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六月セミナー“読み”感想

 六月の月例セミナーは“読み”がテーマでしたが、私が尊敬する賢友流宗家・友寄隆一郎先生が「武術は“読みと交叉”」と言われていたように、游心流を名乗る以前から研究の中心テーマでした。

 無論、毎年、読みをテーマにした回を設けていますから、毎年、同じことをやっていたら常連の受講生(セミナーの70%くらい)には新味が無くなってしまいます。

 なので、毎年、違った視点からの“読み”の技術をやるようにしているんですが、今回は特に実用的なやり方を指導しようと思っていました。

 その“実用的”というのが何か?と言いますと、「武道や格闘技を長年やっている人と戦う場合に、相手の技を未然に封じて自分が一方的に勝てる戦術としての目付け」ということです。

 具体的に言うと、“構え”から“戦闘スタイル”を洞察し、その“弱点”を先に攻めていく・・・ということです。

 これは、以前だったら“教えません”でした。

 どうしてか?というと、思いっきり“他流批判”になってしまう(嫌がらせのレベルが酷くなるよな~?)のと、こちらの手の内を明かしてしまうと“通じなくなる”危険性がある(これは武を志す者の心得ですな)からです。

 どっちにしても、我々、游心流にとっては利がありません。

 何しろ、武道の業界では「目立つ=目障り」という図式があって、陰口をたたいて貶めようとする人間がゴマンと居るからですが、“無責任な流言飛語”と“覚悟の上での批判”の区別のつかない武道家が多いのも困ったものです。

 そんな理由もあって、具体的な戦術に関しては公開しないようにしてきましたし、数年前までは会員にも教えていませんでしたね。

 申し訳ないけれども、会員であっても“教えて大丈夫な人間かどうか?”と、常に観察しながら教えてきてます。教えたら舞い上がって発狂しそうな人には教えなかったということです。

 だって、一般の武道武術では秘伝とか極意とされて何十万も払わないと教えられないような技を次々に教えている訳ですから、舞い上がっても仕方ありません。

 実際、舞い上がり過ぎて誇大妄想の域になった人間が何人も居るのですから・・・。

 ですから、本やDVDで公開している内容と、本部の稽古会で教えている内容には相当な差があります。初心者と中級者(他流を10年くらいやっているレベル)と上級者(他流の師範クラス)を同じ内容教える道理がないでしょう?

 セミナーにずっと来られていて初めて本部の稽古会に参加した方は、「こんなにレベルが違うんですか?」と驚かれていましたが、この方が洞察力があったからレベルの差が判ったという面もあります。

 USA支部長も初めて個人指導した時に、「長野先生はセミナーの時は思いっきり隠してたんですね~」と、うちの技があまりにも露骨な殺人技なので青ざめてしまっていました。彼なんかアメリカで長年、実戦的武道を修行していたので違いが解ったのですが。

 しかし、ここ最近は隠さないで、初心者であっても説明はするようにしています。

 弱点に気づかないまま“強い弱い”を論じている人があまりにも多過ぎるからです。

 伝統空手の弱点・フルコンタクト空手の弱点・ボクシングの弱点・キックボクシングの弱点・柔道の弱点・総合格闘技の弱点・剣道の弱点・・・これらの弱点について実践している人達はまるっきり自覚していない場合が圧倒的に多いのです。

 どうして気づかないのか?

 同じ闘い方で試合や組手をし続けていることに原因がありますね。つまり、戦い方、実戦という概念に対して指導者レベルでさえ競技スポーツ的なイメージしか持ってないからです。

 武術の技はいくらスパーリングやっても体得はできません。何故なら、武術の勝負は技の応酬をしない(できない)からです。相手の技を受けて攻撃、受けて攻撃・・・というパターンを覚えてしまうと墓穴を掘るのです。

 嘘だと思うなら、ナイフを握り込むかナックルダスターを嵌めて防具無しでスパーリングやってみたら判るでしょう。

「なんて無茶苦茶なことを言うヤツだ! 頭がおかしいんじゃないか?」と言うような者は武術をやってはいけません。一生、スポーツ競技を楽しんでいればいい。そして、競技の枠組みの中だけでの強さを追求すればいいでしょう。

 ただし、“実戦”だのと決して口にしてはいけない!

