凄いな~と思ったのは、若山先生、大山克巳先生以来ですね。このお三方はいずれも実際に古流剣術を修練されているというところがミソです。

 でも、この前、『密命・寒月霞斬り』を見ていたら、榎木さんと松方さんの対決シーンを見ると、松方さんは流石、数多くの時代劇に主演してきた人だから、刀を構えてるだけで貫禄が違うんですよね~。いや~、スゲ~な~って思いましたよ。

 これまで見た作品の中で刀の怖さがよく表現されていたものとしては、高倉健がロバート・ミッチャムと共演した『ザ・ヤクザ』が一番でしょうかね~。あれって斬られた時の痛さが伝わってくるみたいな感じがしましたよ。

 でも、セガールオジサンがこの作品のリメイクを考えて『イントウ・ザ・サン』を作ったんだって言ってたけど、あれはね~よな~・・・と。


追伸;全日本武術太極拳選手権をNHKの衛星放送で見たんですが、太極拳の競技用套路が長拳みたいに跳躍して回転して片足で着地するとか、えらい難易度上がってるので口あんぐりしてしまいました。あれじゃ中年以降はやれないですね。20代でも練習で膝壊してできなくなる人が続出するんじゃないでしょうか? 太極拳の健身効果を捨てて見た目のアクロバチックな動作を入れたということでしょうが、それにしてもムチャな動きにしたものだな~と思いましたね。まあ、私はやらないから関係ないけど、あれだと試合に出ようとする人は激減することでしょう。それと、BGMが20年くらい前のオリジナルSF時代劇アニメ『妖刀伝』のものだったので、ちょっと懐かしかった。

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麻薬が違法という意識が欠如してる?

「俳優の・・・」というより「矢田亜希子のダンナ」という方が有名な押尾学が逮捕され、自称プロサーファーの、酒井法子のダンナが逮捕され、のりピーにも逮捕状が出されて・・・何か、麻薬覚醒剤がらみの芸能界の逮捕劇が目立って増えてきてますね。

 ミリオン出版の『日本のタブー』では、芸能界の麻薬覚醒剤がらみの常習者の話がイニシャルで載っていて、そこに元アイドルの女優S・Nと書かれていましたけど、まさか酒井法子だったとは思わなかったので驚きました。

 芸能界の裏ネタ情報誌って、普通の週刊誌より信憑性低いんじゃないか?と思ってたんですけど、確かに表に出せない裏話のほうが真相だったりする場合が多いのは、武術の世界でも同じことですからね。

 だって、私は結構、何でも書いてしまうから普通だったら名誉棄損で訴えられる筈ですけど、ちっともそうならない。それは訴えたら調べられるから、薮蛇になるのを恐れているからでしょうね。

 でも、私は知ってることの半分も実は書いていないんですよ。それ書いたらいろんな人に実害が及ぶかもしれないということは書けないし、先日も新体道について書いた内容について青木先生から「ほめ過ぎですよ。俺、狙われちゃったら困っちゃうよ~」って苦情を言われちゃってですね。

「いや、先生、あれくらいかまして書かないと誰も注目しないっスよ~。それに全然、大袈裟じゃないですよ~」って申し上げました。だって、あれでも私は遠慮して書いてますからね。もっと、具体的なことはいろいろ知ってるんですけど、それ書いちゃうと名のある人の名誉を損なうことになるでしょ?

 青木先生は名のある武道家をダシにして自分を売るような甲野さんやキムタツみたいな下品な真似はしたくない人なんですよ。そういう奥ゆかしさって、最近の武道関係者って持つ人が少なくなってますでしょう?

 それに、今更、青木先生が出ていかなくとも現在の新体道師範方は世界中、どこに出ていっても恥ずかしくないレベルですよ。それでいて「新体道は戦わない武道です。挑まれたら逃げる!」ってへーきで言ってのけられる屈託の無さが私は大好きなんですよ。

 もうね~、武術家・武道家が集まると「俺の方が強い!」の冷戦状態になる訳で、頭悪いったらありゃしないんですよ。「あんたら、そんなに強いんだったら北朝鮮に拉致られてる人達救い出してきてくれよ」って言いたくなるのは私だけ?

