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横浜剣術講習会感想

 急遽、春分の日の20日に、横浜同好会主催で独己九剣の講習会を開催致しました。

 私が横浜同好会に顔を出すのは、随分、久しぶりで、横浜線で新横浜まで行き、地下鉄に乗り換えて戸塚駅に向かいました。

 JRでそのまま行かなかったのは、以前、横浜で東海道線だったかに乗り換えた時に、満員電車で10分以上動けなかった中でパニック障害の持病の発作が起きてしまい、もう~えらい目に合ってしまったので、各駅で停車する地下鉄を利用するようになったからなんですが、途中で隣の席に座った人から話しかけられて、アレッ? 誰かな?と思ったら、何と、私が行きつけの横浜名刀会の社長さんでした。

 私もビックリしましたが、社長さんも驚いていて、「なんだよ? 先生もよく地下鉄に乗るの?」と聞かれたんですが、滅相もありません。滅多にこの地下鉄は利用しないんですし、たまたま店が休みで買い出しに出た社長さんとバッタリ出くわすというのも偶然も偶然の話でした。

 まっ、私の場合、この手の偶然は異様に多かったりもするんですがね。

 横浜名刀会の社長さんとも、もう6~7年のお付き合いになりますかね~? 社長さんが着なくなった作努衣や道着を貰ったりもしています。

 もう辞めてしまいましたが、うちの剣術師範代の紹介で三尺二寸一分の打ちおろしの大太刀を作ってもらう相談に乗ってもらってから、槍や薙刀も含めると、もう10本くらい、ほとんど分割払いで買わせていただいています。

 小林先生と青木先生に差し上げた刀(坂一貫斎綱繁と、小宮四郎國安)も、こちらのお店で買ったものを、外装は私が自作して贈ったものです。

 元剣術師範代の顔で紹介していただいて、定収入の無い人間なので特別に御厚意で分割払いで買わせてもらっているんですが、そうでなければ、こんなに多くの刀を得ることはできませんでしたね。

 やっぱり、模擬刀を使っていた頃と比べて、真剣で稽古するようになったら我ながら実力が随分上がってきたような実感がありまして、それは横浜名刀会の社長さんのお陰であり、紹介してくれた元剣術師範代のお陰でもあると思っていますよ。

 何というか・・・、真剣というのは意識の質を高めてくれるような感じがするんですよね。作った人の魂が入っている刀は、持ち手の魂にも響いてくる感じがするんです。

 青木先生のように霊感の高い方だと、物凄く刀を選んでしまうみたいですし、五エ門が斬鉄剣じゃないと実力を発揮できないようなもんですかね~?

 私も青木先生と付き合ってるうちに少しばかり霊感が移ってきた?のか、人や物を随分、選ぶようになってきましたよ。直感的に合わないと思った人とは距離を置くようにしていますし、刀の好みも厳しくなってきましたね。

 それと、技に関しても好き嫌いが激しくなってきました。これは良くないと思ったら、見たくないんですよね。気持ち悪くなってしまうんです。

 それがまた、私の好みは一般的な武道の上手下手とは違うんで、話が合う人を選んでしまうから困るんですよね~・・・。

 そういう訳でしたが、まあ、他に話すこともないんで、20分くらい元剣術師範代の最近の様子のこととか聞いて過ごし(元気でやっているらしいので、ちょっと安心)、社長さんは上大岡駅で降りていかれました。

 私は戸塚駅で降りて、会場に向かいましたが、久しぶりだったので道を間違えて地域センターの方へ行ってしまい、アレ? どっちだったっけ?と思って、横浜フォーラムの方へ向かい直すと、K塚師範代と出くわしたので、あっ、やっぱ、フォーラムだった・・・と、二人で会場へ向かいました。

 今回は剣術と銘打っているので、どのくらい人が来るかは未知数でしたが、13人というそこそこの人数となり、木刀を使う関係で会場とは丁度良いくらいでしたね。

 何でも、以前、中国武術?の団体が天井に傷をつけたとかで剣を使うのは警戒されたんだそうですが、入ってみたらかなり天井が高くて木刀を普通に振っても当たりません。

「棒(棍)とか三節棍とか使ったんじゃないの?」とK原代表と話しましたが・・・。

 講習会を始める直前に、今、関わっている映画の打ち合わせの電話が入ったので、自己紹介を先にやってもらい、その間に外で電話し、会場に入り直すと、既に立禅に入っていました。

