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日本武術最新最高のDVD『青木宏之 剣武天真流』ついに発売!

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http://www.queststation.com/products/DVD/SPD-7605.html

 2008年の暮れ頃だったでしょうか? 私が剣武天真流のプロトタイプたる青木宏之先生の居合術資料DVDを頂戴したのは・・・。

 その頃は、まだ天真流剣武とも剣武天真流とも名称が決定されておらず、また、流派として新たに興すかどうかも未定であるようなお話を聴いていました。

 それはともかくとして、1970年代から1990年代前半の頃にかけて、「日本武術の最高の遣い手は新体道創始者の青木宏之だ」という噂が武道界の中にあった、その生ける伝説であると同時に神格化されるほどの存在であった、その青木宏之先生と、まさか自分が武術界の裏話を、しょっちゅうお喋りしあうような関係になろうとは、夢にも思わなかった・・・というよりも、正に夢物語のような因縁なんだろうな~と思うばかり。

 そして、青木先生が居合術の研究をされていた、ちょうど同時期に、私も突如として居合術に目覚めて「日本武術の根本は剣、それも一瞬で死命を制する居合術にある」と宣言し、これまでの中国武術・日本武術・現代武道等々の武術研究成果を居合術の型の中にブイヤベースのごとく溶かし込む作業に没頭していたのも、不思議なシンクロニシティーを感じるのです。

「何で居合なの?」と疑問をぶつけてくる人は会員の中にもいましたが、私が居合術の理合を用いて素手の体術技法を実演して見せると驚愕の表情を見せていました。

 居合術の動きが、そっくりそのまま無刀捕りの技になっていたからです。武術というものは、理合さえ解れば、武器術も素手の体術も本質的には同じに使えるものなのです。そうならないのは、武器は武器、素手は素手と独立した技でしか考えないからです。

 居合術の流派として有名な関口流、伯耆流は柔術の流派としても有名でした。天然理心流の居合術も柔術と融合した技がいくつもありますし、現代居合道に繋がる土佐の無双直伝英信流にも柔術技法が奥伝にあります。

 日本柔術の影響を色濃く受けている現代武道“合気道”は、対剣術の技法を体系化したものと考えれば戦闘理論が明確に理解できます。有り体に換言すれば、“合気道は素手でおこなう剣術”なのです。

 それに、居合術は、腰(骨盤)のキレ及び体の捌きを養成します。私の求める武術的身法の核心を練り込むのに最も適しています。

 さらに言えば、“居合術は日本だけにしかない武術である”という点もあります。片刃で反りのある日本刀を腰間から一瞬に抜き斬る技は、交叉法と読みを駆使する武術理論に最適なのです。

「骨盤の動きを手先足先に伝える」という基本身法を持つ游心流にとっては、居合術こそが奥義足り得るものだったのです・・・。

 で、青木先生に頂戴したDVDを観た私は、断片的に工夫していた技が一気に結び付いて自己組織化していき、あっという間に九つの短い居合術の型(傑作武侠小説『笑傲江湖』の主人公の必殺剣をリスペクトし、一字変えて“独己九剣”と命名。まっ、パクリですな)を考案したのでした。

 つまり、游心流居合術“独己九剣”は、青木宏之先生創始するところの剣武天真流のアイデアを濃厚に受けて誕生したものであり、言わばフランケンシュタインの怪獣サンダの細胞が海で育ったガイラみたいなもの? あるいはゴジラ細胞を取り込んだビオランテ? いや、スペースゴジラ?・・・まっ、要するに、そんなような感じの剣法なんだと思ってもらえれば嬉しいですね。

 完成したのは私の方が早かったんですが、それは当然のことで、私はたった九つしか型を考案していないのに対して、青木宏之先生が工夫整理された剣武天真流の体系は、かなりの量に及び、礼法・抜刀・基本刀法・基本抜刀型・特殊抜刀型等で構成され、それは幻の究極奥義“相ヌケ”を顕現せしめた無住心剣・夕雲流の剣理を、新陰流兵法の体系で学ぶようにしたかのごとき厚みを呈しています。

 青木先生の凄さは、在来の日本の居合術流派のほとんどの映像資料を当たり真剣を使い潰すほどの苛酷な試斬を行い、齢70を越える自身の肉体を燃え尽きんばかりに酷使しつつ研鑽研究して得られたエッセンスを一つ一つ丁寧に体系化していった・・・という点にあります。

 確かに武術武道の世界には、70、80、90を越えてもカクシャクとして稽古されている師範もいます。

 が、その世代になって、まったく新しい流派を0から組み上げることのできた人がいたでしょうか?

 私はちょっと知らないですね~。

 しかも、観る人が観れば判ると思うのですが、青木先生の考案した居合術は、既存の枠組みを超越した型破りのものなのです。

 例えば、試斬に於いて太い青竹を、茹で上がったタケノコをシャクッと切るように無造作に力まず斬っていく“青木流試斬”の不可思議な光景は、試斬の専門家が観れば、「何で、アレで斬れるんだ?」と愕然とすること請け合いです。

 つまり、剣のセオリー(と思われている)を完全に逸脱しているにもかかわらず、なお一層の威力と術理がそこに顕在化しているのです。

 まさに、かつて“遠当て”の秘技をもって武道界の伝説を打ち立てた一代の奇才の名に恥じない畏怖すべき新流を生み出したのです。

 しかし、かつての遠当てを大看板としていた新体道と違い、剣武天真流は恐ろしく地味です。アピールすべき大看板が無く、“隠れ家的な名店”のような、通の人だけが理解し足繁く通う本物の味を愉しむ流儀の印象を受けます。

 そして、これは青木先生の人生のステージの変化によるものなのだろうな・・・という印象も受けるのです。

 率直に申しますが、新体道の武術性を一言で言うならば、“超殺法”でした。本当に一撃で殺す技を追及した中から誕生しているからこそ、新体道は“闘わない武道”になったのです。前衛舞踏もかくやの見かけは、武の本質の陰惨さを脱出せしめて生命の尊厳を天に問う姿として出現した、まさに現代の“無住心剣・相ヌケ”でした。

 愛無き者は武を求めるべからず・・・私がそう思うようになったのは、新体道の奥に秘められた超絶的なる殺法術に気づいたからでした。

 一般に、武道家が強さを求め続けるのは、人を殺す技も覚悟も無いからだと私には思われます。命をかけていないから強さに拘るのだと思います。

 死ぬ覚悟をしている者が強さを求めるでしょうか?

 新体道の目指した武技は、“真に効くかどうか”であり、それは換言すれば“一撃必殺”を求めた訳です。

 殺す者は殺される覚悟が必要。生きることは死ぬことを前提とする。それを自覚して生きるのが武の哲学であり、剣を常時携帯していた頃の武術ならば、それは当たり前のものだった筈です。

 当たり前というのは、しかつめヅラして他人に押し付けるものではないということ。

“たかが武術”です。

 そして、“されど・・・”と考えた時、今日、必要性がことさらあるとも思えない武術が秘め伝えてきた数多の可能性が発掘できるでしょう。

 私が剣武天真流DVDクエスト本社で直接購入したその日、神保町の高山本店にて、新体道の初期の本を発見して購入したのですが、店の方から「この本は、ちょうど、昨日、入ったばかりなんですよ」と、驚いたような顔をして言われていました。

 実は、お店に行く日が遅れたんですね。何とな~く、遅くなったんですけど、予定通りに行っていたら、ごくたまにしか行かないので、誰かに買われて、この本は入手できなかった可能性が高い。まさに呼ばれたとしか思えない。

 どうも、本やDVDを出せたのも、奇跡的な偶然が重なったりしていて、自分から動いてもうまく行かないのに、ふとしたタイミングで出せた・・・というのが結果も良好なのですね。

 私にとっては、最早、日常茶飯時に起こるシンクロニシティーで、「あ~、そうか。この本は俺のところに来たんだな~」と思ったものでしたが、よくあるんですよ。こういうことが・・・。

 それに、何と言っても青木先生が書かれた本なんだから、そりゃあ、霊的な意思も働くでしょうよ・・・。

 何? オカルト的? 違いますよ。天の働き、理法というものですよ。必要なものは必要な時に必要とする人のところへ行くもんですよ。天運に従って生きていれば・・・。そういうもんです。だから、出会いも別れも必然的なものであり、流れに任せるべき。



 さてさて、DVDの感想。

 もうね~・・・自分が関係している作品だから言うんじゃなくって、本当に、こんな素晴らしい武術DVDはいまだかつて観たことないです!

 同じ日に別の武術DVDも観たんですけど、もう比較するのも愚かしい。

 何か、得意満面に手足をピラピラ動かして「どうです。僕って凄いでしょ~?」みたいなナルナルな武術家?の内力の働いていない内家武術とか、頭痛がするような悲しい代物を見た揚げ句だったのも関係あったかもしれませんが、大井先生の心身一致、透徹した雄々しい動きの見事さと、“技の合理的説明をしない青木先生”のイメージを完全に払拭する青木先生の完全解説実演映像の中に、時折混じるシャレの効いたセンス!

 それに、技も動きもすべてが合理合法の原則に沿ったものでありながら、本当に自由で自在な応用発展性を秘めているのが判るんですよ。

「武術の技は最新最強であらねば意味がない」という言葉を裏付けるものなんですね。

 私は翌日の稽古で即刻パクりましたよ。公園の稽古。素手の拳法体術。そこに剣技のステップワークと入身、崩しの原理が容易に応用できるように工夫されているからこそ、剣がなくても素手の技にそっくりそのまま応用できる訳なのです。

 ちょこっと説明すると、相手の突きを掌腕で巻き流しながら入身しつつ手刀で崩し倒してみせた訳。これは、相手を掴んで固定しなくても動きの流れで相手の重心を誘導していけば勝手にバランスを崩して倒れてしまう・・・という原理を剣を掌法にして実演解説してみた訳です。合気道に於ける呼吸投げの原理ですね。

 剣武天真流は新体道よりずっと武術的用法が判りやすいでしょうね。術理が明快。合気道やっている人なら凄く参考になるでしょう。青木先生がそこまで言及して実演して見せたことって、これまでなかったんじゃないですか?

 そして、箱根のロケーションも良かった! 当日は予期せぬトラブルも起こって撮影隊は苦労したのを私も現場で見てましたからね~。それが、やっぱり演出の雨宮監督は凄いな~と感心しましたね。演武中に霧が生き物のようにサァーッと流れてくる所なんか、大自然がプレゼントしてくれた演出みたいで神秘的というしかありません。

 いやもう、単なる武術の一流派の紹介とか教材用DVDというんじゃなくって、何か、青木宏之先生のドキュメンタリー映画を観ている気持ちになってくるんですよ!

 正直、ここまで圧倒的に凄い作品になっていたとは驚きました。劇場公開したいくらいですよ。

 ある意味、「遠当てをやらない青木宏之の武術理論と思想」を紹介する作品なんです。

 コレって、つまり、いろんな宣伝戦略とか恣意的なものをすべて取り払って、リアルな青木宏之先生その人を紹介しているんですよ。

 良かれ悪しかれ、“遠当て”を前面に出したことが新体道の真価をめくらましすることになってしまっていたと私は思うのです。

 親しくしていただいている私から見ても、本当に青木先生がそのまま映っているんですよね。全然、作為的な演技や演出が入っていません。普通、ドキュメンタリー映画だって意図的な演出をしますからね。

 物凄い自然体。おおらかで、ゆったりとして、優しく、柔らかく、インテリジェンスとエレガンスを感じる。それでいて武術として物凄く鋭く力強くもある。低く落とした腰からドォ~ンと入っていく。無いのはドロドロした暗~い情念の闘争心だけ。

 多くの武道家は、日本の武道は苛烈な闘争心を鋭く叩きつけて鎬を削って精進していくものという信念があるようですが、それはやっぱり醜いんですよ。見てて気分が悪くなるんです。

 どうしてか? 野獣の闘い方だから・・・。

 人間は、他者を尊敬したり愛する心がある。それを捨てて単なる野獣の闘争心しか求めないものでは仕方がないでしょう。

 闘争心が生命力と結びついている分には必要性もありますが、過剰な闘争心は活性酸素みたいに我が身を傷つけてしまうだけです。それを昇華するのも武術武道の稽古でありましょう。

 闘争心をぶつけ合う武術は実を以て実を圧倒するやり方であり、最高の境地の武術は虚を以て実を受け流し自滅に導き、必要とあらば一瞬の実で粉砕するものです。そこには圧倒的な次元の違いがあって勝負構造そのものが別次元になっています。

 私はそれを目指していますが、それは具体的にそこに達している青木宏之先生にお会いしているから目標にできる訳です。

 剣武天真流は日本刀を使います。「日本刀を持ち歩く訳にはいかない。だから実戦的じゃない」と思う武術愛好家もいるでしょうが、違うんですね。

 武術修行の基本的目的は、身法と心法を磨くことなんです。技は二の次なんですよ。

 いや、真に効く技というのは、他人に教えてもらうのではなく、自分の内から自然に湧き出てくるものでなければなりません。

 肉体のみで殺傷力を体現することは至難の業ですが、日本刀という最初から殺傷力のある道具を用いることで、誰もが心身を飛躍的に鍛錬していくことができるのです。

 素手の武術武道しかやったことの無い人や、現代剣道の経験しかない人は、どうも目先の闘争に心奪われてしまって、命のかかった戦いへの心身の備えができない傾向があると思うのです。

 また、多くの居合術流派が形式に雁字搦めになってしまって、型の所作を追いかけるのに終始してしまい、本来の武術的闘争への順応性が見えにくくなっています。

 つまり、ほとんどの流派が形式の中に埋もれて最初から上限を決めており、その枠組みから一歩たりとて出ようとしていないのです。

 フルコンタクト空手が発展したのは、未完成だからこそ。空手の稽古システムが整備されていなかったからこそ、他流の技を吸収して発展させていくことができる。

 未完成であることは恥じることではないのです。武術は完成したと思った瞬間に死ぬのです。ゾンビ化した伝統はいずれ灰塵に帰するだけです。

 海外のマーシャルアーツが日進月歩し続けている点を“未完成だから”と蔑む人は、武の本質を理解していない愚か者と言わねばならないでしょう。

 新体道も剣武天真流も、恐らくは、今後ももっと発展して形を変えていくでしょう。それは枠組みを限定していないからこそ、0化された修行の“場”から自然に展開していく筈だからです。

 現在の日本武道界で、剣武天真流は流派を超えた武の理法を教えてくれるものであると私は断言します。

 だからこそ、是非とも、この日本武術の最高峰の武の姿を、一人でも多くの方に観てもらいたいと願っています・・・。

 繰り返します。これこそが日本武術最新にして最高の究極の武の姿であり、現代に蘇った無住心剣そのものなのです!
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追伸;仮面ライダー・ストロンガー、城茂役、超神ビビューン、月村圭役を演じられていた荒木しげるさんが都内で経営されているお店に矢嶋師範代に連れていってもらいました。「ああっ、俺の目の前にストロンガーが・・・ビビューンが・・・」と感極まって頭が真っ白になり、何を話したのかさっぱり覚えておりません。帰り道もボーッとして帰り、電車もボーッ、家についてもボーッとしておりまして、翌日、矢嶋師範代からアレコレと話を聞いてから、「あ~、そういえばそんな話をしていたな~」と思い出しましたけど、特撮ヒーローを演じられた役者さんというと、何か自分の人生の基本を教えてくれた師匠という感じがしますね。「役者として仕事しただけ」とクールに言う人もいると思いますけど、俳優という仕事をする人は、いろんな人に物凄い影響を与えているんですよね。本当に人間が選ぶ仕事の中でも最も素晴らしいものの一つだと思います。荒木さん、ありがとうございました!

