脱力技法は心法が要
日曜日の公園稽古が変則的な雨で出来なかったりすると、稽古後に行くファミレスに先に行って、天候の具合を見ながら武術談義をしたりするのが游心流スタイル・・・。
16日も雨が降り出したのでファミレスに直行していたんですが、小降りになったのと、会員の要望で午後から公園に行って練習しました。
ここ最近、脱力技法が深まり、体の合気のような技が当たり前にできるようになってきていた(凄いこと書いてるな~?)ので、この日も、交叉法の差し手からそのまま脱力して沈身の重さを使って相手の体勢を崩すやり方を主にやってもらいました。
この技が熟練すれば、相手のパンチやキックをひょいっと払っただけで相手はもんどり打って倒れたりする・・・という冗談みたいな展開になる訳で、かの有名な鹿島神流の国井善弥先生や、天真會の青木宏之先生が名だたる空手家をチョチョチョイッと退けて、退けられた空手家たちは、あまりの彼我の技量の雲泥の差に泣きの涙で悔しがった?という伝説の“技”です。
我々はこの伝説の技を、ここ何カ月か、更にハイスペック・バージョンで使えるように磨いているのですが、かなり実用レベルでも使えるようになりつつあります。
こういう技ができるようになったのは最近の話で、昔は演武でしかできませんでしたが、やっぱり長くやってると普通にできるようになってくるんですね。
伝統空手式の突き・フルコン空手式の突き・前蹴り・ローキック・ミドルキック等と攻撃技を変更して対処する練習をしていても、基本原理は同じことですから。
また、うちの場合、他流の指導者、師範クラスの人達も来られているので質の高い練習もできます。
技をかけられるようになったら、今度は攻撃側が返したり、更にそれをまた返したりもしていく訳です。
この日は、新体道を長くやっていたAさんに、大石総教練が指導していましたが、Aさんは接触した際についつい力が入ってしまい、結果的に技がうまく掛かりません。
形をしっかり取ろうとし過ぎていましたね。形で技の効力が出ると思っている様子でしたが、これは多くの武道修行者が誤解している点なんですよ、実は・・・。
形を決めるためには筋肉に力を入れて静止する。つまり、“居着く”訳です。
結局、形が無い、パターンが無い、流動する技だから千変万化して最も適切に対処できる訳なんで、その大前提として脱力しないといけないんですよ。
見かねて実演してみせましたが、Aさんは「頭では解っているつもりなんですが、ここまで力を抜いて、何であんなに大きな威力が出るのか?というのを身体が理解できない」との感想でした。
「Aさんは我が強過ぎるんですよ。自分はこれだけ練習してきたんだから・・・という気持ちが出過ぎてるんですよ」と指摘しましたが、「独り練習の課題にします・・・」と言うので、「独り練習で我を強めるからできないんですよ。そういう意識を捨てないとダメですよ」と言うと、ムム~ッと、唸ってました・・・。
自分が長く打ち込んできたやり方を手放すというのは心情的に難しいのは理解できますが、もし本気で上達しようと考えているのなら、間違ったやり方を続けるのではなく、間違いを認めてやり方を変えるしかありません。
Aさんは、口を開けば「独り練習の課題にする」と言うのですが、その考え方そのものが足を引っ張っていることを認められない。まだまだ自分が納得するまで時間がかかりそうですね。
彼に限らず、誰もが陥りがちなのは、独りでやる練習といえば、形を作ることしか無いんですよ。繰り返し同じ動作をやって形のパターンを身体に染み込ませるだけ・・・。
それでは自己満足を繰り返し刷新していくだけです。つまり、“我(自己満足)”を強めるだけなんですね。
“我”の強い人は練習すればするほど下手になったりします。無駄というより害にしかならないんですよ。練習が・・・。
自分でいくら練習しても上達できないと悩んでいる人は、よく考えてください。我を張って、師の教えを自分勝手に解釈して練習していたりしないでしょうか?
