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尖閣諸島問題について思うこと

「尖閣諸島問題について長野先生のコメントを・・・」という要望を地方在住の読者の方
から頂戴しました。

 私は、この手の領土問題とか政治的な話題について迂闊なことは書くもんじゃないだろうと思って、それこそ静観していたんですが、あまりと言えばあまりな展開なので、これはちょっと何か書いておくべ~か?と思っていたところでした。

 また、先日、親父狩りをブチのめしたが待ち伏せにあって障害を負った喧嘩自慢の武道有段者の警備員の話を書きましたが、この人のその後の顛末も知りたいとのことでしたから、私が聞いた噂話を述べておきます。

 真実かどうかは私が聞いた人に確認するしかありません。嘘や作り話をする人ではないので、私は事実であったと思いますが、その人によれば、車椅子生活で仕事もできなくなっているそうです。恐らく奥さんだと思いますが、家族が支えているそうです。

 この事件については、部外者がどうこう評論したところで何の解決にもなりません。

 ただ、後先考えずに暴力に暴力で対抗すれば、どうなるか?という教えを与えてくれているものとして、我が身の軽率な行動を戒めるしかありません。


 さて、それでは本題の尖閣諸島の問題です。

 ここが日本の領土であるという点は、国際的にどこまで承認されているのか?という点は、まず気になるところです。

 事件が起こった時に日本が取るべきだったのは、撮影していたビデオを公開して、「こういう被害を受けたので、船長を逮捕した」という点を明確にアピールすべきだったということです。つまり、日本にまったく非が無く、仕方なく逮捕したという印象付けをしなければならなかったのです。

 そして、日本の認識をニュースで世界中に発信して是非の判断を第三者に委ねるべきだったと考えます。そうしていれば、中国も被害者顔できなかった筈です。

 ところが、日本は国内向けに言葉少なく「尖閣諸島は日本の領土である」と、明確な理論的裏付けを出さずに発言しているだけで、これでは国内の支持さえ得られない。

 あのような消極的な対応をしていたら、「別にこの島は無くてもいいんですよ」とでも言っているように受け取られるでしょう。

 清の時代の話を持ち出しても中国の国政はまったく変わっているのだから説得力はないし、日本固有の領土だと主張するなら、“住民が住んで生活の実態を作ること”も肝心です。それもやらずに所有権だけ主張しても不合理でしょう。

 話し合いで解決できると考えるのが平和惚けもいいところなのであって、文革や天安門を考えても、中国は、いざとなったら軍事力に訴えて力ずくで反対勢力を粛清する国なんだと認識しておかなくてはダメでしょう。

 本当に甘いことを考えていたら、尖閣諸島どころか沖縄まで奪い取られますよ。第二のチベットみたいにならないとは言えません。

 だから、対等な付き合いをしたいと思っているのなら、脅しに対して“話せば解る”式のボケた期待はしないことです。

 脅し文句に対しては、「それは脅しなんですか?」とまず言う。そうすれば、国相手に脅しをかけたとメディアで報道されたら中国が困ることになるから、当然、「脅しではない」と言うしかありません。そうすると、あまり圧力をかけられず、言葉を選んだり対応を緩めないといけない・・・と、そう判断され、必然的に強圧的な対応はできなくなっていく訳です。

 船長を釈放して帰したのも、状況を考えると仙石さんの独断なんじゃないか?とも思いますが、一度、帰してしまってから、「戻すべきだ」と騒ぐ民主党の議員も間抜けの度が過ぎるし(中国が帰す道理がありません。バカ過ぎて論外)、仙石さんが「船の修理代を請求する」とか言ったのも、あまりのノウテンキさに失笑させられましたよ。

 私は右寄り思想は全然ありませんが、右寄り政治家、評論家の方々が口々に言ってるように、確かに民主党の危機管理意識の無さは致命的だな~とは思いますね。

 私は以前から、社会主義、共産主義思想にはまってる人達の平和ボケっぷりには笑かしてもらってましたから、今更、どんな醜態さらしてくれても何とも思いませんが、民衆が平等に生きられる社会を目指す制度を選んだ国が、何ゆえに絶対的独裁国家に変質してしまうのか?という点に恐ろしさを感じますね。

 今回の件で、中国もまた北朝鮮と同じ穴のムジナなんだということが、よぉ~く判りますし、カンボジアのポルポト政権下の大虐殺なんかも考えても、社会主義、共産主義が制度として人間の心を狂わせて悪魔のような独裁国家を生み出す役にしかたってない・・・という世界の歴史の現実を、冷静に検討しなければならないと思いますね。

 結局、社会制度を先に考えるということは、“完成された社会システムを作れば、人はその中で誰もが平等に平和に生きていける”という、ご都合主義の合理精神を神にいただく“宗教”をこしらえたのが元凶だったんだろうと私は極めて大雑把に思う次第です。

 まあ、宗教ってのは共同幻想だからね。神仏を信じるか制度を信じるかの差しかないんだけど、要するにご都合主義だから、人間の心の欲望とか本能を制御しきれるものじゃないし、権力握った人間によって、いくらでもねじ曲げられてしまう訳ですよ。

 つまり、宗教にしろ制度にしろ、あるいは思想とか美意識とか、言葉は何でもいいんだけど、本当はちっとも信念なんかないのに、「信念に従って生きる俺ってカッコイイだろ?」ってナルチシズムに浸ってるキチガイが権力握ると野心を限りなく増大させて心を失っていくんですよ。

 菅vs小沢の時に、“それ”を感じた人もいたんじゃないですか?

 彼らは国を思って「命賭けでやる」って言ってたけど、私の目には、そこまで権力が欲しいのか?っていう権力亡者の泥レス見せられてるようにしか映らなかったですよ。

「あ~、政治家って、本当に醜い人達ばっかりなんだな~」って、本当に心の底からうっとうしかったですね~。

 私、だから、今でも結構、福田さん、好きなんですよ。あの人、覚めてたでしょ?

「総理大臣も、成り行きでなっちゃったからね」って感じだったし、だから、辞める時も未練とかなくてサバサバしてて、麻生さんと密約交わしたんだろうな~と思いましたね。

 無責任じゃないかと言われて「あなたとは違うんです」と怒ったのも、そのせいだと思いますね。立場上、裏のことは話せないでしょう? 鳩山さんみたいに口滑らす人もいたけど。

 小沢さんだって、責任とって鳩山さんと一緒に幹事長やめておきながら、代表選挙に出たのは、「本来、俺が民主党を支えているんだ。フザケルな」って意識があるからであって、国を思っての敢えての出馬だなんて、そんなの信じて応援する馬鹿がどこにいるんだ?って話ですよ。要するに党の実権握らないと金が自由にできないからでしょう。

 テキトーにラッパ吹かしてみせたら、子分がゾロゾロついてくるから錯覚してしまうんですよ。子分引き連れて中国旅行してた姿見たら、新興宗教の教祖様にしか見えないよ。

 尖閣諸島のことでも明確に解ってきたのは、今、日本はアメリカと組むか中国と組むかという選択と、もう一つ、独立国家として自力でやっていくかという手もある。

 理想をいうなら自立することですが、独立国家としてやっていくだけの力は今のところは無いですね。無理だと思いますよ。だって、自立する強固な意志が国民には無いから。

 今の日本の致命的なのは、長年、戦いを放棄してやってきたことですね。

 平和を宣言している以上、話し合いでカタがつくと思ってる。戦争は話し合いでカタがつかなかった時の決着の手段だという点を忘れてしまっているのです。

 自分たちが手を出さなくとも、相手が出すことは現実にあり得るという点から目を背けてきたツケが出てきたんだと思いますね。

 この点、武術の世界は「昨日の友が今日の敵」というのが当たり前の世界だから、「信じられるのは己のみ」というハードボイルドな精神が無いと渡っていけないから、いや~、いろいろ勉強させてもらいましたね~。ホント・・・。

 義理人情を大切にする世界だからこそ、逆に平然と人を裏切る仁義無き人間がざらにいるんです。しかも、面と向かってじゃなくて陰湿な嫌がらせをチマチマ仕掛けるから、タチが悪いですよ。

 でも、戦いは戦闘力、軍事力だけでやるものじゃないですよ。

 これまでの日本は経済力でアメリカを脅かしてきていたし、科学技術の点や芸術芸能などの文化でも優れたものをクリエイトしてきている。

 武術の方法論だって、そうです。戦わず、戦わせずに勝ちを制する方法論を日本人は希求してきた。軍事力の発展ではなく、文化として発展した。

 つまり、人間の質を高めることで愚かな争いを自然消滅させる教育的遊戯の文化性を持つ装置である“武術”を生み出してきた。戦わずに敵の心を制圧心酔させるのが究極の極意ですよね。

 これもまた、数多ある宗教システムの一つに収斂されるのかも知れないけれど、一つの可能性として、人間にカルマとして備わっている闘争本能を、個人が自己を高めるための内的修行システムとして転化させることができる・・・かもしれません。

 そして、これは、人が未成熟な自己の精神性を、より多くの他者の支配欲へと向けてしまう邪まな本性を持つが故に、“社会”という制度の中で魔に捕らえられていってしまうのに対する、ほとんど唯一のカウンターパンチとなり得る、文字通りの“最終兵器”になるし、そうなるように方向付けしていきたい・・・というのが、私のささやかな“誇大妄想”です。

 何しろ、世界は私とほとんど関係なく成立しているが故に、ささやかな抵抗が影響を及ぼせるとすれば、それは、ただひたすらに世界を夢見て生きていくしかないんですよ。私にできるのは、ただ、それだけ。

 けれども、世界を夢見ることは世界と繋がることです。世界と繋がるというのは、本生に気づくということ。そんな人間が増えていけば、いずれ世界は変わります。

 私は私の本心が欲することをやって生きていくだけ。それが世界と繋がっていろんな影響力を生み出していくだろうという予感がある。

 これ、性善説の話。

 だけど、力もないのに戦ったって意味ない。負けると解っているなら逃げるが勝ち。

 国としての日本が崩壊してしまうということも、あり得るかもしれないけれど、日本の風土の中で育まれた文化は日本人のDNAの中にきちんと伝承されるでしょう。

 最終的に守らねばならないのは、土地じゃなくて人ですよ。

 かつて、鹿島神流の国井先生に「俺と勝負して負けたら道場を貰うぞ」と挑まれた合気道開祖、植芝盛平翁は、「じゃあ、道場はあげますよ。どうぞ~」とあっさり答えたので、国井先生は毒気を抜かれて「いや~・・・」と照れ笑いしながら頭をカキカキ帰っていったとか・・・。

 粋な爺さんだね~・・・。

 日本も中国に飲み込まれたら、自由主義の考え方をどんどん広めて内部から中国人民を変えていきゃあ、いいんですよ。十年もしたら、名前は中国だけど中身は日本になっちゃうだろうから、それもアリかもね~?

 これ、性悪説を取る武術的戦略です・・・。

 質問をしてくれた方は、このブログを読んでいる人達はリアルに力に向き合おうとしている人達だと思う・・・と書かれていました。

 そうだとするなら、私が伝えたいのは、まず、「必要な時は戦う覚悟を持って欲しい」ということと、「戦う以上は先の先まで考えて欲しい」「戦うべき時に備えて心身を鍛錬していて欲しい」「しかし、戦う時は命を捨てる覚悟をすべきで、できないなら戦わない勇気も重要」「そして、武術は楽しく仲間と稽古して欲しい」「そして、メッチャクチャに強くなっても、周囲にかくして普通に働き、でも、弱い人、困っている人を見たら助けてあげられる人間になりましょう!」といったことです。

 独修は毒習に繋がります。ウツウツと独りよがりな練習をして自分が強くなったような錯覚に陥り世の中を斜に構えて見たりする脳みその腐った人間にならないようにしましょうね。

 
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志村どうぶつ園の“あの人は誰だ?”

 犬猫好きの私はTV東京の『ポチたま』が終わってしまってから、動物番組では志村どうぶつ園をよく観るようになったんですが、もっぱら子犬子猫特集をよく観ております。

 何しろ、小学校から高校、浪人時代にかけては飼い犬が四匹、半分野良化した飼い猫が二十匹以上、居たこともあります。

 他にも、短期間ながら鳶を飼ったこともあります。

 何でか? 母親が勤めていた中学校に迷い込んできて翼を怪我して飛べなくなっていたのを家に連れてきたんですね。

 庭に鳥小屋作って飼ったんですけど、何を食べさせていいものやらわからず、小魚とかやっていたんですけど、確か一月もしないで死なせてしまいましたね。

 やっぱり、ペットはなつくから犬か猫がいいです。

 犬は散歩させたり世話が大変だから、個人的には猫が好き。放置しておいても逞しく生きていくし・・・。

 それはそれとして、志村どうぶつ園を観ていたら、ペットと飼い主の絆を描いた再現ドラマ特集があって、この中で、高瀬道場の加賀谷圭さんが、死んだ親友の遺志をついで、飼い犬と一緒に全国を被災者募金を集めて回る旅に出る、ぶっきらぼうで不器用だけれども気のいいオヤジを演じられていて、これがもう、いい味出てて、キャラが立ちまくりなんですよ。

 最初、私、失礼ながら気づかなくて、「いや~、この役者さん、キャラ立ってるな~。存在感あるな~」と思っていたんですが、あまりに個性が際立っていて、再現ドラマというレベルを超えて、何だか映画観てるような錯覚すら覚える程でした。

 番組の出演者もそう思ったのか? “この役者さん、誰?”みたいな顔しています。

 そして、よくよく観ると、何だか、どこかで観た顔だ・・・どこで?と思ったところで、「あっ、この人は高瀬道場の技芸会で人斬り以蔵を演じていた加賀谷さんじゃないの?」と思い至り、念のため、高瀬先生にメールでお尋ねしてみました。

 すると、やはり、加賀谷圭さんだったということで、いや~、味のある役者さんだと思っていましたけど、こういう再現ドラマを映画のように思わせてしまう程だとは、本当に感心させられましたね~。だって、アクションやってないんだもんな~。

 この再現ドラマは犬の芝居も良かったんですけど、加賀谷さんの存在感がズルイくらい際立っていて、本当に、このまま映画化したら『マリリンに会いたい』を超えると思いましたよ。オレ、泣けちゃったもん。

 ホント、マジで企画してみたらいいんじゃないかな~?