 いつも言っていることですが、「武術は生命の危険が迫った時に駆使するサバイバル戦闘術」なのであって、“安全性を確保してくれる相手とのお遊戯”ではないのです。

 ここ最近の殺人事件などを見ても、殺意がある人間がナイフや包丁などで武装するのは当たり前のことであり、そのような凶器を持つ相手を想定した練習でなければ護身の役に立たないのは小学生でも判ることです。

 これは銃が簡単に入手できる海外では、もっと厳しい話であり、素手の格闘技術を実戦的だと信じるような阿呆はおりますまい。

 私は海外旅行する会員には、射撃体験してくることを勧めていますが、銃の撃ち方さえ知らなければ銃に対処することは不可能だと考えるからです。世界一、安全な日本を基準にして考えてはいけません。

 話を戻します。

 致命傷を与えられる攻撃を素手で受ける方法はありませんね? とにかく攻撃を“受けない”のが大前提であり、次には相手に攻撃を“出させない”のが肝心になります。

・・・とすれば、通常のスパーリングの練習は真逆の作用しかもたらさない訳です。

 私が発勁の修得を必須にしたのも、“素手で一発で相手を戦闘不能にするには、発勁を自在に打てるようになるしかない”と考えたからですし、それを確実に命中させるには相打ちを覚悟するしかなく、その“相打ちの理合”を洗練させるのに読みと交叉法が必要だったという次第です。

 素手の状態でも武装している襲撃者を一発で倒せないと武術とは言えませんからね。

 格闘技の試合のように互いにボコボコ殴る蹴るしていたら、相手が複数いたり武器を持っていたりしたら、まず、助かりません。

 一瞬で倒せないと墓穴を掘ります。

 その体得の練習法を試行錯誤している中で、フリー・スパーリングには、利はあっても害の方が大きいという結論に達したので、うちではやらなかった訳です。

 また、発勁が自在に打てるようになってしまうとスパーリングでウッカリ練習相手に致命傷を与えてしまいかねないので、益々、できなくなった・・・という訳です。防具の上からでも威力が浸透してしまうから余計に危ないんです。

 ある会派の空手の人に寸勁教えたら、相手のスーパーセーフが割れて首を痛めてしまったとの手紙をもらって、「危険だから使わないでください」と返事したくらいです。

 何しろ、キックミットの上から軽く打っても鞭打ち症になったりヘンな後遺症が出てしまうのですから、防具無しで直にまともに打ち込んだら、恐らく命にかかわると思います。
 そのくらい、私は発勁の威力に関しては絶対の自信があるんですが、殺人犯になりたくないので百パーセントで人を打つなんて、怖くてできません。寸止めにするしか仕方がないし、寸止めにするには約束組手でスピードも加減してやるしか方法がありません。

 松田隆智先生が発表してきたことは本当だったんですよ・・・。

「スパーリングをやっているから実戦的で強くなれる」という考えは本来の武術の技を知らないか、体得していない人間の勘違いです。こんな勘違いをしている人間は本当の実戦に遭遇したら真っ先に殺されてしまいますよ・・・。

 武術の技の修練は、理論を理解した者同士で地道に型稽古で段階的に練習するしか体得の道筋は無い・・・と、私は思います。

 それは読みと交叉法を駆使して戦えるようになるために絶対に必要なことです。その上に歩法を駆使できないとダメだし、武器も何でも使えるようにならないと武術とは言えません!

 本当に私は日本の武道愛好家と話していて物悲しくなるのは、実に多くの人が真の意味での“実戦感覚”が皆無であるということです。

 武道やっている人間が一番、平和ボケしているんですよ! 情けなさ過ぎる!

 空手の突き蹴りを本気で無防備な素人に繰り出したら簡単に殺せるでしょう?

 コンクリートの上で背負い投げや四方投げで相手を頭から落としたら一発で死ぬでしょう?