 今回は剣がテーマなので、立禅も剣を持った応用形をやってもらいました。

 正眼・八相・車(脇)の構え・下段無構え・上段の構えを執って静止してやる・・・というのが私の考案した日本剣術式の立禅・・・という次第です。

 それから、試力も刀を使ってやる方法を指導しました。これもオリジナル方式。

 となれば、当然、歩法も刀を使ったやり方をやる訳ですね。

 今回は、刀を帯に差した状態でやる丹田歩法、さらに、歩みを停めないまま刀の抜き納めを繰り返すやり方・・・等をやってもらいました。

 剣術や居合術で私が最も重視しているのが、“歩みを停めない”ということです。できれば、足の動きは止まらないまま刀を操作し続けることが理想です。

 これは青木先生の剣舞を拝見してきて思ったことなんですが、常に足が動き続けられていれば、間が途切れないから、剣の太刀行きの速度に頼る必要もないし、相手の攻防の間を捉えるのにも圧倒的に有利になります。

 武道でも格闘技でも、多くの人が誤解しているのは、瞬間的な速度を求めがちだということです。

 瞬間的な速さが速ければ良いという考えは非常に一面的で、武術では墓穴を掘りがちなものです。

 どうしてか?

 速く動こうとすれば、方向を定めて集中しなければなりません。

 しかし、それをやれば、一方向に瞬間的に高速で動くことになり、動いたら最後、途中で軌道修正することが(集中すればするほど)、至難になります。

 だから、ここに“読み”の絶対的な優位性が生じるのです。

 何故、達人はゆっくり動いているのに若い武道家の高速の攻撃を捌いて翻弄し得るのか?

 集中して速く動こうとすれば、動き出すために全身にタメが生じます。意識が働き肉体が準備し、動く。私は肉体が準備するところまでしか読めませんが、新体道では意識が働くのを読む。だから、私は新体道を高く評価している訳で、今後の目標とするのはそこなんですね。

 ただし、意識を読むための準備段階として身体そのものが自在に動いて反応できるようでないと意味がありません。

 その大前提となるのが、動きを停めないことと力をタメるという“身体内部の居着き”を除くことです。

 読みを駆使することができれば、相手が攻撃しようとするタイミングを外して迎撃したり、あるいは攻撃を誘導しながら自滅させたりする戦術を駆使することができます。

 どんなに速い突きでも出る瞬間が判れば、突きの到達軌道線上から外れてしまえば当たりません。

 私の新作DVDでは真剣の斬り込みを避けておいて奪い、そのまま試し斬りする演武をやっていますが、お気づきかと思いますが、私は相手が斬ってくるタイミングを読んでいるから動こうとする寸前に先に避けている訳ですね。

 読めているから先に安全に避けてから奪っている訳で、自分の感覚では失敗する可能性が無い。だから、できる。

「自分はまだ読みが中途半端にしかできない」という不安があったら、こんな危ない演武は自殺行為ですよ。

 逆に言うと、“読みができねば不可能”なんですね。

 たまに、読みの感覚が全然ないのに気合と根性で無刀取りの演武をやっている武道家がいたりしますが、私は危なっかしくて見ていられません。やり方を知らないのにやるのは恐れを知らない蛮勇というものでしょう。

 この訓練のメリットは、読みの感覚をさらに向上させるという点にあります。刀の斬り込みが読めれば、突き蹴りの速度はそれより格段に遅いですから、避けるのはさらに簡単になります。

 失敗したら死ぬ訳ですから、真剣で稽古していれば、怪我したりさせたりしないように力をコントロールする感覚も発達せざるを得ません。

 素手で殴り蹴る練習ばかりしていると、少々当たっても我慢できますから、知らず知らずに相手の攻撃を受け止める癖がついてしまいます。

 私が剣術に移行する気になってきたのも、これが理由です。

 突き蹴りを受けてもダメージが無いように受けることは可能なんですが、刃物を素手で受けたら致命傷になりかねません。動脈一本切断されたら病院に運び込まれるまでに失血死する危険性があります。

