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ほびっと村講座感想

 15日は、ほびっと村で講座がありましたが、今回は妙に少なくて、たったの6人。ここ最近で最少ですね。宣伝が足りなかったかな~?

 でも、場所があんまり広くないので、このくらいの人数が練習しやすいというのも皮肉な話です。

 あんまり儲からなかったけど、一応は黒字だったので、ひと安心。四月は、みんな忙しいのか? ほぼ常連だった人達も来ていなかったですね~。何か、心配になっちゃうな~?

 今の世の中、どこで何が起こるかわからないですからね?

 暴走車の事件も、一瞬、アキバの通り魔事件か?とも思いましたし、6.5mのアミメニシキヘビに咬まれて亡くなった・・・という事件なんか、朝のニュース番組で「アミメニシキヘビは大きくなると14mを越える・・・」みたいに放送されてて、「うへえっ? そこまでデカくならね~よっ! 正式な記録では9.9mの筈だよ。いい加減なこと発表すんじゃね~よっ」って、TVにツッコミ入れたのは私だけ?

 もうね~。「宇宙人、ほんとにいました」って言われても、「あっ、そうっスか?」って、ちっともビックリしないと思います。

「ツチノコ捕まりました」って言われても、「ようやく捕まりましたか?」って感じ。

 なんかもう~、何でもアリの世界になっちゃった感じがするのは、私だけ?

 だから、「何か陰謀かな?」って、すぐ思えてしまったりもするんですよね。やたら、足を引っ張ろうとネガティブ・キャンペーンする人達もいるし・・・。

 講座が始まるより、ちょっと早く到着したので、ナワ・プラサードのユリ子さんとお喋りしたり(コーヒーを御馳走になりました)、原発の話とか、出版不況の話とか、ほびっと村の今後の企画の話とか、いろいろしたんですけどね。

 ほびっと村って、もともと、日本のニューエイジ運動の拠点の一つだったんで、カウンター・カルチャーの論客が出入りしたりしていたんですよね。

 最近は、昨年の大震災後の原発事故で、一気に政治への不信が高まって、かつての社会運動的なムーブメントが高まってきている感じがします。

 全共闘世代の闘争していた人達の半分くらいが、ニューエイジ・ムーブメントに興味を持って、日本の精神世界開拓の旗振り役になったりしているんですね。エコロジーとか自然農法とか、気功、ヨガ、太極拳、トランス・パーソナル心理学とか・・・。

 アメリカでは、ベトナム戦争後のヒッピーがニューエイジへと繋がっていて、ヨーガ、禅、太極拳、ヒーリングタオ、カイロプラクティック、オステオパシー、ロルフィング、アレクサンダー・テクニーク、フェルデンクライス、NLP、自己啓発セミナー・・・なんかに細胞分裂して増殖していったんですね。

 もともと、アメリカはキリスト教の国じゃないですか? そこに雑多な宗教や価値観を信仰し、個人の解放を目指すカウンター・カルチャーが興ったのも自然な道理なんでしょうね?

 だって、悪魔教会(チャーチ・オブ・セイタン)なんてものもできてしまうんだから。

 これって、日本で言えば、真言立川流がいきなり復活したようなもんでしょう?

 新体道も、武道という文脈で考えるより、言わば“日本のニューエイジ・ムーブメント”だと考えた方が理解しやすいでしょうね。「カラダを解放して心を解放するシステム」だと理解するのが一番、しっくりくるんじゃないでしょうか?

 ただ、個人の心と身体の解放というテーマは、反面では反社会を意味してしまいます。

 何でか?というと、個人が解放されてフリーダムに生きていったら、社会の秩序が維持できなくなるから・・・。

 そういう意味で、政治が権力装置で国民を縛りつけようとするのは必然なんですよ。だって、社会という構造を維持することが目的なんだから・・・。

 原発にしても、原発マネーのシステムを解体すると、それで成立していた社会の機構が維持できなくなる。だから、何とか復帰させようと、世論を騙くらかす偽装工作を駆使してまでやってる訳ですね・・・。

 そこに、個人としての国民が不在のままで論議されるのも仕方がないのですよ。

 だって、社会は権力装置で維持されるシステムそのものなんだから、国民は大小様々な部品としてしか考えられない。取り替えの利く小さな部品のことは考えず、エンジンやコンピュータを優先しようとするのは当たり前でしょう・・・。

 ところが、彼ら権力の中枢にいる人達は大事なことを忘れてしまっているんです。“社会は個人の集合体だ”という真実を・・・、人間は機械じゃないんだから・・・。

 権力は、人間の本質を見誤らせますね。

 神ならぬ人間が神の視座に立つことは、滅びの始まりなんですね。

 人類滅亡のイメージが遥かな昔から、ずっと言われ続けてきたのは何故か?というと、それは畏怖する心が権力からの解放を促すからだったんだ・・・と私は思います。

 謙虚な心は自然に感じるものでなければ意味がありません。

 私は、最近の野田首相を観ていると、謙虚さを装う奥にある傲慢さを感じて本当に嫌な気持ちになりますよ。「この国のため・・・」というお題目を自分にマインドコントロールかけて“誠実さ”を自己演出しているのでしょう。

 が、彼は国民の現実をちゃんと観ていませんよ。システムを維持することしか考えていない。システムを改善していくアイデアが無いんだから・・・。

 この国に、本当の政治家はもういないんでしょうか? それとも、能力が低過ぎるのでしょうか?