 木刀で素面の相手を打ちまくれば致命傷になるでしょう?

 よくよく考えてください。

 武道の技とは本来、効率よく人体を破壊するために考案されているのです!

 だからこそ、「殺す技を修練している」という厳しい自覚の下で安全に稽古相手を思いやって練習に取り組む・・・。そこに自然に礼節という観念が自然成長し、生命観に基づく哲学的倫理観が自ずから形成するのです。過去の偉人の言葉に頼る必要はありません。

 危険な技を省いてルールを細かくした試合競技を導入することで、最も大切なものを失ってしまっている・・・それが現在の日本の武道の現状でしょう。

 柔道界の問題も、今後は剣道や空手道にも起こるでしょう。武術を単なる体育だと勘違いし、“心・技・体”に絞って“知”を忘れているから、馬鹿が大手を振って跋扈するレベルの低い世界になってしまったのです。

 中途半端な実戦思考などというものが入り込む余地は本来なかったのです。武が生きるか死ぬかを前提として稽古されていた時代には・・・。

 伝統的な武術が、何故、型稽古中心になっていったのか?

 それは、殺す技を修練する以上、安全対策としてそうせざるを得なかったからです。

 技を競い合うのが目的であれば、読みや交叉法は必ずしも必要ではありません。

 実際に現代武道や格闘技に読みや交叉法を駆使する人は皆無と言ってもよいでしょう。

 個人の勘のレベルで駆使している人はいても自覚的な戦術として使っている人は、恐らく、片手の指にも足りないでしょう。

 戦術は目に見えないので審判にも判断できません。従って、試合でやっても不可解な勝ち方だな?くらいにしか受け止められないでしょう。

 また、試合で使ってもルール上、有効にならない可能性もあります。

 私が読みと交叉法について知ってから実用化するまで20年近くかかっているのも、具体的な戦闘理論にするのに試行錯誤を繰り返してきたからですし、最初に習ったのは目付けだけでしたが、現在では目付けは必要なくなってしまっています。

 目付けも固定して考えているとダメで、どんどん発展させていき、結果的には目で見なくとも雰囲気で察知できるようになっていくのです。

 今回は目付けに関しても具体的な実用レベルのものを解説実演しましたが、それ以上に、“聴勁”について力を入れました。

 どうしてか?というと、推手の練習をしている時に眼を瞑ってやらせたりしているんですが、これは、触れ合った手首から“相手の全体”を捕まえるイメージで、空いている手や足で攻撃してきても察知して対応できることを前提にしている訳ですが、うちの指導者でも理解していなかった事実が判明したので、やらせたのです。

 眼を瞑っているということは目付けは一切、使えないですね? 自然、触れている一点から全ての情報を読むしかない訳です。

 すると、触れている箇所の筋肉の接点圧力の変化を感じ取る感覚が最大限に働き、神経伝達の電気信号すら察知できる・・・というような鋭敏さに深まっていく・・・それがさらに相手の脳波の動きを察知するという新体道的心法の領域へと進んでいく訳です。

 本来の推手の練習の目的とするところはそこまで進むことにある訳ですが、ルーチンワークとして、ただ毎回、漫然とやっていても形式としての推手練習に終始してしまって内容が深まらない訳です。

 うちの指導者であっても意味を理解しないまま形式で教えてしまっていた訳で、これはマズイな~と思いましたね。

 指摘しても「そんなの無理ですよ~」と言うので、それならやってみせないとダメだな~と思った次第。

 修行というのは、「無理だ」と思えることを当たり前にできるようにするのが基本ですからね。人と同じことやっていても差はつきません。

 人のできないことをできるから確実に勝てる訳で、それが“術”なんですね。

 潜在能力を引き出していくのが武術の稽古の本質なのだと理解してもらいたいですね。


PS;今月の割引セールの『カリ&シラット』と『発勁と化勁』ですが、カリ・シラットに欠けている部分を補う組み合わせにしてみました。また、『戦闘理論』と『上級編』は販売を終了しましたので御了承ください。お買い上げ戴いた皆様、有り難うございました。
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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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