私が長年指導してきて、数は少ないのですが、上達しない人には共通した要素がありました。“自尊心が強くて自分の解釈でしかやらない”ということです。
中には本当に素直に従っているように見せかける人もいましたが、自分の本心ではなく上っ面で謙虚そうに振る舞っているだけなのがミエミエでした。
もっとも、実際に私に習って“差”を体感していても、脱力技法のメカニズムを納得するのは難しいみたいです。手足の一、二本も叩き折られないと納得できないのかな~?と思うんですが、こっちはいかに怪我させないようにするか?と、いつも細心の注意をしているんですから、困ったもんですよ。
会員でも年単位でやってきて、練習中に「あっ、なるほど、こういうことか?」という気づきが無いと意識が変わらないんですね。
私以外の武道・武術・格闘技の指導家は、ほとんど例外なく、「力を抜かなければダメだ。しかし、初心者のうちは身体を鍛えて基礎的な筋力を付けないとモノにならない」と説きます。
例えば、うちの場合も北島師範や大石総教練も、私の居ないところでは、やはり本音で身体を鍛える基礎練体の重要性を説きます。
何でか?というと、彼らはやはり武道を基礎からきちんと学んだことがあるから、そういう「基本練習を一切やらずに強くなるのはあり得ない」という気持ちが捨てられないからでしょう。
でも、私は段々、“そういう考え方そのものが思い込みに過ぎない”ように思えてきています。何故なら、“脱力技法なら、鍛えていない人でも鍛えた人以上の攻撃力が出せる”から。基本も糞も関係ないのです。“力を抜いて重心を作用させる”というだけ。
技巧すら邪魔です。ちょっとでも技巧を使うと、そこに微妙な力のぶつかる接点が生じる・・・本当に身体感度の優れた相手なら、そこに隙を感知して付け込んでくることも可能な筈で、現に私なら付け込みますね。
私が他流に急速に興味を失ってきているのは、形があり技巧があるが故に、そこに弱点が観えるからなのです。いろんな技や構えが、私の目には弱点を晒しているようにしか見えないのです。
攻防のパターンにしろ戦闘法にしろ、「これが正しい」という形式なんか、実はどこにも無いんですよ。ある局面で効率が良いかどうか?というだけの話です。それをあらゆる局面に通用すると誤解し、自分の知識の上で「これが正しい」と思い込んでいるだけなんですね。
技は数多く知っていた方が有利ですが、それをパターンとして覚えていくのは弱点を抱えることにもなります。数多くの技を一回、身体を通して覚え、覚えたそばからどんどん忘れていく・・・恐らく、これが最も効率がいい筈です。
繰り返し技の修練をする場合も、覚えたら技のパターンを増やすか変化させていき、“同じ動作の繰り返し練習をいつまでも続けないこと”が肝心です。
例えば、八卦掌は、創始者の董海川は、一説に単換掌と双換掌しか教えなかったのだとか? そこから弟子が八母掌を工夫し、更に六十四掌を生み出し・・・という具合に応用発展させていったのだとか? うちの場合も、これに近いかもしれませんね?
無論、これは基礎錬体でも同じです。同じ動きを何年も繰り返すような馬鹿なことをやっていてはいけません! 何故なら、“同じ動きを繰り返しても脳への刺激にはならない”からです。
どうも、教条的に考えて、「これさえやればいいんだ!」と、うちの指導陣は口にしがちなので、「本当にそれでいいのか~?」と、敢えて問題点を突き付けておきます。
考えてみてください。素人と初心者と中級者と上級者が同じ練習内容で良い筈がありませんよね? レベルに応じて練習内容は変えていかないとダメなんですよ。“基本”も中身が変わらないとダメ!
それに、鍛えなければできない技は、病気したり年とって身体が衰えれば使えない技なんですよ。
そんな“あやふやな技”に頼ってるようでは後手に回ってしまいます。
私が目指すのは、身体条件に左右されない戦闘技能であって、有り体に言えば、「勝ちゃあ、何でもいい!」のです。
基本発想を、「戦う以上は、ただひたすら、必ず勝つことを目指す。勝つためにはいかなる極悪非道な手段でも毅然として選ぶ! その覚悟が無いなら戦うべきではない」というハードボイルドな考え方にすべきですね。
超能力でも呪術でも黒魔術でも、勝つための手段として使えるのなら何でも使う!という悪魔的な執念を昔の武術家は持っていたと思います。
何故なら、その手の秘伝がテンコ盛りで伝えられているから・・・。
狐狸落とし、下馬落とし、心の一方、足留めの法、水鏡・・・いろいろあります。
居合術には、暗がりで床をチョンチョンと打って、敵にそこを斬りつけさせておいて騙し斬りにする技なんかありますが、命がかかった戦闘術なんだから、卑怯だの何だの寝ぼけたこと論じるのが間違いなんですよ。
何年も地道に修行しなければ使えないような武術では、現実に役立たないでしょう?