 少なくとも、民主党政権の功罪の功の部分は、「日本に民主主義なんか無かったのだ」という真相を露呈させてくれた点でしょう。

 日本人に決定的な政治不信を植え付けてくれた点は、むしろ、良かったんだと思いますね。

 これから日本がどんどんダメになっていったとしても、アナーキズムによる個人が立ち上がる原始共同体の島(国ではない!)になったら、それはそれで希望の地となり得るかもしれません。

 それは、「日本が滅ぶ!」という悲観論で語るべきではなく、社会機構が解体されて個人が自由に開拓して生きていけるフロンティア時代になると思えばいいんですよ。

 私は、もう「社会なんざ、どうなろうが知ったこっちゃ~ねえよ」というのが本音。どんな状況になろうが、個人個人が力強く、しぶとく生き抜く・・・ということに関心が向かっています。

 そのために、武術を役立てられれば、本望ですね。だって、国が無くなれば、個人を守るのは個人の力だけしかありませんから・・・。

 けれども、今の日本の武道に、そんな技能を求めるのは無理がありますね。やってる人達だって、趣味(娯楽)でやってるだけでしょう。

 しかし、武術は本来、兵法から発達しています。兵法というのは戦場で戦う技術であり、私も現代の市街戦にまで対応できる武術を追究しています。だから、現代の特殊部隊の戦術なんかも研究してきている訳ですよ。過去に学ぶだけじゃ~、実用性が無い。

 私は、現代から未来に渡って、役立つものでなければ武術失格だと思っています。

 そのためには、戦闘術と養生健身術の二つの要素は絶対不可欠だと考えます。

 サバイバルが目的なので、素手でも武器を使っても戦えなければダメだと思っていますし、軽い病気や怪我も治せるべきでしょう。

 そういう意味で、健康法やサバイバル術の研究もやってきましたし、銃やミリタリーに関することも相応に知っています。

 そのお陰で、現在、参加している映画では、“軍事・Gunアドバイザー”というポジションであり、実は、今回、武術の指導は全然やっていないのです。

 意外でしょ?

 無論、アクション・シーンの演出もやりましたが、こちらは20年ぶりに普通の格闘技の技を使った立ち回りを指導しました。

 個人的には武術的なテクニックを使いたかったんですが、監督の希望のイメージに合わせると従来の格闘アクションの方が相応しいと思った訳です。


 それはそれ。

 ほびっと村の講座は、一応、独己九剣の応用をやると予告しておいたので、まず、独己九剣から“左剣”と“雪崩潰し”の技を抽出して、その応用の体術技法をいろいろやりました。

 左剣で重要なのは、「正中線を確保したまま体捌きで交叉法を用いる」という点にあります。攻撃を避けて、相手にとっての死角に付け入るのが骨子です。

 雪崩潰しで重要なのは、「沈身をかけて相手の体勢を崩す」という点です。これは、崩し技の原理をよく熟知し、相手の体勢に応じて微妙に崩す方向を修正していく感覚を必要としますが、これはまだ北島師範ですら会得していませんでしたね。

 多分、うちの会員では大石総教練ができるかどうか?というくらい難しい部類に入るかもしれません。触れた瞬間に崩れる方向を感知して技をかけなきゃならないので・・・。

 体勢を崩すといっても、人間は体質・体格・体能などが皆、違うので、通り一遍なマニュアルで覚えてしまうと、かからない人に出会って困惑したままで終わってしまいかねないのです。

 技がかからなかった場合、咄嗟に変化技をかけられるのも重要ですが、かからない理由を瞬時に察知してかかる技へと微妙に修正できる技能があれば、これが最も正しい訳なのです。

 この辺の感覚は人に伝えるのは至難なので、普通は“名人芸”として一代限りで終わってしまうものです。

 私はヘソ曲がりなので、名人芸と言われている技でも、「意地でも秘密を解明してやる!」と燃えてしまう性格なので、大抵の秘伝技はすべて原理解析しています。

「長野の嘘つき~」と言ってくれて、一向に構いませんよ。事実かどうかはできるようになった自分しか判らないことであり、別に他人に認めてもらう必要なんかありませんからね。できる会員を育てていけば、論より証拠になりますからね。

 武術に論争は無意味です。できるかできないか? 肝心なのは、それだけです。

 多くの秘伝とされる技も、自分で試して人にも教えて体得させていく過程で、「案外、簡単だよな~」と思うようになっていった訳です。できてしまえば、原理解析は難しくありませんからね。「こうやった方ができるんじゃないかな~?」と、どんどんシンプルになる訳です。