追伸2;ただ今、本の原稿執筆中につき、しばらく、ブログお休みしま~す。セミナー感想をお送りくださった皆さん、ありがとうございます。いつもなら個別にお返事を書くところなのですが、申し訳ありません。今回はお返事はパスさせてくださいませ。また、酷暑が続いておりますので、皆様、水分と塩分の補給に御注意ください(Kさん、お中元ありがとうございました)。

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現代刀の最上大業物

 知らないうちに日本刀に関する本が増えていたんですけれど、『趣味の日本刀』(柴田光男著・雄山閣)という日本刀の専門書があるんですが、値段が高くて(5700円!)、ちょっと買わずにいたものを、少し余裕ができたので、町田のあおい書店で買ってきました。

 どうして買ったか?というと、現代刀も結構、紹介されていたからなんですね。

 昔は古刀にしか興味がなかったんですが、実際に十本以上、所持してみると、数打ち物の古刀より出来の良い新刀や現代刀の方がいいように思えてきたんですよ。

 特に、小宮四郎国安のゴツイのを入手してからは、考え方が変わってきました。

 そして、この『趣味の日本刀』で書かれている昭和の時代に新作名刀を一堂に並べて、中山博道翁が試し斬り比べをしたという逸話。

 竹を芯にしたマキワラを四つ据え物にした“四つ胴”を試したところ、四つ胴を截断し、尚、木台にまで斬り込む壮絶な一刀が出現し、中山翁はもう一度試したところ、やはり同様の斬れ味で、文句無しに“昭和の最上大業物”の折り紙を付けた。

 それが、小宮四郎国光。私の持ってる刀の先代なんですね。

 いや~、この話を読んで、あらためて凄い刀を入手したんだな~と思いました。

 私の所持している物では、南蛮鉄で造ったという相州綱広が良業物で甲を截断したという試し銘も中心にありますが、以前、試斬に使ってみたら、鎬が高いのが災いしてか?思ったほど斬れませんでした。多分、堅い物を斬るには適しているんでしょうね。竹はよく斬れたし・・・。

 小宮四郎国安はお店で見せてもらった時から、「うわ~、これは相当斬れそうだ」とは思ったものの、あまりに綺麗なので試し斬りに使うのはやめておこうか?と思っていたのですけれど、これはどのくらい斬れるか試してみたくなりましたね~・・・。

 ちなみに“最上大業物”の称号は、首斬り浅右衛門で有名な山田浅右衛門吉睦(五代目)が試刀の斬れ味をランキングしたガイドブック『懐宝剣尺』『古今鍛冶備考』によって、広く知られるようになり、日本刀の実用価値のブランド化を招来しました。

 それによれば、古刀では、備前長船秀光、元重、兼光、和泉守兼定、孫六兼元初代と二代、三原正家。新刀では、虎徹興里、興正、陸奥守忠吉、肥前忠吉、初代そぼろ助広、初代国包、三善長道となっています。

 新々刀期には実用刀を目指した水心子正秀が現れていますし、四ツ谷正宗とうたわれて、今や本家正宗すら凌ぐほどの高値が付けられている源清麿がいます。が、試し斬りでランク付けされた訳ではなく、また、試そうとする人もいないでしょうね。新々刀期の試刀されたものというと固山宗次くらいしか知りませんが・・・。

 さて、斬れ味がいいということでは、一般的にも知られている正宗、村正、胴田貫正国とかは最上大業物とはされていませんが、これも実験された上でのことなので仕方がないでしょう。評判と実際は食い違いがあるものです。

 同様に、「現代刀は美術品としての外側の美しさしか求めていないから、実用にはならない」というのが定説ですが、現代刀工の中でも斬れ味の良さを求めて研究されている方もいるでしょう。それと美しさが両立していたら文句はありません。

 故小林康弘刀工は鉄も斬れる日本刀を鍛えたことで近年、武術業界で再評価されていますが、その評価が先鋭的になり過ぎると、「小林康弘の刀だけが優れていて他の現代刀はダメだ」みたいな誤った説が広がってしまいかねません。

 こういう考え方は、武術武道をやっている人間に特に多くて、自分の贔屓のものだけが優れていて、他はダメだと強烈に思い込んでしまう人が非常に多いものです。

 しかし、道具(流派)の善し悪しよりも使う者の技量の問題を忘れてはいけません。

 未熟な人間がメディアに登場する武術家武道家を小馬鹿にする姿は、飲み屋で政治家の無能を嘲笑している酔っ払いのオヤジと変わりません。

「貴方は自分のレベルがわかっているんですか? 貴方がその人よりずっとレベルが上だったら何も言いませんけどね。自惚れる暇があったら必死で稽古して上達してください」と私は言いたいです。

 どんな優れた先生に学んでいようが、自分が必死で稽古して上達しなかったら意味がありません。

 私も長い間(十数年)、中国拳法を学んだ先生から全然認められませんでした。口先だけの人間だと決めつけられていました。

 正直、ハラが立ったので「認めてもらわなくて結構です」と言い返したことさえあります。

 けれども、今年になって、ようやく「先生の顔になった。俺はうれしいよ」と言ってくれました。

 その先生は、とにかく実力至上主義で弱いヤツが一人前の口をたたけば、「それならかかってきなさい」と言ってメタメタにぶち殴って天狗の鼻をへし折る性格でしたから、私も「武術を教える以上はこうでなくっちゃダメだ!」と、最近は宗旨変えしました。

 極端にいうと、弟子の自惚れを矯正するのが師の義務だと思います。

 だって、武術をやっていて自惚れるというのは致命的ですよ。油断しまくって簡単に殺されてしまったり、周囲の人にチンピラみたいに噛み付いて社会生活を自壊させてしまったりしかねないでしょう?

「ただ、強くなればいい」とハードボイルドに言う人は少なくないんですが、その“強さ”というのが、ヤンキーのケンカ自慢レベルでしかないのでは、世の中に何にも貢献できない訳ですよ。

 本来の武術の技というのは必殺仕事人が遣うみたいな技であり、“相手がどんな強力な人間であっても何もさせずに殺す暗殺術”なんです。暗殺術に強いとか弱いとか関係ないでしょう?

 それに、「強くなってどうすんの?」と私は言いたいんですよ。

 プロ格闘家になって世界一の称号と大金と美女を手にしたい?

 私、そんなの全然、興味がわかないな~。もともと、他人に認めてもらいたくてやってるのでも何でもないからな~。リングの上でオリャーッ!って吠えるのを自分がやってる姿を想像しただけで、こっ恥ずかしい。ナルシストじゃないとやってけないよ~。

 何か、前提として他人の目を気にし過ぎなんじゃないでしょうか? 私は自分が納得いくかどうかしか考えません。修行ってそういうもんでしょ? 自己の修養ですよ。

 武術修行は“毒を以て毒を制する”修行です。毒も少量なら薬になる。だから、毎日少しずつ少しずつ稽古して心身を強靭に鍛錬していき、超人的な技能を養う訳です。

 量を間違って成果を早く得ようとすれば心身のバランスを崩して人生を崩壊させかねないのも武術修行。だって、もともと“毒”だから・・・。

 現代武道は毒を薄めて練習するようになりましたが、本質を求めて毒に染まってしまった人もいるものです。

 では、何故、そこまでしてやるのか? それは、武術修行で鍛錬することで決死の覚悟が養成できるから。

 覚悟の決まった人間は、個としての人間の最高の能力をいざとなったらためらわずに発揮できます。世の中のしがらみに捕らわれずに、自己の求めるところを思いのままに追究できる。

 その上、それを邪魔しようと実力行使してきた連中を撃退する技能も得られる。

 幕末の志士の多くは、剣術修行で得た覚悟と行動力と戦闘力があったから、あれだけの働きができたのだと私は思いますよ。単なる暴れん坊のバカばっかりじゃなかったでしょうし、単なる知識だけのオタクでもなかったでしょう。

 だから、武術やるんだったら、社会的な活動をやってもらいたいですね。私みたいに武術以外何もできない人間にはなってもらいたくない(・・・つうか、私ももの書きとして活躍できるようになろうと勉強中ですが・・・)。


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『必死剣鳥刺し』感想

 19日(祝)に、北島師範と二人で橋本のMOVIXにて『必死剣鳥刺し』を観てきました。

 感想を言うと、かなり良かったですね。

 私は、今回、殺陣に注目していたんですが、殺陣に連なる所作であったり作法であったりという部分が、かなり丁寧に注意深く考証されているように感じました。

 例えば、“馬から降りる時に右側から降りる(刀が邪魔にならないように昔の武士は右側から乗り降りしたとされます。現代の乗馬と逆)”とか、“馬に乗っている時に大刀の鞘を返して刃側を下に向ける”とか、“家に帰った時に大刀を渡された女は素手でなく袖越しに受け取る”とか、“家の中で脇差を部屋差しのものと取り替える”とか、いろいろです・・・。

 しかし、この手の所作とか作法については諸説あるもので、例えば、“正座している時に足先を重ねない”とか、“畳の縁に座らない”とか、“はちまきは耳たぶの上を一緒に巻く”といった細かい点や座礼のやり方などについては、少し間違っているかな~?という点もありました。

 昔は武芸考証家という仕事もあって、名和弓雄先生とか初見良昭先生が有名でしたが、最近では、こういった所作や作法に関しては、大学で専門に研究している学者を呼んで全般的に考証してもらう場合が増えているそうです。

 NHKの『龍馬伝』なんかもそうしていると新聞で読みました。

 こういった所作、作法に関しては、一回教えたらそれで充分なので、長く時代劇にかかわっている役者さんは、必然的に専門家並みの知識を得ることになっていきます。

 時代劇が作られなくなれば、そういった知識は伝えられないまま忘れられてしまうでしょうが、取り敢えず、今のところは心配ないでしょう。

 特に、山田洋次監督が時代劇三部作を撮って、リアルな時代劇を目指してディテールに拘ったために、以降の本格時代劇はリアル路線にすべきという暗黙の了解が定着したような印象を受けます。

 もっとも、意外に思う人が多いと思いますが、私はそれほどリアルな時代劇作品を観たいとは思っていません。

 本当にリアルな時代劇を作ろうと思ったら、多分、日本刀で斬り合うシーンなんか、ほとんど無くなってしまうだろうと思うからですし、所作が正確かどうか?という点に注目して観ているファンは滅多にいないでしょう。

 作り手側が自己満足に陥ってしまえば、時代劇作品の分野そのものが衰退していってしまうでしょうし、キャラクター全員を的確に描き分けるのは不可能に近いでしょう。

 もし、リアルさをウリにするのであれば、それは、その所作が何故、そうするのか?という点から説明していくシーンが必要になります。でなければ、観ている側には意味が解りません。

 本作でもクライマックスの立ち回りの最中に小刀を取り出して作業紐を切って口にくわえるカットがありますが、正直、何を意図しているのか解りませんでした。周囲に刀を持った者に囲まれている状態で、その動作をやる必然性があるのだろうか?と思ってしまいましたが・・・。

 例えば、老武士と若い侍が馬に乗っている時に、老武士の刀の反りが返っているのを見て、「刀の反りが返っていますよ」と若い侍が言うと、老武士が苦笑いして「近頃の侍は馬の乗り方も知らぬのかの~。よいか。馬に乗る時は刀の反りを返しておくのが心得じゃ。お主のようにしておれば、鞘のこじりが馬の尻っぺたを叩いて、驚いた馬から振り落とされるのがオチじゃ。わかったか?」と教えてやる・・・なんてシーンがあれば、観ている客も「なるほどな~」と感心して作品世界に興味も湧くというものでしょう。

 だから、ウンチクを見せるには、ただ正確にやればいいというものじゃないんですよ。観客の興味を惹くような演出を積み上げて納得させないと・・。

 トヨエツは役作りのために幽閉されて運動しないから太った筈と考えたそうなんですが、風呂でたるんだ肉体を見せるのは、役者としてはどうでしょう? そういうリアルさは観客が喜ぶとは思えないのですが。


 私は、時代劇はファンタジーであって良いと思います。

 ファンタジーを支えるためのディテールとしての武芸考証であり、衣装や生活風俗、所作、作法が殺陣を効果的に盛り上げるものであって欲しいからです。

 で、今回の『必死剣鳥刺し』ですが、これまでの藤沢周平作品とはちょっと違っていて、悲壮な終わり方をします。

 市川雷蔵の『薄桜記』『剣鬼』や中村錦之助の『仇討』を思い出します。

 つまり、かつては多く撮られていた“滅びの美学”を描いた作品の系譜に連なっています。

 平山秀幸監督の資質もあると思いますが、山田監督だったら描かなかったであろう濡れ場のシーンも割合、ちゃんと入れてあります。トヨエツと池脇千鶴だからラブシーンも当然あるだろうと思っていたんですが、ちょっとそこだけ印象強過ぎるかも?と思いましたが、ヤルことヤッたら女もハラが座るのだ・・・という微妙な変化を演技して見せた池脇千鶴はやっぱり大した女優だな~と改めて感心しましたね~。

 しかも、一発必中?で赤ちゃんができていることがラストでわかって、ちょっと救われた気がしますけれど、「何か、ターミネーターみたい?」と思いましたね。

 しかし、この作品中で私が最も印象深く思ったのは、吉川晃司です。

 いや、実にカッコイイ。バカ殿様(村上淳がいい味出してます)に意見する別家の当主ですが、あまりのバカ殿っぷりに義憤を感じて独りで乗り込んでくるんですから、ある意味、桃太郎侍みたいなものなんですよ。

「お刀をお預けください」と必死で停める者達を蹴散らして堂々と大刀を片手に持ったまま乗り込んでくるワイルドなところは、あんなバカ殿は、ぶった斬ってしまえ!と応援したくなります。

 しかし、そこにトヨエツ扮する三左エ門が立ち塞がります。

 岸部一徳演じる中老、津田民部の命令で殿の警護役をやるように言われていた三左エ門は、「お手向かい致しますぞ」と、直心流の遣い手である吉川演じる隼人正に小太刀を抜いて立ち向かいます。

 手傷を負いながら、何とかお勤めを果たして隼人正を倒した三左エ門を、津田は「乱心者を討ち取れ!」と、待機していた侍たちに命じます。

 そして、悲惨な死闘が始まるのですが、津田の命令に待機していた侍たちまでもがギョッとした顔をしますが、逆らう訳にもいきません。

 かくて、恨みもない同僚たちと斬り合わねばならなくなった三左エ門は、初めは峰打ちでしのいでいたものの、何度も斬られてお上の理不尽な仕打ちに激怒。そこから本当の必死剣へと物語が進むのです・・・。

 何だか、平田弘史の『血ダルマ剣法』にも通じる武士道残酷物語の印象もありますが、陰険な策士である津田を必死剣鳥刺しで仕留めた瞬間。組織の犠牲にされる個人の怨念を晴らす“男の死に様”を見て、「そうだよ。これが武芸者なんだよ」と思いましたね。

 藤沢周平の作品を評価する人達に言わせれば、「藤沢作品の主人公は何の取り柄もない平凡な下級武士である点がいいんだ」とよく言います。

 しかし、それは表向き。彼らは皆、秘めた剣技の類い希な遣い手ばかりであり、それだけで充分に異能の人物であり、ちっとも平凡な人間ではないんですね。

 非凡な才能を隠して平凡に生きているだけです。が、その非凡さが知られた時に苛酷な運命に巻き込まれてしまう。

 何か、ちょっと解りますね~。非凡な人って嫉妬されやすいですもんね。


 さて、三左エ門がこうなってしまったのは、妻が病死したことと、バカ殿の側室が政治に口出しして藩政が荒れてしまっていたことの二つが理由としてあり、義憤にかられた三左エ門が人生を終わる前に人々のために役立とうと側室を刺殺したことが発端でした。

 当然、斬首されるだろうと思っていたら、閉門だけで済み、その後は殿様の警護役に抜擢されて・・・という不可解な出世コースを歩むものの、それは謀略だったという話なんですね。

 この作品中、明らかな悪人は、側室の連子(関めぐみ)だけのような感じもするんですが、連子の身の回りの世話をしていた奥女中の多恵(山田キヌヲ)は、殺された連子の菩提を弔って尼さんになっているし、実はそんなに悪い女でもなかったのかもしれません。

 バカ殿は、ただバカなだけだから、やはり、一番の悪人は津田民部なんでしょうが、この人も途中までは三左エ門を助けた良き理解者みたいにしていました。

 だからこそ、最後に正体を現して、バカ殿と一緒に三左エ門が斬し殺される様子を見物している様子の底意地の悪さは秀逸です。

 それだからこそ、騙された三左エ門が武士の意地として、必死剣鳥刺しで津田を死出の道連れにするところがカタルシスを喚起するのです。


 この作品は、殺陣とドラマがクライマックスで融合する典型的な展開ですから、殺陣がダメだと全体がダメになってしまいます。

 この点、殺陣を担当している久世浩さんは相当、気合入れていたでしょうね。

 キネ旬では三左エ門は天心独古流の遣い手と書かれていたんですが、「おかしいな。天心独明流というのはあるけどな~。支流の名前かな~?」と思っていたら、やはり、天心独明流の間違いでした。

 天心独明流は、根来八九郎重明が開いた流派で一刀流の系列です。が、どんな技を遣う流派だったのかは判りません。

 久世さんも小太刀を遣う流派だったらしいということまでしか判らなかったそうで、小太刀だったら富田流を参考にしようと考えて手を考案されたとのことです。

 富田流は一刀流の源流ですから、まあ、そんなに外れた感じにはならないでしょう。

 屋内の対決シーンは、どうしても間合が近くなりますから、そこにリアルな視点を持ち込むと「おかしい」と思ってしまいます。

 本作では印象的な細かいカットをインサートしつつ、血糊をかなり使うことでインパクトのある死闘を表現してくれていました。

 雨中の立ち回りというのも『七人の侍』のような戦いのリアリズムを表現するのに一役かっているでしょう。

 ずうっと抑えたドラマの展開が、最後に爆発するという構成も良かった。

 昔の作品だと後味の悪さだけを残してしまうことが多かったと思いますが、この作品の場合、むしろ、意地を通して死ぬところが“お見事”と言いたくなりました。


 うん、これなら及第点です。観終わった後で残念感しか残らない時代劇作品が少なくなかったので、今年は『花のあと』に続いて堪能できました。

 また、予告編で『十三人の刺客』をやっていましたが、13対200の死闘だそうで、これは中々、期待できそうです。


 もっとも、劇場が明るくなって、さあ、帰るべ・・・と立ち上がって周囲を見回した瞬間、私は背筋を冷たい汗が滴るのを感じました・・・。

「うわっ、ジジババばっかり!」

 結構、人が入っていたものの、見事なまでに50代60代70代と思しき人達しかいなかったのです・・・。

 は~、時代劇って、最早、老人しか見ないのかな~? 刀剣女子ブームは嘘かな~?