 通り魔事件を考えるまでもなく、殺意を持っている人間は、必ず武器を持つものです。

 私のように素手で人体に致命傷を与える方法を百も千も知っている人間でも、確実にそれをやらねばならないとすれば、やはり武器を取りますね。

 まして、素手で人体を破壊するやり方を知らないであろう圧倒的に大多数の人間ならば、確実に武装するでしょう。

 つまり、武術を護身術と考える人間ならば、「相手は武器で武装しているのが当たり前だ」と考えていなければなりません。

 例えば、外国の特殊部隊の訓練を受けた拉致グループに襲われた場合を想定すると、おとなしく捕まれば一生が台なしになる・・・ならば、敵の武器を奪って反撃しつつ逃げる方が、たとえ殺されるとしてもそのようなグループの存在を国際世論に明らかにして後の犠牲者を出さずに済むかもしれません。

 自分の死が、より多くの人を救済することに繋がるのであれば、それは実に意義深い死になるのではないか?と私は思いますね。

 戦争で戦って死んでいった人達を犬死にだととらえるか? 英霊として敬うか?は、認識の問題として正解はないでしょうけれども、鎮魂のためには後者と認めて敬うのが正しい態度だろうとは思います。

 もっとも、戦争の偽善を認める気持ちはありませんがね。

 やっぱり、武術を学ぶからには、単なる闘争本能を満足させるだけのムーブメントとしてではなくて、生きること、死ぬことの意味を考える実践哲学としての要素を無視しないで取り組んでもらいたいですよね。強制する気はありませんが・・・。


 もう一つ、私が特に主張したいのは、「日本人は何故、剣を崇拝したのか?」ということです。

 日本の武術は剣が基幹であると私は確信して微塵も疑いません。

 半世紀近く生きてきて改めて新陰流の門を叩いたのも、日本剣術の奥義に触れたいという気持ちから、日本剣術の最高峰との盛名高い、上泉伊勢守の考案した刀法を学びたいと思ったからなんですね。

 伊勢守は戦国時代の人です。平和が常識の世ならいざ知らず、戦場で多くの首を獲ったら賞賛される価値観の世の中に生きた人が、人を殺さず活かす考えを刀法に採り入れた・・・という点に、単なる強い弱いを圧倒的に超えた人格の高さを感じるのです。剣聖と呼ばれるに足る人は、上泉伊勢守をおいて他にはいないでしょう。


 それはそれ・・・講習会は、大急ぎで独己九剣の九つの型をやって、後半は無刀取りの応用技をやりました。

 三時間があっという間に終わりました・・・。

 初めての方は面食らったかもしれませんし、素手でやるよりずっと難しかったと思います。

 一応、一通りやっていた会員さんも、「習っていたのと細かいところが全然、違っていました」と苦笑いしていましたが、理論を把握してやるのと、手順だけ覚えてやるのでは外見は似ていても内容はまったく違うんです。

 理論が解っていれば、応用変化は無限大にいくらでもできる訳です。

 逆説すれば、理論が解らなければ応用変化はすぐに尽きてしまうのです。

 例えば、無刀取りの応用法の時に、八極拳の技を応用して使ってみたりもしましたが、それは中国武術の指導者の方もいたので、中国武術の応用でもできるというのをやって見せた方が納得しやすいんじゃないか?と思ったからなんですね。

 もちろん、これは、その場で咄嗟にアドリブでやってみたものなので、「八極拳には無刀取りの技が隠れているのだ」なんて勘違いしないでくださいね?

 八卦掌でも太極拳でも柔道でも空手でも、無刀取りに応用しようと思えば、いくらでも技は抽出できますよ。

 何故なら、いかなる武術も人間の五体と頭脳を駆使して戦う技術を合理性に沿って工夫してきたものなので、最大公約数としての動きはそんなに変わるものではないからです。

 技の入り方(先の先か対の先か後の先か?)や、体捌きのやり方(直線か斜めか回り込みか回転か?)、攻撃技の特徴(打撃か逆手か投げか複合か?)や、その組み合わせ(対の先で斜めに躱して回転肘打ちを入れて巻き投げにするか?とか、後の先で回り込んで背後から投げ倒すか?といった組み合わせ方)を変えれば、それこそ無限大に技をアドリブで繰り出していくことが可能です。

 私が交叉法を重視したのは、これらの戦術的方程式であると気づいた点なのです。そして、その前提が“読み”なんですね。これらを磨けば歳とっても向上していけますよ。

 それと、練習では怪我しないようにゆっくりやっているんですが、実際に戦う場合は一挙動で多撃瞬殺!というのが游心流の特徴とするところですから、そこは誤解なされませんようにお願いします。

 剣は体を以て技とし、技は術を以て必勝を期す・・・という次第です。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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