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武道必修化の問題点

 練習中の死亡事故というのは、様々なスポーツに付き物ですが、人口比率からすると柔道が圧倒的に多いのだそうですね。

 私が昔、聞いた話では合気道が最も死亡事故が多いというものがありました。

 ボクシングやフルコンタクト空手の方が多いんじゃないか?と思えますが、殴る蹴るよりも、投げ技で頭を打ったり、首をくじいたりすることの方が、事故死に繋がりやすいのは、言われてみれば当然のことだと思います。

 投げ技というのは、投げられた本人の体重が作用してしまうので、打ち所が悪ければ一発であの世行きになりかねない訳です。

 拳で殴ったり足で蹴ったりしても、そこまでの衝撃力を出すのは容易ではありません。

 しかし、コンクリートの上に30cmくらい離して頭から投げ落とせば、人間は簡単に死ぬでしょう。

 これは、重力の力が作用している点も見逃せません。

 発勁や合気の技にも重力を用いているので、鍛えていない素人でもコツを知れば一撃必殺の威力を出せます。数十キロの重さが瞬間に作用すると1tくらいの重さになったりする訳です。

 武術というものは、呆れてしまうくらい巧妙に人体を破壊する方法を考えたものだと思いますが、やはり危険過ぎて伝えられなかった技も多いものです。

 柔道も合気道も、もちろん、剣道も空手道も・・・現代で“武道”というカテゴリーの中で普及されていったものは、殺法の要素は極力排除されています。

 スポーツとして競技化が図られたことも大きいと思いますが、やはり、元々が人を殺傷する戦闘術が母体なのですから、その点をきちんと弁えた指導者でなければ教えるのは無理があるでしょう。

 中学校からの武道必修化を危惧する声は、意外にも武道の専門家が多かったようです。

 本来なら、武道人口が増えることは自分の道場も潤うことに繋がるのですから歓迎しそうなものなのに、どうしてなのか?

 確かに、単純に喜んだ人も初めは居たようでした。

 しかし、必修化の実態が知られるに連れて、「これは危険だ・・・」という危惧の声が増えていったのです・・・。

 要するに、“まともな指導者がいないままで教えようとしていたから”です。

 極論すれば、技を教えるだけなら誰でもできます。勘の良い人なら本やDVDを見ただけでも形は覚えられますから・・・。

 しかし、不特定多数の人間に教えるとなると、話はまったく別になります。

 何よりも、大半の武道は、競い合うことがそのまま肉体にダメージを与えることになってしまいます。

 例えば、「空手は相手の身体の寸前で攻撃を止めるから安全だ」と思っている人も多いでしょうが、実際は違います。

“強く当てないように止めているだけ”で、自由組手や試合では突き蹴りが流れて当たってしまう光景は多々ありますし、前歯が全部折れて差し歯になっている選手も多い。“当てないから安全だ”と誤解していると非常に危険です。

 未熟な者には寸前で止めるなんて芸当はできませんから、自由組手をやれば、ボンボン当たって怪我をしてしまうでしょう。

「空手は当てないんじゃなかったのか?」と言っても後の祭です。

 また、柔道や合気道は、基本、受け身ができなければ自殺行為になってしまいます。

 受け身のできない者に素人が投げ技を思い切ってかけたら、打ち所が悪くて死ぬのも当たり前です。

 TVの特集番組で柔道師範が、「三年間、受け身だけやらせてもいいくらいだ」と述べていたのは、専門家らしい卓見だと思いました。

 柔道の技の本質を知らない未熟な者同士が興味本位に試合をやれば、事故死の可能性はけっして低くありません。

 受け身だって、万能ではないのです。下手な人間の受け身を助けるのは、上位の人間が技をかけた時に頭を打たないようにコントロールして投げるからであって、下手な者同士がガムシャラに技を掛け合って事故が起こらない方が不思議でしょう。

 また、畳の上で充分に受け身ができたとしても、岩場やアスファルトの上で勢いよく投げられて無事に済むでしょうか?

 私が古流柔術を学んだ時は、尖った砂利の上やコンクリートの上で受け身の練習をやらされましたし、夜間に戸外で練習したりもしました。「畳の上でできても意味はない」と教えられましたが、確かに実戦ならそうでしょう。

 武道の修練は毎日一時間やって、数年くらいしなければ実地に役立てられるレベルにはなりません。

 柔道経験の無い体育教師に講習会で教えて指導者に仕立てようなんて、どうしてそんな馬鹿な事態になってしまったのでしょうか?