 はっきり言って素手の強さ誇るのってヤンキーくらいのもんだよ。いい年こいた大人が喚くことじゃないですよ。

 武術武道って必殺の技を磨くのが本筋です。でも、それは衆に見せつけて威嚇するのではなく、平和共存共栄の道を開いていくための修行であって、人と腕比べして見せるのが目的じゃない。そこがスポーツとは違うところで、現代ではアートに一番近い。

 だって、海外では武術武道は“マーシャルアーツ”って呼ばれるでしょ?

 それに、一般には公開しないけど新体道の中では必殺技の研究もしているんですね。だけど、それはいざという時の心得としてのものであって、新体道の目指す本筋じゃないですよね。

 私が新体道をベタ誉めしているのは日本武術のあるべき理想の在り方として、目先の強さばかり追求して視野狭搾に陥っている武術・武道愛好家に考えてもらいたいからなんですよ。

 そういう意味で言っても、表面に出てくる情報って、出しても問題のないように編集されたものですからね。それを安易に信じるべきじゃありません。

 芸能人のクスリ汚染も、学校の教頭が覚醒剤常用で捕まるくらいの時世なんだから、裾野が広がっているという証明でしかないでしょう。

 そもそも、罪の意識が薄いし、「大麻は健康に良いんだよ」みたいな情報を出す週刊誌もあったりするので、「ちょっとリスキーな嗜好品を愛用して悪ぶって見せる」というファッション感覚で手を出す人が多いんでしょうね。

 そもそも、マリファナとかLSDとかはヒッピーやニューエイジ・ムーブメントの流れで「精神の覚醒」というテーマで持て囃されていた訳ですね。

 だから、アメリカの西海岸文化の提唱者たちの間では禁忌する感覚が薄いし、日本でも、その流れを汲む精神世界愛好家の間では「片っ端から麻薬や覚醒剤は試してみた」なんて自慢する人もいたんです。

 ヨーガや禅の瞑想は、変性意識(アルタード・ステーツ)状態をもたらす訳で、見悟に伴うトリップしたハイな感覚を求めていれば、依存性から心のコントロールができなくなる危険性もある訳ですね。

 そして、安直にハイな感覚さえあればいいのだと勘違いしたりする。中毒ですね。

 あのオウム真理教だってLSDとか使っていたようだし、そもそも瞑想ってナチュラルハイになる感覚があるから絶大な愛好者がいる訳ですよ。それを安易に求めるからクスリを使ってシャブ中になってしまう・・・。本末転倒です。

 精神世界と麻薬がらみでは『ホテル・カリフォルニア』のレコード・ジャケットの絵に悪魔みたいなのが入っている?という都市伝説がありますけど、あの「ホテル・カリフォルニア」というのは悪魔教会(チャーチ・オブ・サタン)のことで、悪魔教会を礼讚する歌だったんだという話もあります。

 レコードを逆回転すると悪魔教会を称える文言に聞こえるという話もあります。

 で、この悪魔教会に入信する歌手が多かったみたいなんですけどね~。それがフリーSEXと麻薬の常用にあったという話ですね。

 悪魔の前身は、古代宗教の神だったとされます。アスタロトやバアル、パズズ、ベールゼブブといった有名な悪魔は、キリスト教が広まって異教の神=悪魔へと地位を堕とされてしまったものです。

 まあ、戦争中に「鬼畜米英」と呼んでいたのと同じですね。

 ヒッピーやニューエイジ・ムーブメントは、カウンター・カルチャーって呼ばれてますが、保守体制への反発が根っこにあって、それはベトナム戦争の泥沼化による民衆の憤りと平和共存への祈りと共産主義思想への期待とかがあった訳でしょう。