習ったら即、実用できる技。
学んだら即、役立つ知識。
これからの時代に本当に必要なのは、そういうものではないか?と思います。
脱力技法も、実は、学んだら即、使える技なのです。
使えないのは、「こんな簡単に使える筈がない」という学ぶ側の強固な思い込みが邪魔をしているだけです。
これまで二十年くらい、数多くの人達に指導してきて判明したのは、「何も習ったことのない人の方がすぐに覚える」ということでした。
どうしてか?
先入観が無いからでしょう。
できない人は、総じて武道経験者。それも熱心に長くやってきた人ほど、体得に物凄く苦労しています。
これは、筋肉に力み癖があるという以上に、「筋肉がパワーを生み出す」という強固な思い込みが邪魔をしているのです。もう、崇拝に近いですね~。何が何でも筋肉で考えないと気が済まないみたいだし、だからこそ、「脱力が大切だ」と言いながらも「鍛えなきゃいかん」と頑なに言い張る・・・。
伸筋やら深層筋肉だのの理論に飛びつくのも空手系の武道経験者が多い。
つまり、「自分の鍛えた筋肉が生み出す威力を捨てることができないから、脱力できない」のです・・・。
鍛えることに酔っているんですね。
頑張って苦しい修行をしている自分の姿にナルチシズムを感じている訳です。
ボディビルダーが鏡の前でポージングしてニカッと笑う・・・あの感覚です。
結局、脱力技法って、“我(自己満足)”を脱ぐことが肝心で、実は“心法”なんですね~。
PS;新作DVD・・・いろいろ考えましたが、やっぱり2万円にします。一般的な武道の世界で達人しかできないと言われる技を初心者が簡単に体得したらマズイでしょう?
多分、できると思うんですよ。何十年やってもできるかどうか判らない技を簡単にできるようになる・・・というのは、間接的にいろんな道場を潰すようなもんだしね~? マジで潰れる道場も出ちゃうだろうな~? 能書きばっかりで、いつまでも教えてくれないところとか・・・。
16日も雨が降り出したのでファミレスに直行していたんですが、小降りになったのと、会員の要望で午後から公園に行って練習しました。
ここ最近、脱力技法が深まり、体の合気のような技が当たり前にできるようになってきていた(凄いこと書いてるな~?)ので、この日も、交叉法の差し手からそのまま脱力して沈身の重さを使って相手の体勢を崩すやり方を主にやってもらいました。
この技が熟練すれば、相手のパンチやキックをひょいっと払っただけで相手はもんどり打って倒れたりする・・・という冗談みたいな展開になる訳で、かの有名な鹿島神流の国井善弥先生や、天真會の青木宏之先生が名だたる空手家をチョチョチョイッと退けて、退けられた空手家たちは、あまりの彼我の技量の雲泥の差に泣きの涙で悔しがった?という伝説の“技”です。
我々はこの伝説の技を、ここ何カ月か、更にハイスペック・バージョンで使えるように磨いているのですが、かなり実用レベルでも使えるようになりつつあります。
こういう技ができるようになったのは最近の話で、昔は演武でしかできませんでしたが、やっぱり長くやってると普通にできるようになってくるんですね。
伝統空手式の突き・フルコン空手式の突き・前蹴り・ローキック・ミドルキック等と攻撃技を変更して対処する練習をしていても、基本原理は同じことですから。
また、うちの場合、他流の指導者、師範クラスの人達も来られているので質の高い練習もできます。
技をかけられるようになったら、今度は攻撃側が返したり、更にそれをまた返したりもしていく訳です。
この日は、新体道を長くやっていたAさんに、大石総教練が指導していましたが、Aさんは接触した際についつい力が入ってしまい、結果的に技がうまく掛かりません。
形をしっかり取ろうとし過ぎていましたね。形で技の効力が出ると思っている様子でしたが、これは多くの武道修行者が誤解している点なんですよ、実は・・・。
形を決めるためには筋肉に力を入れて静止する。つまり、“居着く”訳です。
結局、形が無い、パターンが無い、流動する技だから千変万化して最も適切に対処できる訳なんで、その大前提として脱力しないといけないんですよ。
見かねて実演してみせましたが、Aさんは「頭では解っているつもりなんですが、ここまで力を抜いて、何であんなに大きな威力が出るのか?というのを身体が理解できない」との感想でした。