 せっかく、いい映画つくっても、人が見ないんじゃ意味ないもんな~。


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心法の修行は日常の意識から

 武術の稽古が身体操作の観点で語られるようになった利益はあると思うのですが、弊害というのも存在することを、一体、どれだけの人が気づいているのでしょうか?

 身体を練って、柔らかく・しなやかに・強靭に・・・といった身体の動きの質を養成することは重要です。

 しかし、あくまでもそれは基礎的なことであって、具体的な武術の技と戦術を駆使することができるようにするには、それだけではダメです。

“筋肉ではなくて筋(すじ)を鍛える”とか、“ファンソン(脱力のこと)が肝心”といったことは、常識であって、できるできないの話ではなく、“できていなければならない”のです。

 うちでは基本技の練習をしません。

 必要ないと思っているのではありません。“そんな当たり前のことは自分で毎日やっていなければならない”から、稽古会ではやらないのです。

 既に“できて当たり前”との認識で教えています。

 だから、稽古会で教えている内容について基礎からきめ細かく全てやろうとしたら、ベラボーな練習メニューになってしまうのです。

 実際に、初期の頃はそれをすべてやらせようと思っていました。

 私自身がやってきた内容を全部やらせようか?とも思っていたのです・・・が、それをやると2時間の稽古がそれだけで完全に潰れてしまいます。

 それで、稽古内容を厳選して絶対必要と思われるものだけを残して、「独りでできることは毎日やってくださいね。基本の突き蹴りくらいは自分でやっていてくださいね」ということにした訳です。

 これは、経験者が多かったという点もありますし、ある程度の身法原理が体得できたら技なんかいくらでもアドリブでできるようになるから、形式的な基本技の練習を稽古会で時間を割いてやる必要はないと考えたのです。

 それに、“経験者は基本技の練習は毎日やるものだろう”と私は思っていたんですね。

 私は昔からそうやっていたので、それが当たり前になっています。道場は稽古する場所ではなくて、日頃の稽古の方向性が間違っていないか確認する場所なんだと思っている訳です。

 なので、自慢じゃありませんが、先生から手取り足取り教えてもらった記憶はあんまりありません。

 どうしてか?というと、先生が手本で見せてくれる動きを目を皿のようにして観察し、一発で覚えようと必死で集中していたので、ほとんど手直ししてもらわなくとも良かったからです。

 もちろん、説明してもらうこともほとんどありませんでしたし、先生が説明している時は耳を澄まして一言一句も聞き漏らすまいと、これまた集中して聞いていました。

 私が見学しているだけで、その先生の技の原理まで解るというのも、ただただ、この必死に集中して観察するという行為のお陰でしかありません。

 そうしておいて、帰宅してから自分で再現してみて、技の意味、動きの合理性といったことを繰り返し自分の身体の動きで再検証していっているのです。

 あるいは、気安く、技の秘訣を言葉で説明してくれる先生もいらっしゃいます。“言葉で説明したって解る筈はない”という前提で話す方が多いのですが、私はその言葉をヒントにして、これまた自分であれこれ試して具体的な技としてはどうやれば合理的なのか?と試行錯誤を繰り返します。

 例えば、躾道館の小林先生が、先生の恩師である桜公路先生が日本刀を持って歩いているところを複数の警官に咎められ、何者か?と聞かれて、いきなり刀を警官達のスレスレに抜いて見せて、「こういう者だ」と実技で武道の達人であることを納得させたという武勇伝を話された時、「先生、それは多分、こうやられたんじゃないですか?」と居合刀をギリギリで抜いて見せたところ、小林先生は恩師の武勇伝を私ごときが再現して見せたのが気に入らなかったらしく、ムッとした顔で、以後、この武勇伝は一切、口にされなくなりました。で、それから先は、私は先生の前では自分の技は一切隠して教わることだけに専念するようにしました。


 私は、いくら教えても覚えが悪い人は、才能がないのではなくて、本気度が欠けているに過ぎないと思っています。

 同じことを何度教えてもできるようにならない人は、“人の話を真剣に聞いていない”のだと判断しています。

 それは、換言すれば“学ぶ気持ちが無い”と言うしかありません。

 そんな人は、どんなに熱心にやる気を示してみせても、それは見せかけているだけで本気ではないのだと思います。本気でやっていれば必ず上達する筈だからです。

 どうしてか? 本気でやっている人間は、自分が上達しなかったらやり方が悪いのだと考えて方法を変えるものだからです。

 毎日5分練習していて成果が出ないなら15分にする。それでも出ないなら30分にする。それでもダメならやり方を変えてみる。

 そういった工夫は誰でもやることです。

 道場に来た時だけ稽古している・・・という人は間違いなく上達しませんし、道場からフェードアウトするのも早いものです。そして、別の道場へ行き、また別の道場へ・・・というのを繰り返して、結局、ひとつもまともにできるものがない。

 そんな人が武術の世界には結構多いもので、“カンフールンペン(功夫乞食)”という業界内蔑称もあります。

 この言葉は、中国武術の業界で特に多かったからのようですが、今は全般的に増えているようです。

 つまり、いろんな知識だけあって実力はさっぱり無いという武術マニアです。

 しかし、知識があることと観る眼があることはイコールではありませんし、観る眼というのは相手を観るだけではなくて、本当は自分自身のレベルも正確に弁えていなければなりません。

 この自分のレベルを正確に知ることのできる人は、相当に少なくなります。

 何故なら、武術の場合は試合や自由組手を行わない場合が多いので、容易に誇大妄想に陥ってしまうからです。

 なので、若いうちに多少の自由組手や試合の経験はしておいた方が無難です。少なくとも誇大妄想に陥らないでいられるからです。

 ただ、私は40代以上の人にはそういうことは勧めません。できれば、やらない方がいいと思います。

 どうしてか?

 闘争本能をコントロールして、社会的に良識のある人間として働いていかねばならないと思うからです。

 40代以上で闘争本能を抑制できない人間は社会生活をまともにできません。立派な人格障害者です。私はそんな人間をこの業界でしばしば見聞してきました。

 誰彼構わずケンカを振っかけ独善思考を“正義”と言い張り、恫喝・脅迫を繰り返すオツムがどうかしちゃってるオッサンたちです。

 そんな人は結局、身を滅ぼしてしまいます。

 ヤクザの世界だって、年とって偉くなるとケンカはしなくなります。他にやらなければならないことがゴマンとあるからです。

 要するに、ヒマなんでしょう。社会的な立場があり、やるべき仕事が多くある人は、ケンカの強さなんか求めません。


 うちのある会員さんが「游心流は何を目標にしているのかわからない」と言っていたそうです。

“強さ”を求めていないから、何を目標にして修行しているのか理解できないのかもしれません。

“強さ”を求めていれば、当然のように自由組手も必要だと思うからでしょう。

 こう思う人は多いと思うので、はっきり書いておきましょう。

 游心流が目標にしているのは“達人を百人育てること”です!

 私の理想的イメージとしては、S級の超達人を3~4人、一般的な武道の世界で達人と呼ばれるA級レベルを100人程度養成することが目標です。

 どうですか~? 物凄く具体的でしょ?

 では、「達人って何?」と思う人もいるでしょう。

“達人”とは、「武道や格闘技の猛者を相手にして、攻撃を一発も食らわずに一瞬で倒せる者」です!

 どうですか~? わかりやすい定義でしょ?

 では、「超達人って何?」と思われた人もいるでしょう。

“超達人”とは、「武道や格闘技の猛者を“複数”相手にしても、攻撃を“一切出させず”に一瞬で“殺せる”者」です!

 そんなの無理だよ~と思う人がほとんどだと思いますが、大丈夫! できます! 少なくとも達人のレベルであれば、誰もが理論上、到達できます。

 何故か?

“読み”を駆使して徹底して先が取れるようになればいいからです。その上で人体の効率的な潰し方を知っていれば簡単にできる。

 実は、うちの流派で自由組手をやらないことにした理由がここにあるのです。

 自由組手をやるには安全性を考慮しなければなりませんし、ルールを決めて互いに手の内を知っている者同士で丁々発止で技の攻防をしなければなりません。

 これでは、“読み”の養成ができません。むしろ、“読み”を駆使して先を取る戦法そのものを崩していってしまいます。結果的に技を出し合う闘争の快感しか求めなくなってしまい、勝ったり負けたりを繰り返すだけです。

 これでは子猫や子犬がジャレ合っているのと変わりません。戦いの訓練にはなりますが、勝負の必勝法則を得ることはできません。

“強ければ勝ち、弱ければ負ける”というのは武術の論理ではありません。

“強ければ勝ち、弱くても勝つ、とにかく勝つ、取り敢えず勝つ、必ず勝つ、勝つためには卑怯卑劣は術のうち”というのが武術の論理です。

“だから、できる限り、戦いは避ける”というのも重要です。

 何故か?って・・・。

 だって、いざ戦ったら負ける可能性を完全に0にすることは不可能でしょ? だから、リスクは避ける。負けないために。殺されないために。生き残るために・・・。

 人間は生きて、生きた証しを残して後世の人達を幸せにすることが本当の勝ち(価値)なんですよ。

 ケンカの強さを自己満足で求めて何の価値があるのか?

 良く生きて、本当の勝ち(価値)を遺すこと。そこに達せなければ武術なんか単なる人殺しの畜生道にしかならないんですよ。

 だからこそ、皆、達人、超達人になって、世の中に役立つ人生を送っていただきたい。

 具体的には、“暴力に負けない人間になること”と、“暴力に苦しめられている人を助けられる人間になること”ですよ。

 つまり、「暴力的な腕前を誇ったり他人に見せつけて威圧したりするような心の歪んだ人間にはなってくれるな」ということですよ。

“武術は対暴力のために人類が生み出した叡知の結晶”であるというのが武術を研究してきた私の持論であり、“闘争本能を人間の理性で昇華コントロールするもの”としてシステム化してきている次第なのです。

 どうですか? 游心流の目標とするコンセプトは御理解いただけましたかな?

 要するに、“闘争本能を刺激増大させるような練習はしない”ということです・・・。


 心法修行にシフトしてきてから、私は武術の存在意義がより鮮明に解るようになってきた気がしますね。日常の意識から変えていくのが本当の修行なんですよ。


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最近、読んだ本

 ここ最近、久々に小説を読んだりしています。

 何でか?というと、小説家(ライトノベル作家)を目指して本格的に修行しようと思ったからなのと、雑誌の書評とかで面白そうだと思った単行本を買った訳です。

 で、読んだのは、『達人、山を下りる』(中央公論新社・室積光)と『竹島御免状』(角川書店・荒山徹)です。

 私、少しばかり速読の練習もしていたので、早く読めないこともないんですが、速読すると視覚で文字をとらえるので、頭の中でイメージできないので面白くない。

 なので、読書を楽しみたい時は、速読しないでじっくり読みます。

 けれども、この二冊は面白くて一気に読み切りました。

 本当に面白かったですね~。

 こういう具合に面白く読めたのは『カンフーガール』(文芸社・八神かおり)以来かな~?

 面白い本というのは、一回だけじゃなくて、時々、読み直しても面白いもんですね。

 この『カンフーガール』も、武術描写がハンパでなく、ギャグもいい感じで時々、ちょい読みしたくなって手に取ると、結局、全部、読んでしまったりします。

 特に今回も読み直していて、主人公がデートの待ち合わせ場所にした新宿紀伊国屋書店の前なんて、「ゲゲッ、そういえば俺も昔、ここで待ち合わせてカレー食ったな~? 唐突に思い出したぞ」な~んて忘れかけていた元カノのこと思い出してしまいましたがな。

 金庸の武侠小説も、ドラマに嵌まって読むようになってから、いくつも読みましたよ。

 浪人時代から学生時代にかけては、随分、本読んでいて、小説も夢枕獏、菊地秀行、笠井潔、栗本薫と新書判の角川ノベルス中心に読んでいましたね。

 今で言うところのラノベも朝日ソノラマで読んでましたね~。やっぱり『幻獣少年キマイラ』と『吸血鬼ハンターD』が原点かな~?

 あんまり記憶には残ってないんですけど、古典的な夏目漱石や芥川龍之介、太宰治なんかも読んでいたんですが、これらは勉強している感じで娯楽じゃなかったですよね。

 娯楽として読んだのは、親父が好きで読んでいて家の書棚にあった柴田錬三郎の眠狂四郎シリーズや剣鬼、山田風太郎の忍法帖シリーズ、大薮春彦のハードボイルド物が始まりでしたかね~?

 どうも、普通の恋愛小説とかは読まなかったですね~。バトルがないと、つまんないんですよね~。

 せいぜい、ダニエル・キースの『アルジャーノンに花束を』くらいかな? あっ、これもSFだった。スペクトルマンの怪獣ボビーとノーマンの話の原案だし・・・。


 そんな訳で、小説も怪獣が出てくるとか幽霊話だとか武術家が戦う話でないと読む気にならないんですが、この二冊は非常に面白かったんですよ。

 よっぽど読みたいと思わないと単行本は買わないもんね~。文庫だったら、ちょっと買ってみようかな~?と思うけどね。

『達人山を下りる』は、ユーモア小説で、山奥で独りで暮らしていた80歳の古流柔術の達人が、孫娘がカルト宗教団体に誘拐されたのを知って都会に出てきて活躍する話。

 武術の描写はイメージだけなんでリアリティーはないんですが、必殺技が相手のツボを打ってお漏らしさせてしまうというそら恐ろしい技で、これをかけられると威厳も糞もない?というシャレた感じです。

 中島らもの『超老伝-カポエラをする老人-』をちょっと思い出しましたよ。

 そういえば、この作者も劇作家らしくて、中島らもさんと共通する感性があるのかな~と思いました。

『竹島御免状』は、真面目な?時代小説かと思いきや、作者の駄洒落と遊び心が炸裂していて、普通の時代小説好きの人達が読んだら腰抜かしてしまいそうな内容です。

 竹島問題について真面目に調べて書かれたらしいんですが、そんなことはど~でもよくって、要は、『魔界転生』の続編?なんですね~、コレ・・・。

『映画秘宝』だったかの書評に採り上げられていて、「そりゃあ、読まなきゃ~っ」と思って書店を探したんですが、なかなか置いてなくって、町田のあおい書店で見つけて買いましたよ。

 主人公は柳生十兵衛。ただし・・・91歳! ムチャ過ぎます・・・。

 流石に91歳の十兵衛が活躍しまくったらおかしいでしょうから、柳生一族の若き天才陰陽師!が主に活躍します・・・。

 陰陽師だから式神を操るんですが、これがもう・・・オイオイ、そりゃマズイんじゃないの?って感じで、耳をプロペラみたいに回して空を飛ぶウサギ“卯月”に、手足と頭を引っ込めて火炎噴射で回転して飛ぶ亀“牙瑪嵐帝(ガメランテと読む。うっひゃ~)”に、頭に搭乗して操縦する18mの巨大ハニワ“覇尼麻呂(ハニマロ。マジンガーZみたい)”に、大海亀の“武羅巴(ブラパ。ウルトラQに出てきたな~。こういうの・・・)”といったやりたい放題。

 敵の朝鮮妖術師が操るのも凄いでっせ~。妖星“蜈蠡須(オラス・・・妖星ゴラス?)”に、巨大藻屑蟹(多分、SF巨大生物の島に出てきたカニが元ネタだと思いまっす)、巨大アリジゴク(アントラー?)に、巨大魚、巨大赤エイ(ウルトラQに出てきたボスタングと妖怪説話“赤エイの京”が元ネタでしょうね)が登場・・・。

 なんかもう、やりたい放題です・・・。

 そして、『魔界転生』の続編?ですから、転生してきた剣豪もいます。

 柳生新陰流の柳生五郎右衛門に荒木又右衛門。それに、雖井蛙流の深尾角馬。

 特に、91歳の十兵衛は、荒木又右衛門が蘇ったことを聞いても、あんまり驚きませんが、どうしてか?というと、“二度目だから”・・・。

 そして、「ことは躇錯剣(ちょさくけん。え~っ!)に絡む問題ゆえ、詳しい次第は申されぬが・・・」と、かつての『魔界転生』の時のことをひそひそ話で語るのです。

 私が、この『竹島御免状』の粗筋を稽古会の後のファミレスで会員に話して聞かせると、北島師範なんて、また、私がヨタ話をしていると思って笑って聞いていたんですが、本を直接見せると、引っ繰り返りそうになっていました・・・。

 いや~、竹島問題が注目されるかと思ったら、こんなパロディ小説だったとは?