 悪魔崇拝も保守的キリスト教への反発でしょう。

 日本では安保闘争に於ける全共闘運動がそれに当たるでしょうが、ゲバルトと麻薬は根っこで繋がっていたと思うんですよ。

 実際、ニューエイジ・ムーブメントを日本で率先して広めた人達って、圧倒的に全共闘運動で革命をうたっていた人達でした。

 鉄パイプや角材、火炎ビンふるうことでは何も変えられなかったという意識から、「暴力ではなくて精神の革命を起こすべきだ」と、元祖草食系となっていった訳です。

 私が小学校の頃にニコニコマークというのが流行りましたが、あれってラブ・アンド・ピースのヒッピー思想、ニューエイジ・ムーブメントの流れから日本に入ってきたようですね。

 狼男映画『ハウリング』やエイリアンSFコメディ『エボリューション』で、ニコニコマークを隠喩的に使っていましたが、これはニューエイジ・ムーブメントの顛末について知っているアメリカの文化人とかにはハハァ~と察しがつくんでしょう。日本人にはピンとこないけど・・・。

 私は、この流れの人達とは何人も付き合いがありました。肩の力を抜いて環境・身体・食について地道に探求し、淡々と人間の生きる意味とは何か?と考えているような、そんな修行者的な生き方をする人達には好感を持ちます。

 例えば、三鷹で、やさい村という自然食品店をやっている大友映男さんはそんな感じの人です。西荻窪のほびっと村学校で太極拳の講師もされています。

 でも、やっぱり我欲の充足を求める偽善的な人も多いんですよね。大友さんのような人は少ないでしょう。

 亡くなられているので名前は伏せますが、結構、その業界で活躍した人が、瞑想修行の弟子入りした女性二人が廃人になってしまったのに、何のケアもしないで見捨ててしまったそうで、いつも温厚で怒ったところを見たことがない大友さんが、「僕はあの人だけは許せない」と憤慨されていたのを、よく覚えています。

 だから、クスリと比べれば遥かに安全ではありますが、ナチュラルハイでも神経を病んでしまう場合はあるのです。本当に人格が一変して物凄く独善的になったりするのです。

 私が気功訓練を中止したのも、忠告を聞かずに熱中していた元会員の言動を観察していて異常性を感じたからです。シャブでも使ったのか?と思ったくらいですよ。

 もっとも、私は結構、冷淡な性格なので、忠告して無視する人間は「なら、勝手にやればいい。でも、会は破門だよ」と言うのが常です。人間はダメになる権利だってあるんですから、忠告して聞かない人間は一度ダメになってみない限り、自覚することはないと思うからです。

 舞い上がっている人間は他人の忠告に耳を貸さないものです。だから、忠告は一度だけしかしません。一度で聞かなければ二度も三度も聞かないでしょう。潰されて自分の力が足りないのを気づくのを祈るだけですよ。

 まして、クスリを使って人為的にハイな状態を得ようとすれば、生理メカニズムを狂わせて確実に健康を損ないますし、もう自分でコントロールできなくなっている人も多いでしょうね。

 クスリは脳を侵していくので人格も一変してしまうんですよ。シンナーなんて「脳を溶かす」と表現されるくらい有害だとされます。

 押尾学がMDMA飲んで云々という事件も、相手の女性が二錠飲んで泡吹いて意識を失ってしまったということですが、クスリにはそういう“リスク”が付き物だということを自覚させる事件として反面教師とするしかないでしょうね。

 捜査中だから憶測であれこれ書くのは遠慮しておきますが、ニュース報道を聞けば聞く程、具合が悪くなった女性を目前に救急車を呼ぼうとしなかった押尾の人間性を疑わざるを得なくなってしまいますけれど、男っぽさがウリだったのに意外な小心者だったんだな~と、二重三重にガッカリするばかりです。

 矢田亜希子も愛想をつかせて離婚したそうですが、賢明な選択でしょう(矢田亜希子もやってました・・・みたいにならないことを祈りたい)。

 酒井法子夫妻に関しては、TVで呼びかけた事務所の社長さんはいい人だな~と思うのと、周囲にそれだけ愛されていたことを酒井法子は自覚して猛省しなきゃいけない。結局、その信頼を裏切ったツケはあまりに大きいですよ。

 芸能人がクスリに手を出せば、「芸能界は特殊な世界だから精神的ストレスを癒す意味で手を出すのだろう」といった擁護論も出ます。

 けれども、もしそうなら引退して普通の生活をすればいい。芸能界で成功し第一線に居続けることは並大抵のことではないでしょう。が、それを言い訳にしちゃいかんですよ。

 だって、自分で選んだんでしょ? 人のやらない人と違う生き方を選ぶのなら人の味わうことのない苦労をするのは当たり前でしょ?