・・・とか思っていて、シダックスの講座の日に京王橋本駅のコンコースにある書店で武道雑誌を立ち読みしていたら、『剣道日本』の剣日調査局リポートのコーナーで、高瀬道場の多加野詩子先生が教えられている女性向け殺陣教室の紹介記事が載っていました。

 武道の専門雑誌というのは、かなりお高くとまっていて、芸能的な事柄は載せたがらない傾向が、かつては確実にありました。

 例えば、私が担当して『月刊空手道』空前絶後の賛否両論号になった、“アクションカラテ”の巻頭特集の時は、「ついに月刊空手道もここまで地に落ちたか・・・」という毒者?の批判意見も来たりしていたものです。

 その時は、JAC(現JAE)、AAC、そして高瀬道場を手分けして取材していたんですが、頭の堅い空手馬鹿の批判も凄かったですが、「こういうのが読みたかった!」という狂喜の意見も結構ありましたけどね。

 あ~、それから12年くらい経過したのかな~? 時代は変わったな~。

 いや、剣道の背景にある日本の剣の文化を幅広く多角的に採り上げていこうという若い編集者の風が吹いてきているのかもしれませんね。

 殺陣の文化というのは、多くの人は目玉の松っちゃんに始まる活動写真以降のチャンバラ映画を思い浮かべるかもしれませんが、実は、歌舞伎や日本舞踊の中に伝承されてきたので、歴史そのものはかなり古くからあるんですよ。

 あるいは、日本各地の民間に伝承している棒の手踊りや、お神楽といった伝統舞踊の中に武術が混ざっていたりもします。名古屋の棒の手の動きには新陰流の影響がうかがえるし、肥後人吉地方の棒の手にはタイ捨流の影響があるといわれます。

 戦前に映されたフィルムに映っていたお神楽は、小太刀を巧妙に振る様子があって、どの地方に伝承している神楽舞いなのか判らず、残念だったこともあります。

 私も関心があって多少、調べたんですが、これって日本に限らず、中国でもインドでも伝統的な古い踊りには武術と共通するものが含まれているんですよ。

 それこそ、流派としての武術が発祥するより以前からあったと考えられるんです。

 現代の多くの武道武術が、不自然に身体を強ばらせて膂力に頼るようになっているのと比べて、殺陣には動きの流れがあります。機能的に合理的な身体操作と刀法が一致しています。

 かつての武術は“武芸”と呼ばれました。武芸に達した者は“武芸者”と尊称されました。これは今日の世界の共通言語として武術を呼ぶ“マーシャルアート”に、そのまま当てはまるでしょう。

 殺陣とは、まさしく、文字通りの“マーシャルアート”です。

 私は、最近、伝統武術が未来に伝承されるためには、殺陣と同化するのが最良ではなかろうか?と考えはじめています。

 現代武道はスポーツと同化することで広く世界的に普及発展しました。

 しかし、本来の武術とは掛け離れていくばかりです。そして、本来の武術もまた、最早、表現の場すら喪失しつつあるのが現実です。むしろ、“武芸=マーシャルアート”という様式の中で伝承していった方が、より発展する可能性もあるのではないか?と、私は、かなり本気で考え始めています。

 香港カンフー映画はそのケース・スタディーとして成功していると思います。ブルース・リーの登場以後、中国の武術は新体操競技に近い芸術的スポーツの枠組みで命脈を保ちました。

 日本もそうすればいいではないか? そう思います。

『剣道日本』が殺陣を採り上げたことの意味は、一時的なブームだからというのではなく、日本の伝統的な武術文化のエポックメイキングとなる“場”を示唆したものとして、今後、もっと大きな意味を持ってくるかもしれない・・・そんなことも考えました。

 それにしても・・・刀剣女子ブームというのは、草食系男子が増殖する時代へのカウンターカルチャーなのかな~?と思うのは私だけなんでしょうか?

 少なくとも、我々は文化の担い手としての誇りを胸に秘めて、日々の修行を楽しむべきなんだと思いますね。


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武術が上達したければ殺陣を観よ!

 招待状を頂戴して楽しみにしていた高瀬道場の第九回技芸会・・・。

 グッスン・・・観たかったな~・・・残念・・・。

 実は私、ここ最近は、武術の映像資料とかはあんまり観なくなってきたんですね。何でかっていうと、あまりにも動きが限定されていて実際の戦闘に役立つようなものが少ないんですよ。「何じゃ~、こりゃあ~?」と思うようなスットコドッコイなのもある。

 いや、真面目な話。質の良い格闘アクション映画観た方が実戦技法の研究は遥かに進みます。間違いなく!

 常連会員のKさんが「皆さんで回して観てくださいね~」とニコヤカに貸してくれた『蛇鶴八拳』『ユン・ピョウinドラ息子カンフー』『モンキーフィスト猿拳』『城市獵人(CITY HUNTER)』のDVDも、私以外は誰も関心を持たない?

「オイオイ、こんな傑作カンフー映画、滅多に観れないんだぞぉ~」と思いましたよ。こんな優れた武術教材は滅多にないのに~、ホント、こいつら、頭、カタイな~、もうっ。

 最近は、こういう優れた武術映画作品を観てない人が多い。だから、覚えが悪いんですよ~。

 40代以上の人間は、こういう作品を沢山観て真似した経験があるから、自然に下地ができていて、ヌンチャクでもトンファーでも何でも一通りできますからね。

 ヌンチャク振れなきゃ日本男児じゃないんだよっ! 大槻ケンヂさんを見なさい。あれが日本男児だよっ!

 30代より若い人だと、途端に何も知らない人が多い。映画観てないからカンフーでも剣術でもカラテでも一から教えないとダメ。イメージが全然ないから、真似る感覚が鈍いんですね。映像再現能力が低い・・・。

 Kさんは大学の合気道部の主将だったそうで、入って半年くらいだけど進歩が異様に早い。特にカンフーの技の吸収が異様に早いんだけど、これは表演武術を少し習っていたのと同時にカンフー映画のマニアである点が大きいんだと私は睨んでおりまする。

 日本未公開の『葉問』のDVDも彼が貸してくれたんですね~。ドニーさん大好きな私としては狂喜しましたよ。

 中国武術を実際に習っても、套路ばっかりで実戦用法はさっぱり教えてくれません。下手すると、フルコンタクトカラテやキックみたいな戦い方で、套路の動きとは似ても似つかなかったりするんです。

 試合しか念頭にないなら仕方もないけれど、中国武術の技が使えないままで疑問はわかないんでしょうか?

 しかし、カンフー映画を観れば、模範的な技の実戦用法が膨大に表現されています。

「あれは殺陣で約束組手みたいなものだから」と無意味と断定する人が多いですが、こういうこと言ってるヤツは大馬鹿ですね~。

 約束組手みたいなものだから、“武術としての真の用法”を表現できているんです。自由組手が実戦的だと考えるのは試合に慣らされた錯覚なんですよ。

 空手で型の分解組手ってありますが、あれが空手の武術としての本来の技の用法の使い方の練習になる訳です。あれをやらないと型の動作の意味はずっと解らない。

 極論すると、型やって分解組手やれば充分なんですよ。それで動作の意味が解れば、後は応用変化の世界ですから・・・。

 カンフー映画は、差し手、粘手、封手、掴み手、点穴、分筋錯骨法、閉気栽脈法、暗腿、暗脚、寸勁、化勁、弾勁・・・と、もう実戦用法のカーニバル状態ですよ。

 カンフー映画を観慣れると、もう技の用法とか習わなくても膨大に情報がインプットされますよ。無論、デフォルメされてますから、要所要所の技の極め所に注目するのがコツですけどね。

 率直にいって、私はカンフー映画から実戦用法を学んだ側面もありますよ。もちろん、映像映えするように大袈裟に表現されてはいますが、特にサモハン・キンポーやラウ・カーリョンの演出作品だと武術の高級技法の用法が表現されている場合が多いですね。

 それにしても、若き日のジャッキーやユン・ピョウやサモハンの身のこなしの素晴らしさといったら、唸ってしまいますね~。京劇の基本が生きてますよ。

 それに、脇役の役者さんたちもえらい上手いんだな~・・・。霊幻道士役が有名なラム・チェンインの詠春拳も見事ですよ。

 CSで、デビッド・チャンが出ている『水滸伝』をやっていて、丹波哲郎と黒沢年男が出ていたんですが、丹波先生なんて殺陣は上手い人なんですけど、向こうの役者さんたちと比べると、もう身体の動きが全然、追いつかないんですね。黒沢さんに至っては構えているところだけで後は吹き替えられてるし・・・。

 こういう差を見せつけられると、『龍の忍者』『皇家戦士』の時の真田広之の凄さを痛感しますね。真田さんは日本舞踊の名取でジャズダンスもできるでしょ? その上で器械体操ができて空手や殺陣ができる。そのくらいでないと太刀打ちできないでしょうね。

 だから、武術が上達したいと思っていたら、形ばっかりのオタッキーな武術のDVDなんか見るよりも、殺陣にこそ注目すべきなんですよ。約束組手風だからこそ、勝負に固執しない“理想的な実戦用法の在り方”を表現しているんですからね。

 ましてや、生で観る殺陣は、今や、いかなる武術演武にも優る研究素材ですよ。

 特に、対複数を想定した場合の間合の取り方や牽制のやり方、拍子、動く角度と位置、等々は、ほとんどの武術で失われてしまったものです。

 武術や格闘技を実際にやっている人でも、こういうことを考えている人は滅多にいないでしょう? 何しろ、こういう点について書かれた武術や武道の本はほとんど無きに等しいですもんね。

 私も三人くらいまでしか実験していませんから、対複数の戦闘法に関しては、まだまだ理論的にこうだと言えません。研究中ですが、あと3~4年は必要でしょうね。

 こういうことは、闇雲にブッツケでやっても何も体得できません。すぐにフクロにされてフルボッコになってしまうのがオチです。

 基本的に正解の形がないので、約束組手の状況設定で多種多様にいろんな手を工夫蓄積している殺陣文化の醸成しているパフォーマンスのレベルは凄いのですよ。

 矢嶋師範代もつばさ基地の殺陣クラスに入りましたけれど、私の言っていた通り、物凄く勉強になると喜んでいました。こういう柔軟なアタマがないと上達はしませんね。


 正直いって、伝統的な古流剣術家でも現代剣道の日本一でも、一対一でなければ、もう何をどうしていいのかわからなくなってしまうと思いますよ。

 だって、一対二ですら練習しないでしょ? 三人、四人と増えていったら、どうしようもなくなりますよ。

 人間の身体構造上、肩より後ろを取られると死角になりますからね。

 まあね~、アシュラマンみたいに腕が六本あったら別ですけど、二本の腕しかない人間が立ち止まっていれば、三人に同時にかかられたらアウトですよね。

 対複数の敵と戦う場合は、立ち止まってはいけない訳です。死角を固定しないために。

 この鉄則は、高瀬先生が指導された『花のあと』で北川景子が、ばっちり実践していて感心しましたよ。

 複数の敵と戦う場合は、“敵の陣形を崩すために走る”。これが鉄則。

 そして、瞬間的に必ず一対一になって、一撃で確実に倒す。この繰り返し・・・というのが基本的なセオリーです。

 私が、いつも「一撃必殺が肝心だ」と主張している意味が納得いかれるでしょう? 対複数を考えたら、一瞬で一人を確実に倒せなければ、フクロにされてフルボッコになるのが解っているからですよ。

 事実、いろんな武道・武術をやっていて鬼のように強いと言われていた人間(警備員をやっていた)が、オヤジ狩りの一人をタコ殴りにしたものの、その仲間に狙われて深夜に帰宅途中を襲われて半殺しの目にあって障害者になって武道どころではなくなったという話もあります。

 あのケンカ十段と呼ばれた芦原先生ですら、「ヤクザとはケンカするな」と言っていたそうです。ずぅっと付け狙われて家族まで襲われるのでは芦原先生だって、たまったものじゃないでしょう。

 要するに、喧嘩は相手を見て、勝った後でどうなるか?というところまで瞬間的にシミュレートして対処しないとダメなんですね。

 素人の喧嘩自慢だったら、単純に完膚無きまで叩きのめしたら逆に尊敬して慕ってくる場合もありますが、ヤーサンの場合はメンツがあるから、“トウシローにシメられた”というのは許されない訳ですよ。

 よって、彼らは喧嘩で素人に負ける訳にはいかないから、結構、格闘技とか武道とかやっている場合もあります。元格闘家がヤクザになる率も結構高いですし、現役ヤクザの武道家やボクシングやキックのジム経営者もいますよ。

 だから、一回やったら、次から次に仲間連れて襲ってきたりする可能性があります。従って、やらないのがベスト。それでもやるなら、相手のメンツがたつような勝ち方(引き分け)にしないといけません。が、これが難しいんですね。口が達者で演技力も必要になりますし、相手に内心で負けを自覚させるだけの実力も必要ですからね。

 ほとんど師範クラス以上でないと無理ですね。正直いって・・・。

 ヤクザ者は、古くは任侠の徒って言ったりしますでしょ? 彼らはある種のプライドや自尊心、美意識は凄く強いので、それをくすぐってやると「お前、話がわかるな~」って具合になったりもします。これも戦術の一法です。

 ヤクザ者の上級者になると右翼思想の持ち主である率が高いですが、ヤクザから右翼思想系の武道家になったりする人もいます。つまり、思想的に地続きだってことですね。

 こういう話は特殊なことみたいに思うかも知れませんが、中国武術の世界だって同じことなんですよ。

 伝統的な真性の武術を学ぶには秘密結社に入る必要があります。“~門”という日本に於ける流派に相当するものの背景には、秘密結社的な党派がある訳なんですよ。

“~派の~門”といった感じです。

“入室”という言い方をしますが、これは党派の秘密を守って結社員になることを本来は意味したと考えられます。

 従って、入門の先に入室があるんですね。日本でいうなら、“奥許し”。極意相伝の対象者となる訳で、四天王とか呼ばれたりするくらい数は厳選されて一般の弟子とは区別されます。

 こういう事情は、武侠小説とか昔の香港カンフー映画とかを見れば、いくらでも出てくる話ですが、実際にそういう側面は今でもある訳で、中国武術に関しては、日本人を入室弟子として認めることは、まず考えられないでしょう。

 拝師(パイスー)しても“入室弟子”と認められた訳じゃなくて、いわば“金許し”みたいな名誉段を与えて喜ばせておくだけにしたりする場合が多い。

 どうしてか?というと、中国武術は“国術”という別名がありますが、つまり民族性を優先するということなんですね。

 それでなくとも、少林派だったら仏教徒じゃなきゃダメだし、回教の門派だったら、やっぱり回教徒にならなきゃダメでしょう。武当派なら道教とかね?