 頭を打つ可能性のある技を禁止すると言っても、下手糞がやればあらゆる技が危険なのです。

 ニュース番組で柔道の危険性をこれでもか?と繰り返し放送されれば、これから柔道をやろうという人が怖じけづいてしまうばかりで、柔道関係者は頭が痛いでしょうね。


 私が思うに、教える者は、教わる者のざっと三倍くらいの技量がなくてはならないと思います。

 どうしてか?というと、そのくらいの実力差がないと技をコントロールできないからです。

 コントロールできなくて怪我をさせてしまうというのは、未熟だということです。

 こう書けば、私が指導員の実力に拘っている意味がお判りでしょう。身を護る技を学んでいて怪我をしたりさせたりしてしまうのでは論外だからです。

 一方で、何故、「道場破りや腕試しに対しては五体満足で帰すな!」みたいな非道なことを言うか?といいますと、道場破りや腕試しをしようとする人間は、基本的に“後先考えずに自分の感情の赴くままに行動してしまう精神的に未熟な人間”であり、そのような行為を繰り返していれば、いずれ自殺行為のような事態に自分から陥ってしまうのが自明です。

 だから、私のところに、人をなめた甘い考えの人間が来たのであれば、二度と馬鹿な考えをしないように厳しく鉄拳指導してやるのが教育的指導だと考えるからです。

 でも、誤解しないでくださいね? 私は基本的に教育現場の体罰容認には反対です。愛情があれば許される? 一体、“誰”が許すんでしょうか? 司法が暴力を容認してはいかんでしょう?

 教育的指導としてビンタ張ったりする場合、やった指導者は「自分は暴力に訴えてしまった」という罪の自覚を持つべきですよ。「体罰だから容認されるんだ」なんて論理は無能な指導者に口実を与えてパワハラを蔓延させるだけですよ。

 私は教師にだけはなるまいと決めていましたが、それは自分が暴力教師になるのが判っていたからです。不良学生をメタメタにして暴力で無理やり根性を叩き直そうとしていたに違いありません。

 武道必修化の背景に、そんな体罰容認の思惑を感じるのは私だけなんでしょうか?

 それでも、私は、必要だと思えば暴力に訴えても問題解決するでしょう。その覚悟が無ければ解決できない問題は多いと思います。

 身体強健でも精神は狂犬並み・・・という人間より、身体は弱くても精神は真っ当・・・という人間の方が世の中で生きていくのに自他に害がありません。

 現実に害を為そうとする人間が目前にいれば、実力でやめさせるしかない場合もあるでしょう。私は、そのために武術を修行してきているという明確な自覚があります。

 ですが、私が思うには、武道や武術を学びたがる人は、自尊心が強過ぎて他人を見下したり思いやりの無い人間が多いように思えます。一見、謙虚そうに振る舞いたがりますが、その本質に傲慢さを隠しているのです。

 いわゆる自己崇拝的ナルチシストが少なくありません。

 未熟なうちは謙虚に振る舞っていても、多少の実力がついたら自惚れて増長する人間を非常に多く見てきました。要は、隠していた本心が露呈した訳です。

 本当に謙虚な人は、自分の中の傲慢な部分を平気でさらけ出してしまったりします。見苦しい部分を隠さない人の方が人間性は信用できます。

 現代で武道や武術を学ぶ意義は、自尊心を満足させることにはありません。むしろ、自尊心を解体して初心から自分の弱い心身を鍛え直しながら、世の中に貢献できる洞察力と実行力を持つ人間になれるようにする点にあると思います。

 だから、私は、ただ武道が強いというだけの人には、もう興味が無くなってしまいました。やはり、世間一般にどれだけ貢献しているか?という点にしか人間の価値は認められないでしょう?