 クスリに逃げてどうすんの?

 いや、逃げてるんじゃなくて気持ちいいからやってるだけでしょう。酒好きは酒やめられないし、タバコ好きはタバコやめられない・・・それと同じでしょう。

 でも、違法なクスリであると知っててやるんなら、いずれ捕まって断罪されることを覚悟しておかなきゃならない。それができないんだから甘えているな~。

 麻薬・覚醒剤に手を出せば、健康を損ない、社会的制裁を受け、家族に迷惑をかける・・・という、“失うものだけしかない”という現実は認識しておくべきでしょうね。

 そのリスクを承知で手を出すとしたら、馬鹿の蛮勇としか言えませんけどね。

 芸能界のクスリ事件はまだまだ終わらないでしょうね。人気アイドルグループやお笑い芸人、俳優、女優・・・これから大変な事態になりそうです。



PS;大原麗子さんが急逝されて驚きました。病気を患っておられるとは電車の中吊り広告で読んだ記憶がありますが、まだ、それほどの年齢でもなかったのに・・・。御冥福を祈ります。

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ゲゲゲの鬼太郎第一シリーズにメカゴジラが?

 国民的長寿アニメと言えば、『サザエさん』『ドラえもん』『ルパン三世』とかありますが、意外と続いているのが『ゲゲゲの鬼太郎』です。

 何しろ、最新の第五シリーズは一年以上も続いていましたし、その間、二回も実写映画化され、劇場版アニメも制作されたんですから、凄いですよ。

 それに、深夜枠では最初期の原作『墓場の鬼太郎』も放送され、鬼太郎が全然ヒーローしていないシュールな作風で度肝を抜かれました。

 そもそも、ゲゲゲの鬼太郎というタイトルは、TVアニメ化する時に、「『墓場の鬼太郎』じゃTV的につらいから・・・」という理由で、水木さんの幼少の頃の愛称“ゲゲ”から採ったという噂です。

 これって、『魔王ダンテ』をTVアニメ化する話が出て、名作『デビルマン』が誕生した・・・とか、『スカルマン』を実写ドラマ化する企画から仮面ライダーが誕生した・・・という話を彷彿とさせます。

 ちなみに魔王ダンテはテレ東の土曜深夜にやっている新作マジンガーに、マジンガーZが邪悪になった姿で出てきてますが、流石はジャイアントロボや鉄人28号のリ・イメージで注目された今川監督だな~と・・・。


 それはそれとして、怪獣・妖怪大好き、46歳になっても小学生魂を失わない私としては、ゲゲゲの鬼太郎はやっぱり見逃せない作品な訳なんですけれど、残念ながら、白黒の第一シリーズだけは観た記憶がなかったのです。

 カラー版になった第二シリーズは、公害問題とからめた社会派な内容が多かったことから印象に残っているんですが、白黒第一シリーズは1968年でしたっけ? 私が5歳だった計算になり、覚えていないのか、あるいはTVが家になかったのか・・・で、記憶にないんですよ。

 だから、東映チャンネルで白黒第一シリーズが放送されて、私はこの年齢になって、まさか観れるとは思っていなかったので、本当にいい時代になったもんだな~と思っております。

 もう、『悪魔くん』も『河童の三平』も観ましたし、兄貴から「物凄く怖かった」と聞いていた『恐怖のミイラ』も観ました。

 いや、昔の白黒作品って味があっていいもんです。

 さて、鬼太郎の第一シリーズ。始まったばかりで早々に『大海獣』前編後編を観ましたけれど、この話の凄いところは、“原作そのまま”だということ。

 この話は南海の島に古代のクジラ“ゼオクロノドン”が生きている・・・とのことで探検隊が組織され、鬼太郎も用心棒的に雇われて同行するんですが、探検隊は鬼太郎と天才青年科学者山田を残して全滅。