 普通に時代小説が好きで読んでいる人は、「フザケンな~っ!」と怒るかも? シャレがわかんない人が多いからな~・・・。

 でも、シャレがきつい以外は、ちゃんと綿密な取材と描写がしてあるので、読みごたえあります。

 よく考えると山田風太郎のも、こんな感じだったかも~?

 それにしても、80歳や91歳の老人が活躍するという話は、“武術の達人だったらジジーでも無問題!”というおおらかさを感じますね。

 実際、90歳過ぎても実力が衰えてなかった人にも会ったことありますよ。武術の世界では70歳くらいは「ベテランですね」って程度です。

 何か、若い人が活躍するドラマより、ジーサンが活躍するドラマとかつくったら面白いんじゃないかな~? 中国の武侠ドラマなんて、若い主人公より周囲のジーサン達の方がずっと強いし・・・。

 仙人の国だからかな~?


追伸;『剣武天真流』のDVDがもうすぐ発売されます。「超人的な実力を示すジーサマなんか武侠ドラマにしか出てこないよ」と思っている武道愛好家の方は、これを観て絶句してください。武道武術を嗜む者は、このあり得べからざる実在する大和武術最高峰の超老人?ミラクルを見逃してはいけませんっ! 気・剣・体が一致し、箱根の山の霊気さえ呼び出したファンタスティック・テクニックを、とくとご覧くださいませ。


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現状に満足したら進歩は止まる

 フルコンタクト空手の問題点について書いたので、これを読まれた会員さんが内心は腹を立てられたんでしょう。ブログでコメントされていました。

 発破かける意味でわざと書いたんですが、多分、同様に感じられた人も多いだろうと思いますから、ちょっと補足して書いておきますね。

 まず、「フルコンタクト空手は格闘競技だから護身術や武術と違っていて当然だ」と、もし考えられている方がいらしたら、その考えは“大きな間違い”ですから、即刻、捨ててください。

 別にフルコンタクト空手だからとか云々という批判が目的ではないのです。問題提起なんですよ。

「フルコンタクト空手も空手。空手は武術! 武術なのにその本質を忘れかけてしまっている。猛省すべき!」と言いたい訳です。

 私が問題提起しているのは、「貴方は何のためにその流儀をやっているんですか?」という目的意識について問いかけたかったんですよ。

 フルコンタクト空手が“競技”に囚われてしまったのは、現代の多くの武道と同様のことであって、少しも特別なことではありません。

 けれども、競技で勝つことしか考えなくなったら、それは本来の武道とは違う方向へ向かっている筈です。

 恐怖心を克服して試合で頑張ることに意義がある・・・という考えを全面的に否定はしませんが、それが武道武術の求めることなんでしょうか? 違うでしょう。

 気合や根性を鍛えるのならスポーツでもできます。何も他人と殴り合わねば鍛えられないものではありません。

 ヨーロッパではボクシング廃止論もあるようです。

 日本でも国技、大相撲が存亡の危機に直面しています。

 人と人が闘うということの意味を考える時に、気合や根性だけで意味付けることは倫理的に問題があります。その事実を愛好者は見ないようにし過ぎています。

 自分と他人様の肉体を痛め付ける行為に“正々堂々と”なんて理屈を付与するのは認識の錯誤です。そこにスポーツ的快感を求めるのは麻薬中毒と変わらない感覚の麻痺であることは確実であり、それを自覚したら離れていくのが精神の成長です。

 私も若い時期に殴り合いを経験することは“必要悪”だと思いますが、40歳、50歳を過ぎても、まだそこにスポーツ的快感を求めていたら、それは精神の成長を拒否して殴り合うことそのものに耽溺している幼児的異常心理でしかないと考えます。

 武道全般が社会的評価を得られない原因の一つが、このような理性的でない大人気の無さをいつまでも引きずってしまう愛好家の多さでしょう。

 何よりも、肉体を痛め付けて日常生活にまで支障をきたす必要があるのか?と考えるのが普通の社会的良識でしょう。

 フルコンタクト空手はこうだ。武術はこうだ。護身術はこうだ・・・そんな論議を本質を追究しようとしない人間が口にすることは不毛なのです。

「できない人間はもの言っちゃダメ。言う以上は命をかけろ!」というのが私が教わった先生のお一人に学んだことでした。

 かつて、沖縄の手(てぃ)は、命と誇りを護るためのものでした。

 その精神は武術そのものであり、護身術とは“護心の術”でもありました。

 本土に伝わって“空手”と名を変えても、そこには何者にも侵されない克己の心が連綿と伝わっていました。

 それは、フルコンタクト空手にも伝えられている筈です。

 少なくとも草創期のフルコンタクト空手はそうだった筈です。何故ならば、「能書きを言っても実際に当ててみなければ現実は判らない」という実証主義の武術を標榜していたからです。

 しかし、その武術としての原点からフルコンタクト空手がどんどん離れていってしまっている。その理由は、試合競技に引きずられてしまったからではないか? 果たして、これが大山倍達先生が目指した空手だったのだろうか?

・・・というのが私の問題提起であって、それはつまり、「原点回帰すべきだ」というメッセージな訳です。

 そのためには、まず、問題点に気づいて矯正しなければなりません。

 例えば、盧山先生の極真館は、フルコンタクト空手というよりも武術としての空手へと原点回帰を目指しているように思えます。

 だから、そこで居直って、「根性を鍛えるフルコンタクト空手で充分だ。俺はそんなフルコンタクト空手を愛しているんだ!」と思うのであれば、それはもう、私のところに来るだけ無駄です。

 私は自己満足を得たい人には教えたくありません。現状に満足していたいだけなら、何故、他所に学ぼうとするのか? それは裏切りでしかないのです。

 自分の学ぶ流儀をより高めたいと思うから、私のところ“にも”来ている・・・のであれば、それなりに尊重しますし、私の武術を専門に学びたいのなら、私の武術観をまず理解してもらわねばなりません。

 どちらにしても、私は自己改革を求めている人にしか教えたくないのです。

 常に自分を高めることを考えていれば、現状に満足することなど絶対にない!

 中央公論で養老先生との対談で甲野氏も同様のことを言っていましたが、「たまにはこの人もいいこと言うな~」と思いました。

 私は健康体操としての太極拳を指導する気はさらさらないですし、游心流は太極拳だけしかやらない訳でもありません。

 そもそも、太極拳を学ぶのに何年も上達できなければ本気度を疑われるでしょう。私は教える以上はきちんと上達してもらいたいし、「どう教えれば、できるようになるんだろう?」と責任も感じている訳です。その上で、先のブログを書いている訳です。

 身体を動かす快感しか求めていないのなら、私のところに来るのはまったくの無駄というものです。スポーツがやりたい人はスポーツクラブに行かれた方がいいでしょう。

 私が教えているのは武術であり、武術というのは自己改革の心身開発メソッドであり、且つ戦闘術です。

 この論理を理解できなければ、恐らく、どれだけ形式を学んでも体得は難しいでしょうし、理解した上で目的意識が違うと感じる方は他所へ行かれた方がいいと思います。

 敢えて厳しいことを書きますと、上達しない人は取り組み方が間違っているのです。方向が間違っていれば、どんなに努力しても向上は望めません。

 頑張れば何とかなる?

 冗談じゃありません。武術は、そんな甘いものじゃありません。なめてもらっちゃ困ります。私が30数年、どれだけ試行錯誤を繰り返し苦心惨憺やってきたか? 立派な先生に教わってエスカレーター式に学んだのではないのです。

 特に太極拳の実用技法はすべて独力で考え出したものです。それを考えるために、一体、どれだけの研究を費やしたことか・・・? それを教えているんだから、そんじょそこらの太極拳と同じに思ってもらっては困ります。必死で体得してもらいたいのが本音です。

 いくら頑張っても上達しないのはやり方が間違っている。そこを謙虚に自覚して、どこが間違っているのかを調べてピンポイントで直していかなければなりません。

 フルコンタクト空手だからこう、太極拳だからこう・・・全然、違う!

 動きが堅いとか柔らかいとか、そんな単純なことではないんです。根底にある共通原理をしっかりと理解すれば、空手も太極拳も合気道も剣術も関係なくなる。

 本当にできる人は必ず根本に気づいているものです。

 倉本先生の技を映像で見ると、もう原理的にはまったく太極拳と同じで、空手とは思えません。が、やはり、“空手”なんですよ。武術としての“空手”。ため息が出ました。

 ああいう風にならなきゃダメです!

 結局、自分がどれだけ本質を理解して、自分がやっている流儀に活かせるか?という問題なのです。ビシッと筋肉を引き締めることも、フワ~ッと柔らかくリラックスすることもできる。意識を転換して一瞬で身体操作できる。

 それができない人は、心が入っていないんです。身体が思う通りに動いてくれないのは、心身が分裂しているのです。ただ頑張るのではなく、意識を集中して心身を統合していかねばなりません。

 フルコンタクト空手修行者が沖縄空手に注目しているのも、空手の本質を得たいのでしょう?

 でも、「フルコンはダメだ。やっぱり沖縄空手だ」と口走るような人は私は嫌いです。

 それに、「空手はきついけど、太極拳は楽そうだし・・・」と考える人も、何か大きな勘違いをしています。

 太極拳を本当に戦える武術に仕上げるのは空手より難しいでしょう。実戦的と称される陳式太極拳を修行する人でさえ、本当に戦える人は極めて少ない。

 当たり前ですね。戦えるかどうかは術者の問題であって流儀とは関係ないのですから。

 だから、教えられる人が滅多にいません。私は自分で0から組み上げました。目付け・交叉法・脱力・差し手・聴勁・化勁・発勁と、個別の要素をどう組み合わせれば武術としての戦闘技能を活かすことができるか?と、十数年試行錯誤を繰り返しました。

 私も太極拳が使えると確信できたのは、ごくごく最近です。が、太極拳オンリーではまだまだ自信がありません。それこそ八卦掌・形意拳・意拳・白鶴拳・八極拳・通背拳・沖縄空手・合気道などの技も交えています。

 が、太極拳は練習そのものに健身効果もあります。だから、フルコンタクト空手をやっている人が学べば、攻防の隙間を埋めて身体の故障を防ぐことができるようになるでしょう。フルコンタクト空手の欠点を埋めていくことができる。

 そういう意味で、やって損がない。フルコンタクト空手に限らず、多くの流儀をバージョンアップできる。

 それから、太極拳の攻防理論を体得することで本来の空手の動作の意味が洞察できるようになっていきます。

 気合と根性で闘うのは若い時期は必要なことでしょうが、年齢を重ねた者がやれば心身を壊していくだけです。

 これはスポーツやダンスを見れば明々白々でしょう。年齢を重ねたらやり方を変えていかないといけないし、そうすることで生涯をかけた修行にもなります。

 年齢に応じた稽古法と闘い方を体得することが本当の成長だと私は思っています。

 若い時のやり方を年とっても続けるのは、絶対に間違っています。麻薬中毒のようにやめられなければ、それは命を縮めるだけです。成長するということは自分に不必要なことを捨てていくことです。捨てることで自然に獲得できるものがあるのです。

 本当の謙虚さは間違いを間違いと自覚したら、さっと改めることです。そして、本当の謙虚さがないと学んでも成果は得られないものです。それを“学び”とは言いません。

 私は、必要だと思ったら、今後はビシビシ指摘していくつもりです。本気で教えます。

 だって、私は皆、最高の境地に達してもらいたい。低い次元で満足してもらいたくないからなんです。格闘する快感は禅でいうところの“魔境”なんですよ。敵は目の前にはいません。自分の内側にいるのです。それを悟るのが武術の“修行”です。

 以上、中年世代以上の方へのメッセージでした。

追伸;若い人は悟ったようなゴタク言わないでガムシャラにやってくださいね。


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7月セミナー“読みと目付け”感想

 月例セミナー7月は「読みと目付け」。過日、アスペクトさんで出した『武術の読み』に関連する内容でした。

 毎年、この“読み”と“目付け”に関しては、游心流の・・・と言うよりも、“武術の究極奥義”としての察知術に繋がる最も重要で、尚且つ、“人間の潜在能力開発にも繋がっていく秘伝中の極秘伝”の基本メカニズムを公開するものとして、特別な位置付けでやってきています。

 そういうこちらの意識も参加者に理解されてきた様子で、他の回とはちょっと違った受け止め方をされている様子です。

 今年も、30人を越える申し込みがあり、いつもより少し多い人数で会場が手狭になりました。

 前月の「軸の操作による合気」の中でも、目付けのやり方を少し解説していて、常連の方は「これは読みに繋がるのでは?」と気づかれていたみたいなんですが、正しくその通りでして、読みの基本になる目付けのやり方の一例として軸の観察法を解説していた訳です。

武術の読み』を出して以降、思った通り、いろいろな武道・武術関係者が“読み”について言及するようになってきていますが、“目付け”に関しては、具体的だからこそ知らないことは言及できませんから、その人の研究程度が明確に判ります。

 私は本の中では多数紹介してはいますが、具体的なやり方については実はわざと省いています。何故なら、それによって、本当に理解している人と知ったかぶりしている人を判別できるように先手を打っておいたからです。

 実際に、目付けに関しては、そんなに研究している人はいないみたいだな~と思われました。

 私が初めて目付けのやり方を教わった時は、身体の五カ所を観察することだけを教わりました。その時は先生と私二人だけで、それこそ秘伝を伝授するような雰囲気でした。

 思えば、たったそれだけの事柄を17年間も研究してきてイッパシの武術研究家として本やDVDを出してセミナーで指導したりするようにまでなったのですから、人生というのはどんな縁でどういう方向に進んでいくのか、到底わかりませんね。

 経験則からすると、肩の動き・目の動き・胴体の回転・・・くらいのことは気づいている熟練者はいるものですが、「姿勢や構えから次に動き出す箇所を読み取る」という点を言及している人はほとんどいません。

 武友・中村晴一先生から教えていただいた漫画『ツマヌダ格闘街』の中では、この目付けに関する解説が何度かあって、「ふ~む・・・この作者、ただ者じゃないのぅ~」とか思ってたんですが、「アレッ? 何か、これって俺の本とかDVDとか見てる? これは俺以外は誰も言ってないと思うけどな~?」とか思って苦笑したりしてたんですが、「参考資料とかで書いてくれたら私も売上が上がって助かるんだけどな~」と楽しんで読んでいます。