 金出せば習えるスポーツ感覚で考えていたらダメなんですよ・・・。


 ちなみに、喧嘩は相手の知らない技とか戦法を駆使する人間が有利になります。

 だから、ボクシングや空手、柔道、少林寺拳法のようにテクニックが知られているものだと対策を講じられ易いんですね。

 パンチが上手いヤツは掴み技に弱い。蹴りが上手いヤツは滑りやすいところに誘い出す。・・・と、相手の技が使えないように仕向けていく訳ですよ。

 今でも不良はある種のヒロイズムみたいな意識があるから、あんまり馬鹿だとどうしようもないけど、方向性が定まると社会的にも活躍できるような逸材に変化する場合がありますよね。

 実業家とか俳優とか、昔は伝説的不良だったって人が結構いるじゃないですか? やっぱアタマはるようなヤツはチンピラ止まりにはならないですよ。

 ただし、私の経験上、彼らは教えても長くは続きません。

 どうしてか?と思ったんですけど、彼らの多くは喧嘩を楽しみたいんですね。スポーツ感覚に近いんですよ。

 武術は徹頭徹尾、相手をぶっ潰しますからね。虫けら潰すみたいに・・・。だから、逆に怖くなってくる・・・みたいなことを言っていました。「俺は殺人を犯してしまうんじゃないか」って・・・。

 案外、優しいヤツが多いんだと思いますよ。私の方がよっぽど冷酷だよな~。


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小よく大を制する最大の秘訣

 矢嶋師範代のブログを楽しんで読んでいます。

 いろいろアドバイスしたりもするんですが、彼は基本が真面目だから、「武術のことばっかり書いてもつまんないから、特撮のこととかいろいろ書いて、読者サービスしなさい」なんてことを言ったりしています。

 で、文章というのは、本人の認識のレベルを客観的に表す面もあって、思想信条的な面なんかは、かなり明確に出ますね。

 それから、オツムの程度も出ます。

 性格も出ます。

 趣味も出ます。

 あ~、何だかんだ言って、その人の内面がほとんど出ますね~。


 で、24日のブログで小よく大を制するやり方について軽く書いていたので、フムフムと思って読んでいたんですね。

「まあ・・・概ね、間違ったことは書いてはいないかな~? 間違ったこと書いてたら俺の恥になっちゃうもんな~・・・んっ? アレッ? おや~? 一番、肝心要なこと書いてないじゃん? まさか、わかってね~んじゃ、あるまいな~? ムムム・・・」

・・・とまあ、気になってですね~。

 そういえば、彼は技かける時に、“それ”を使ったり使わなかったりしていて、どうも、重要性を今イチ、きちんと理解していないような気もするな~・・・と思っていたんですけど、やっぱり、解ってないみたい・・・。

 無論、一番、重要な秘訣なので、明かさないで本人にだけ教えればいいんですけど、でも、武術にとって肝心な点であるということは、我々以外の武術に真剣に取り組んでいる人達にとっても参考になる筈。

 私の本音では、直接、教えている会員だけに教えて体得していってもらいたいんですが、武術が基本的に“小よく大を制することが当然至極の術”であるという点について、広く理解してもらうことも意義があるだろうとも思います。

 何せ、うちの師範代が理解できていないのでは困りますからね。

 いやね~・・・矢嶋師範代がブログで書いていた点も見当違いではありませんが、それだけでは小よく大を制するのは“無理”なんですよ。

 はっきり申しますけど、彼が挙げているのは“必要な条件だけれども、それだけでは充分ではない”のです。

 その点を解っていないなら、体格に勝る人間と戦えば、勝てませんよ。いくら頑張っても無理! それこそ、夢物語で終わってしまいます。

 だから、補足して書いておきます。

 いいですか? 小よく大を制するための最も肝心な術は、“崩し”です。

 日本武術でいうところの“合気”、中国武術でいうところの“化勁”ですよ!

 これらは、相手の体勢を“わずか”に崩して攻撃力も防御力も発揮させなくするための戦術的技法です。

 この“わずか”というところも重要なんですよ。思いっきり崩そうとすれば相手も抵抗して力任せの勝負になりがちなんです。そこで、“わずか”に崩す。相手が崩されたことに気づかない程度に・・・。それが“術”というもんです!

“これを使わないと体格差は克服できません!”

 考えてみてください。合気の遣い手である武田惣角、植芝盛平、塩田剛三といった人達は、150cm代の相当に小柄な人だったでしょう? それで2m以上の巨漢を簡単に手玉にとって見せた。

 これは、巧妙な“崩し”を利用したからこそ可能だった訳で、何も歩法や交叉法、読みを駆使した訳ではありません。読み・交叉法・歩法は、もちろん、大切ですが、“崩し”が無ければ体格差を無化する達人への道は開けません!

 以前は、私も口を酸っぱくして教えていたんですが、いつの間にか技の中に溶け込んで使うようになったので、外側からはよく見えなくなってしまった様子で、私が技をかけている時に必ず“崩し”を用いている点を認識できていなかったのかもしれません。

 私も現代日本男子としては小柄な部類ですが、体格差で不利を感じることはまったくありません。それは、技を施す瞬間に、ほんの少しでも相手の体勢を崩させながらかけているからです。

 でも、これは難しいことを言っているんじゃありません。柔道や相撲では“崩して投げる”のが前提ですからね。原理的に小よく大を制する戦闘理論になっているんですよ。本来は・・・。

 こういう戦闘理論上のコツというのは、競技化が進むと忘れ去られてしまいがちで、目先の勝ち負けを追いかけてスピード勝負に走るのが関の山です。

 だから、知識として知ってはいても、それがどれだけ重要な要素なのか?という点は忘れがちなんですよ。何せ、“崩し”だけでは戦えないし・・・。


 しかし、この“崩し”というのは調味料みたいなもので、調味料がないと料理の味わいが無くなってしまうのと同様、力任せの技から脱却するには絶対的に必要なものなのですよ。

 ちょっと、科学的に説明すると、人間は、座っている時も、立っている時も、歩いている時も、自分の姿勢を維持するために無自覚に相応の筋力を用いて支えています。

 ところが、このバランスを崩されそうになると、崩されまいとして姿勢を維持するためにいろいろな筋肉が踏ん張るのです。

 つまり、瞬間的に居着いてしまう。結果、充分な攻撃や防御のための筋力も発揮できなくなってしまい、非常にモロい状態に陥ってしまう・・・という仕組みです。

 従って、小よく大を制するということは、人間の運動の構造的力学のメカニズムを利用してやれば簡単にできる訳で、その仕組みを熟知さえしていれば、はっきり言って、ちっとも難しくありません。

 身体運動と生理反射の仕組みを理解していれば、「小柄な自分が巨漢に勝てるだろうか?」なんか考える必要がないのです。それを考えて悩む時点で、仕組みを理解しておらんということになります。

 私は体格じゃなくて、その人がどれだけ自分の姿勢のバランス保持ができているか?を観察するので、むしろ、腰が据わっている人を警戒しますね。で、歩いている時に軸がブレないとか、ほどよく脱力できているとか、そういう身体性を読みます。

 体格しか観ないのはダメなんですよ。

 仮に体格が極端に大きかったら、それだけ体重を支える姿勢保持のエネルギーが必要になりますから、膝蹴り壊してやれば、もう戦闘力は半減しますよ。自分の体重がマイナスに作用してしまう・・・小錦とか曙を見れば解るでしょう?

 体格が大きければさらけ出される急所も多くなりますし、死角も広くなる。別に怖がる必要なんか全然ないんですよ。重心移動で威力出せれば打撃力の差もないし・・・。

 何か、体格が大きいと圧倒的に有利なんだという強固な格闘技の常識に縛られてしまっているんでしょうね~? 武術というのは、そもそも体格差を無化することを前提に工夫されているのですから、理想論じゃなくて、具体的に勝てるようにできてますよ。

 武術は相手と真っ向勝負はしないし、そもそも同じ戦い方をする訳じゃないんだから、やり方はいっくらでもあります。「どうやれば勝てるか?」と考えて、勝つために必要なことをやる・・・それだけの話なんですよ。

 そして、その答えは既にずぅ~っと昔に出ているんですよ。

 覚えておいてください。小よく大を制する秘訣・・・。

 それは、“崩し”です! 相手のバランスを崩せば体格差なんか関係ないのです。

 皆さんも、よく覚えておいてください。

追伸;ついでにいうと、脱力体を養成することは、“崩し”の対抗策でもあります。具体的にどうやるか? それは習いに来てね~


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ようやく秋が・・・

 酷暑もようやく薄らぎ、秋の気配がやってきたかな~?と思っていたら、寝冷えして風邪でもひいたのか? 頭痛と倦怠感がひどくて困りましたよ。

 風邪っぽいけど咳とか鼻水は出ない。ただ頭痛が酷くて、日曜日の稽古会の後、高瀬道場の技芸会に行く予定だったんですけど、歩くだけで響くくらい頭痛が治らず、「高瀬先生によろしく御挨拶してきてくれ」と、北島師範と会員で俳優のTさんに代理で行ってもらいました。

 楽しみにしていたので残念なんですが、今年は審査員じゃないので御迷惑はおかけしないで済みます。

 それにしても、練習中もベンチに腰掛けて指示してるだけに済ますつもりが、ついつい立ち上がって実演したくなってしまい、形意拳の寄り足歩法(半歩崩拳で中国武術マニアには有名だけど、実は空手の世界でも秘訣として言及されている)や劈拳(形意五行拳の第一式)や龍形拳(形意十二形拳の第一式)の使い方をやってみせたところ、踏み込みが響いて余計、頭痛が酷くなっちゃいましたよ・・・トホホ。

 何か、今年の風邪は頭痛だけが出るらしい・・・と大石教練もつい先日、同様の症状に家族全員が罹ったということで、あ~、やっぱり風邪なんだろうな~と思いました。

 せっかく気候も私の大好きな秋になってきたというのに・・・。


 ところで、菅VS小沢。面白かったですね~。あれで小沢が勝っていたらお祭り状態でもっと面白かったでしょうけれど、やっぱり庶民的には無難な方を選ぶよね~。

 結局、個人の力量に頼る英雄願望って、一種の他力本願だから、良くないと思う。

 けれども、菅さんのようにみんなで団結してって言う市民運動感覚というのも私はちょっと期待する気にはなれないんですね。

 個人の力より集団の力が強いのは当たり前なんですが、烏合の集団じゃしょうがない訳で、プロフェッショナルのエキスパートが結集して連携してこそ最大の力が発揮できると私は思うんですね。

 そういう意味で、私は少数精鋭が好きですね。無能な人間が何千人いるより天才的な有能な人間が数人集まった方が絶対にいい仕事ができると思っています。

 そもそも、私は無能な人間は嫌いなんです。何でもいいから、「これをやらせたらアイツは凄い!」という一芸に秀でている人間が好き。二芸も三芸もあったら尊敬する。

「僕は何の取り柄もない人間です」とか、「私はごく普通の女の子です」みたいなこと言うヤツは、「あっ、そうなの? 俺、普通の人間は相性悪いから、他所に行った方がいいよ?」って具合にメッチャ冷たい対応取ったりします。

 何でか?というと、こんな自分の無能力っぷりをアピールする人間って、“謙虚さをアピールして自分の誠実さを認めて欲しい”という厚かましさを秘めているからですよ。

 本当に謙虚で誠実な人間は、敢えて自分からそれをアピールしませんよ。実際に、純粋さや誠実さをアピールしている人間が裏で汚く立ち回って相手を陥れようとしたりしていたことを何回も見ましたよ。

 私はそういう偽善的な人間が死ぬほど嫌いなんです。

 もし、私に認めて欲しいと思っているなら、「僕は素質も才能もありませんが、武術が大好きで長野先生に教えて欲しいと思ってきました」ってフツーに言えば、「そうか、なら教えてやるよ」ってなります。

 重要なのはやる気と素直さ。言われた通りに真剣にやれば能力値はちゃんと上がりますからね。

 いつも繰り返し書いていますが、東京支部長を任せている矢嶋師範代は、まさに入会した頃は私の眼中には入らなかったですよ。な~んにも期待していなかった。

 でも、彼の偉いところは、そんな自分をしっかり弁えていて、私が指示した事柄を真剣に考えて、自分が上達するために必要だと思えば躊躇なく取り組んできました。

 だから、たったの三年で指導者になったんですよ。最初と今を比べたら別人なんて言葉じゃ言い表せませんよ。私が「この人は見込みないな」と思ったのに、完全に私の見込み違いでしたからね。小癪なヤツだ・・・。

 ただね。ちょっと、先走ったりするところもあるから、わざとキツク叱ったりもするんですけど、そういう時に過剰反応したりするところは、オイオイって思ったりもしますけどね。

 だってさ~、いきなり“反省文”とか書いてきたりするから、「俺、そんなつもりないんだからさ~。大袈裟だよ~」ってな感じ・・・。真面目過ぎるのもね~(苦笑)。

 反省する精神性の無い人から比べると、ずっといいんですけどね。他人に教えを受けるという感謝の気持ちが全然ないヤツとか結構、いますからね。優しくすると付け上がるだけだと、よく解ったので、今はなめ腐った態度取るヤツは容赦しないことに決めています。

 でも、ちょっと叱ると、死にそうなほど落ち込む人が多いですね。よくそんなひ弱な精神構造で生きてこれたな~って感心してしまいますが・・・(長野さんが特別なんだと言われたりするけど、そんなこた~ないよ)。

 私は精神的に弱い人って、あんまり共感できませんね。自然界で生き残れないタイプは放置してたら自然死するでしょ? 人間も基本は必死で生きようとするバイタリティーが必要だと思うから、私は精神的に弱い人は助けようと思わない。身体的に弱い人は助けたりするけど・・・。

 また、精神的に弱い人に好かれちゃうんですよね~、オレ。優しそうに見えるんだろうけど、お生憎様ですね。実際は、甘えたりフザケたりするヤツは蹴り飛ばしたくなる性格なんで、勘違いして俺に近寄ってくんな!って感じです。

 私がそういうタイプに言うことは一つ。「戦え!」と。世間と戦う。自分の弱さと戦う。戦わない人間は信用できん。

 ちょっとトラブルが起こると人生終わったみたいに騒いで自殺とか通り魔殺人とかしでかすヤツがいるけど、必死で生きようとすれば、大概のトラブルは克服できるんですよ。

 だけど、武術修行に逃げ込んで戦ってるフリしたがる人間が多いんですよ。ホント。そんなことやってる間に人生、終わっちゃうよ。

 何で、他人の目ばっかり気にするのか? 他人に尊敬されたいとか同情してもらって嬉しいとか? 阿呆か?と思いますよ。

「ボクのことをみんなにわかって欲しい・・・」とか、大の男が乙女チックなボケ言ってんじゃね~よっ! 気持ちワリ~んだよ。

 男と生まれたからには、目指すは一つ! “天下を獲る!”・・・これが男子の本懐というもんですよ。そんでもって、武術をやるんだったら、“地上最強”を目指さなくてど~すんだよ?

 何事もやるんだったら、ぶっちぎりでトップを目指さなきゃダメだよ。そんだけの目標を掲げたら、要らんことやってる暇なんか人生には一日もないんだよ!

 誇大妄想じゃないですよ。目標はとにかく最大限に高く設定しなきゃ意味ないんです。

 よく、「初段取るまでは道場に通う」とか言う人がいますけど、現実に武道の初段程度じゃ護身の役には立ちませんよ。

 誤解する人が多いから、一応、打ち明けますが、私も某流儀で三段相当は貰っているんですけど、三段程度で威張るの恥ずかしいから、“現代忍法道六級”の方が笑えるから、こっちの方を言うようにしていますけどね。

 特殊な戦闘訓練積んだ武装した複数の人間に拉致される時に、空手や合気道の初段程度の腕前で逃げられると思いますか? 無理でしょ?

 じゃあ、その初段取るために道場に通った努力は護身の役には立たなくて無駄だったってことですよ。ねっ? だから、中途半端に修行したって無意味だってことです。

 やる以上はトップを目指す。「どうせ、無理だから・・・」って言い訳するなら、やらなくていいんです。私も、やる気のない人を無理に誘う気なんか、さらさらないですからね。

 我が游心流は人数は少ないですが、着々と少数精鋭が育っているので、先行きが楽しみです。

 セミナーだけに通っている人の中にも非常に上達していっている人がいるので、本当に嬉しいです。UさんとかIさんとかNさんとか、びっくりするくらいですもん。

 やっぱり、武術なんだから、“百の理論より一人の達人”ですよ。論より証拠です。

 発勁だって、一発で相手を絶命させられる発勁が打てないとダメですよ。武術なんだから技は一撃必殺の威力が無ければ意味ないんです。

 私はポン刀だって最上大業物が好きだし、銃だってマグナムや対戦車ライフルみたいな無闇矢鱈に強力なヤツが好きなんですよ。「死ね、このヤローっ!」って一撃でぶっ潰せる威力がないとダメっすよ~。

 それだけの技能を体得してこそ「不殺活人」という理想を論じることができる。

 私は、断じて「戦えない武術」なんか認めない! そんなタワ言をほざく人間は永遠に武術の真価に気づくことはありません。

 いざ必要だと決意したら死にもの狂いで戦う覚悟をもって生きる。その覚悟を持つということが人間の尊厳に気づかせてくれると思います。

 自分を大切に、それと同時に他者の尊厳を尊重する節度も育ててくれるでしょう。そこに自然に礼節が生まれてくる。上っ面だけの礼節なんかやっても虚礼にしかなりません。

 甘いことを考えている人間は、他者に対しても甘い態度を取ります。その人間のレベルは他者との対応に反映します。覚悟のない者は不用意な発言を繰り返します。

 戦えない武術では、その最初の一歩が踏み出せません。自己欺瞞とマスターベーションにしかならない。そんなの学んで何の意味があるのか?