 例えば、佐川幸義先生の伝説の秘技“体の合気”も、「恐らく、こういうことだろう」という分析から出発して実験練習しているうちに基礎原理は解析できてきましたし、その原理から考えたいろいろな応用技も、日々、開発していっています。

 予定していたより早かったですね~? 「あ~、なるほど、こうやっていたのか?」って思っていますよ。

 最新DVDで基礎的なことはやっていますが、その後、もっと研究は進んでいき、原理的には極めてシンプルな技術となってきています。

 つまり、“教えれば誰でも体得可能な技”だということです。鍛えなければできない技でもない。理論を理解して、理論通りに動けばできると思います。

 いろんな人が体得できないのは、多分、「物凄く鍛えないとできない」と思い込んでいるのが最大の原因だと思いますね。

 最近、思うのは、武術に関して、“鍛える”という行為は非常に問題を孕んでいるということです。大抵の人が理論を理解しないまま、闇雲に筋肉に負荷をかけて鍛えているだけなんですよ。“独りよがり”なんですよ。

“体の合気”を例にとれば、私は、技をかけられて体勢が崩れて吹っ飛ばされている受け手の重心の流れを連続写真から解析していくことで、技の効力(力がどう働いているのか?)を考えたんですね。そこから、そのような効力が作用する技とは、どのような技術なのか?と考えてフィードバッグさせて技を具体化させていったんです。

 力ではなくて、技のメカニズムを解明しなければダメなんですよ。

 無論、原理だけだと実用性は乏しいのですが、自在に応用発展させられる段階になると、極めて実用性の高い武術技法になる・・・と言えます。

 もっとも、実用性が高くなるという意味は、“威力があり過ぎて危ない”ということで、まともに使えば相手に致命傷を与えることになってしまう・・・という訳で、「実用性が高い技は実際に使う訳にはいかない技」だということになってしまいます。

 先日のセミナーの感想で、DVDを見た参加者が、「長野先生が一番ゆっくり動いて遅く見えたんですが、それは読みを駆使しているからでしょうか?」と言われていたんですが、私がゆっくり動いているのは、おっしゃる通り、「読みを駆使しているので、それだけ余裕があるから」というのと、「早く動いたら威力が出過ぎて受けている会員に怪我をさせかねない」からでもあります。

 私が早く動いたら、すべて先の先となってしまうので、受けている会員が攻撃を出せないまま、一方的に私が技をかけているように見えるでしょう。それだと教材用のDVDにならず、ヤラセにしか見えないので、私は相手に技を出させてから封じるようにしている訳です。

 また、北島師範はいつも私にゆっくり攻撃を出すのが習性になっているのですが、どうしてか?というと、彼が早く攻撃したら、私もそれだけ早く迎撃してしまうので、途中で技が止められずにカウンターで入ってしまったりしたので、自然にゆっくり攻撃するようになってしまったのですね。彼は本気だしたらムチャクチャ速いし、そうなると私も寸止めなんか到底できません。

 交叉法の問題点は、相手の本気度に応じて技のスピードも変わる点で、互いによく知っている者同士なら加減できても、知らない者が相手だと止めるに止められず、大怪我をさせてしまいかねない・・・という点です。

 だから、私も実戦以外では交叉法を使うのは気が進まないですね。下手にやって見せても、こちらが加減しているのが解らずに侮られるだろうし(実際、何度かそうなったので、今は反省して、「やるからには殺す気でやらなきゃならん」と決意しています)、それでは本気でやろう・・・とすれば、相手に怪我を負わせるのは避けられません。

 実戦で命を護る勝負にしか使えないな~と思いますね。

 しかし、だからこそ、弱者が強者に打ち勝つ秘術として素晴らしい術だと思います。


 講座が終わって、いつものように喫茶店でお喋りしてから帰りましたが、ろくに花見もできなかったので、独りで橋本駅から相模線で上溝駅に行き、桜の名所の横山公園へ行きました。

 夜桜見物になったので、まだ十分に桜が楽しめましたよ。

 帰りに住宅街を歩いていると、駐車場に猫が何匹か居て、飼い猫で大切に育てられているからか? 近寄っても警戒して逃げたりしなかったですね。あ~、早く猫が飼える暮らしがしたい・・・。

 せっかくだから、そのまま歩いて相模原の市役所通りを桜並木を見ながら帰りましたが、こちらは車の廃棄ガスで温度が高いせいか、散るのが早くて半分以上、葉桜になってましたね。でも、商店街では出店も出ていて賑やかでしたよ。

 ついでなんで、そのまま駅には向かわずに歩いて渕野辺の鹿沼公園まで行き、公園の桜も見てきました。何しろ、この前は、つぼみ見会になっちゃいましたからね~。

 やっぱり、公園の桜は結構、長持ちしていましたね。相模原組の会員を呼んで、もう一回、夜桜見物でもやろうか?と思いましたけどね~。

 1時間半くらい歩いて相模原の桜を愛でてきましたが、結構、長く住んでますけど、相模原は綺麗ないい町ですね~。都内に出るにも交通の便は悪くないし、治安は悪いらしいんだけど、すごく住みやすいですよ。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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