 自分としても、小説や漫画・アニメ・映画・ドラマなんかに自分が研究した武術の知識が反映してもらえると嬉しいですし、将来的にはそういう分野に進出していこうと、現在こっそり修行中なんですが、クリエイターの方がネタとして使いたい場合には協力は惜しまないつもりでいますから、気軽に声かけてもらいたいですね(別に金よこせとは言いませんよ。“協力・長野峻也”って書き添えてくれれば、私の本やDVDが売れて間接的にお金が入るでしょ? 金は天下の回りものですよ)。

“読み”に関しては、躾道館の小林直樹先生、日子流体術の田中光四郎先生、賢友流空手道の友寄隆一郎先生、そして新体道・剣武天真流の青木宏之先生という大家の諸先生方に出会えたからこそであり、私は単に編集者として紹介解説しているに過ぎません。

 しかし、私が間違ったことを広めれば、大家の先生方の名誉に泥を塗ることになりかねません。

 責任重大ですよね。


 さて、昨年のセミナーの時は、目付けを一般的に応用できるように基本から教えようとしたところ、逆に武道的に用いるのに皆さん、苦労していました。

「やっぱり、これは難しいかな~? なんか、もっと上手い教え方はないかな~?」と思って一年間を過ごしましたが、その研究成果が本に反映されたんですね。

 本を書いたことで整理できたんですよ。そして、さらにその先まで研究は日々進展していっています。

 それで、今回は、最初から“構えている相手の先を取って制圧する目付けのやり方”を解説指導しました。

 つまり、いきなり応用実践編から教えた訳です。

「フルコンタクト空手だとこう構えるから、こう動く。だから、ここをこうすると何もできなくなります」とか、「形意拳はこう構える。だからこうすると・・・」という具合に、構えることによって出せる技が限定されてくるので、それを逆利用して相手の技を封じていくやり方を指導した訳です。

 この応用の目付けのやり方は、游心流の会員の中だけでここ2年くらい研究してきたものなんですが、うちの場合は他流経験者が多いから、こういう研究もやりやすかった訳なんですよね。

 伝統空手・フルコン空手・ボクシング・キックボクシング・レスリング・合気道・剣道・中国拳法・・・と、いろんな戦闘スタイルを研究して構えと姿勢から技を封殺していくやり方を研究してきました。

 いくら強くても、その強さを発揮するためには攻防の仕組み(人体の動くメカニズム)がありますから、その仕組みの“配線”をプチッと切ってやれば何もできなくなるんですよ。

 例えば、相手の片腕を掴んでおいて、相手の突き蹴りを出せなくする方法を指導しましたが、これなんか全然説明しなかったら魔法のように思われるでょう。でも、極めて簡単なことなんですよ。何しろ、今までこんなことやったことなかったのに、教えている時に原理が閃いたんですね。まっ、もったいないから説明しません。

 人間だもの。弱点はいくらでもありますよ。

 誰もが「強い弱い」でしか考えないからダメなんですよ。もっと分析しなきゃ~。

 どうやったら勝てるのか?って相手の技とか癖とか分析したりしないんだもんな~。努力の向け所を間違ってるんですよ。自分のことばかり考えてる。相手を知らなきゃダメ。

 武術の“術”というのは、相手の弱点を観破ってそこだけ攻撃する“戦術”のことなんです。相手とまともに勝負して強さを競うのではなく、「強い相手は弱くすればいいじゃん」という小学生が思いつきそうな考え方。トンチが効いてるでしょ?

 正々堂々と戦うのが武道ならば、武術は戦う以上はどんな卑劣卑怯な真似も厭わず必ず敵を抹殺するという覚悟を決めるものです。正しく冥府魔道に生きるのが武術ですよ。

 だからこそ、最後の最後まで戦いを避けて避けて戦わないようにしなきゃいけない!

 うちの会員にも腕試ししたくてウズウズしている人がいますが、うちの技は試合じゃ反則になって使えないような技が九割九分なので、難しいでしょうね。その人は他流経験者が来るとはしゃいじゃって、興奮してるチンパンジーみたい?

 だけど、野生のチンパンジーなんて凄い凶暴ですからね。彼も自分の戦闘力がどのくらいなのか試してみたいんでしょうけど、もう“殺人拳法遣い”になってしまってるから、軽い気持ちで腕試しさせる訳にはいきません(ピクル君と呼んでます)。

 なので、「そんなに腕試ししたかったら暴力団とか暴走族とかに行って、ぶっ潰してきなさい。その方が世の中に役立つでしょ」と言ったら、いや~・・・って頭かいてましたけどね。

 北島師範みたいに、自分が馬鹿にされても腕前を見せつけてやろうとかしない抑制力が武術修行者には必要なんですよね。

 武術は個人が核兵器持つようなものなんですよ。技がどうとかじゃなくて、戦闘に関して徹底的に追究する思考が備わってしまうと、人を観れば「こうやれば殺せるな」って当たり前に考えるようになる。“倒す”じゃないんです。“殺す”なんです。

 私なんか、そうなっちゃってるから自己嫌悪に陥る時があります。「俺って一種の変態なんだ」と弁えていなきゃ、マトモなつもりでいたら危ないです。

 武術は、まともに使ってしまったら、相手を殺して自分の人生もオシャカになりますから、“無常”を自覚してなきゃダメですね。“平法”としての武術は、必ず殺す技を体得して必ず生き残る術を講じるのが極意なんです。自分が生き残るには周囲の人も生かさなきゃダメですよ。

 武術というのは、“毒をもって毒を制する”最終手段なんです。腕試ししたい気持ちも殺さなきゃいけません! 古武術が型だけになったのも、よく理解できますよ。迂闊に試し合いしたら死人が量産されてしまいますよ。空手だって沖縄の手の時代は試合はなかったでしょ?

 面子がかかった勝負になれば簡単に殺し合いになってしまいますよ。試合をやるならスポーツとしてきっちりルールを決めて安全対策をしなきゃいけません。ですが、それをやったらもう武術じゃありません。この理屈が理解できない人は既にスポーツの考え方に洗脳されちゃってるのを自分で自覚できなくなってるんですよ。

 拳銃持ってるヤツとどうやって戦うか?って考えるのが武術で、「そんなの無理だよ」と諦めるのが武道スポーツ。私はいつも考えてますよ。手裏剣練習したのも対拳銃のためです(無理だと結論付けました)。あっ、結論ですか? 「自分も銃を持つ」です!

「そんなの武術じゃね~じゃん」と思った方。

 タワケ者っ! 武術は元々射撃術も含んでるんですよ。稲富流・関流とかあるし、坂本龍馬も岡田以蔵も護身用の拳銃持ってたでしょうが? 素手で闘うことしか考えない時点で実戦性なんかカケラもありません。考え方がヌル過ぎる!


 閑話休題・・・。


 素手の武道や格闘技で襲ってくるヤツなんて、実際にはそうそういないでしょう。ケンカで武道の構えとかやってごらんなさい。結構、恥ずいよぉ~。見物人がオオッ!とか笑いながら見てるもん。

 で、長物(鉄パイプとかバットとか)で襲撃してくるのに対処するやり方もやりましたが、解説するのに独己九剣の左剣の技を実演して解説してみました。

 この日は北島師範にも内緒で、ウキウキして真剣(延壽宣次)を持ってきていたんですね。もう拵えも完成していたので、稽古にもバシバシ使える状態。

 何げにやったら、「・・・先生、その光り具合は、ひょっとして・・・?」

「当たりです・・・」

 よくTVなんかで日本刀使ってるシーンで「安全のために模造刀を使っております」なんてテロップが出たりすることがありますが、そんな小賢しいことせんでいいっ!

 続いて、無刀捕りの目付けのコツを教えて、手刀で振り下ろすのを躱す稽古をやってもらいました。

 なんか、皆さん、今回はいいですね~。ちゃんと理屈が解っていれば、タイミングを加減してやるだけですからね~。どうしても遅れてしまう人は早めに動けばいい。どうせ、年とったらどんな人間でも動きは遅くなるんです。

 だけど、読みは衰えないで高められるから、動きが遅くなるなら、その分、早く動き出せばいいだけの話です。運動能力に頼ろうとするのが大間違いなんですよ。できることをやればいいんです。

 結果的に、応用実践編で教えた方が解り易かったみたいですね。

 感想を言われた中でも、「本で書かれている以上のことが習えて良かったです」と、目をキラキラさせながら言われた方もいて、教えたこっちも嬉しかったですね。どんどん、いろんなことに応用して役立ててもらいたいですね。

 まあね~。でも、言い方を変えると“他流の破り方”を教えている訳で、邪道(大仁田?)なんですよね。

 こういうのは、あまりおおっぴらに公開するのは憚られます。他流批判そのものになってしまうし、下手に広めると武道武術業界全体の衰退化を促進してしまいかねません。

 特に、海外の武術関係者に教えてしまうと、日本武道がますますもって絶対的に負け続けることになってしまいかねません。

 つまり、弱点を突くということは、優れた点まで根こそぎ潰してしまうことになりかねないんですよ。

 私は研究家だからやっているけれど、これを広めると真面目に修行に取り組んでいる人達が馬鹿馬鹿しくなってやめてしまうかもしれないでしょう?

 例えば、空手は中国から伝わった武術が琉球で密かに磨かれて独自に発展し、本土に伝えられて以降は社会体育として世界中に普及し、伝統空手道、フルコンタクト空手道の二つの局面を開拓しながら多彩に発展していっています。

 弱点だけをクローズアップすれば、その歴史と無数の空手人の努力を灰塵に帰すことにさえなりかねない。

 そもそも、武道武術なんて人間が考えたものなんだから完全無欠なんてあり得ない。いかなる流派にも弱点はいくらでもありますよ。

 早い話、重機関銃で撃たれたらどうすることもできないでしょう?

 けれども、よく考えてください。重機関銃だって弱点はいくらでもあります。

 弾丸が無ければ重たいだけの鉄の固まりだし、街中を持ち歩けないし、第一、入手するのが難しい・・・。

 ねっ? どんな武器にも弱点はある訳ですよ。

 武術武道だって弱点はいくらでもあるんだから、そこだけ問題視して是非を論じるのは愚かなんですよね。

 私が膨大な流派を研究してきたのも、“弱点”を埋め合わせるために研究したんです。

 そして、それぞれの流派に独自の優れた点があって、それぞれに価値があるんだな~と思った訳で、だからこそ「流派に優劣はない。優劣は遣い手の問題」と確信をもって断言している訳です。

 どうも、武道武術をやっいる人間は、自分のやっている流儀だけが優れていると思い込み過ぎる傾向がありますね。日本人の特性かもしれんけど、近視眼的に過ぎますよ。

 空手の世界は沖縄空手ブームになっているみたいですが、私は、どうして空手の源流である中国武術の技を研究しないんだろう?と思うんですね。

 せいぜい、意拳くらいしか研究しようとしないでしょう?

 もったいないな~と思いますね。太極拳、八卦掌、形意拳、蟷螂拳、通背拳、八極拳、白鶴拳、洪家拳、詠春拳、酔拳、蛇拳・・・なんかは空手の技術を解明するのに物凄く役立つと思うんですけどね~。

 恐らく、能書きは立派だけれど立ち合うとひ弱な中国武術マニアがメチャ多いから、「こんなもの学んでも無駄だ」って思ってしまうんでしょうね。

 キックボクサーが達人と名高い中国武術家の拝師弟子に習いに行った時に、「さあ、どっからでも来んしゃい!」と、蟷螂拳で構えるところへ、シッ!とミドルキック出したら、バシッ! ピューンッ!って、その人はふっ飛んでしまったんだとか・・・?

 何か、コントみたいですけど、こういう話はやたらに多いですよ。

 今回のセミナーの最中でも、形意拳と酔拳の遣い方を指導しました。

「えっ、アンタ、形意拳や酔拳なんて誰に習ったの?」って思うでしょうけど、ろくすっぽ習っていませんよ。だけど、私は超テンサイ(天災?)!なんで、観てるだけで遣い方解っちゃうんですよね~。

 大体、中国武術やっている人達って他力本願の度が過ぎますよ。偉い先生にお金を貢いで教えてもらわなきゃ使えるようになれないと強固に信じ込んで自分で創意工夫しようとしないんですよ。甘えん坊ばっかしだね~。

「我流では本質が掴めない」なんか言っちゃって、自分自身で工夫することを自ら放棄してしまっている。だから、本当に遣える人が極端に少なくなってしまうのでしょう。

 私が本当に「この先生は強いな~」と思えた人は、大体、中国武術やる前に空手やっている人が多いですね。空手だって源流は中国武術なんだから、空手で基礎ができていれば中国武術の真価を発揮できて不思議はありません。

 もっとも、剛柔流空手やっていた人が柔一辺倒の楊家や呉派の太極拳を修行したら苦労するでしょうが、剛柔相済の陳氏太極拳だと割合、相性よく修行できるでしょう。

 そういう組み合わせを考えてやれば互いの長所を兼ね備えることができますよ。概ね、最初に学んだり長く学んだりしていた流儀の特色が強くなったりはしますけど、戦う時にそんなのどうでもいいもんね。

 別に中国武術に限った話ではなくて、どんな武道でもトップに到る人は自分自身で創意工夫しているものです。徹底的に努力し、その上で創意工夫する。これがいかなる分野でもトップに立つ人間の条件ですよ。

 人間、金魚のウンコみたいな生き方をしちゃあダメ! 自分の人生は自分で切り開くという気概と覚悟を持つ・・・そのための修行の手段として武術を役立てていただきたいですね。


追伸;八月から東京支部の稽古場所が変更になります。詳細は東京支部主宰の矢嶋師範代のブログを御参照ください。曜日は変わらず火曜日の夜です。

追伸2;相模原本部道場もヨロシク(第一・三・五の木曜夜7時~9時)相模原近郊の方は是非どうぞ。場所が広々しているので居合術も槍術も楽にできますよ。たまに試し斬りもやります。手裏剣もやりたいけどな~。


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ハマの夜は嵐を呼ぶ・・・かも?

 六月から始まった游心流横浜同好会ですが、新規会員希望者もあって、7月9日は私も行きました。

 何しろ、開始初日に満員電車中で持病の発作を起こしてしまったもんですから、「スマンです。毎週行くのは勘弁して~」と主宰者に任せっきりにしていたんですが、東京支部と違って主宰者はまだ指導員資格を認定していないので、せめて月一くらいは顔を出すようにしようと思っています。

 東京支部は民間のレンタルスタジオを借りているのである程度の固定人数がいないと赤字になってしまう(現在、稽古場所と曜日の変更を検討中です)んですが、金をかけているだけ矢嶋師範代が理論的に工夫してみっちり指導しているので、まあ、游心流として恥ずかしくない水準の稽古内容になっている・・・と言うか、私がテキトーに教えるよりずっと身に就いてきてますよ。

 やっぱり、うちに習いに来る人は、私が直接、教えると劇的に上達できると期待されているみたいなんですが、私は、初心者と覚えの悪い人に教えるのは苦手なんですよ。根っからの面倒臭がり屋なんで、同じことを二回教えてできない人は、もう、放置しちゃいます。

 下手でも真剣にやる人だったら、我慢して付き合いますが、下手な上にボケボケ~ッとチンタラ練習やってるような人は、もう眼中にありません。

 皆さん、勘違いしがちですが、私が厳しいことを一切、言わなければ、それはまともに教える気がない訳なんですよ。

 セミナーの時なんてサービス・デイ?だと割り切って教えているので、滅多なことで厳しく叱ることもありません。

 というか、普通、私は滅多に怒らないですよ。怒った時は破門にするか半殺しにするかと頭の中で考えています。今まで半殺しにした人はいませんけど、今後もないとは言えませんね~、フフフ・・・。

 武術なんだから、不埒なヤツの手足の一本や二本、目ン玉、金玉の一つくらい平気のヘーザで折ったり潰したりできるような凶暴さも持てなくちゃダメですからね。

 もちろん、その凶暴さを徹底的にコントロールできる強靭な理性も必要ですから、それこそ並の精神力では使いものにならないんです。

 うちの指導員の認定は、その辺の意識も持てる人を選ぶことにしています。

 その点、今のところ横浜は支部じゃなくて、“同好会”。たまに私が顔を出して稽古内容を修正していかないと問題があります。料金が半額なのも、そのためなんですね。

 で、今回は、発作が起きないように満員電車を避けて早い時間に出発して、戸塚駅ビルの本屋さんで時間潰したりして過ごしました。

 すると、武道をバイオメカニクスで解析していた吉福康郎先生の新刊『武術「奥義」の科学・最強の身体技法』(講談社ブルーバックス)を見つけて、おおっ!と思って、手にとってパラパラとめくってみましたら、吉福先生は甲野善紀氏に学んでいたんですね~(そういえば、誰かから聞いたような気がする)?