 山田はゼオクロノドンの血液を持ち帰って称賛を一身に浴びたいばかりに鬼太郎殺害をもくろみ、鬼太郎にゼオクロノドンの血液を注射して殺そうとする。

 が、鬼太郎はゼオクロノドンに変身してしまい海中に没し、帰国して称賛を浴びる山田を追って日本に上陸・・・という話なんですが・・・。

 何と、この後、山田はゼオクロノドンのロボットを開発して対決するんですよ。

 この部分は、あまりにムチャだろうと思われたのか、以後のシリーズや映画では割愛されています。

 ところが、第一シリーズでは、そのまま描かれていたのでビックリ!

 だって、これってゴジラ対メカゴジラですよ?

 いや、メカゴジラが登場したのは1974年だったかな? だから、こっちの方が先取りしていたんですね~。

 しかし、もう完全にゴジラが上陸してきて銀座を破壊し、ジェット戦闘機や戦車隊と戦うシーンをパクッてるんですよ。USA版ゴジラより、よっぽど本家に近い。

 しかし、鬼太郎ゼオクロノドンがビックリして逃げてつまずいた女性を助け起こすところとか、南海の島で土人がゼオクロノドンを崇めているらしいところとか、あるいはロボットが目からサーチライトを浴びせるところとか、山田の妹の登場とか・・・これって『キングコングの逆襲』のコングとメカニコングの対決を思わせるんですね。

 それなら、年代的にも合うんじゃないでしょうか?

 水木先生って、結構、パロディ精神が旺盛で、時の総理大臣とかプロスポーツ選手や有名歌手を作品中に登場させたりしていました。

 だから、『大海獣』の話は、怪獣映画みたいなものを描きたかったんじゃないでしょうかね~?

 他にも、“原始さん”とか“マンモスフラワー”なんて、『ウルトラQ』のモルフォ蝶の鱗粉で巨大化した男とか、大蛇みたいな根っこが皇居のお堀に浮かんでいたジュランとかとそっくりだし、巨大化した“あかなめ”は『スペクトルマン』のダストマンみたいだし、“泥田坊”はヘドラに似てる。

『悪魔くん』に登場したペロリゴン(原作ではウンチを吐き出すビチゴン)みたいに、マンマ怪獣が出たこともある。

 そもそも、怪獣と妖怪って似たようなもの。どっちも人間の夢想が生んだ幻獣です。

 怪奇作家H・P・ラブクラフトが構想したクトゥルー神話とウルトラ怪獣の相似性なんかもよく言われるところで、意図的に創作したティガのガタノソーアなんかは別としても、海底原人ラゴンなんて、Qで登場したのがインスマス人で、マンで登場したのはダゴンだったとすれば納得。

 他にも、電気を食べると姿を現すネロンガなんて、『ダンウィッチの怪』のウィルバー・ウェイトリーの父親(邪神ヨグ・ソトート)似の双子の弟みたい。

 案外、影響を受けてるのかも知れませんね。

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ジンさん逝く・・・

 個性派俳優の山田辰夫さんが胃ガンで逝去されました。

 インディーズ系の映画作品にも多く出演されていた山田さんですが、何と言っても、ファンの間では『狂い咲きサンダーロード』の主役、ジンさんの印象が強いでしょう。

 この作品、小林捻侍演じるホモのスーパー右翼が頭の悪い暴走族を洗脳して手なずけるところが、現実の暴走族からヤクザへ・・・というパターンを描いていました。

 監督の石井聰互は、博多出身で『高校大パニック』を自主製作。これが認められてプロデビュー作としてリメイクされた『高校大パニック』(浅野温子のデビュー作)でプロとなった・・・というところは、何やら『死霊のはらわた』でデビューしたサム・ライミ(一般的にはスパイダーマンの監督として有名)監督を思わせますね。