 いつでもやめられるような趣味は一時の娯楽でしかありません。

 自分の人生を賭けても惜しくないと思うものは、もう趣味じゃないんですよ。生き甲斐を感じるものに出会うことが人生の喜びというものでしょう。

 そして、仕事でも恋愛でも真剣にやらないと意味がない。

 運命を切り開く人は、そうしようとしているのではなくて、ただ真剣に自分のやりたいことに打ち込んでいるだけ。他人の評価を求めている訳じゃない。

 どうも、そんな気がしますね・・・。


・・・ところで・・・ロマゾフィー協会・・・アホ過ぎて笑っちゃいました。あんなのに引っ掛かるのは、引っ掛かる人達の方により問題があるような気がしますけど・・・なんか、ザインを思い出しちゃったのは私だけ? ミニスカ美女をはべらせるところとか?

 な~んか、世の中、21世紀になったのに世紀末臭さが消えませんね。



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游心流カリ?

 木曜日(16日)の本部道場稽古会は、今月は第一・第三・第五の三回あるんですが、何だか毎回、雨模様だったりしている気がするんですが、出掛けようと思ったらかなり強い雨が降って来て、相模原駅でバス乗り場に行くと物凄い人が溜まっていて、これはバスが遅れているんだな~と思い、印税が出て余裕があるのでタクシー利用しちゃいました。

 何やら、東京支部では、カリ・スティックを矢嶋師範代が教えていたと会員さんに聞いたんですが、私、あんまり教えた記憶がなかったんで、ちゃんと教えられたのかな?と思ったら、「高校生のN君の方が詳しかった」というので、こりゃ~アカン・・・と思って、カリ・スティックを持って行き、基本的な用法について教えましたよ。

 ちょっとやらせてみたら、以前、教えた逆技くらいしか知らなくて、打ち方やフットワークのやり方なんかも知らなかったみたいで、これでフィリピノ・カリについて教えていたら恥かかせてしまうな~と、師匠として中途半端に教えていたのを反省しましたよ。

 でも、もうちょっと自分で原点も研究してから教えなさいよ~、もう~。知ったかぶりして教えちゃダメだよ~(苦笑)。


 ちゅー訳で、ちょっと、私のフィリピノ・マーシャルアーツ研究歴について書いておきますと、ビデオで研究したのが六割り、後の四割りは拳法術會のキモ・フェレイラ先生に教わりました。

 キモ先生については、この際ですから、ちょっと、いきさつを書いておきます。

 私は一時期、キモ先生の奥様を通じて“依頼されて”、拳法術會の日本支部長を勤めさせていただきました。

 その当時の游心流の事務局長をやってくれていたS氏が英語に堪能なこともあって、ハワイの本部にも修業に行ったりして学び、キモ先生御夫妻の信頼も得て、しばらくしてから支部長を彼に譲りました。

 しかし、その後、S氏と私は根本的な価値観の違いから別離することになりました。

 S氏は別の武術団体に移り、以後、そちらで事務局長として元気で活躍している様子ですが、人伝えに聞いたところでは拳法術會の支部長は解任されたそうです。

 どのような経緯かは正確には知りません。

 S氏とはその後、一度も会っていませんから、事情を知る機会もありませんが、私も自分の仕事に精一杯で敢えて関わるつもりもありません。

 キモ先生も、S氏が私と別離した段階で一度もお話していません。噂に聞くところでは私の言動に腹を立てておられるのだとか?

 しかし、私はキモ先生に対してはお世話になったという感謝の気持ちと立派な実力をお持ちの武術家だという敬意しか持っておりませんし、「何か誤解されているんだろうな~」としか思っておりません。

 一回、話せば誤解は解けるだろうと思っていますが、私に直接、話を聞こうとされない以上、こちらから言い訳するのも筋違いだろうと思っています。

 お借りしていたビデオテープもクエストさんを通じてお返ししたので、もう一切、不義理なことはないと思っています。

 余談ながら、S氏と別離する同時期に休会処分にした会員も、その後、行方が判らず心配していましたが、元気でやっているということが人伝えに判り、こちらも心配事がなくなりました。

 今でも私に教わったことを感謝しているとのメッセージを受けて、本当に嬉しかったですね。元気でやっていってもらいたいと思っています。


 結局、人生は出会いも別れも縁のなせる人知を超えた理法なんだろう?と、元仏教学部の私は考える次第です。良いとか悪いとかは関係ない。それは宿命みたいなものです。

 今が良ければ過去は無問題。

 ただし、過去の失敗に学んで今をより良くしようと努力しなければ、人生は奈落の底へと転がり落ちるものでしょう。

 フィリピリ・カリの技を教えている時、私の脳裏には走馬灯のようにいろんな人間の顔が浮かびます。

 その時、その時の感動した体験の記憶が、私にとっては大きな財産になっているんだな~と思いますね。

 これは、それらの技を代々伝えてきたいろんな人間の想いもまた、そこに含まれているからなんだと思いますね。


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何か、武侠小説みたい・・・

 武術の世界で長く活動していると、この世界は一種の群雄割拠しているようなものに思えることがあります。誰もが、「オレこそが最強だ!」という誇大妄想に取り憑かれて自惚れ狂い果ててしまっていたりするのです・・・。

 しかし、そんな中で本当に凄い武術家は数少なく、実力が伴わない人が大半です。試合する習慣がないので客観的に実力を測定できないので、これはもう、道場破りするとか教わるフリしてガチを仕掛けるとかでもしない限り、解らない訳です。

 ただ、それをやって血祭りにあげられる場合があるので、私は「あっ、この人、フェイクだな」と思わない限りは仕掛けません(・・・っ~ことは仕掛けたことあんのか?)。

 でも、経験積むと、何となく解るようになりますよ。ヤンキーとか暴走族とか喧嘩慣れしている人間の方が、そういう嗅覚は発達していて、やらなくても感づいたりします。

 むしろ、武道やっている人間の方が鈍かったりするから面白いもんですね?


 ここ最近、私の個人的な付き合いのある先生方を見ていると、「何だか、この先生方って武侠小説に登場する達人の爺さん達みたいだな~?」と思うようになってきています。

 金庸の『射雕英雄伝』に出てくる東邪・西毒・南帝・北丐の四大武術大家なんて、私の知ってる武術家の先生方にそっくり当てはまるような気もするんですよ。

 南帝こと一灯大師は青木宏之先生(四大武術家に並ぶ実力者の老顔童こと周伯通も混じってる?)で、西毒こと欧陽鋒は田中光四郎先生、東邪こと黄薬師は友寄隆一郎先生、北丐こと洪七公は小林直樹先生かな~?とか・・・。

 武侠小説に出てくるキャラクターって、一応、善悪色分けされてはいるんですが、それが一筋縄ではいかなくて、例えば西毒は一貫して悪人として描かれていながら、実は凄く愛情深くて人間臭いキャラクターで、金庸先生は一番お気に入りだったんだろうな~と思われます。

 それは別として、金庸武侠小説に登場する武術家たちときたら、仲良く話していたかと思うと、ちょっとしたことでいきなり怒り出して死闘を展開したりする“大人げの無さ”で、「現実の武術家の気質をよく解ってるな~、金庸先生は・・・」と、私はつくづく感心してしまいます。

 本当に、武術の世界では発狂してんのか?と思うように裏切ったりする人間がいますからね~。非常識というより最初から常識がない?

 なので、私は、今現在、お付き合いしている先生方も極めて少数です。精神的にどうかしちゃってるような人は徹底して避けております。

 はっきりいって、中途半端な気持ちで武術に取り組むと精神がおかしくなりますね。既におかしい人、おかしくなった人・・・少なからず見てきました。

 武術って、必要性があるなら殺人を肯定してしまうものですから、生半可な気持ちで取り組めば精神の毒にしかならないのは自明でしょう?

 ある種、物凄く倫理観の深い人間でないと学んではいけないような気がします。

 何せ、人体のどこをどういじくったら絶命するか?ってことを日夜研究している訳で、現代の危険性のある技を排除してスポーツとして確立した武道の観点からすると、禁じ手ばっかりですからね。

 私は武器にこだわりはありますけど、素手で何千通りも人体破壊する知識を持ってる訳で、自分が強いとは全然思わないんですけど、率直に言うと喧嘩は凄く自信あります。

 でも、必ず相手からは「アンタ、汚い! ズルイ!」と罵倒されます。元ヤンや暴走族あがりのヤツから“喧嘩が汚い”と言われてしまう訳ですから、どういう戦い方をするのかは察していただけると思います。少なくとも本やDVDで見せているようなやり方はしません。

 喧嘩で勝つのは、強いとか弱いとか関係なく、先手先手で相手の弱点だけを集中攻撃するのが最大唯一の秘訣で、だから勝って当たり前、これで負けたらどうかしてますよ。

 以前は何々流の何段です・・・みたいな武歴を聞くと「うわ~、強そうだな~」とか思って警戒しましたけど、最近は何とも思わなくなりました。ルール決めて試合するなら別ですが、喧嘩は騙し打ちだから、相手に実力出させなくして倒せばいい訳です。

 やってる人達は大概、勘違いしていますが、武道や格闘技の強さは、攻撃力の強さであって、実は防御することに関してはあまり研究されていません。本当ですよ。

 だから、急所を防御する感覚が皆無の人も多いのです。

 よって、スキだらけで自信満々でファイティングポーズ取って向かってこようとする人が非常に多いので、危なっかしいんですね。いくら攻撃力があっても、あそこまであからさまに無防備だと簡単に致命傷を負いますよ。

 一VS一で素手で正々堂々と・・・なんて考えるのはお目出度いとしか言えません。喧嘩では一発も受けちゃダメです! それだけで致命傷になりかねないからです。

 しかも、攻撃力というのは、素手でどんなに鍛えたところで素人がカッターナイフ持っただけで逆転されてしまう。

 アメリカで軍隊や特殊部隊で注目されているフィリピノ・マーシャルアーツなんて、小ぶりのナイフ一本であっという間に相手を切り刻んでしまいますし、シラットなどで用いるカランビットナイフなんかも素手と思わせておいて、鉤爪みたいな小さな三日月ナイフを拳に握り込んで動脈や腱を掻き切ってしまいます。

 こういうことを書くと、そんなのは特殊なマニアがやるものだろうと思うでしょうが、と~んでもない。今や日本でもストリート系のカラーギャング連中なんかでフィリピノ・カリやカランビットナイフを練習している連中がいますよ。

 そういう事情も知らずに深夜の繁華街で「ヤンキー風情が・・・」と道場のつもりで立ち向かったらカタワにされてしまいますよ。

 それを理解しているから、喧嘩慣れしてるヤツは迂闊に腕試ししようとかしないのですね。相手の様子をうかがっておいて、スキを狙って、ここぞというタイミングに、いきなり襲い掛かって倒す。ボコボコ殴り合いするのは素人がジャレてるだけだから放置しておいて宜しい! 喧嘩師は一発です。よって、観察していて感覚的に「あっ、こいつは何か違う。危ない。避けておこう・・・」とかなる訳ですよ。

 つまり、そういう連中の方が“心法”を心得ている訳ですよ。

 多少、武道とか武術とかやって腕試ししたがる人間って、要は、そういう感受性が備わっていないド素人なんですよ。死ぬかもしれないという思いしたことないから、根本的に勘違いしてる。本当の危険性を察知できない。

 武術の場合、本当にできる人間同士だと、雰囲気とか話し方、話す内容、声の深さ、表情、身ごなしなんかを瞬間的に超高速で解析して、ある程度のレベルを測定してしまうんですね。

 その上で概ね、二通りの対処をします。スキを見せないかスキを晒すか。

 普通、スキを見せないようにすると思うでしょうが、スキを晒して敵意が無いことをアピールする方が高等戦術ですね。

 ただ、これが高等な戦術だということを気づかない馬鹿も多いんですよ。与し易しと勘違いして凄んできたりするIQ低いトンマな人も結構いますね。もちろん、餌食になる。


 私がかねてから絶賛している新体道は、「戦わない武道」という異名があります。

 よって、「新体道は弱いんでしょ?」って言う人も多いんですが、「戦わない」のと「戦えない」のは全然、別のことなんですよ。

「戦わない」のは、「戦う技能があるけれども敢えてそれを使わない」という意味であって、武術というものは、本質的にこういう境地を目指さないと存在価値を失ってしまいます。自分からは戦わないけれども、降りかかる火の粉は払う・・・。

 私が新体道を評価したのは、あくまでも、その“実戦力の高さ”であって、その上での思想であり芸術性でありを付加価値として評価している訳です。

 私が青木宏之先生を尊敬しているのは、あくまでも、その“超絶なる武術の技量”に対してであって、もちろん、人柄も好きですけれども、それもこれも“技量”あってこそのものです。

 もう74歳ですか? それでも私は総合的には青木先生が未だに日本で実力随一だと信じて疑いません。世界を探しても、そうそういないでしょう。

 抽象的な評価だと納得できないでしょうが(私の勝手な見立てなので、文句が言いたい方は私に言っていただきたい)、沖縄空手の大家と評価の高い宇城憲治氏の最近の動画を見て、「あ~、青木先生とは比べものにならないな~」と思いましたよ。そのくらい読みのレベルも打撃の威力も身法も大差があると思いましたよ。

 なので、現在、青木先生の実力を正当に評価する人が至って少ないのが、私には解せません。私以外では河野智聖先生くらいでしょうか? きちんと評価しているのは。

 見る人が見れば判別つくだろうと思うんですが、悲しいかな、武道マスコミ関係者の目はそこまで曇っちゃってんのかな~?と・・・。フェイクの人を大名人みたいに祭り上げて味噌も糞も見分けのつかない目ン玉腐った連中ばっかりなんでしょうかね~?

 はっきり言って、私は実力の伴わない武術家なんか認めませんよ。

 一に実力、二に覚悟、三、四は抜いて、五に理論・・・ってまあ、こんな感じかな?