 正直、「アッチャ~・・・やっちまったね~」とも思ったんですが、でもバイオメカニクス的に武術の身体運動を解析するというのは面白そうだと思ったので、即買いました。

 甲野氏は「私の技は科学では解明できない」なんて言っていましたが、吉福先生はかつて武道の技を科学的に調べた学者として有名な方ですから、甲野氏の技に関しても明確な科学的理論構造を解明してくれているかも?と思って読みました。

 う~ん・・・そうですね~・・・正直、書いちゃってもいいですか?

 科学的に説明すると、何か、余計に小難しくなっちゃうんですね~? 「理科系大学出身なんだから解るだろ?」って責めないでくださ~い。私は中退なんですよ~。しかも、ろくすっぽ勉強しないで武術ばっかりやってたんですよ~。

 武術に関することだったら何でも来~いっ・・・って感じなんですけど、数学的に解説されるとチンプンカンプンです。

 そんでまあ、何か、読んでいてもフに落ちない箇所がいろいろあるんですよ~。何でかっていうと、「武術は身体運動だけじゃないから」というのが私の認識だからなんですね。

 結局のところ、筋肉の収縮の問題というところに論を落とし込むのは無理があるし、神経の反射作用に言及するのなら、心理的な側面を検討しないと意味がないと思うんですよね。

 武術の心理作用について言及した人としては、現在は武道指導は休止されていると聞きますが、柔氣拳法の今田柔全先生は気の武道に関する考察として催眠と関連付けて論じられていて、私的には、こちらの説明が納得いく部分が多かったですね。

 で、何がフに落ちないかというと、“戦いの中で用いる武技としての有効性”ではなく、稽古中の演武(約束組手)の技の解析しかされていないので、「それって、武術としてはどうなのよ?」と言いたくなるんですよね。

 まあね~、それがまったくの無意味だとは申しませんよ。十分に意義はあると思いますよ。少なくとも「武術の技を科学的に解明する」という試みにはもろ手を挙げて賛成します。

 だけど、何か、武術というより身体奇術?の解析しているみたいで、これじゃ、誤解が広まるだけかもしれんな~と、より権威付けして誤解を広めているようにしか思えないのは私だけなんでしょうか?

 もっとも、個人的な利害で言うと、武術ブームも沈静化しつつある今、改めて武術に光を当ててくださるのは、武術の本書いて生活費を稼いでいる私としては有り難いことでして、吉福先生に感謝!ですね。

 それに、吉福先生の御健在ぶりを知ったのも嬉しい。『最強格闘技の科学』は面白かったです(松田先生の寸勁の威力測定実験なんかも興味深かったですね)。吉福先生の御活躍を期待しています。


・・・ふうっ・・・脱線脱線・・・。

 一カ月ぶりの横浜同好会

 この日は新規入会希望者が二名来る予定なので、面談も兼ねて足を運んだ次第。

 一人は20代、もう一人は40代。

 最近、指導者クラスの人や若手でもズバ抜けて才能のある人が入ってきていたので、私はもう初心者を手取り足取りして教えてはいません。

 師範と師範代に任せています。

 この日も主宰者に任せました。教えるのも最良の稽古になりますからね。うちに入会して七年目になるそうで、「げげっ、もうそんなに?」と思うと、早く指導者として独立させねばならん・・・という気持ちもわきます。

 思っていたよりも、ちゃんと指導されていたので、ほっとしました。同好会としては及第点でしょう。細かい修正点はありましたが、大筋が正しければ無問題です。

 やっぱり、DVD教材つくって良かった・・・。

 ただ、一応、せっかく来たので、横からあれこれアドバイスはしました。技も少しは実演しました。最近は、場合によっては横で見てるだけで、まったくやらないこともあるので、この日は大サービスのつもりです。

 ところが・・・差し手の要領を教えるために実演したら、相手が激しく突っ込み過ぎて目に指先が当たってしまい、慌てました。眼鏡に当たってから瞼に入ったので眼球直撃はしなかったと思うんですが、久しぶりにゾッとする感触でした。

 事前に爪を切ってきて正解でしたよ。眼球に爪が刺さったらヤバイですからね。なんとな~く、こうなるような予感もしたんですよね。経験のある人で初めて来る人だと悪気がなくとも試したがるような気持ちが出てくる場合があるので、最近は初めての人に教える時は、稽古中の万一に備えて、臨戦の意識をしています。

 いざ勝負となった時には交叉法は絶招(必殺技)そのもの。相当な力量差があっても、人間同士が戦う場合、捨て身で相討ちになる覚悟さえできれば、そうそう負けるものではありません。そして、覚悟の差はなまじの技量差なんか問題にしなくなります。

 というのも、交叉法使うと、相手が激しく攻撃すればする程、こちらの迎撃の威力が倍加してしまうんです。

 一刀流剣術の切り落としを突きでやっている訳で、相手が激しく突いても交叉したこちらの拳あるいは貫手が相手にまっすぐ突き込まれれば、こちらは当たって相手の突きは外れます。

 我ながら恐ろしい技を工夫したもんだと思います。原理的にこれを使う流派はあると思いますが、基本技として練習しているのはうちだけと思います。

 最近はドンピシャで技を出せるようになった(十数年かかった)ものの、この技の怖さを知らない人だと突っ込み過ぎて自分から当たってしまうのです。今回も自分の距離感覚ではきちんと止めたんですが・・・ヒヤッとしました。

 私が腕試しの人が嫌だな~と思うのは、こういう技はこっちが止めても相手は気づかないでしょう? でも、本気で当てたら相手に治療不能の大怪我させてしまう訳で、軽い気持ちで腕試しに来た人をいちいちカタワにしてしまうのでは危な過ぎるでしょう?

 だけど、いくら口で言っても納得しない人もいます。そういう人はもう仕方がないから、身体に傷を負うことで心を矯正してください・・・という気持ちで臨むことにしていますので、腕試ししたい人は覚悟しておいでください・・・という気持ちです。

 どうして、うちは約束組手でしか練習しないか?というと、これを自由組手で使うと冗談でなく相手に致命傷を与えてしまうからなんですよ。これを教えて試合や自由組手で使って相手に怪我を負わせてしまった人も何人かいます。

 なので、交叉法は試合には使わないこととして、稽古の意味を理解して互いに相手を怪我させないように注意しながらギリギリの技の精錬を目指さないといけない・・・と決めた訳ですが・・・。

 先日は、矢嶋師範代と居合の対錬をやった時に真剣を使ったんですが、互いにギリギリで相手を傷つけないようにする・・・という意識の上で技を体得していかなかったら、実戦も糞もない訳です。

 武術の技は一撃必殺。一瞬で息の根を止めてしまう技だからこそ、秘して隠して生涯使わぬが花なんですよ。呑気に身体の動きがどうのこうのと言ってるようじゃ話にならないんですね。

 でもま~、それだけじゃ楽しめないから、初心者向けの“娯楽的な技”も作らなくちゃいかんな~と思っている今日この頃。本物の武術というのは軽々しく広められないのですから、使いものにならないインチキが持て囃されてしまう・・・皮肉なもんですね~。

 新しく入会された二人は、武術経験はあるものの、やはり胴体の動きが予想以上に堅くて技も力任せになっていました。力を抜いて身体を柔らかくしなやかに使うためには、正直、これを矯正するのは時間がかかるな~と思われました。

 こういうのは本人は気づいていない場合がほとんどです。人間は自分の欠点は失敗したり人から指摘されないと自覚できないものです。

 欠点を指摘した時に謙虚に直す努力をするかしないか・・・そこが上達するかしないかの分かれ目ですね。

 感触としては、週イチの練習だとそれなりにサマになるのに一年以上は必要か? その期間が短くなるか長くなるかは本人次第なので、残念ながら私は関知できません。

 まずは基礎錬体でじっくり身体を練り込んで、柔軟でしなやかな動きと、居着かないでスルスルッと動ける運足を体得してもらって、それからですね。技を体得するのは。

 四月に入ったばかりの会員さんもこの日は参加していたんですけれど、学生時代に合気道部の主将をやっていたそうで、まだ三カ月弱しかやってないのに、何だか、もう既にうちで二、三年やっているみたいな感じになっていて、早く上達する人は早いんですが、しない人はしない・・・う~ん、難しいもんだな~・・・。


追伸;延壽宣次(えんじゅのぶつぐ)、拵えも完成しました! 游心流居合術の特殊抜刀“卍月”がやり易いように鐔は特に小さいものを装着し、縁頭は梅花、肥後拵え風で柄は太く、黒染め鮫に目貫はトンボ、柄糸は黒牛革にしました。無論、柄木はいつものように針金を巻いて強化しております。この刀は二尺四寸九分で長めですが、樋も入っていて軽いので、当分、居合の稽古に使って、それから頃合いを見計らって研ぎ直してみようと思います。清麿風の刃紋に相州伝風の地肌が綺麗に出たら、さぞや美しい刀になるでしょう。でも、試し斬りとかには使いたくないな~。もったいない・・・。
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追伸2;教材用DVDを買った方から雑音があるとかプレーヤーで映らないという苦情がたまにあります。出荷前に作動チェックしておりますが、一応、交換には応じております。が、戻されたものをDVDプレーヤーで見てみると問題なかったりします。家内産業で手作りしておりますので、撮影時の戸外の音などが混じっていたりすることもありますし、プレーヤーとの相性の問題もあると思われますので、恐縮ですが機種を変えて再生してみることをお薦めします。また、DVDは強力な磁気に近づけたりするとダメになったりしますので、携帯電話とかに近づけないようにしてください。


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7月セミナー『読み・目付け』

 ついに7月。これから夏本番だというのに、私はもうバテておりまする・・・。

 あぁっ・・・太陽が憎いっ!

 それに、湿気が嫌だっ!

 いつもは発作が起こりそうになる電車も、冷房が涼しい夏場はむしろ快適。だけど満員電車は嫌だっ!

 何かもう、家から出ることそのものが億劫になってきている今日この頃ですが、皆さん、いかがお過ごしですか?


 月例セミナーも半分が終了し、今月はいよいよ“読み(目付け)”ですよ。

 これこそが達人の条件! 並の武道家と達人を分ける境界線です。

 思えば、私がこの読みの凄さを初めて知ったのは、かれこれ17年くらい前。赤羽のアルトー館というバレエスタジオでのことでした・・・。

 当時、私は福昌堂でライターの仕事を貰い始めたばかりの頃でした。

 武術界の胡散臭さに辟易し、「達人なんぞ幻想だ」と思っていた時期でした。

 以下、割愛・・・(『武術と生きる日々』文芸社を御参照くださいませ)。


 話だけは聞いていても具体的に何なのか、さっぱり実態が掴めなかった“読み”を駆使する本物の武術家と出会ったあの日・・・思えば、私が今の仕事をするようになった記念すべき日でしたね。

 しかし、本当に理解できたのは、次に先生と会った日。そして、それからは次から次へと武術のワンダーランドに踏み入ることになっていったのです・・・。

 恐らく、いや、間違いなく、“武術の読み”について、今、日本で最も研究しているのは私だと思います。

 何故なら、「自分でできる人は最早、追及しようとはしない」し、「自分でできるけれども、言葉では説明できない」から、少なくとも研究しようとはしないでしょう。

 あるいは、“読み”について試行錯誤している人は相当数いるとは思いますが、その大半は錯覚と妄想の世界に埋没し、残る人達は宗教的な解釈をされていると思われます。

 具体的な技術として構造化し究明しようとしているのは、多分、私くらいなものだと思います。

 私が先の本『武術の読み』を出してから、いろんな人が読みについて語るようになりました。

 自分がパクられたと言いたいのではありません。恐らくは、「こういうことは説明したって伝わらないから・・・」と、これまで説明しなかった先生が多かったと思うのです。

“読み”と言えば、「相手の気配を読む」という言葉くらいしかなく、それ以上の分析をしようとする人は滅多におらず、感覚的に体得するものなのだとほとんどの人が暗黙の了解をしていたと考えられます。

 そして、それは別に間違ってもいないし嘘でもありません。

 ただ、それでは一般に伝わらないし、オカルト的な怪しいものと決めつけられて終わりになってしまうでしょう。

 だから、神秘性を前面に出して権威付けした人も多かったでしょうし、妄想の世界に入り込む人も少なくなかったのです。


「これではマズイ。何とかしなくちゃいけない。誰もが理解し納得できる理論的解説と体得の道筋をつくらなくちゃいけない」と思ったのが、私が武術研究家として本格的に始動する切っ掛けでした。


 その“読み”の第一歩は、“目付け”です。

 前回の軸の操作では、この目付けに通じる内容について少し解説していました。常連の人は何人かそのことに気づかれた人もいました。

 そうなんですよ。

“目付け”のやり方は、観察とイマジネーションのバランスを取ることなんですね。

 そして、相手の動向を先読みすることが肝心です。

 いわゆる“先”を取るということです。

 私は、“読み”の研究で、一見、武術とは何の関係もないだろう?と素人目には思えるようなものをいろいろと研究してきました。

 手相・人相・予防医学・バイオメカニズム・動物の観察・人形アニメーション・ダンス・写真・絵画・駅前の雑踏観察・心理学・雑誌のレイアウト・・・etc.

 拳銃の発射メカニズムなんかも研究しましたね。自分でガスガンの引き金をゆっくり引きながら回転弾倉が回り、撃鉄が上がって・・・弾倉がカチッと止まって、撃鉄がパチンと落ちてガスが噴射しBB弾が飛び出す・・・この様子を横から眺めて研究したものでした。

 私が研究している武術の“読み”は、引き金を引こうとする寸前に制圧することを目指しているので、強いとか弱いとか関係ないんですよ。

 どんな実力者でも便所でウンコしてる時や熟睡してる時は無防備になるでしょ?

 でも、実は普通に起きて意識がはっきりしている時でも無防備な瞬間の方が圧倒的に多いんですよ。臨戦体勢で、ほんの僅かな殺気にも敏感に反応して万全の迎撃ができる人なんかいませんよ。

 それを“読む”んだから、実は大して難しいことじゃありません。

 今、私のところに習いに来ている人には私なんかより実力がある人が何人もおられますよ。でも、手合わせすれば私が勝ちます。

 何故か?

 決まってます。私は相手の弱点だけ先手とって攻めるから。「な~んだ」って話なんですが、武道、格闘技を長年やってきている人に限って、相手と互角に闘おうとしてしまうんですよ。

 互角にやって女・子供・老人が屈強な若い男に勝てる訳ないでしょ?

 じゃあ、勝つ方法はないのか? うんにゃ、いっくらでもありますよ。人間の身体は急所だらけ・動けば急所が開く・意識の隙間・呼吸の隙間・・・いっくらでも勝ち目はあるんですよ。

 なのに、わざわざ相手の強いところばっかり愚直に攻めて逆に迎撃されてしまうのが現在の武道の姿です。バカだな~。戦術戦略というのが一切無し!

 結局、競技=実戦という曖昧な概念に対して無批判過ぎるから、そうなってしまうんですよね。「武道はスポーツではない。だから競技はできん」くらいのこと言い張ってもいいんじゃないか?と思いますね。修行は見世物じゃないんだから・・・。

 多分、強さを追及するのが間違いなんじゃないかな~?と思いますね。強さを求めるから相手と互角に戦って・・・という競い合いになってしまうんですよ。

 競い合うことに意味があるんですかね? 他人と競ってどっちが強いか?って、それがどうかしたの?って思う。結局、ロマンチシズムを求めているだけでしょ?