 石井監督の初期作品である『狂い咲きサンダーロード』は、タイトル通りにかなり狂った作品でした。

 私は、当時、岡山理科大学の映画研究部の部室でビデオで観た記憶がありますが、物凄く予算がかかっていないであろう、ほとんど自主映画と言うべき作品の中にTVで見慣れた俳優が若干名出てくる点で、「あ~、これはプロの作品なんだ」と、何となく納得したのを覚えています。

 そして、捻侍さんが登場するシーンでは皆で大爆笑して見たものでした。

 ですが、この時、山田辰夫という俳優は誰も知らず、松田優作のようなスター性もなく、いかにもチンピラっぽい、気は強いけれどケンカの弱そうな雰囲気、しかも頭の悪い“ジンさん”なる主人公に誰も感情移入できなかったのです。

 が、後に、「それが山田辰夫なんだよ!」と知ることになったのは、クライマックス。

 ジンさんは仲間も無くなって、片手も失って、完全な敗残者になろうか?と思われる時になって、「やってやろうじゃね~の・・・」と不敵に笑って武装してバイクで乗り込み、敵を殲滅してしまうのです。

 が、「この人も死ぬな~」と思うくらいボロボロになった身体でニヤッと笑ってバイクで走り去る・・・う~ん、山田辰夫、カッコイイじゃな~い。

 確か、マッドマックスやらエクスターミネーターとかローリングサンダーとかいったバイオレンス映画が流行っていた頃だったと思うんですけれど、石井監督って『逆噴射家族』でコメディも撮れる人だと認知させましたけれど、だいたいがヘンな作品ばっかり撮ってますよね。

 中には『ザ・マスター・オブ・シアツ 指圧王者』というケッタイな作品までありますけど、キャラの立った監督としては日本一かも知れません。

 それにしても、『狂い咲きサンダーロード』というのは、何の生産的才能もないボンクラでダメな人間であっても、“やってやろうじゃないの精神”さえあればヒーローになれちゃいまっせ(死ぬけど・・・)というメッセージを送る気持ちは絶対なかったと思うんですが、奇しくもそういうメッセージを受け止めてしまった人間が少なからずいるんじゃないか?と思うんですね~。

 山田辰夫さんは、その後、やっぱりほとんど主演作はないままに個性派名脇役として数多くの作品で顔を見ました。ちょうど、BSフジで『雲霧仁左衛門』をやっていて、出演されていました。

 けれども、その度にジンさんの勇姿が脳裏に蘇ってきたものです。


 山田辰夫さんの御冥福を祈ります・・・。


追伸;歌手の川村カオリさんも乳ガンで亡くなられてしまいました。聞くところでは女性の20人に一人が罹るガンなのだとか? 私の親類もこの病気と闘っています。川村さんは38歳だったとか。人生の半ばで逝ってしまうというのは残された者はつらいと思うのですが、俳優や歌手は、ファンの心の中でずっと生き続けていくでしょう。

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新体道は現代に蘇った無住心剣術だ!

 観て参りました。新体道のライブ・パフォーマンス“light rhythm”。

 シダックスの講座が終わってから、師範代と指導員と三人で江古田に向かい、開場30分前くらいに到着したので、セミナー後にいつも利用する喫茶室シャノアールで軽く時間を潰してから行きました。

 最近、講座で居合術を練習しているので三人ともに刀持参だったのですが、私はおニュー?の彫刻入り無銘刀(真剣・・・)を持っていたので、ちょっとマズイかな?とも思ったんですけどもね。

 地下のライブハウスに降りると、新体道首席師範の大井秀樹先生が笑顔で迎えてくださいまして、会場に入りました。

 で、今回のライブの大物ゲストである日子(ヒコ)流護身術宗家、田中光四郎先生と門人の木村真実さんも既に到着されていました。

 そうです。過日、新体道開祖、青木宏之先生を御紹介して以来、この現代の達人お二人は親交を深められているのです。

 うちの師範代と指導員は光四郎先生とは初対面で、一気に緊張していました。

 世情に名前だけ知られる武道家は多くとも、私が「この先生は本物の達人です」と迷うことなく言える先生はいたって数少ないのですが、青木先生、光四郎先生に関してはためらいを感じません。