「Aさんは我が強過ぎるんですよ。自分はこれだけ練習してきたんだから・・・という気持ちが出過ぎてるんですよ」と指摘しましたが、「独り練習の課題にします・・・」と言うので、「独り練習で我を強めるからできないんですよ。そういう意識を捨てないとダメですよ」と言うと、ムム~ッと、唸ってました・・・。
自分が長く打ち込んできたやり方を手放すというのは心情的に難しいのは理解できますが、もし本気で上達しようと考えているのなら、間違ったやり方を続けるのではなく、間違いを認めてやり方を変えるしかありません。
Aさんは、口を開けば「独り練習の課題にする」と言うのですが、その考え方そのものが足を引っ張っていることを認められない。まだまだ自分が納得するまで時間がかかりそうですね。
彼に限らず、誰もが陥りがちなのは、独りでやる練習といえば、形を作ることしか無いんですよ。繰り返し同じ動作をやって形のパターンを身体に染み込ませるだけ・・・。
それでは自己満足を繰り返し刷新していくだけです。つまり、“我(自己満足)”を強めるだけなんですね。
“我”の強い人は練習すればするほど下手になったりします。無駄というより害にしかならないんですよ。練習が・・・。
自分でいくら練習しても上達できないと悩んでいる人は、よく考えてください。我を張って、師の教えを自分勝手に解釈して練習していたりしないでしょうか?
私が長年指導してきて、数は少ないのですが、上達しない人には共通した要素がありました。“自尊心が強くて自分の解釈でしかやらない”ということです。
中には本当に素直に従っているように見せかける人もいましたが、自分の本心ではなく上っ面で謙虚そうに振る舞っているだけなのがミエミエでした。
もっとも、実際に私に習って“差”を体感していても、脱力技法のメカニズムを納得するのは難しいみたいです。手足の一、二本も叩き折られないと納得できないのかな~?と思うんですが、こっちはいかに怪我させないようにするか?と、いつも細心の注意をしているんですから、困ったもんですよ。
会員でも年単位でやってきて、練習中に「あっ、なるほど、こういうことか?」という気づきが無いと意識が変わらないんですね。
私以外の武道・武術・格闘技の指導家は、ほとんど例外なく、「力を抜かなければダメだ。しかし、初心者のうちは身体を鍛えて基礎的な筋力を付けないとモノにならない」と説きます。
例えば、うちの場合も北島師範や大石総教練も、私の居ないところでは、やはり本音で身体を鍛える基礎練体の重要性を説きます。
何でか?というと、彼らはやはり武道を基礎からきちんと学んだことがあるから、そういう「基本練習を一切やらずに強くなるのはあり得ない」という気持ちが捨てられないからでしょう。
でも、私は段々、“そういう考え方そのものが思い込みに過ぎない”ように思えてきています。何故なら、“脱力技法なら、鍛えていない人でも鍛えた人以上の攻撃力が出せる”から。基本も糞も関係ないのです。“力を抜いて重心を作用させる”というだけ。
技巧すら邪魔です。ちょっとでも技巧を使うと、そこに微妙な力のぶつかる接点が生じる・・・本当に身体感度の優れた相手なら、そこに隙を感知して付け込んでくることも可能な筈で、現に私なら付け込みますね。
私が他流に急速に興味を失ってきているのは、形があり技巧があるが故に、そこに弱点が観えるからなのです。いろんな技や構えが、私の目には弱点を晒しているようにしか見えないのです。
攻防のパターンにしろ戦闘法にしろ、「これが正しい」という形式なんか、実はどこにも無いんですよ。ある局面で効率が良いかどうか?というだけの話です。それをあらゆる局面に通用すると誤解し、自分の知識の上で「これが正しい」と思い込んでいるだけなんですね。
技は数多く知っていた方が有利ですが、それをパターンとして覚えていくのは弱点を抱えることにもなります。数多くの技を一回、身体を通して覚え、覚えたそばからどんどん忘れていく・・・恐らく、これが最も効率がいい筈です。
繰り返し技の修練をする場合も、覚えたら技のパターンを増やすか変化させていき、“同じ動作の繰り返し練習をいつまでも続けないこと”が肝心です。
例えば、八卦掌は、創始者の董海川は、一説に単換掌と双換掌しか教えなかったのだとか? そこから弟子が八母掌を工夫し、更に六十四掌を生み出し・・・という具合に応用発展させていったのだとか? うちの場合も、これに近いかもしれませんね?