 ロマンチシズムだから、武道がスポーツと同じになってしまうんです。具体的に命を守る技術について考えなくなっていく・・・。

 海外だと護身術の需要があるから武術にリアリティーを求める。だから、日本武道の競技スポーツ性を基盤にした武道論の曖昧さにそっぽを向かれてしまう。屈強な肉体が無くては駆使できないテクニックでは大抵の人には役立たない。

 脳みそ使わない日本武道じゃ明日は来ないっスよ。

 そもそも武術というのは、力で勝てない相手を知恵使って技術を工夫して勝てるようにしていった人類の英知ですよ。

 それなのに、力に力で対抗して、それでも勝てないと嘆いている・・・「当たり前じゃんか? このバカタレっ! 先人が命懸けて工夫し伝えてくれた英知をドブに捨てるような真似しておいて、何が武道じゃいっ?」っと、私は言いたいです。


 私は、武道が見失った本質が武術にある筈だと思って研究してきました。

 果たして、それは・・・有りました! 7月11日は、そのコツについて解説しようと思っていますから、どうぞ、御越しください。


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心法技術の稽古

 ここ最近、本部稽古では主に矢嶋師範代の個人指導をしています。

 居合術や太極拳を新しく入ってくる会員に指導するためには、指導者が模範になる訳ですから、模範となる形の正確さを体得してもらいたいと思うからです。

 彼の場合に限らないんですが、形がサマにならない人は、意識が散漫で集中度が足りないんですね。動きの手順だけ覚えても中身が無い。

 どうして意識が散漫なのか?というと、意識の集中のさせ方を知らないからでしょう。

 なので、ここ最近、矢嶋師範代には特に、「脱力できなくてもいいから、指先、剣先、目線の向きに意識を集中させて、それを途切れさせないように・・・」と、しつこく注意してきています。

 もっとも、これは、フルコンタクト系の空手や直接打ち合う格闘技をやってきた人は、どうした訳か、皆、ビックリするほど意識が散漫で集中できないんですよ。

 これは、私がこれまで教えてきた人達の中で、ただの一人も例外がいませんでした。

 ですから、彼以外のフルコン出身、格闘技出身の人たちもまた、同様に形を真似るのが“そら恐ろしく下手”です。自身がどのくらい下手なのか?という事実を客観的に自覚できないくらいに・・・。

 嘘だと思われる方は、伝統空手、沖縄空手の師範の形の演武とフルコンタクト空手の師範の形の演武を見比べてみられたらいいでしょう。ズブの素人でもはっきり判るくらい動きのキレが異なる筈です。

 無論、形の演武が下手だから弱いとか闘えないということではありませんから、誤解ありませんように念のため。

 私は、「どうして、フルコン空手の人は形の演武がこんなに下手なんだろう?」と長く疑問に思っていたのですが、直接、打撃を打ち合って“肉体で受け止める”練習に原因があるのだと思い至りました。

 要するに、攻撃されることに対する意識そのものが鈍くなってしまっているのです。

 確かに、ウエイトトレーニングで膨らませた分厚い筋肉を叩き合って練習していれば、多少の打たれることに対する恐怖感は感じなくなるでしょう。

 そして、「鍛えた人間は多少、打たれたくらいでは倒せないのだ」という安心感が固定観念となって、打たれることへの防御意識が薄れてしまいがちのようです。

 だから、防御しようという意識が薄いということは、打たれることへの危機意識も薄くなっていくようです。

 従って、必然的に相手の攻撃を見切ったり躱したりしようとする意識が薄いからこそ、身体のキレも使わなくなり、ドラム缶が動くような鈍重な動きになってしまい、それをごまかすのに「重厚な動きで安定感があるね~」なんて言っちゃったりする訳です。

 ですが、これは素手素足で、胸や腹筋、太ももを打ち合う場合の話であって、目・鼻・顎・耳・喉・後ろ首・腋の下・背骨・股間・・・などに体重の乗った拳・貫手・肘などを強打すれば、致命的な障害を負う確率が高いし、刃物を持った相手だったら即死してしまいます。

 このような防御の意識、危機意識が薄くなるということは、武術にとっては最も避けるべき鈍感さなのですが、熱心にやればやるほど、その肝心要な意識が鈍くなっていくのですから、皮肉なものです。

「人間は、無意識のうちに相手に致命傷を与える場所は避けるものだ」と言う空手家の先生もいたようですが、それはスポーツマンシップに則った“試合”や“ケンカ”での話であって、“まともな神経を残している人間”の場合で、“オツムがどうかしている殺意を持った暴漢”に遭遇した場合は通じない考え方ですし、そもそも武術の想定するのは後者なのですから、“人非人の野獣のような凶悪漢”を撃退することを考えない武術では意味がありません。

 率直に言って、こと護身術ということを真剣に考えれば、多くの武道・格闘技が役立たないばかりか、逆にマイナスに働く危険性を秘めている。これは恐ろしい現実です。

 それも、“実戦的な”流儀を求めて追求してきた人に限って、そうなってしまうのでは皮肉以外の何物でもありません。

 矢嶋師範代がうちに入会した当時も、こういう皮肉な事態に自分が陥っていることを自覚して、自分が何を本当に求めているんだろうか?ということを考え、悩んだ末にうちに専念するようになったのでした。

 当初は、もちろん、太極拳や居合術にも全然関心がなかった様子ですが、私がそれらをやらせているのは、あくまでも現実の命がかかった戦闘状況に対応できる技を駆使できるようにするためであって、形式を学んでもらいたいからではありません。

 で、自分で本気で取り組むようになって、私が意図していることが徐々に解ってきたみたいで、毎回の稽古会で、少しずつ皮が剥けていくように意識の集中度が高まってきつつあります。

「先生、太極拳をやるようになってから身体の動きがガラッと変わってきました。もしかして、こうなることを予測してやらせたんですか?」と聞くので、無論のことと答えましたが、これは自分で自覚しない限り、こちらがどんなに口を酸っぱくして説明したって理解できないでしょう。

 私の考えでは、武術というのは、一つの流派に専念していても理解できないことが、複数の流派を学べば理解できる場合があるのですね。

 一つの流派を徹底して学ぶことが無意味とは申しません。が、その場合、大概はその流派の動きに捕らわれて、自在に変化することができずに終わってしまう人がほとんどなのです。まったく異質な闘い方をする相手に、あっさりと倒されてしまう場合もあります。

 私が自分で流派を立ち上げたのも、本当の理由はそこにあります。既存の流派の中では自分の能力を活かすことができないと思ったからです。

 複数の流派を学んだ人の中には、動きが自在な人がたまにいます。融合した技がその人のオリジナルとなっているからです。

 もちろん、ただ身体が混乱してどれも中途半端なままの人も少なくありませんが、私が目指すのは、自由自在に臨機応変に動ける自分独自の武術を自然体得させることです。

 そのためには、何々流がどうしたこうしたという“流派主体”の考えではなくて、“自分の動きを引き出すための触媒としての流派”という考え方が肝心です。

 なので、私は、游心流と名付けた自分の流儀の中に、数百の流儀の技と理論をぶち込んでゴッタ煮にし、その中からエキスを抽出し、新たに様々な武術に応用できるように編成しました。

 魔人ブウがいろいろな達人を取り込んでパワーアップしていく様子が、これまでの游心流。しかし、これからは抽出した武術のエキスから様々な武術に応用展開させていく段階になったと思っています。

 つまり、一回りして元に戻ってきつつある訳です。

 奇しくも、游心流を発足させて11年が経過し、来年は12年。丁度、干支の一回りになります。

 初期の会員はほとんど来なくなりましたが、増えては減り、増えては減りを繰り返してきたのも、まんざら無駄じゃなかったな~と思うのは、今の会員のレベルの高さです。

 稽古内容も、技よりも感覚、そして意識へと、身法から心法へとシフトしてきつつあります。

 以前は、稽古しようにもやり方が解らなかったことが、今はどんどん疑問が氷解していくように答えが自然に浮かんでくるのです。武術は身体操作の観点で考えていたら絶対に観えてこないレベルがある・・・それが今は明確に理解できます。

 重要なのは、意識ですよ。それは“気”と言い換えてもいいけれど、やっぱり“意識”ですね。それも邪念のない意識・・・。

 これが、“心法”の稽古です。

 だから、今は本当に稽古が楽しいですね~。




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そういえば『柔術』の映画って無かったかも?

 和製ドラゴンと言えば、倉田保昭先生ですが、倉田先生がプロデュースした古流柔術がテーマのアクション映画『柔術』を、東映チャンネルで観ました。

 いや~、なんか1970年代の香港カンフー映画のテイストがある、どこか懐かしい感じのするアクション映画でした。

 これは、『黒帯』『ハイキックガール』や、『電光空手打ち』『姿三四郎』にも通じる硬派な匂いの武術アクション映画なんですが、ブラジリアンではない、“日本の古流柔術、もし戦わば・・・”を描いた画期的で斬新な作品でしたね。

 古流柔術は、関節技・投げ技・絞め技・固め技に、突き蹴りも含まれているので、殺陣としても多彩な表現ができる可能性があります。

 倉田先生もそれに目をつけられたんじゃないでしょうかね?

 ひょっとすると、モンドTVで古武術番組の監修にかかわったことが切っ掛けになっているのかもしれません・・・。

 そして、倉田先生の流石だな~と思ったところは、カポエィラ遣いの二人組や、武道界制覇を狙う空手家の組織を敵役に配置して技の対比を際立たせている点ですね。

 そして、総合格闘技的なガチンコ・バトルを見せたり、敵の卑怯な罠で兄弟弟子が犠牲になるシーンなどもドラマとしての盛り上げ方のツボを外していません!

 倉田先生が『餓狼伝』の演出つけていたら面白くなったかもな~・・・と、この作品を見ていて思いましたね。


 でも、武術を表現するというのは難しいな~と思いますよ。

 7月はNHK-BS2でジャッキー・チェン特集もあるんですが、『拳精』と『ヤングマスター』を観ると、やっぱり、ジャッキーは凄いっス!

 ムービープラスでも『酔拳2』をやってましたけど、この時は40過ぎてるのに物凄いカラダ張ってます。

 ジャッキー・チェンは、『プロジェクトA』以降、カンフーもできるアクション俳優という印象が強くなりましたが、やっぱり私はジャッキーといえばカンフースターというイメージが強いんですよね。

『ヤングマスター』でのウォン・インシック、『酔拳』でのウォン・チョンリーなど、ジャッキー・チェンが戦う相手は蹴り技名手である率が高く、巧妙な手技で戦うジャッキーのカンフーに私の世代は感化されたものです。

 蛇拳・酔八仙拳・笑拳(怒りの拳は洪家拳の鉄繊拳がベース)・龍拳・五獣拳(これも洪家拳の五形拳がベース)・蛇鶴八拳(これも洪家拳)・・・これだけ洪家拳から採り入れているにも関わらず、あんまり洪家拳はブームになっていない?

 そういえば、仮面ライダー・スーパー1が赤心少林拳をやっていたからといって赤心少林拳の道場が大きくなったということもなかっただろうしな~。

 ジライヤの時も戸隠流忍法がブームになるか?と思ったけど、日本ではブームにならなかったもんな~。


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常識って生活の知恵ですよ

 私みたいに普通に大学卒業して就職してサラリーマンになって・・・みたいな人生を“歩んできていない人間”にとっては、「常識がない」と周囲の顰蹙を買う確率が高くなってしまいがちです。

 なので、これまでいろいろと常識を弁えない行動でトラブルに見舞われたこともありまして、「こりゃあ、ヤバイな~」と思って、トラブルを避ける意味でも、なるべく常識的に振る舞えるように注意するようになりました。

 ところが、武術の業界というのは、マニア気質の人間の巣窟みたいなところがあって、そもそも自分が非常識であるという認識そのものが欠如していたりする人も多くて、更に、自身の非常識さを逆に持ち味として演出したりする人もいたりするんですね。

 例えば、武術研究“者”と名乗っている甲野善紀氏なんて、「常識を疑え!」というのをキャッチフレーズにしているくらいなんですが、「居酒屋の畳ひっぺがして手裏剣打ってみせたり、喫茶店でポン刀抜いたり、高校生に突き付けたりするお前には、そもそも常識なんかカケラも無いじゃん?(嘘だ~と思った方は、本人に聞いてみてくださいね)」と、ブラックジョークを全身全霊で体現して生きている希有な人で、あまりの非常識さに感覚が麻痺してきて、なんか段々、立派な人に思えてきてしまう?くらいです。

 が、無論、甲野氏のような浮世離れした人が普通の社会生活なんか絶対にできない訳で、「貴方はお金持ちのボンボンに生まれてきて良かったね~」というだけの話で、ビタ一文、一般庶民の参考にはなりませんっ!

 そして、そんな人間を見習って常識を疑って行動していたらどうなるか? はっきり言って周囲に多大な迷惑をかけるだけです。見習っちゃ、ダメ。絶対!

 過日、忍者の苦無(クナイ)を製造販売していた人が、改正銃刀法の両刃のナイフ禁止の規定違反で捕まったというニュースがありました。

 これなんて、忍者の武器を製造販売するというマニア狙いの商売でナイフメイカーが考えたんでしょうが、秋葉原のダガーナイフ殺傷事件で両刃の刃物が禁止になったことを知らなかったとしたら、あまりにも社会情勢に疎いと言わざるを得ません。

 また、つい先日も飼い猫が空気銃で撃たれた事件がありました。

 空気銃は、エアライフル射撃か狩猟用かのどちらかで使われますが、もちろん、資格制で免許を取らないと所持できませんし、免許があってもプラ製のBB弾を飛ばすエアガンやガスガンと違って、射撃場か狩猟場でしか撃てません。

 猫から摘出された弾丸は、口径5.5mmのジェット弾と呼ばれる鉛のツヅミ弾だそうですが、これは狩猟に使われる弾で、標的射撃だと4.5mmが多かった筈です。

 当然、口径が大きい方が弾丸の質量が大きいので威力も高い(同じ速度で撃ち出された場合)。紙の標的に穴を穿つだけの威力があればいいのと、小動物に致命傷を与えられる威力が必要なものとの違いです。

 私は新宿にあった(最近は閉鎖されたと聞きます)エアライフル射撃場でファインベルクバウのサイドレバー・スプリング式エアライフルは撃ったことありますが、狩猟用だとポンプ式か炭酸ガスのガス圧で弾丸を飛ばすガス式が主流だと聞きます。

 もちろん、玩具のエアガン、ガスガンとは威力が格段に違いますし、弾丸も金属製なので、人間でも急所に当たれば死ぬ場合があるとされます。

 狩猟に使うくらいだから、動物を撃ってみたくなったんでしょうが、撃たれた猫を見るとミケ猫で目がクリクリッとして凄く可愛い猫で、猫好きとしては腹が立ちましたよ。

 とか言いながら、私も昔、田舎で猫飼ってた頃に、うちの猫はメスで可愛いかったので近所のドラ猫がいっぱい寄ってきて、毎日のように喧嘩ばっかりしていた(やたらに闘争本能の強い猫だった)ので、おもちゃのエアガン(当時はBSバッファローという組み立て式のスプリングエアガンを愛用)でドラ猫撃って加勢してましたけどね。

 もっとも、当時のは威力が弱くてテルテル坊主みたいな軟質プラスチックのツヅミ弾がヘロヘロ~ッと放物線描いて飛んで、3m先くらいで、かろうじて当たる・・・というレベルだったので、ギリギリで当たらない距離で余裕かましてるブタ猫なんかもいました。

 高校の頃に、タカトクのSSオートマグというハンドガン形式のエアガンを買ったら、これがBSガンとはダンチの威力で、たまげた記憶があります。2~3倍の威力はあったでしょうね。それまで余裕かましていたブタ猫の横っ腹にビシッと弾が当たって、ブロック塀からおっこちそうになって、慌てて逃げていった時は、うちの猫も調子乗って追いかけてましたけど・・・。

 その後、浪人時代から大学時代にかけて私のGunマニアっぷりも最盛期を迎えた訳ですが、上京してきてからは武術にのめり込んでGun熱は多少、冷めましたけどね。

 余談ですが、その後、エアガン、ガスガンは命中率も連射性能も比較にならないくらい高まってサバイバルゲームの流行と共に普及しましたが、ホームレス狩りなんかに使う社会的事件の発生と、過剰な改造パワーアップ(装薬銃並の威力)で死者まで出るに及んで威力規制も法制化されて今に至っています。

 けれども、マニア気質というのは、いくら歳とっても薄れないものなのかもしれない。

 私自身、精神年齢は中学生レベルだし、知識と知恵がついたから大人のフリしてるけど、エアガン集めていたのが真剣を集めるようになっただけかもしれません・・・。


 以前、うちの会にいた人で、近所の駐車場でバール振って鍛えていると稽古熱心さを自慢していた人もいましたけれど、不審人物視されるような真似を戸外で平然とやれる神経は、それだけでもうOUTなんですよね。

 この人、超マイペースで、練習後で喫茶店でお喋りしていた時に、おもむろに足の指の爪をパチンパチンと爪切りで切り出した時は、“あ~、この人は本当に周囲の人への配慮が全然できないんだな~”と呆れて、以後、注意する気すら起きなくなりました。