 その点から言っても、私が尊敬できる武道家は至って少ないですね。

 本心を隠して見せかけの謙虚さや上っ面だけの礼儀作法を自己演出する腹黒い人が多いので、私は本当に嫌気がさしています。人間、正直なのが一番です。

 人間は汚い面が多々あって当然であり、私が「武道」という言葉ではなくて「武・術」と言っているのも、道を説いたりすれば偽善と自己欺瞞を避けられなくなるのがカッコ悪いので、ハードボイルドに「武・術」と言っている訳です。

 だいたい、どんな美辞麗句をちりばめてみたところで、本質として武道は戦いの技を磨くものであり、戦いの技とは敵を倒す(殺す)ために工夫されているのであって、その前提の上での「殺さず活かす」という倫理的思想が付与されたに過ぎないのです。

 その戦いの技を修練するのだ・・・という認識が無いところでスポーツ競技としての技術だけを取り出して論じることが、どれだけ本末転倒な愚かなことであるか?という点を、この際、よく考えてみたらいいでしょう。

 以前、『戦争論』の類いを喜々として論じる連中に対する嫌悪感について書いたこともありましたが、私は、本当に“戦い”というものを観詰めないままで論理としての戦争の是非を論じる輩に、「死ぬか生きるかの戦いを一回でも体験してから論じてみろよ」と言いたいのです。

 人を傷つけたり殺したりして罪に感じない人間は、もう救いようがありません。

 武道必修の安全性について論じるのも結構ですが、「何故、武道というものが存在するのか?」という点について考えながら練習するのであれば、それは大いに意義深いものになる可能性もあると思います。

 格闘の強さを求めるとか、試合に勝つ達成感を味わうとか・・・そういったものはスポーツで十分であり、武道がそのレベルで学ばれることに意義があるんでしょうか?

 私は、日本の武道教育の問題点というのは、スポーツ競技として普及した点にあると思っています。スポーツとして考えた場合、武道は確かに安全面に問題があり過ぎるのです。

 そもそも、スポーツの起源は、軍事教練から始まり、それが本来の目的から離れてレクリエーションとして細分化していったものでしょう?

 しかし、武道は軍事教練から個人の心身修養と護身術へと進化したものであり、東洋の心身開発の叡智を採り入れて発展したものです。

 それを、スポーツ競技という枠組みの中に納めるのは単なる矮小化にしかなりません。

 最晩年の嘉納治五郎が、格技として世界に広まった柔道に対して、「これは私が求めていた柔道ではない」と言ったという意味を、よくよく考えねばなりません。

 嘉納は、沖縄空手や合気道、古武道なども集大成した“柔道”を構築することを目論んでいたようですが、それは、恐らく、流派として細胞分裂してしまっていた武術から流派の別を取り払って、新しい武的ムーブメントを起こすことを目指していたのではないでしょうか?

 頑なに試合競技を否定していたという船腰義珍翁や植芝盛平翁も、試合競技の形式の中で武の精神が摩滅し本質から離れていってしまう・・・ということを洞察していたのではないか?と、私は思えてなりません。

 それは単に精神性や思想性の問題ではなく、技術と戦闘理論を構造的に読み解いた場合に、武の術は競技化できる性質ではないからだと私見しています。

 試合競技をするには危険性の高い技は取り除くしかありません。が、取り除いたから安全か?と言えば、そんなことはありません。

 それならば、むしろ、本来の殺法術についても知ることが必要ではなかろうか?と思います。

「こうすれば危険だ。だから、こうして危険のないように注意して練習しましょう」という態度が必要だと思います。

 もう、お判りでしょう?

 私が危険な“殺法”を教えているのも、「武術は本気で使えば簡単に人を殺傷してしまう。だから、強さを求めても空しいことであり、ただ、護身の技術を磨いて使わないで一生を終えるよう祈りつつ、文化としての武術を学ぶことそのものを楽しみましょう」という考えからです。

 もちろん、“技術的な強さ”は体得して欲しいですが、それはあくまで護身術としての技能の熟練であり、どこかの大会に出て活躍して欲しい・・・といった気持ちを会員に対しては持っていません。

 ただ、これは見方を変えれば、一般的な競技上の強さを得るより難しいのかもしれませんね。ちょっと性質が違いますからね。対刃物・対棒・対銃・対複数・・・といったことを考える訳ですから。

 でも、これからの時代に必要とされるのは、そんな護身術としての汎用性の高い武術なんだと私は確信して疑いません・・・。

 その意味で、今回の武道必修化によって発生するであろう諸問題が、逆に「武道とは何か?」という本質論を引き出してくれるなら、それなりの意味があるかもしれないな~?とは思います。

 まあ、犠牲者が出ないことを祈るばかりですが・・・。

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著者プロフィール

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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