無論、これは基礎錬体でも同じです。同じ動きを何年も繰り返すような馬鹿なことをやっていてはいけません! 何故なら、“同じ動きを繰り返しても脳への刺激にはならない”からです。
どうも、教条的に考えて、「これさえやればいいんだ!」と、うちの指導陣は口にしがちなので、「本当にそれでいいのか~?」と、敢えて問題点を突き付けておきます。
考えてみてください。素人と初心者と中級者と上級者が同じ練習内容で良い筈がありませんよね? レベルに応じて練習内容は変えていかないとダメなんですよ。“基本”も中身が変わらないとダメ!
それに、鍛えなければできない技は、病気したり年とって身体が衰えれば使えない技なんですよ。
そんな“あやふやな技”に頼ってるようでは後手に回ってしまいます。
私が目指すのは、身体条件に左右されない戦闘技能であって、有り体に言えば、「勝ちゃあ、何でもいい!」のです。
基本発想を、「戦う以上は、ただひたすら、必ず勝つことを目指す。勝つためにはいかなる極悪非道な手段でも毅然として選ぶ! その覚悟が無いなら戦うべきではない」というハードボイルドな考え方にすべきですね。
超能力でも呪術でも黒魔術でも、勝つための手段として使えるのなら何でも使う!という悪魔的な執念を昔の武術家は持っていたと思います。
何故なら、その手の秘伝がテンコ盛りで伝えられているから・・・。
狐狸落とし、下馬落とし、心の一方、足留めの法、水鏡・・・いろいろあります。
居合術には、暗がりで床をチョンチョンと打って、敵にそこを斬りつけさせておいて騙し斬りにする技なんかありますが、命がかかった戦闘術なんだから、卑怯だの何だの寝ぼけたこと論じるのが間違いなんですよ。
何年も地道に修行しなければ使えないような武術では、現実に役立たないでしょう?
習ったら即、実用できる技。
学んだら即、役立つ知識。
これからの時代に本当に必要なのは、そういうものではないか?と思います。
脱力技法も、実は、学んだら即、使える技なのです。
使えないのは、「こんな簡単に使える筈がない」という学ぶ側の強固な思い込みが邪魔をしているだけです。
これまで二十年くらい、数多くの人達に指導してきて判明したのは、「何も習ったことのない人の方がすぐに覚える」ということでした。
どうしてか?
先入観が無いからでしょう。
できない人は、総じて武道経験者。それも熱心に長くやってきた人ほど、体得に物凄く苦労しています。
これは、筋肉に力み癖があるという以上に、「筋肉がパワーを生み出す」という強固な思い込みが邪魔をしているのです。もう、崇拝に近いですね~。何が何でも筋肉で考えないと気が済まないみたいだし、だからこそ、「脱力が大切だ」と言いながらも「鍛えなきゃいかん」と頑なに言い張る・・・。
伸筋やら深層筋肉だのの理論に飛びつくのも空手系の武道経験者が多い。
つまり、「自分の鍛えた筋肉が生み出す威力を捨てることができないから、脱力できない」のです・・・。
鍛えることに酔っているんですね。
頑張って苦しい修行をしている自分の姿にナルチシズムを感じている訳です。
ボディビルダーが鏡の前でポージングしてニカッと笑う・・・あの感覚です。
結局、脱力技法って、“我(自己満足)”を脱ぐことが肝心で、実は“心法”なんですね~。
PS;新作DVD・・・いろいろ考えましたが、やっぱり2万円にします。一般的な武道の世界で達人しかできないと言われる技を初心者が簡単に体得したらマズイでしょう?
多分、できると思うんですよ。何十年やってもできるかどうか判らない技を簡単にできるようになる・・・というのは、間接的にいろんな道場を潰すようなもんだしね~? マジで潰れる道場も出ちゃうだろうな~? 能書きばっかりで、いつまでも教えてくれないところとか・・・。
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