 先日も、会員と話している時に、「なんで、あんな礼儀知らずな人を入会させていたのか不思議です」と言われて、「なんで入会を許可したのか、俺も不思議・・・」と答えたくらいでした。

 まあ、その当時は非常識さを“面白い”と思って寛容に許せていたんですが・・・。

 本人も私に習っている気なんか無かったんでしょうね。技のコツを教えても、自分なりのやり方でしかやろうとしませんでしたから、もう、怒る気力もわかなかったですね。

 無礼さを咎めずに、きつく叱らなかった私も指導者として悪いから、一方的に彼を悪く言うつもりはありません。が、今は反省して、私の指示に従わない者は即刻、辞めてもらうことに決めています。

 対等に扱うのは相手のためにならないとはっきり判ったので、「俺に習う以上は俺のやり方に文句つけるな。嫌なら来るな」という基本姿勢は自分の中で持っていなくてはならないんだと認識しています。

 ケジメを教えるのも武術指導の範疇でしょう。


 とかく、武術好きには常識が欠けた人が多いものです。しかしながら、まったく武術に触れたことがない人の場合でも、勘違いしている人もいます。

 武術に限らず、習い事をする時は、その分野の専門家である指導者と、初心者である自分とは同列ではありません。会の中での序列というものは暗黙の了解として厳然としてある訳ですから、対等な立場で学ぼうという民主的な考え方はしちゃいけません。

 これは伝統的な道徳の範疇なのです。

 過日、相模経済新聞の記者の方とお喋りしていた時に、「(会員の)皆さんが長野さんを尊敬しているように凄く礼儀正しくしているのが面白かったですよ」と言われていたので、「そりゃあ、弟子が師匠を敬うのは当たり前でしょ~」と笑って言いましたが、普段の私の様子とギャップがあるように感じられたんでしょうね。

 いや、確かに数年前だと会員と私は友達感覚だったんですが、それが良くないと解ったので、今はある程度、師匠ヅラするようになったんですね。

 やっぱり、人に武術を教えるのに技だけ体得させればいいというものではないです。同時に武術を学ぶということの意味と覚悟、心構えなんかも教えていかなくちゃいけないと痛感しています。

 つまり、実践哲学として生活も生き方さえも武術を基準の軸としていく・・・それでこそ武術修行が生き方を支えることになっていきます。

 正直いって、武術やっている人には、何かっていうと、暴力をちらつかせて相手を恫喝しようとするチンピラ並の精神構造の人も多いものです。

 また、弱い癖に、やたらに人を挑発したがる阿呆も多い。弱い上に自己顕示欲だけ異常に肥大しているんだから、何か社会的な事件を起こさなければいいけどな~と、祈るばかりですよ。

 結局、武道や武術に“強さ”を求めている人間は劣等感が過剰なんですよ。優越感に浸りたい。自分が特別な卓越した人間でないと不安で仕方がない。それだけの話です。

 私自身も、そういう劣等感から武術を始めたから、よく解ります。必要以上に謙遜してしまうのも、「俺は本当はムチャクチャ強いよ」とアピールしたがる気持ちがあるのを抑制しようとする結果かもしれません。

「俺は強いっ!」って何の衒いもなく言えたら気持ちいいかもしれませんけどね。でも、殴り合いの強さを自慢したがるのはヤンキーくらいしかいませんよ。

 どうも、私はあまりにもいろんなこと研究し過ぎてしまったせいか、どんどんエスカレートして考えてしまうんですよ。

 武道や格闘技の技術論を楽しめる人達がうらやましいです(あ~、上から目線だな~)。
 私は、拳より剣、剣より銃、銃より爆弾、爆弾より・・・と、どんどん考えてしまうし、実際、材料と工具があれば銃でも爆弾でも自作できる知識と技能もありますからね。だから、北朝鮮や中国が日本に進攻してきた場合でもゲリラ戦闘やれると思ってて、それゆえに国としての戦争には反対している訳です。

 私は、個人としての戦闘能力も無い人間が右よりの思想を唱えて戦争を肯定するようなことを言うのに許し難い怒りを感じるんです。だって、無責任でしょう? 命が危ない時に他人に守ってもらおうなんて申し訳なくてできませんよ。

 例えば、田中泯さんなんて暴力からは逃げると言われていましたけど、家族や弟子をほうり出して逃げるなんて絶対、しないと思いますよ。そういう気概を感じます。

 そもそも、私は人の言葉は信用していません。綺麗事ばっかり言う人はむしろ胡散臭く感じます。やっぱり、その人の本質は生き方とか行動に現れますよね。

 だからこそ、武道・武術を熱心にやっている人は、それ以上にいろんな本を読んで教養を身につけるべきだと思います。でないと精神と肉体のバランスが取れなくなります。

 立派な刀を打っても、綺麗に研ぎ上げて、きちんとした拵えを作って納めないと危ないだけでしょ?

 技を磨くことは誰でもやるけれど、自分が学ぶ武術の歴史や背景を調べる人は十人に一人もいないんですよ。

 技を一撃必殺に仕上げようと考えても、その技を相手に使ったらどうなるか?ということを全然考えない人ばっかり・・・。

 これじゃ~、ダメですね。武術について学べば学ぶほど、単に肉体を鍛えるものじゃないという真相が解ってきます。

 本質的には生き方について学ぶものなんですよ。戦時には戦時の、平時には平時の、より良い対応力を磨くのが武術なんですよ。

 だから、常識を弁えるのも武術修行者の心得だと私は思いますね。

 ここ最近、TVや書店で、雑学とかいろんな情報を扱う番組や本が増えているな~と思うんですが、これは、それだけいろんな情報を得ておかないと危険だという時代の空気があるからなんじゃないか?と私は思います。

 無論、その情報の真偽を判別して自分の生き方に役立てられる者が勝ち、生き残っていける・・・という前提が隠れているからなんだと思うんですが・・・。

 そんな理論武装がブームになっている時代だからこそ、武術も必要性があるのかもしれないですね。


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武術家って何様ですかのぅ~?

 私が武術ライターやっていた頃からの業界の友人が、東京支部を見学したいということだったので、急遽、東京支部の稽古会に私も行きました。

 雨模様で天候が急変するかもしれないという予報だったためか、この日は参加者が一名だけで何とも寂しい限り・・・ショバ代が高いから大赤字・・・参っちゃうな~。開催曜日を変更した方がいいかな~? 早くも東京支部存続の危機だよぉ~(マジで参加者大募集中!)。

 それはそれとして、久しぶりに武術マニア同士のディープな表沙汰にできない裏話に興じてしまって、見学してもらう予定だったのに、ほとんど二人で夢中になってお喋りしただけになってしまいましたね。

 何か、最近の出版不況の中でも武道関係は悲惨な状況だとか? 何しろ雑誌の売上が書籍並みになっているということで、だとすると、多分、ざっと考えて15~20%くらいに落ち込んでいるのではないか? もう、雑誌がそれだと絶望的な感じですよね。

 武道書籍の企画も大手出版社ではまず通らなくなっているそうで、私は例外中の例外みたい(ちくま新書の方も売れ行きは良好で、じわじわ口コミで広がっているみたい)。

 けれども、小耳に挟んでいた噂話なんかの情報を聞いてみると、「あ~、そういうことだったのか~?」と思うことがいくつもありました。

 例えば、私がお世話になったり、したりしていた、ある先生が、私に大層腹を立てられていて、「長野のヤツは今度会ったらブン殴ってやる!」と息巻いておられたという“噂話”に関しても、実際には「長野さんはいろんな先生を見て技を盗んで回って、自分勝手に流派を名乗っているのはけしからん」と言われていたという話。まんざら嘘じゃなかった訳ですね。

 でも、「何じゃ~、そりゃ~?」と、思いましたね。

 正直、“言い掛かり”の一語。

 第一点。
 見ただけで技を盗めるのは純粋な私の能力であって、長年、手取り足取りして教えてもできるようにならない人がざらにいる武道界の現実からすれば、「あいつは凄いヤツだな~」と誉められこそすれ、非難される筋合いではありません。

 そんなに技を盗まれたくないんだったら、一切、部外者には見せないでメディアにも出なきゃいいじゃないですか? ねえ?

 第二点。
 私は教わった先生、流派、本や映像で参考にした技、すべて隠さずに自分から申告してきています。これはその先生方と流派に対する敬意としてそうしてきました。“パクッたのを隠して教えている”ならばいざ知らず、正直に明かして敬意を払ってきたにも拘わらず、無礼者呼ばわりされるのであれば、一体、どうしろと言うのか?

 無論、私がこの先生に直接、弟子入りしているなら話は別です。でも、私はこの先生に弟子入りはしていません。批判は筋違いの一語です。

 第三点。
 これはその先生から言われたことではありませんが、私が、学んだ流派の技を名前を変えて教えていることについて非難されたことがあります。

 が、よく考えてもらいたいのは、ある流派の技を、その流派の指導者として認められていない者(破門された者とか)が「これは何々流だ」と勝手に名乗って教えていれば、それは詐欺行為に相当するということです。

 だから、私は太気拳も戸隠流も拳正道も嫡流真伝中国正派拳法も・・・学んだ流儀、研究した流儀の総てをひっくるめて“游心流”という名前で新たな編成をするしかなかった訳ですよ。技も理論も総てが融合してしまっているんだから、一派を建てる以外にどうしようもないじゃないですか?

 私が技の名称を変えて教えているのは、一つには「その流派に対する遠慮」があるからなのと、もう一つは「自分なりの解釈でアレンジを加えている」からなのです。

 この点は、躾道会の小林先生に贈った居合術のDVDで、小林先生は居合術は専門じゃないけれども、私が交叉法の原理を応用して技を工夫しているのに気づいて誉めてくださいましたし、そういう具合に拳法以外の武術にも交叉法が応用できるという証明をしたことで、桜公路先生が考案した“交叉の理合”の優秀性を間接的に再認識されて、とても喜んでくださいました。技を誉めてくれたのは本当に初めてでしたよ。

 ちなみに、游心流の初級対錬の技はほとんどが嫡流真伝中国正派拳法の“使用法”から採用しています。非常に完成度が高かったので変更する余地が無かったからです。

 が、その技法の中には膝抜きで入身する田中光四郎先生に教わった体捌きの要素を入れていたり、太気拳の差し手の技を入れたり、細かい技のコツで私が工夫して変更してきた要素が細々と入っているのです。

 だから、手順と形式がほとんど同じであっても中身はかなり変わってしまっているのですね。それを原点の“使用法”の呼び名のままで教えてしまえば、詐称になりかねないですから、そこは遠慮して別の名前を付けたんですよ。

 それはもう、小林先生がどれだけ大切にされているかを知っているから、そうした訳なんですね。

 極真空手にも採用されて名称が一般化している“立禅”などと比べると、“使用法”は極めてマイナーな一流派だけのオリジナル名称ですから、尊重されてしかるべきだと私は思います。

 同様のことは基礎錬体のやり方にしろ、歩法にしろ、太極拳の型にしろ、居合術にしろ、総てに於いて中身は私の研究成果が加わっているので、「これらは私なりの研究成果を加えて改変しています」という意味で“游心流”と冠している訳なんですよ。

 無論、前述しているごとく、聞かれれば「この技は何々流の何という技をベースにしているものです」と答えてきており、隠して教えたことなんか一度もありません。

 その証拠に、私は本やDVDの中で新体道の天真五相を紹介していますが、きちんと新体道の基本型であることを明言して紹介していますでしょう? 原点に敬意を払っているからですよ。

 私みたいに、ちゃんと原点に敬意を払う人はむしろ少ないんじゃないですか? 他流から採り入れた技や稽古法を、自分の流派のものとしてそのまま紹介する人が圧倒的に多くないですか? 悪気はないんでしょうけれど・・・。


・・・とまあ、こういう次第ですけれど、尊敬していた先生だったからこそ、その予想外の狭量にはガッカリしてしまいましたね。

 正直、本当に「ブン殴ってやる」と思っておられるのでしたら、受けて立ちます。寄せ集めのパクリ武術と侮って見下してもらっては困る。実力で敵わないとしても、こんな理不尽なことを言われて、ハイ、そうですかとは言えませんよ。

 お世話になった先生のお一人ですから、こんなことは書きたくありませんし(だからお名前も隠しています)、私もこの先生を武道マスコミに紹介したり、「素晴らしい先生だよ」と人にも薦めて何人も習いに行っているんですね。

 恩着せるつもりはありませんが、そういう裏側から力添えしたことに関する感謝の言葉ではなくて、何で、こんな理不尽な中傷を受けなくてはならないのか?

 情けないし、哀しいですよ。


 武道武術の世界は、俺様体質、王様気質の人が非常に多く、自分の強さを誇って人を見下す人が腐るほどいます。こちらが相手を立てて一歩下がった態度でいると、段々、お調子こいて上から目線になる人ばっかり。

 私は別にわざと謙虚にしようとか思っている訳じゃないんですが、青木先生から「長野さんはもっと武術家らしくした方がいい」と言われて、「あ~、確かにな~」と思ったりしますよね。謙虚に相手を立てているとのぼせる人ばっかりだから、本当に嫌になる。


 それから、他にも、ある武術家の暴力沙汰の話なんかも聞きました。

 まあ、人間だからいろんな間違いはやってしまうものだと思うけど、流石にこんな酷い話はなかなかないな~と思うような話で、これまた別の意味でガッカリしてしまいましたよね。

 詳細は書きません。というか書けません。

 常識がないというより、もう、やってることが犯罪。ヤンキーのリンチみたいで嘆かわしい。な~んにも正義がナッシング。ふた昔前の大学武道クラブのノリを、いい齡こいた大の大人がやっているんだから、何と言いましょうか・・・こんな武術家ばっかりじゃ~、世間の武術に対する評価が上がることは永遠にないだろうな~と思いましたね。

 何か、私は戸隠流の野口先生や躾道会の小林先生や日子流の田中先生や新体道の青木先生といった、強いだけじゃなくて器の大きな気持ちの暖かい先生方に出会えて幸せ者だったな~と、つくづく思いましたよ。

 傲慢で自己チューで嫉妬深くて力で他人を踏み潰すことしか知らない武術家なんか、一体、誰が尊敬してくれますか? そんな心の弱い武術家なんか恐れるに足りませんよ。

 久しぶりに、友人と楽しいお喋りをかわしたものの、帰りの電車の中では何かドヨ~ンと空し~い気持ちにさいなまれてしまいましたね~。


追伸;クエストから出ている今野敏先生のDVDを観ました。空手道の形の分解用法をいろいろ紹介されていて、非常に勉強になります。一つの動きを何通りにも使い分けて見せるところが素晴らしい! “わかってらっしゃる”。それに、俳優の須藤正裕さんも出ておられます。須藤さんは蟷螂拳を使う殺し屋で『ブレイクアウト』という映画でデビューして以来、本格的な武術修行をしている俳優として数多くの作品に出演されていて、福昌堂出身という私にとっても大先輩ですね。何か豪華なDVDですよ。今野先生とは故・宮田重則さんの御紹介で高瀬道場の技芸会の時に挨拶程度にお会いしたことはありますが、あれだけの大作家にして、これだけ空手を武術として探求されているというのは畏敬の念を覚えますね。空手を生涯武道として追求したい方は必見ですよ。ちなみに今野先生といえば、私は阿部ちゃん主演の『拳鬼』が大々々好きで、日本カラテ映画史上、隠れた超傑作だと思うんですよ。「お前の拳は血の匂いがするぅ~」って、クッサ~い台詞も、何か異様な味があって良いんですよね~。何せ、沖縄空手VS八極拳ってのが最高じゃないですか~? 押井守監督の『アサルトガールズ』で黒木メイサが沖縄空手殺法を駆使するところも、もっと詳しく見せてもらいたかったな~。あ~、かつての東映カラテ映画みたいなムチャクチャな映画が観たいな~。お金要らないから、映画の武術指導やらせてもらいたいな~。映画関係の方、お話、待ってま~す!

追伸2;そういえば、フルコムの山田さんが私のDVDを観て「こんなにできる人だとは思ってなかった」と評価されていたという話も小耳に挟みました。山田さんって、滅多に人を誉めない人なんだそうで、そりゃ~、有り難くも光栄なことですね。やっぱり、誉められると嬉しいですね。人間だもの・・・。



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著者プロフィール

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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