 まったく逆とも思える方向性を持ちながら、このお二人は、紛うことなき活殺自在の術域に到達した武人なのです。

 いや、恐らく、田中光四郎先生の技に触れたことのある人であれば、私の言にも納得がいかれると思います。

 しかし、「青木さんって、本当に強いの?」と思われる方は少なくないでしょう。

 何しろ、新体道の別名は、「戦わない武道」なんですからね。武道界の前衛派。戦いを超えてアートになった体技。武道界でもその評価は群盲象を撫でるがごとし・・・。

 光四郎先生の武技はシンプル・イズ・ベスト。迷いのない殺法であるからこそ、その評価は好き嫌いは別として“必殺の武道”として揺るぎのないものです。

 けれども、新体道の演武は舞を演じるがごとく、その武的実用のイメージが曖昧で、まるで抽象絵画のごときもの・・・。

 私自身、縁あって新体道の武術としての背景を知ることがなかったならば、果たして外部から見ただけで評価し得ただろうか?と思うばかりです。

 だからこそ、私は新体道の武術としての真価を声を大にして言っていかねばなるまいと思っているのです。

 だから、敢えて挑発的な問題発言をかましてしまいますと、よく、「青木さんと、宇城さんとどっちが強いんでしょうかね~?」と聞かれるんです。

 私は迷わず、「そりゃあ、青木先生が上だよ」と答えます。

 何で、そこまではっきり言えるの?って思うかも知れませんけど、これは論理的に考えている結論です。

 宇城さんの強さの秘密は“当てふぁ”でも気の技でもなく、“読み”の能力。“読み”が優れているからフルコンのチャンピオンを一瞬で倒して見せたりできる。

 ですが、その“読み”の能力は青木先生が断然、上です。背後から突然襲いかかったフルコン空手家が一瞬で血ダルマにされてしまった話を『武術の教え』で書いていますが、これも複数の人から確認とって事実であることが判明しました。

 でも、宇城さんはこれに失敗したと聞きます。

 だから、「青木先生が上に決まってるじゃん? あの人は、単なる面白いオッサンじゃないんだよ~。君ぃ~、愚問だよぉ~」と、私は答える次第なんですよ。

 そして、新体道には“読み”の技能を高めていく訓練システムが入っているんです。

 だから、普通だったら「先生はできるけど弟子には伝わらない」というのが相場であるところの“読み”の技能をきちんと伝承していけているんですね。

 はっきり言って、これさえあれば、他の技なんか要らないですよ。他人の害意を事前に察知できたら、さっさと逃げてしまえばいいでしょう?

 百万の殺人技を体得するより“読み”の技能を磨いた方が勝負の上では圧倒的に有利なんですよ。わかりますか? この理屈。

 もっとも、私も昔は青木先生だけができて一般の新体道修行者には伝承されていないのでは?と思っていたんですね。

 けれども、今回のライブ・パフォーマンスを拝見して杞憂だということがよくわかりましたよ。

 久しぶりに観た新体道新体制の修行者の皆さんは、私の予想を遥かに超えていました。

“男子、三日会わざれば刮目して見よ”って言いますが、数年ぶりに拝見した新体道の姿は驚くべき進化を遂げていました・・・。

 新体道空手・新体道杖術・・・そして、青木宏之先生が新たに創始した天真流剣武居合術の技・・・そのどれもが練りに練った身体と、開放された屈託のない心によって、かつて見たことのない武道の姿を顕示していたのです。

 これは、現代に蘇った無住心剣術だ・・・と、私は思いました。

 つまり、技を超えて、形を超えて、ただ有るがままに無心に自然に動く。武技としての鋭さは音速を超える鞭のしなりのごとく、軽やかに全身が動き、手足の先端に重みが乗り、ハラから気合がわき出る・・・一技の軌道が空間に描く鮮烈なる刃の軌跡・・・。