 実力が足りなくても覚悟がある人だったら、それなりに評価できますが、この二つが無い人間が武術家だの名乗るのはチャンチャラおかしいですよ。

 私は恐れ多くて武術家なんか絶対、名乗れません。武術研究家が精一杯。


 そんな私が尊敬する青木宏之先生が、事務所を引っ越ししてささやかなお祝いをするからということで呼んでいただき、水曜日に西荻窪に行ってまいりました。

 途中、長く講座をやらせていただいていたほびっと村に寄って(来年新春の頃に久しぶりの講座を開催する予定です)、それから天真会の新事務所にうかがいました。

 この日は、日子流田中光四郎先生と木村真美さんも来られていて、新体道代表である大井先生、天真会の吉田さんと、後から武道好きで療法家のI田さん、吉田さんの娘さんの倫子さんも来られました。

 新しい事務所は以前のマンションから一軒家となり、日本の精神世界のメッカともいうべき、この西荻窪の地霊に護られているような雰囲気。

 西荻窪って、中央線が高尾山からの龍脈が都心に流れている中でもツボのように霊気が集まっている地域としてスピリチュアル系では有名な町で、知ってか知らずか、新宗教や精神世界の団体が集中して多い場所なんですよね。

 この町ではいろんな人に出会いましたよ・・・。

 関係ないけど、私も庭付きの一件家に住みたいです。そんで猫を二十匹くらい飼って、近所から猫屋敷と呼ばれたいっ!

 それはそれとしても、私は青木先生に見せたくて延壽宣次を持ってきていたので、挨拶もそこそこに、早速、お見せしました。これが本当の“ポン友(日本刀友達?)”ってヤツですか?

 で、その後はお食事しながらいろいろ話したんですが・・・何か、飲み過ぎて何を話していたのかよく覚えていません。

 何となく、光四郎先生の恋バナをみんなで聞く会みたいだったような気がしなくもないんだけど・・・?


 それと・・・青木先生がこれまで演武してきた剣舞を大井先生が編集して纏めた資料用DVDを見せてもらいました。

 これがまた、何ということか・・・私が最初に見せてもらったものと比べると、どう考えても五倍・・・いや、ひょっとすると十倍くらいレベルアップされているんじゃないのか?というくらいになっているんですね。

 剣武天真流発足式の時の大井先生を相手に突如として披露された新体道空手の演武なんて見事ですね~。転がしたら即座に追いかけて間を開けない。向かい合った瞬間(それ以前?)からズゥ~ッと先手取ってるんですね。

 私は演武の最中に三回、青木先生が“遠当て”を入れたのは判ったんですが、あらためて観てみると外に現れないやり方で、あと最低二発は技の最中に入れていたみたいですね~。大井先生の反応の仕方で判りましたよ。これは読めなかったな~。

 無意識に出す技というのは本人が意図していないから、読めないんですね。それでも映像でとってあるといろいろ分析できます。佐川先生がビデオ撮らせなかったのも流石ですよね。技の分析されたら、もう通用しなくなりますからね。

 青木先生が、これだけ私に秘蔵映像を見せてくださるのも、教えてあげようという気持ちがある訳なんですね。手の内を相手に晒すというのは、武術の世界で特別なことなんですよ。

 それにしても、この動き・・・青木先生が40代だったら、まだ納得もいくんですが、70過ぎて、何で、こんな短期間に倍々でレベルアップしたりするのか?

 こんな武術家、見たことありません・・・。

 達人過ぎます。

 しかし・・・青木先生が二階に誘ってくださって、見せてもらった秘密特訓マシーン!

 グワッシャ~ンッ!と動かす74歳・・・。

「長野さんもやってみんさい・・・」

 ヌヌ~ッ・・・47歳、ビクともしましぇんっ! スマンですっ!

 フッフッフ・・・と微笑む74歳・・・。

 アンタ、化けもんかぁっ!

・・・っー訳で、達人は一日にしてならずぢゃっ・・・というお話でした。


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もしかすると、私は武器フェチかも~?

・・・と思う今日この頃・・・。

 ほぼ月に一回は刀の分割支払いに横浜名刀会に行くんですが、今回は小宮四郎国安の残金を全部支払い終わったんですね。やたっ! これで完全に俺の刀じゃあ~っ!

 六月には、綱廣の支払いが終わって、その時に延壽宜次を買ったんですね。

 で、宜次の支払いはまだかなり残っている訳なんですが・・・、今回、無銘ながら新々刀で刃渡り二尺七寸くらいある刀を見せてもらって、ビビッと来まして、また頭金払って買っちゃいました~。

 いんや~・・・もう、自分でもビョーキだと思いますわ~。ハッハッハ・・・。

 なんか、遊郭に遊びに行って、「私を買っておくんなましぃ~」って声かけられてるような気がする・・・。

 ところが、どうも、ここ最近はどんな美女よりも刀とか銃とか、武器の美しさに惹きつけられてしまうようになってる気がするんですな~。

 以前、TVでエッフェル塔に恋した女が紹介されていたんですけど、私もああいう病気なのかもしれませぬな~。

 日本刀を布団の横に置いたまま寝てるしな~。

 武器フェチなのは、ほぼ間違いないでしょうな。

 それにしても、“ポン刀”はいいやねぇ~。

 今回の無銘刀は、典型的な新々刀期の復古思想に沿って作られたような、鎌倉時代の刀のような格好なのです。

 優美なのにゴツク実戦向けに作られている。

 稽古用に二尺七~八寸くらいの長寸の刀が欲しいと思っていたんですが、古刀でその寸法の健全な刀が残っていることは滅多になく、新刀だと飾り太刀みたいな実用を考えていないものが多い。何か、打ち合ったらパッキーンッ!と折れてしまいそうなのしかない。

 現代刀で注文打ちするしかないかな~?と思っていたものの、「この寸法だと結構な値段がするし、ゴツク作ってもらうとやたら重くなってしまうしな~?」と思っていたところだったんですね。

 それでも注文するなら鎌倉時代の太刀みたいな格好の方が居合には使い易いんじゃないか?と思っていたところだったんですけど、その頭の中に思い描いていた通り、いや、それ以上の出来の刀を見せられた訳ですよ。

 結構、驚いたのは、“こういう刀があったらな~”と思っていた、まさにその理想のイメージ通り・・・というか、理想以上だったんですね。

 反りが深く、元の重ねは不自然なくらい厚くて頑強。それに比べて先端に向かって細くシェイプされていき、切っ先は小さい猪首切っ先風。

 地は梨子地肌で刃紋は互の目乱れの濤乱刃風。よくよく観ると飛び焼きも散っていて華麗な感じ。

 鉄味はやや堅くソリッドな感じ。

 こりゃあ、買うしかないでしょう。

 ただ、出来の良さに関して、無銘なのが不思議です。これだけの堂々とした刀だったら、当然、銘が刻まれている筈と思うんですが・・・。

 ちなみに、新々刀というのは幕末期に外国の侵略や国内のテロに応じて、かつての戦場武用刀のような刀を持つべきだという復古思想が唱えられ、それに応じる形で水心子正秀とかの刀匠が提唱して作られるようになったもので、新刀が段々、お飾りみたいになっていたのの反動で、刀身の長く頑丈な作りの刀や、室内戦闘向けにやや短目の刀が作られたりしていたんですね。

 勤王刀と呼ばれる三尺近い長寸で反りの浅い刀群も、この時代のものです。

 代表的な新々刀の刀匠というと、正秀の他には、大慶直胤、固山宗次、左行透、なんかがいますが、何といっても有名なのは清麿でしょうね。

 刀好きの間では古刀こそが最高だとする人が多いですが、私は最近は、新刀でも現代刀でも良い物はいくらでもあると思うようになりました。

 中でも新々刀は実戦を考えて作られたものが多いので、結構、好みなんですね。

 武術だって、実戦を考えないで平和な型稽古の中だけで頭で考えたようなのは面白くありません。見せかけだけ。

 素人や初心者は、そういう見せかけの技に興奮したりするでしょうけど、実戦を考えている人間は「こりゃあ、ダメだ」と思って興味を持たないものですよ。

 じゃあ、実戦を考えた技って何か?というと、まず、威力! それから無駄のない動き。それと合理性。

 よく、素早い技を見せられると実戦的だと勘違いする人がいるんですが、勝負に於ける速度は相手との相関関係で適切な速度が決まるのであって、一人で早く動いても意味がないんです。

 もっと言えば、本当に凄い人だと、ちっとも早く動いていないのに結果的に相手より早く技を決めてしまうものなんですよ。

 この原理が理解できない人間は武術やっても上達しません。

 よく、間に合う、間に合わないとか論じる武術家がいますけど、こんなこと言ってる時点で何も解ってね~な~・・・と失笑してしまいます。

 武術の大前提は、「相手の間を読んで、それに合わせる」のであって、相手の動きに間に合うか間に合わないか?と考えているようでは、まともにやり合えば確実にやられてしまいます。

 合う合わないという偶発性の論理じゃなくて、「合わせる」という自律的必然性をもって技を使わなければ勝てる道理がない訳です。

 そして、合わせるための前提として、“読み”が必要になるのであって、より具体的な戦術的技法としての“交叉法”が役立つ訳なんですよ。

 この“理合”が解らない者は、武術を実戦で用いるなんて無理だから、やめた方がいいですよ。

 要するに、私の言ってることが理解できなかったら、武術で戦うなんか考えない方がいい。命がいくつあっても足りない。

 格闘技の試合を防具無しで日本刀持って戦う様子をイメージしてください。私の言いたいことが解るでしょう?

 丁々発止で戦えば、双方、傷だらけになって、「相手を殺したけど自分も出血多量で死ぬ」「相打ちで死ぬ」・・・という具合になる可能性が高いですよね?

 だから、真剣勝負では、とにかく先を取って一方的に斬り殺す以外にない訳ですよ。

 武術というのは、本質的にそういう戦闘スタイルで技術が体系化されている筈で、相手の攻撃を受けとめたりする道理がないんです。

 無論、型では受け技はありますよ。だけど、それは恐らく見せかけに過ぎないと思いますね。本当は受け技じゃなくて攻撃技の変化を隠しているだけでしょう。

 そう考えただけで、いろんな武術型の動作の意味がパァッ!と氷解してくる。

 これは日本刀を研究することでも予測できますよ。

 古い刀の傷の付いている場所で、どう使っていたか判る訳です。一か所だけ鎬が削れていたら、「これは切り落としをやっていたな~」とか・・・?

 だから、ここ2~3年、私は刀の研究を進めることで技の質が深まっていく経験をしました。

 それも、いろんな寸法や重さ、形状のものを使い比べてみることで気づくことが多かったんですね。

 だから、二尺七~八寸くらいの刀がどうしても欲しくなっていたんです。

 十数年前にも二尺七寸の特製模擬刀を使っていたんですが、当時の師範代に譲りました。

 だから、模擬刀でもいいかな?とも思ったんですけど、やっぱり、真剣使い慣れると真剣じゃないと気が乗らないんですよね。

 後は脇差をもう一振りか二振りくらい欲しいかな~?


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9月“型の研究”セミナー報告

 残暑も厳しい9月12日の月例セミナーは、型の研究をテーマでやりました。

 毎年、同じテーマでやっているんですが、それで毎回、同じ内容をやるのではあまりにも芸がありませんし、研究家として無能を晒すようなものですから、今回は昨年よりバージョンアップしようと思って臨みました。

 で、八卦掌の単換掌の実用法と、その応用法を二例。それから撞掌を解説指導しました。

 それから、相手が両腕で交差受けした(本当はわざとそう仕向ける)時に、化勁で封手し、そのまま形意拳の崩拳をタン中の経穴に鳳眼拳でブチ込む用法と、それが防がれた時に鑚拳に変化する用法、更に交差受けが高い位置だった時に潜り込みながら八極拳の頂心肘に変化する用法、更にそれが届かなかった時に咄嗟に八卦掌の螺旋双掌、あるいは八極拳の双撞掌(打開とも言う)に変化して打ち込む用法を解説指導しました。

 形意拳の崩拳の一撃は、郭雲深が「半歩崩拳、打遍天下(半歩の寄り足で繰り出す崩拳の一撃は、あまねく天下を打つ無敵の必殺技だ)」と称賛された形意門の伝説の必殺技ですが、“シンプルな縦拳による中段突き”の外形だけを真似てみても、まず命中するものでもなく、打拳を確実に命中させ、尚且つ威力を充分に相手に作用させるように繰り出す招法(技の導入から極めるための術法)を工夫しなければなりません。

 どう考えても、相手の攻撃を捌いて極められるような技ではない場合、用いるためには先を取るしかあり得ない訳です。これまでは、「崩拳は劈拳で入って相手に受けさせ、そこから腕を引き崩して滑り込ませるように打つ」という用法で教えていたんですが、今回はもう少し複雑に相手の防御本能を利用して両腕でブロッキングさせておいて、さらにそこを利用して打つ・・・というやり方にしました。

 しかし、やり方が複雑になると、こちらも巧妙にやらないと僅かでも居着けば防がれてしまう訳です。

 だから、今回は、次から次に先手先手で変化して翻弄しながら確実に技を極める用法を解説指導してみました。

 つまり、先手先手で攻撃して相手に反撃の暇を与えない訳です。

 今回の指導の要点として、発勁をブチ込んで打ち倒すことをテーマにして、相手の攻撃を遮って自分の打拳(掌・肘)をいかにして命中させるか?という点を指導してみた次第です。

 結局、逆技や投げ、崩し、固め技などはそれなりに熟練していないと実用に用いるのは難しく、初心者に必要なのは確実に相手を打ち倒せる打撃力があることだと思うのです。

 いつもは危ないから、かなり威力をセーブして実演していたんですが、今回は新作DVDの特典映像用の撮影も兼ねていたので、少しばかり、気合が入りました。

 なので、北島師範が帰りに、「こういうと失礼かもしれませんが、長野先生、凄い威力が上がってました」と言っていたんですけど、実のところは、いつもはそれだけ抑えて危険性がないようにセーブしているんですね。

 怪我させないでコントロールできるちょっと手前まで気を入れてやってみた訳です。

 もちろん、だからといって今回も本気で打ってはいません。充分に怪我しないように加減してはいます。押し飛ばすだけ、ちょっと崩れるだけに留めました。

 やっぱり大事な会員に大怪我や事故死させたりしたくないですから、本当にいつも気を使います。あ~、思う存分、ぶっ叩いてみたいな~・・・。オヤジ狩りに遭遇してみたいな~・・・。


 さてさて、それから解説指導は蟷螂拳、酔拳、空手と続き、先日、制定したばかりの游心流中級太極拳をやりました。

 太極拳そのものは昨年も、その前年もやったのですが、技の用法は逆技系のややまどろっこしい技を解説指導しました。

 今回は、一触即“発勁”の凶猛な用法を解説指導しましたが、まず、模範演武してみせた北島師範の会場を揺るがす震脚の響きに参加者の皆さんは相当驚かれていました。

 でしょうね~。

 彼の内功で練った内力の強さはハンパではなくなってますからね。震脚の強さは陳式のトップ選手にも劣らないと思いますよ。

 ところが、この太極拳・・・中国のラジオ体操と馬鹿にされがちな簡化24式をベースにして武術性を高めたものなのです。

 用法の解説は攬雀尾の三つの技で解説指導しましたが、それは最早、体の合気のごとき触れると同時に相手を打ち飛ばすというもの・・・。

 参加者の皆さんはかなり驚きながらも、結構、基本原理はものにされていました。

 私は、体の合気の正体は太極拳の“ポン勁”と同質だと考えています。

 相手の攻撃力が集中剛体化した瞬間を狙って、交叉接触して力の方向を僅かに逸らし、相手が自身で気づかない程度に重心が浮いた状態に導いておいて、重心力で斜め上方へ跳ね飛ばす・・・ものだと佐川先生の技の連続写真を分析して解析した次第。

 これは、合気をかけられた側の体勢の崩れ方を観察すれば、力がどう作用して重心が崩されているのか?ということが解ります。

 従って、それと同じように相手の重心を崩していけば同様の技の効果が導き出せる筈だと私は考える訳です。

 当然、「佐川先生の合気はそんな簡単なものじゃない」と非難する人も多いでしょうが、でも、私が佐川門下の木村氏の合気揚げをかけられて、咄嗟に返し技を工夫して封じたという事実がある以上、無下に私の論理が間違いとは言えないのではないでしょうか?

 無論、批判も非難も他人様の自由です。好きにされたらいいでしょう。

 けれども、私は研究家として技の分析、解明、そして再現、さらにより高いレベルへと発展させていくことを目指していますから、達人百人育てれば誰も文句が言えなくなる訳で、文句タレ蔵君たちがグーの音もでなくなるように日々、秘伝の解明に勤しんでおります。

 私もそれなりに生活の苦労は経験してきましたけれども、今になって思うのは、そういう苦労したことが経験として精神の強さを支えてくれていると思うし、「俺の人生、このままで終わってたまるか!」という強烈なモチベーションになっているんですね。

 もし、私が何の苦労も必要ない家庭環境でグータラ暮らしてこれていたとしたら、もっとずっと何の取り柄もない人間のままだったでしょう。

 後は安定した収入があれば問題はなくなるんですが、そのためには、まだまだこなせる仕事の幅を広げていかなきゃならないと思っています。

 それが武術研究にもプラスに働いたんだと思いますね。

 武術でメシ食うなんて、物凄い効率が悪いじゃないですか? それをやる以上、ブッ千切りの能力がないと無理だと思う。

 よって、「自分がナンバー1だ」という強烈な自負心が持てるだけ、日々の勉強と研鑽が欠かせない訳ですよ。どんなムチャな要請が来ても応えられるようにしておかなきゃいけないですからね。いや~、大変ですよ~。でも、やるしかない。職業として名乗ってるんですからね~。


 まあ、そんなここ最近の内心の葛藤も含めて、この日の最後は、独己九剣の中から左剣と右剣、その応用の無刀捕り、さらに応用の体術も実演解説指導しました。

 私が、何で剣術、しかも居合術が重要だと言っているか?ということの片鱗だけでも理解してもらいたかったからなんですね。

 これは、まさに“読み”と“交叉”そのものだからなのです。


 参加者の皆さんの動きを観察していて、最初の頃とは別人のようになっている人が何人もいて、嬉しかったですね~。

 素人目にはもう、とっくに達人と呼ばれそうな人もいますね。少なくとも常連会員さんたちのレベルは甲野善紀氏と手合わせしても楽に勝てるくらいにはなっています。

 でも、フェイクの人に勝っても自慢にはなりません。素人レベルの達人じゃ意味がないのです。

 やっぱり、私に習う以上は、ぶっちぎりで上達してもらいたいんです。そんじょそこらの道場に通っているのと変わらないような上達具合では困るんです。

 何でか?

 それは、わたくしが世界最高最先端の武術を創造したいと考えているからです。

 武侠小説に出てくるような達人を現実に育てていきたいのです。そういうノウハウを確立したいのです。

 夢物語だと思いますか?

 いや~、私はそうは思いません。充分に実現可能だという感触があります。

 達人も人なら、我も人。ならば、達人にできることは我にもできて不思議はない!

 そうは思いませんか?

 本当に、セミナーに通っているだけで何倍もの戦闘力アップしている人達を見ていると、人間の可能性は凄いものだな~と思いますし、年齢とか素質とかも関係ないな~と思いますよ。重要なのは本質を理解し体現することですよ。

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9月セミナーは型の秘密を解きます!

 9月12日の月例セミナーでは、いろいろな武術型の動作を解明します。

 これもまた、いろんな流派をやっている人にとって関心のあるテーマだと思うんですよね。

 わかんないもんね~。意味を教えてもらわないと・・・フツー・・・。

 でも、交叉法に熟練してくると、これが解るようになってくるんですよね~。そうすると、いろんな流儀の型を見てるだけで、いろんな技が閃いてくるから楽しいんですよ。

 大体、私は中国武術や空手や合気道の型の用法なんか習ってないに等しいですからね。

 けれども、それらを専門に修行してきている人よりも私のほうが技の用法をバンバン編み出してしまえます。

 原理が読解できたら技の用法なんかいくらでも編み出せるんですよね。

 もっとも、私みたいな人間が増えたら、いろんな伝統武術の道場が商売あがったりになるだろうから、こんなヤなヤツいないでしょうね~。

 何でかっていうと、伝統武術の業界は情報量がステイタスですからね。「人の知らない技を習っている俺様は偉い」という価値観なんですよ。

 そんな世界に、パッと型を観ただけで無尽蔵に技を編み出してしまえる人間がいたら、どうなります? 「頼むから死んでくれ」って存在でしかないでしょう。

 伝統武術の紹介本なんか見ても、「あ~、この先生は、ここのところを隠してわざと違うやり方で教えているな~」とか、「ははぁ~、この写真で肝心なのは、ここをこうする筈なのに、わざと書かなかったな~」とか、「ふぅ~む・・・この先生は隠しているんじゃなくて、嘘を教えられたのに気づかないままやっているんだな~」とか、写真一枚からそういう裏読みがいろいろ楽しめるので、非常に楽しんで読んでいます。

 で、大体、解説してあることと違ってたりするから、結構、笑えるんですよ。情報通ぶって書いてるライターが大バカかましちゃってたりすると、フフフ~ンッて微笑みながら読んじゃったりしてます。文章って、その人のレベルが出てくるからね~(微笑)。

 そして、「この技の本来の使い方はこうだろうな~」と、いくつかの応用発展技を考案して、稽古の時にはそれを指導しています。一枚の技をかけてる写真から、ざっと5種類の応用技と、その技を無効化する返し技も考えますからね。

「長野さんも、ネタが尽きちゃったりして困るんじゃない?」って聞かれたりするんですけど、心配御無用です。ちょろっと類書を見たら技なんかいっくらでも編み出せるからネタに困ったことないっス。

 それで、稽古でやってみて、うまくできるかできないかを検討して改良したり返し技を工夫したりしている訳ですよね。日々、この繰り返しなので、毎回、発展していっていますよ。

 そんな具合ですから、次のセミナーも御期待くださいませ。


 しっかしま~、本部は、さっぱり増えていないんですが、東京支部と横浜同好会には新規会員が増えてきています。

 ただし、道場を掛け持ちだったり仕事が不定期だったりの人ばかりで、入会されても毎回来れる人は少ないみたいですけどね。

 先日は場所が変わったのを確認する意味もあって、東京支部の稽古会に顔を出したんですが、夏休み中で、うちの会で数少ない学生会員さんたちが来ていました。

 うちの会員は圧倒的に中年過ぎのオジサンが多いんですが、若い人はやっぱり覚えが早いな~と感心しますね。何か、凄い勢いで上達している・・・。

 いいのか? 十代の若さで、こんな必殺技をテンコ盛りでできるようになって?

 特に東京支部は矢嶋師範代が熱心に指導しているので、新しく入った人がどんどん上達してきています。

 指導風景を見学していても、非常に堂々と自信をもって教えているので、なまじ私が教えるより良いだろうな~と思いました。

 前にも書いた通り、私はもう初心者に手取り足取り教えるのは面倒臭くってですね。

 この前の本部道場なんて、通常の基礎錬体も対錬もやらずに、いきなり居合抜きの稽古やらせたり、太極拳やらせたりしました。

 正直いうと、「毎回毎回、同じ内容のメニューやるんだったら道場に来る意味ないじゃん?」と思ってる訳ですね。本当は毎回、新しいことを教えたい訳です。

 相当、できる人でないと、こんな教え方しても覚えないですよ。

 だけど、カッタルくって、応用技とか新技をバンバン教えたい訳ですよ。基本的な練習は自分で勝手にやって覚えてくれって感じです。

 一回か二回やって見せたら覚えてもらうくらいでないと、私の意識の中ではもう「この人は教えてもムダだな」くらいに思ってしまうんですよ。本音をいうと。

 だから、カリキュラムらしきものはありますが、それをこなしているだけではダメだと思っている訳ですね。

 それで、型に関しても、いつもシダックスでやっている簡化24式太極拳を初級として、中級の太極拳もやることにしました。

 最初は呉式か陳式の短いのをやろうか?と思ったんですが、新たに覚えるのも面倒だと思ったので、簡化24式に発勁動作を加えることにして、やらせてみました。

 そしたら、北島師範は難無くできるんですよ~。ビックリですよ。ほとんど手直しの必要無し!

 発勁動作というのは、要所要所で沈墜勁、纏絲勁、十字勁なんかを加えて豪快にドバーン!と打つ訳。

 簡化24式が、いきなり陳式太極拳みたいになるんですよね。

 用法も少しやらせたんですが、北島師範はいつもと同じ逆関節捕ったりしているので、「そんなまどろっこしいことすんなーっ! 初級の簡化太極拳だったらそれでいいけど、中級は、触れたと同時に発勁で有無をいわさず吹っ飛ばしなさ~い」と、ムチャぶりさせました。

 もちろん、加減しないと肋骨ベキベキ折れたり、吹っ飛んで首折れたりしかねないから、これは初心者にはやらせませんけど、これまで怪我しないように逆関節とか崩し技とかに留めてきましたが、これだと侮ってかかる人もいるんですね。

 なので、今後は、「ちょっとでもなめた態度とったヤツには発勁ぶちかましたれ! 肋骨折れる程度はキックボクシングとかは日常茶飯事なんだから、フルコンタクト・タイチーで“かわいがり”してあげんしゃい!」といっておきました(エンターティンメントを意識して、後半、誇張して書いております)。

 どうも、約束組手だけだと勘違いする人が出てくるので、勘違いして自惚れるくらいなら一カ月くらい寝起きや呼吸で痛い思いしても、謙虚で思いやりのある性格になってくれた方が良い・・・という方針転換です。

 まあ、威力が出過ぎて死なないように打つほうが最早難しいかもしれんけど、これも修行ですよ。

 それと、「中国武術は拝師して全部習わないと戦えない」みたいな阿呆なこと口走る人がいまだにいるから、「そんなの大嘘。創意工夫で無限大の戦闘技能が引き出せるようにもともとできてるのが武術。習わないとできるようにならないというのは経営戦略上の虚言を鵜呑みにして技術の実用研究をしない権威主義者のタワ言に過ぎません!」というケース・スタディとして考案してみました。

 簡化24式が必殺太極拳になったら、こんなタワ言ほざけないでしょ?

 論より証拠ですからね。武術業界に蔓延する大嘘は次々に暴いてやりまっせ~。

 ちなみに、游心流中級太極拳は震脚ドカンドカンやるので、一日一回しか稽古しちゃいけませんよ。震脚で威力を出すやり方は、ちゃんと威力を手足に流せないと脳震盪起こして健康に悪いからです。それもあるから初心者はやっちゃダメです。


追伸;まだ仕事が忙しい(第一稿は書き終わりましたが手直しが多い予感がする)ので、セミナーの感想へのお返事は次回から書きます。御勘弁くださいませ。


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カマキリ拳法だったからって・・・

 この夏は暑過ぎて体調を崩す人が続出し、稽古会も出席率が低い。

 木曜日の本部稽古会はせっかくライフル射撃をやったのに、出席したのが北島師範だけでマンツーマンの指導になりましたよ。よって、結構、細かく教えました。これで実銃撃つ時も心配ないでしょう。

 それにしても、BB弾って速エ~ッ! 直径6mmの豆粒みたいな弾が秒速70mくらいで飛んでるのを肉眼で確認するのはえらい大変ですよ。紙コップ標的にしたんですけど、どこ飛んで、どこに当たったのか判らない。

 町井先生って、これを居合斬りしたんですよね~? スッゲェ~ッ!

 だったら、棒手裏剣を打ち落とすのもできると思いますよ。絶対、これより遅いもん。

 時速500kmのボールも斬ってたでしょう?

 訓練したらガバメントから撃ち出した45ACP弾も斬れるようになると思う。アレって弾速遅くて肉眼で見えるっていうし・・・。

 矢嶋師範代から聞いた話では、いまでも町井先生を非難する居合道家とか多いみたいですけどね。はっきり言って、単なる“妬み・嫉み・やっかみ”以外の何物でもないですよね~! ヤ~ネ~、男の嫉妬って・・・。

 だいたいね~。仮にも武道武術をやる者だったら屁理屈いう前に実力で示すのが筋なんですよ。

 そんなに町井先生を非難するのなら、同じことをやってみせて、「こんなことができても意味がない。町井さんのやり方はおかしいと思いますよ」と言ってみせるくらいのダンディーなやり方をしたらいいんです。

 できないヤツに文句言う資格はありません!

 実力があってこその礼節であり、礼節が確かでも実力が足りなきゃ武道武術の世界でモノ言う資格はありませんよ。武道武術の世界に民主主義はないんです!



 え~、九月最初の日曜日の稽古会は、翌週のセミナーで型の分解組手をやるから予行演習を兼ねて、推手の中での実戦用法や、蟷螂拳の応用法をやってみました。

 蟷螂拳は久しぶりにやったんですけど、何と! 練習している最中に北島師範に飛んできたカマキリがピトッと・・・。
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 以前は蝉が止まったことはあったけど、何も、蟷螂拳やってる最中にカマキリとは・・・ベタだな~?

 ちなみに、私の蟷螂拳は、躾道館の小林直樹先生が練習中にやってみせてくれたのを覚えて練習したのと、賢友流・友寄隆一郎先生が技の解説をしてくださったのを覚えて練習したのが、習った全てです。

 後は松田隆智先生の『中国拳法入門』の小虎燕の套路を練習していたくらい。

 蟷螂拳の専門修行者からは「長野の技はインチキだ。あんな用法は無い」と言われたりしますけど、「てやんでぇっ! 用法は自分でいくらでも考えつかなきゃ通用するかいっ?」って思ってて、はっきし言って、実戦用法に関しては、私、自信ありますよ!