 剣体一致、剣心一如・・・これこそが日本武道の理想の姿であると言っても過言とはなりますまい。

 闘争を超えて闘争を捨てた新体道の中には、とてつもなく高密度のエネルギーが内在し、恐るべきパワーを秘めている・・・と、私にはそう見えました。

 だから、青木先生が名のある武道家を瞬時に倒してのけたという話の数々(あ~、全部、はっきり書いてやりてぇ~)を、私は微塵も疑わないのです。さもありなん・・・と。

 いや、読者のために一つだけ具体的な秘訣を解いておきましょう。

 通常、日本武道でも中国武術でも、大家と呼ばれる人は皆、体幹部がすっきりと屹立し、動きの中でブレが生じないものです。

 しかし、この大前提とも思われている長所が、実は短所ともなりえるのです。

 背骨をまっすぐ正して動けば、骨盤の横回転の動きしか使えない。上体を固めて動けば、足捌きで移動するしかない。

 私がシステマを高く評価したのは、上体の柔軟な動きにありました。

 つまり、背骨を柔らかく伸縮させたり捻ったりして相手の攻撃のベクトルを変えて反撃に結び付けてしまう、あの身体全体を巧みに駆使する方法論は、多くの武術武道が忘れていたやり方であり、だからこそ他流の技法の破法となり得ると思われたからです。

 ところが、多くの武道修行者は、“上体はまっすぐ維持すべし”という古典的考えを信仰して疑わず、システマの技を虚仮威しに過ぎないと誤解してしまっていたようです。

“中心軸をしっかり保持せよ”と言えば、武道的には最良であるかのごとく誰もが勘違いしてしまっていた。

「背骨を固めてはならない。上体を固定してはならない。ナンバの動きはやり方によっては致命的となる」と、私は再三再四、主張してきました。

 よく考えてみられたい。背骨は細かい骨が二十数個も連結されており、柔軟に曲げ伸ばし捻りできるようになっているではないか?

 身体構造がそうなっている以上、その生理に従って動かすのが自然であり合理的である筈なのです。

 それなのに、多くの武道修行者が愚直に上体をきりりと固めて動かざること鉄板のごとく用いてしまっていたのです・・・。


 新体道の熟練者の動きは、実に柔軟に背骨を動かし全身の骨格をバラバラに動かす。

 こういう身体性の者には関節技は通用しないし、打撃技もジャストミートはしない。

 それでいて、バラバラな身体が一挙に統一され突き蹴りの一点にパワーが集中するのだから恐れ入る。新体道の突きが中高一本拳なのも、より威力を小さく絞って貫通させる工夫だと言われる。

 が、掌でも両拳合わせ突きでも前腕の下段払い打ちでも威力の集中度合いはケタ外れ。

 もちろん、杖でも棒でも木剣でも刀でも得物もまた体運用は一致する・・・。

 それが卓越した“読み”によって先手先手で相手を斬り割っていくのだから、最早無敵と言わざるを得ない。

 上体を固めないで動けば、必然的に骨盤が柔軟に自在に動くことになる。よって、骨盤主導で全身を動かすことで、手足の動きはより自在性を増して威力も高まりスピードも増す。

 柔身構造を駆使することが武技の進化を促す。その道筋を発見した江上茂翁と、道を切り開いて舗装していった青木宏之先生・・・。

 あの甲野善紀氏のみならず、メビウス気流法の坪井華譲氏、練気柔身法の島田明徳氏、ゆる体操の高岡英夫氏・・・等、実に多くの人が新体道の影響を受けていると言われている・・・。新体道は一般には難解だが、専門家筋には極意の宝庫とされていたのだ。


 ライブ・パフォーマンスも終盤。情熱的なサルサか阿波踊りか?とも思わせる新体道の真骨頂である“光と戯れる”群体運動の躍動感は、そのままダンス・パフォーマンスの爽快感を残して、予想外の新体道パフォーマンスのボディアートとしての傑出ぶりを印象付けたのでした・・・。

 終了は22:00を越え、私たちは終電に乗り遅れないよう、急いで会場を後にしましたが、非常に得難い一夜でした。

 この夜のライブ模様はNPO新体道よりDVD化販売予定とのことなので、是非、御高覧をお勧めするところです。

 最後に、御招待くださった天真書法塾、吉田晶子様に御礼申しあげます。


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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
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