 もう、ムッチャクチャ研究しまくってるから、専門に習ってる人でも知らないようなやり方を膨大に工夫してると自負しております。

・・・っーか、結構、いろんな武道、格闘技経験者と手合わせした時に蟷螂拳の技(蟷螂手)を使ってみたことあるんですけど、何か、考えなくても勝手にいろんな用法がアドリブでできちゃったんですよね。交叉法で考えるといっくらでも用法ができてくる。

 要は、武術なんだから、合理的に敵を倒すことを考えれば、套路の動きの中から技をどう用いるか?というのは自明の理として身体感覚で解明されなきゃおかしいんですよ。

 特に、蟷螂拳のようなメリハリのある拳法は用法の解析は非常に明確です。もう、喧嘩に使ってくださいってばかりの拳法だから。

 打拳(正拳・鉤手打ち・肘打ち)、蹴り(釘脚・斧刃脚)、暗腿、挫き技(肘折り・指折り)、逆固め技(肘固め・手首固め・膝折り固め・首固め)、投げ技(展拍・掃腿等)、点穴技(目・こめかみ・眉間・人中・独鈷・盆の窪・喉下・鎖骨内・肩井・腋下・たん中・乳下・鳩尾・表三枚・裏三枚・腰眼・尾骨・会陰・足三里等々)・・・と多彩な技の展開が技の動作の中で連続的に攻められるので実にやり易く、蟷螂拳を極めた人だったら、そりゃあスゲーだろ~と思います。

 それこそ殺活自在ですよ。

 蟷螂拳教えると、うちの稽古会、擬音ばっかりになる・・・ウゲッ、グエッ、ヒェ~、ギャア~、ウヒャア~・・・ってな具合です。

 ただ、個人的な印象として打拳の威力が軽いと倒せないので、空手で二段くらい取った上で蟷螂拳を体得したらベストじゃないかな~?とか思ったりもします。

 何か、中国武術オンリーの人って、打拳が軽い人が多いように思えるんですよね。何か、戦うことを想定しないで練習している人が多いような気がします。練習のための練習になっているんですね。

 これは型稽古の意味を理解しないままやっているからではないか?と思えます。だから、型稽古の是非を論じているだけで意味を探ろうとしない。私のところに来る人でも型稽古を何のためにやっているのかまったく理解していない人が大半ですよ。私の本読んでいたら理解してなきゃおかしいと思うんですが、まったく読解できないまま習いに来てる。

 武術は馬鹿には体得できないということが言われていましたが、確かにその通りだと思います。洞察力と論理的思考力、そして直感力も必要です。

 要するに、かなり頭が良くないと体得できないということです。

 ちょっと語弊があるかな~? じゃあ、“物凄く勉強したり研究分析する人でないと上達できない”と書いておきましょうかね。

 戦前の段位だったら初段が今の三段くらいの実力はあったと言われますが、何が違うのか?というと、やっぱり精神的な戦う気構えとか、そういうものが決定的に違うのかもしれませんね。

 圧倒的に、実際に戦うことに関する意識が抜け切ってる人が多いですもん。これじゃあ、生兵法はナントカってことにしかならないでしょうね。

 日本は危険だな~って、ホント、思います。

 どういう意味か?って・・・通り魔とかオヤジ狩りとか理不尽に暴力ふるう人間に遭遇した時に何にも対処できない、そういう状況を想定することすらない人が大半に思えるからです。

 これは、危機意識が欠如しているってことですよ。

 私なんて夜中に繁華街には行かないし、危なそうな人間を見かけたら即座に道変えたりしますよ。それだけ注意していたって、終電車で酔っ払いにからまれたり、チカンにからまれてる女性を助けたりしたことは何度もありますからね。

 私、腕前に自信がなかったら東京出歩かないですよ。よく、みんな平気で出掛けるな~って思います。矢嶋師範代も先日、電車内で揉めてる男女の仲裁に入ったけれど、「取り押さえる自信がなかったらとても入れなかったと思います」と本音を言っていました。

 誰だって車内で揉めてるところ見たりしたら助けてあげたいって思うでしょう。でも、荒事になったら怖いと思って見て見ぬフリするしかないだけですよ。

 そんな時に生兵法の人が割って入ったって、助けるつもりが自分もやられて被害を大きくしてしまうかもしれない。だから、武術やるなら徹底的に達人を目指すべきですよ(リベリオンのクリスチャン・ベールくらい?)。

 そんな危ない状況に遭遇したこと一度もないって言う人もいますけど、駅で警備の仕事してる人なんて日常的にからまれて殴られたこともあるって言ってました。

 それにね~。ドツボにはまって身動きできなくなる前に対処する・・・ってことをしない人が結構多いと思いませんか?

 もっと必死になって生きようとすることが現代人には必要なのかもしれません。だから、世界的にいろんな厳しい問題が発生しているのかもしれませんね~。

“すぐ、そこに有る危機”・・・それに気づくことが武術修行の第一歩なんですよ。

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人気商売はコワイな~

 押尾容疑者の裁判のニュースを見ていると、何だかベタベタなVシネマ見てるみたいでゲンナリしますね。

 ヤクザ者じゃあるまいし、「一生、面倒みるから代わってくれ・・・」ってマネージャーに頼むとか、悪質とか良心がどうとか言うのも馬鹿らしくなってきます。

 よくあるテレビの刑事物ドラマなんかの展開みたいですが、ナルシストって、ここまで来ると哀れですね。

 これって、意図的に殺人犯すより酷くないですか?

 十中八九、押尾容疑者が薬飲ませたとしか考えられませんよね? だったら傷害致死なんじゃないですか?

 心臓マッサージして助けようとしたと言ったところで、彼女の命のことを考えたのでなく、自分の名声と地位が失われるのを恐れただけなのは明白でしょう。

 その上、「自分はまた復活してやる」とか留置所の中で手紙に書いたりしていたんでしょう?

 人ひとり死なせてしまったことに関する後悔の気持ちはまったくないんですかね~?

 これ、できるんだったら死刑にしてもらいたいな~。

 こういう性格の人は一生、直らないと思うし、そんな性格が俳優としての魅力だというのなら、それは俳優業に対する侮辱だと思うな~。

 私の知ってる芸能関係の人達って、努力家で謙虚で情の篤い人ばっかりだけどな~?


 そういえば、沢尻エリカが「別に・・・」発言の謝罪は事務所に言われて仕方なくやったんだとインタビューに答えていたそうですが、良くいえば正直、悪く言えば馬鹿。

 高飛車な態度を面白がって持て囃したりするメディアが悪いと思うな~。

 キャラを作っているうちに素の自分と区別がつかなくなったのかもしれませんが、公然とこういう発言をしてしまうというのは現実感覚が欠落しているとしか思えないですね。

 魑魅魍魎が百鬼“昼”行する世界と言われる芸能界ですが、どんな世界だろうと、そこで生きていくのに苦労がない筈はありません。楽してやってる人なんか一人もいません。

 自分の才能、自分の実力だけでやっている人なんか、世の中に独りも存在しないんですよ。周囲に支えてくれている人達がいるから、やっていける。それを忘れたら痛い思いをするのは自分です。

 現世は試練の場なんです。生きることは修行です。

 もうね~。世の中、馬鹿を面白がって持て囃すのはやめましょうよ。

 馬鹿に言うべき言葉は一つ。「思い上がるんじゃねえっ!」ってことです・・・。


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戦えない武道家ってね~?

 シダックスの講座は不思議なもので、人が減ると代わりに人が入る・・・みたいなことを繰り返して、増えもせず減りもせずで、もう6年くらい続いてきましたかね~?

 ずっと続いているのは北島師範だけなんですが、ここはエアコンもついているし鏡張りなので、結構、快適に練習できます。

 ひょっとすると来年からは、私はもう地元だけでしか教えなくなるかもしれません。

 何しろ、持病のパニック障害があるので、調子が悪いと都内に出掛けるのも大変になってしまうものですから、月例セミナーを来年もやるかどうかも、現在、検討中です。

 やるとしても、師範・師範代のコンビに代わってもらう可能性が高いと思っておいてもらったほうがいいかな~と、今は考えている最中です。

 要するに、一般への指導は後進に任せて、私は幹部候補生の育成に専念しようかと思っている訳です。

 もっとも、他流との掛け持ちの人を幹部にする訳にはいきませんから、その辺りも含めて游心流を会として基盤作りをしなきゃならないと思っています。

 東京支部は矢嶋師範代が頑張ってやってくれているから安心していますが、北島師範にも支部活動をやってもらう予定で、これまた現在、準備中です。

 横浜同好会が支部になるかどうかは、今のところ未定です。主催してもらっている会員さんが掛け持ちなので、検討の必要があるからなんですね。指導員は別に派遣する形にするとか、多少、考えないといけないと思っています。

 以前、沼津や大阪で支部活動をやりましたが、游心流としての体系が定まっていないとダメだな~と思いました。

 普通に、空手や合気道のような形で支部活動が広まってくれてもいいかな~?と今は思っていますが、うちの場合は基本的コンセプトを私と共有している人でないと支部長は任せられないですからね。

 以前はそれで失敗したし、その原因は、私が師弟関係を厳しくとらなかったから、横並びのサークル活動のノリになってしまったのがマズかったな~と思っています。

 なので、最近は、わざと厳しく叱るように気をつけています。いわゆる“先生ヅラ”するように心掛けています。

 どうも、私の文章を読んでいると友達感覚で接してこられる人も少なくないんですが、教える場合には友達感覚だとマズイんですよね。

 純粋に読者なんだったら話は別ですが、私に教えてもらいたいと思う人は、対等な立場で習おうとは思わないでくださいね。

 それでは体得できないし、武術というのは勘違いしたり自惚れたりすれば墓穴を掘りかねないからです。

 何がマズイかというと、自分の実力を勘違いしている人は、いざ戦うと思わぬ大怪我を負うことになりがちだからです。

 私は以前は、そうなっている人は、放置プレイにして厳しく叱ったりしませんでした。

「勝手に痛い思いしたらいいんじゃないの~」としか思わなかったからですよ。

 でも、今は、勘違いしたり自惚れたりする人は、その素振りを見せた瞬間に叱責したりぶち殴ったりするようにしています。

 いわゆる愛の鞭が必要なんだと考えるようになった訳です。

 殺されたりカタワになったりするより、鼻っ柱を叩き折られるほうがマシでしょう?

 そもそも、自尊心なんか無いほうがいいんです。人に習いに来ているなら、私心は殺して謙虚に教えを求めるべきですし、そういう自制心が無ければ武術の技は心を毒する劇毒にしかなりません。

 人を傷つけたり殺したりしたら、結局、自滅するだけです。それが解っていながら、やりたがる者もいるんですから、困ったものです・・・。

 技を教えるより、心構えを教える方が大切だし重要なことだな~と、最近はつくづく思いますね。


 さて、9月最初のシダックスの講座に体験入門に来た人が、甲野善紀氏の稽古会にも行ったことがあるということで、練習後にサイゼリヤで長話をしてきました。

 結構、いろいろ話しましたが、面白いことを聞かれました。

 曰く、「(甲野氏は)戦えない武道家ということでいいんじゃないですか?」と・・・。
 私は、「戦えないのなら武道家と名乗らなくていいじゃないですか?」と苦笑しながら答えましたが、納得されたかどうかは定かではありません。

 恐らく、甲野氏にシンパシーを感じる人というのは、超人願望があるんでしょうね。達人になりたい君。だけど、それは“願望”なので、現実に達人になれたのかどうかを確認したくはない訳です。

 もしも、実際に試して“実は弱かった”と解ってしまったら嫌だから・・・という屈折した願望が、やがて、「もしかすると甲野氏は実戦力はないかも知れない。けれども、あれだけの優れた武術の技が使えるのなら、いずれは本物の達人になれるのかもしれないじゃないか? だから、今の時点では戦えなくとも構わないじゃないか? いや、そもそも戦うことに何の意味があるんだ? そんなの空しいだけじゃないか?・・・」と、延々と哲学し続けることになるでしょう。

 まあ、勝手にやってくれやってことですね。

 私は、現実に戦って必ず勝つ!というために武術を探究し続けているので、そんな空想実戦論なんぞに耽ってるヒマはありません。

 伝統空手のあの遠距離から突っ込む突きをどう潰すか? ボクシングのフェイント交じりのパンチをどう封じるか? 剣道の素早い打突をどういなすか?・・・そういう心得のある者との戦いをどう制圧していくか?ということを考えているので、哲学するヒマはないのです。

 私が探究している武術は徹底的に敵を確実に制圧するための術法であって、対武道・対格闘技・対ヤンキー・対暴走族・対ヤクザ・対テロリスト・対特殊部隊といったことを考えてきています。

 これらの対策を講じるには、まず、敵となる対象の戦い方を知らねばなりません。

 よって、私は素手のみならず、ナイフや日本刀、槍、弓矢、ピストル、ショットガン、ライフルといった武器の扱い方を一通り研究してきました。

 先日はボルトアクションライフルによるスナイピング・テクニックを北島師範にマンツーマンで指導しましたが、武道武術をやっている人の大半が、銃器の扱いには関心がないものです。

 知らなければ入手しても使えません。使えない武器はあっても無駄です。

 現代戦闘で銃を無視した戦いはあり得ないでしょう。そんなことは世界の常識なのに、日本の武道家武術家だけは平然と無視してしまうのです。

 アメリカのコンバットシューティングの歴史は1970年代のポリス・コンバットから始まり、現在はカスタマイズしたセミオートピストルを使って著しく発展しています。

 ショットガンやスナイパーライフル、サブマシンガンやアサルトライフル専用のシューティング学校のクラスもいろいろできています。

 これらはコンセプトからすれば武術そのものです。しかも、文字通りの必殺武術です。

 日本が、もし銃器の規制がもっと緩かったら、恐らく銃をメインにした武術が発展していたに違いありません。

 事実、江戸時代には森重流、関流などの鉄砲術の流派があるのですし、国友鉄砲鍛冶のようなガンスミスの一群もいたのです。

 脇差や十手に偽装した鉄砲や、パームピストル(掌に握り込んで撃つ隠し銃)みたいな握り鉄砲なんかも発明されていましたし、空気銃や三連・四連・六連・二十連発銃などまで発明されていたのです。

 このような武術文化の内実を知れば、“戦えない武術”という形容そのものが矛盾という以前に文化としての価値を愚弄し貶める発想であると断定せざるを得ません。

 戦えなくていいと言うのなら、それは武術とか武道とか名乗ってはいけないでしょう。

 私は断固として、そう主張します。

 無論、賛同するかしないかは御自由に・・・。


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賢友流・友寄隆一郎先生のこと

 私の本を読んでくださっている人なら、賢友流空手道第二代宗家である友寄隆一郎先生のことは御承知と思います。

 伝統派空手道の世界で天才の名を欲しいままにし、その上、中国武術の実践研究においても日本随一であると私は確信して疑いません。

 かつて、中国武術専門誌のライターをやっていた頃に、会社で友寄先生が形意五行連環拳の拳套を打っている様子をビデオ撮影させてもらった秘蔵映像を見せたことがありましたが、本場の中国武術の名家の技を多く見慣れている人が、愕然とした顔で、「日本で、ここまでできる人がいたとは・・・。いや、中国でも、ここまでの人がいるだろうか?」と呟いていました。

 私が中国拳法の教えを受けた小林直樹先生は、練習中に、度々、友寄先生の凄さについて話されていましたが、いざ、実際に友寄先生の実技を目の当たりにすれば、掌法の鋭さ、身法の見事さ、心法の充実、内功の深さには隔絶とした高みに到達されていることが歴然としていました。

 私は多くの得難い現代の武術大家にお会いして少なからぬ貴重な教えを受けることができましたが、技の美しさ、切れ味、そして武術理論の確かさ(特に読みに関して)において、友寄隆一郎先生を理想像として憧れの気持ちを持っています。

 そして、友寄先生が生涯の実践研究を纏められた原稿の書籍化を私は託されておりました。

 これは、紆余曲折があって、「私に任せてください」と申し出て預かったものでした。

 ところが、出版業界は90年代から0年代にかけて不況の影響を最も大きく受け、私は自分の本を書くことでようやく経済的に自立できたものの、依頼していた出版社の経営も大変な状況となり、必然的にお預かりしている原稿を書籍化することができないまま、無為な時間を浪費してきてしまいました。

 いろいろあったとはいえ、これは私の力不足以外に理由はありません。

 それでも、自著の中で度々、友寄先生のことについて書いてきたのは、せめて先生の武術家としての偉大な業績を一般に知らせていきたいという気持ちからでしたし、それによって注目して書籍化の企画を引き受けてくれる出版社を探すつもりでもありました。

 私の方から「任せてください」と言った以上、出版のメドが立たない以上は友寄先生に顔向けできない・・・と、そう考えるだけの最低限のプライドは私にもありました。

 いえ、それよりも何よりも、先生の研究成果を纏められた原稿の中身は、武術研究家の私にとっては何億円の金にも代え難い価値を持つものだったのです。空手道、ひいては空手道の源流である中国武術の本質的理合を明解に解き明かした現代における五輪書ともいうべきバイブルとなり得るものでした。

 つまり、この原稿を書籍化するお手伝いができるということは、私にとって一世一代の栄誉ある事業であり、何としても実現させたいと考えていたのです。

 しかし、思うに、このような事業というものは、個人の思惑ではどうにもならないものなのかもしれません。

 私も十冊を越える本を書いてきて、出版事業の裏側が解ってきましたが、要するに、売れる本でなければ出せないし、売れる本というのはあまり専門的なものではいけないのです。この原稿の二番目の出版予定だった会社の社長さんは、うちでは出せないとはっきり言われていましたが、私はそれを責めることはできませんでした。無理もないだろうと思ったのです。

 私自身、自分の書いている本は、初心者が読んでも楽しめるように工夫して書いてきていますし、あまり専門的になると売上は確実に落ちてしまっていました。何冊も書いていると内容によって売上の差が出ることで検証できてしまうのです。

 売上分の印税で生活している身としては、どれだけ売上部数を伸ばせるか?ということが毎回の勝負所であり、これは今後も変わらないポイントでしょう。最低で一万部を目指していなければ、シリーズで本を書いていくことは不可能でしょう。

 単行本で二千~三千部しか売れなければ、次の企画はもう通らない。これは武術の本としては、かなりハードルが高いものです。

 そういう事情は部外者には解らないですし、それはアピールする必要のないことでしょう。売れる物を作るのは当然の努力だからです。

 しかしながら、売れるということと本の価値は別なのです。

 友寄先生の原稿は、私の武術エッセイとは比較できる次元にはありません。時代に消費されていくヒマ潰しに読む本ではなく、時代を超えて武の本質を解読した書として永遠に残る内容なのです。

 過日、『JKFan』にて友寄先生の集中連載記事が特別企画として掲載されていたのを矢嶋師範代から聞き、拝読しておりました。

 そして、「もしかしたら、JKFanから友寄先生の本が出る予定があるのかもしれない。もしそうだとしたら、原稿はお返しするのが筋だろう。しかし、それでは結果的に先生の信頼を裏切った形になってしまうし・・・どうしたものか?」と考えていました。

 そうこうしているうちに、JKFanの編集部より、連絡を頂戴しました。

 友寄先生が賢友流の70周年事業の記念誌を私におくりたいのだけれども住所も電話番号も変わっていて解らないので調べて欲しいとおっしゃられているとのことでした。

 本当に、私は穴があったら入りたい気分でした。自分の面子ばかり考えてモタモタしている間にも友寄先生は何一つ責めることなく、厚情を持ってくださっていたのです。

 お贈りいただいた記念誌には、私が書いた『使える武術』を読まれたという手紙も添えられていました。約束も果たせないまま連絡もとらずにいた私を責めるどころか、私が活躍していることを喜んでくださっていました。

 申し訳無さと有り難さで、いっぱいでした。

 改めて、私は何と立派な先生方に出会ってこれたものだろう・・・と、感謝の気持ちに浸りました。

 やっぱり、私は武術を続けてきて良かったな~と思います。武術をやっていなければ、こんな凄い人達がいることを知らずにいたでしょう。

 本当に強いということはどういうことなのか?を示してくれた先生方の存在は、私にとっての何物にも代えられない財産です。

 そして、くだらない人間にも随分と会いましたが、彼らは彼らで人間の弱さを教えてくれました。だから、反面教師として彼らに学ぶことも多々あったと思います。

 人間の強さ弱さは表裏一体のものでしょう。弱いから強さを目指し、強いから弱さを自覚できる。そして、最後は強さ弱さから離れて無為自然な人生を歩めるのではないかと思います。

 賢友流記念誌の友寄先生の言葉に、「男は純情がいい。純情と情熱があれば何かを成しとげられる」との一文がありました。その通りだと思いました。作為を捨てて純粋な自分の情熱の赴くままに生きていけば、恐らく、結果は残っていくのだろうと思います。


 賢友流空手道の益々の発展と、一代の武人、友寄隆一郎先生の御健康を祈念致します!


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斬鉄剣って何か?

 いんや~・・・本当に発狂したような酷暑が続いておりますが、皆様、いかがお過ごしでしょうか?

 私はもう、エアコン効いている部屋でゴロンゴロンしながら原稿書いてる時が幸せで、熱のこもったトイレに入っただけで、「ここで熱中症で死んだらカッコ悪いよな~」と汗をフキフキしております。

 用事で外を出歩いてくると、日中は本気で倒れそうですね。帰宅した時には全身が汗でビチョビチョ。シャワー浴びるしかありません。

 が、例年だと、いくら夏でもシャワーの冷水を浴びるのは冷たいから、ぬるま湯にして浴びてたんですが、今年は水道管から冷水は出ません。タンクに溜められているからなのか、ずっと生ぬるい水が出てくるので、海水浴に来たみたいに水をシャーッと浴びております。

 9月はまだ暑いだろうと思っていたけど、やっぱり酷暑は衰えませんね~。

 しかし、これだけ暑いと太陽熱発電は景気いいんじゃないですかね~? 不況だ不況だと騒ぎたてるより、日本は石油・原子力に変わる新しいエネルギー開発に全力で取り組んで、世界を屈服させるようになればいいんですよ。資源がないなら技術力。技術立国としてのプライドを取り戻すべきだと思いますね。

 特に日本は周囲が海なんだから、海洋エネルギー開発をもっともっとやるべき。多分、レアメタルも実は世界有数にあると思うんですよね。海の底探れば・・・。

 金のかけどころを間違ってると思うな~。

 日本は、バイオ産業、ロボット産業、そして新エネルギー産業にこそ力を入れるべきだと思いますよ。


 さて、先日、刀好きの友人と電話でお話していて、故・小林康宏刀工の打った斬鉄剣の話になりました。

 無垢鍛えで鉄の純度が高い古刀の再現を目指した小林刀工の作刀理論が注目されていますが、あんまり信仰的になっても良くないような気が私はするんですね。

 どうしてか?というと、いろいろ調べていくと、古刀と新刀の違いは鉄味の差だといわれていますが、これは戦乱で数打ち物の刀を大量生産するようになってタタラ製鉄の和鋼が足りなくなったからだそうです。

 それで、海外から入ってきた南蛮鉄を使って打ったりするのも流行ったそうなんですが、これも南蛮鉄が尽きると“卸し鉄”の作刀法が研究されます。

 南蛮鉄といえば越前康継が有名ですが、私の持ってる相州綱廣も南蛮鉄製で、甲(兜だね)を斬ったと栽断銘が入っていますが、当時は南蛮鉄信仰とかがあったんでしょうね。

 新刀期の代表的名工の虎徹は、最初は“古鉄”と称していたりしたそうですが、これは古鉄を利用して打ったからだそうです。

 虎徹がもともとは甲冑を作っていたことは有名ですが、甲冑に使う古鉄の強さを知っていたから刀作りも工夫できたんでしょうね。

 私が思うに、斬鉄剣の条件は、鋼に粘り(しなやかさ)があることじゃないかと思うのです。

 ナイフなんかでも最近は和式ナイフが好まれているみたいなんですが、和式ナイフの特徴は鉄が粘っこいことらしいです。そして、硬軟の鉄が混ざり合うことで強靭さが生み出されているともいわれます。

 硬軟の鉄が混ざって木目のようなパターンが出るのをダマスカス・ナイフにちなんでダマスク・パターンと呼びますが、日本刀に限らず古い時代の刀剣はだいたい、そうなんだと聞きます。

 拳法風にいうと剛柔が一体化しているってことでしょうか?

 硬物を斬れるなら、もっと硬い筈と思いがちですが、どうも、逆かもしれないんですよね。

「古刀の研ぎは鉄味が柔らかくて吸い付いてくるみたいだ」と、研ぎ師が語っているようですが、刃は硬くとも焼きが入っていない部分が柔らかく弾力があるからこそ、折れずに衝撃を吸収して、それゆえに刃筋が食い込み截断のための力の持続時間が長くなっているのじゃないか?と推測できます。

 つまり、浸透勁と同じ原理なんですね。

 私が日本刀の研究をするようになったのは、実は日本刀の斬れ味に打撃技の本質が共通する原理があるのではないか?と考えたからでした。

 先日、ヒストリー・チャンネルでガニー軍曹のミリタリー実験みたいな番組で刃物の斬れ味、刺突力の実験の様子が放送されていたんですが、西洋の1m以上の長い剣身のロングソードと、標準的な70cmくらいの刃渡りの日本刀で革の鎧や鉄の甲冑の斬撃力テストをやっていて、何と! 巨大なロングソードより日本刀の方が勝っていたんですね。

 高速度撮影で見ると、日本刀は当たった瞬間にグニャリと曲がって見えますが、それが復元する時に刃がめり込んでいるように見えます。

 ロングソードの方がずっと重いから、普通に考えると勝負にならないと思うところですが、日本刀の実力には驚かされます。

 戦時中にも敵のライフルの銃身ごと斬ったとか、塹壕の有刺鉄線を一刀両断したとかいった話は、ちょくちょくあります。

 電話の話の時にジープの板バネを加工したスプリング刀がよく斬れるという話もしていたんですが、板バネは特に弾力がある筈ですから、それが斬れて丈夫な理由かもしれませんね。

 ナイフメイカーとしても有名なクザン小田さんが打った刀が、コルドガバメントの45ACP弾のワッドカッター(標的の的紙に正確な穴を穿つことができるように鉛で台形になった弾丸)弾を一刀両断し、さらに遥かに威力の高い重機関銃の撃ち出すタングステンの芯に銅皮膜で覆われている50BMG弾をも数発は両断してのけた点で、日本刀の強靭さは証明されていました。

「鉛弾が切れるのは当たり前ですよ」と、この実験を鼻で笑っていた人もいましたが、流石に50BMG弾を数発続けざまに両断してのけたのには仰天せざるを得ないでしょう。

 何しろ、この弾丸はアンチマテリアル・ライフルに使う弾丸なんですよ。これは作った小田さんも驚いていたらしいです。依頼を受けた時に「絶対、ムリだよ」と最初は断っていた・・・とナイフマガジンの取材に答えられていました。

 そして、小田さんの刀ではありませんが、包丁の刀身すら両断したウォーターカッター(超高圧で水を噴射して切断する工業用カッター)が、日本刀は両断できなかったという点も驚かされました。

 これについては霜剣堂でお話していた時に「日本刀ははまぐり刃だから水圧を徐々に流してしまうので切れなかったのでは」と分析されていました。

 これらは、日本刀の強靭さや斬れ味が鉄の成分だけでは決まらないという証明になっているでしょう。

 現実に、山田浅右衛門が試刀してランク付けした「懐宝剣尺」で、最上大業物は、古刀は五人、新刀は八人を挙げています。

 後に古刀に二人加えていますが、試し斬りしてみたら、古刀も新刀も斬れ味は差がなかったということではないでしょうか?

 実際に、私のもっている綱廣もそうですが、鉄が斬れたという斬鉄剣の話は割りとあるのです。

「丁寧に作られた日本刀なら薄い鉄板くらいは斬れて当たり前」という人もいましたが、確かに長運斎綱俊の刀なんかにも鉄が斬れたと伝えられるものがあったみたいです。

 そもそも、大半の刀好きは刀に引け疵がつくのを嫌がって、試し斬りそのものを嫌がる人が多いようです。

 私も、当初は日本刀は稽古のための道具としか考えず、安い刀で試し斬りもバンバンやって・・・と考えていたんですが、日本刀の美しさが理解できるようになるに従って、試し斬りで疵をつけたくなくなってきました。

 特に、昭和の最上大業物の称号を得た三池住小宮四郎国光の息子、国安の刀を入手してからは、重ねも厚く、身幅の広い、大帽子の剛刀で、確かに物凄く斬れそうに思えるんですが、あまりに綺麗なので疵をつけたくないな~と思って、まだ一度も試し斬りしていません。厚紙を刃先に付けて引っ張ってシューッと切れる感じを確かめただけです。

 先日、入手した延壽宜次も同様です。軽くて使いやすいのですが、源清麿を偲んで打った刀に疵をつけたり曲がったり折ったりしては申し訳ないと思うので、お金に余裕ができたら研ぎ直して、会員に譲るつもりでいます。

 北島師範も矢嶋師範代も、「僕らもいずれ真剣を買わなきゃいけないと思っています」とか言ってるので、「買わなくても俺の持ってるのあげるから心配しなくていいよ。鎧武者の霊もオマケでくっついてる刀がいい?」と言ったら、「うわっ、そんなの嫌です」と真顔で嫌がってましたが・・・。

 ちゃんと実力がついたら、頃合いを見計らって免許皆伝代わりにあげるつもりなんですけどね。武将っぽくて、いいでしょ?

 そういえば、青木先生がそういう具合に新体道の師範方に日本刀あげたりしたそうですね。私も真似です。日本刀って、やっぱり特別な意味がありますからね。

 思い出しましたけど、武道医学のパリッシュ先生も中山清先生の愛刀の村正(二尺六寸もある長刀)を二代目を相伝する時にもらったそうで、見せてもらったことありますよ。

 やっぱり、刀をあげるというのは特別な意味がありますよ。

 そうそう、電話で話している時に、「刀は縁があって入手できるような物だから、自分のレベルに応じた物が自然に手に入るものですよ」と話したんですが、もちろん、自分から入手したいという気持ちで動いていないと手に入ることはありませんよね。

 なので、日本刀を入手したいと思っている人は、まず、馴染みの刀剣店を見つけて、「これこれこういう刀が入手したいんです」と伝えておけば、そういう刀が売りに出された時に「あ~、あのお客さんが言っていた刀だな~」と、仕入れてくれたりできるんですよね。

 注文打ちしてもらう場合でも、やっぱり馴染みの刀剣店を通した方が確実でしょう。

 私は横浜名刀会さんを紹介してもらって以降は、薙刀・十文字槍・大太刀・贈答用の刀・常寸刀・・・すべて、ここで入手し、辞めていった会員さんから貰った刀二振りを合わせて現在十四振り所持しています。

 数年前には、とても真剣は買えないと思っていましたが、20代30代の蓄積が40代半ばで効いてきた感じがしますね。ふと気づいたら、こんなに刀持ってるんですから。

 無論、50万以下の安い刀ばかりですが、模擬刀の十倍くらいしますからね。

 入った金が趣味に消えていくのは愚かしいと思われるでしょうが、私の場合、趣味道楽が生活を支えている仕事ですから、かけるべきところには金は惜しみませんよ。

 そのために一日一食で預金通帳がすぐに底をついても、男のロマンを追究して人生を目一杯おくれるのなら、それでいいでしょう・・・。

 ただし、私のような独身の我がままは許されても、嫁さんや子供がいる方は、最低限の義務はきちんと果たしてくださいね~。


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著者プロフィール

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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