詠春拳セミナー感想
当会山田師範代による詠春拳セミナーも、第二回となりました。
武術に限らず、習い事できちんと実力をつけようと思えば、定期的に練習を積み重ねるのは当たり前のことであり、よく勘違いする人がいるんですが、一を観て十も二十も技を応用させて上達するタイプの人間を天才的才能の持ち主だと考えがちなんですね。
でも、一を観ただけで、その何倍も何十倍も応用発展させられる人間というのは、全身全霊を常人の何倍も何十倍も集中させられる人間なんですよ。
つまり、努力の密度が圧倒的に違う。
私は以前、通っていた道場では「真剣に練習しないからあいつはダメだ」と言われていたそうなんですが、見取り稽古した分を帰ってから分析しまくって、その先生の技もちゃんとできるようになっただけでなく人に教えて体得させてきました。
これを才能だと言われるなら違うんですよ。身体だけじゃなくて頭を使って練習しているからです。
その先生の技は二十年以上、真剣に学んでいる弟子ですら体得できていなかったと聞いてます。これは教える側の責任なのか学ぶ側の責任なのか? 多分、両方でしょう。
「ただ、真剣に繰り返し練習していて、突然、できるようになった」と先生は言われていましたが、これは主観的な感想であり、実際は違います。練習のやり方に秘密があったのに私は気づいたから、練習法は私が独自に考えたのです。
でも、直に学んでいる人は先生を尊敬しているから言われた通りにやろうとする。だから、秘密に延々と気づかなかった・・・というのが真相なのでしょう。
できる人とできない人のどこに差があるのか? ちゃんと理由があるんです!
量さえ重ねればよいとする考えは完全に間違いです。無駄に量を重ねても意味はありません。
その証拠に、ぼけ~っと道場に何年も通い続けて、な~んにも体得していない・・・という人間もざらにいますが、それはもうルーチンワークで作業しているだけなんですね。
無駄に時間を浪費しているだけ。やる気がないならやめた方がいいんです。
時間は誰にでも平等に与えられていますが、それを無駄に費やす人と有効に活用する人では大きな差ができていきます。
武術は型稽古が中心ですが、ただ型を繰り返すだけではそれを使って戦えるようにはなりません。
延々と繰り返していれば、いつか量質転化で遣い手になれると信じている人もいますが、それは大間違いです。
私は、そうなった人をいまだかつて、ただの一人も見たことがありません。
何故ならば、武術は戦う相手がいるからです。
その意味で戦いに慣れるために自由組手やスパーリング、乱取りをやるのも無駄ではありません。少なくとも慣れによってある程度は戦えるようになります。
しかし、やはり、ある程度までしか戦えるようにはなれません。
どうしてか?というと、それは一定の戦い方のパターン通りに動くことを身体に刻む練習であって、実は“応用性”がまったく育たないからです。
応用性が無いということは、同じ戦い方しかできないということであり、それでは、その戦い方の枠組みの中での絶対的な強い弱いという差ができるだけです。
同じ戦い方では、自分より強い人には延々と勝てないでしょう。違う戦い方をしたら勝てるかもしれないのに、その人の可能性をその時点で閉ざしてしまっている訳です。
人それぞれ向き不向きというものがありますからね。
これは教育にも通じる話ですよ。
戦う相手が愚鈍な戦闘力の無い相手なら簡単に勝てるかもしれませんが、戦闘のプロフェッショナルだったら、こちらがそれ以上の戦闘技能を体得していなければ勝てません。それは戦術も含めての話です。
最近、『秘伝』で連載している平さんの記事を読んでいると、その点に気づかれたようです。プロ格闘技の最前線で闘ってきた平さんだからこそ、その決定的な違いに気づかれたのかもしれません。並みの格闘家だ一定の枠組みでの強い弱いしか考えられずに気づかないかもしれませんから・・・どうも、平さんも最初はそうだった様子ですし・・・。
ですから、昔の武術家はありとあらゆる戦闘法を研究していました。昭和の時代の達人と呼ばれた先生方も、一つの流派だけに専念した人は少ないくらいでしょう。
空手・合気・居合・剣道・琉球古武術・中国拳法・・・いろいろ学んでいくのは武の探究の過程での必然だったのです。
古流剣術の世界でも有名な人物は複数の流派を学んでいたりするのが当たり前でした。
それは、いろんな戦い方を知らなければ対処法が判らないからなんですよ。
私が現代武道や格闘技の実力者を相手にしても勝つ自信があるのは、それらの戦法を調べ尽くして弱点を徹底的に研究しているからであり、強いか弱いかの観点では考えていないからです。
最初っから相手の弱点だけを徹底的に攻めれば、相手は自分の実力を発揮できないでしょう? 勝つのが当たり前じゃないですか?
ゴジラだってオキシジェンデストロイヤーであっさり死んだでしょ? どんな遣い手でも人間である以上、弱点だらけなんですから、手段が限定されなきゃ倒すのは簡単です。
それを卑怯だの何だの言うのは馬鹿者なんですよ。狭っ苦しい俺様理論の枠組みで強いの弱いの論じてるような馬鹿は、そもそも世の中に通用しませんよ・・・。
武道の世界は、いつから、こんな馬鹿ばっかりのさばってしまったのでしょう? こんなことでは、「武道なんかやったら頭が悪くなるから、おやめなさい」と、親が注意しなくちゃならなくなるでしょう。
綺麗事ばっかり飾りたてて中身を真剣に追究しないから、馬鹿を量産してしまう。
そもそも武術は現代の武道とは前提が違うのです。
現代の武道は、明確に“競技スポーツ”か、あるいは“社会体育”として位置付けられており、そこに殺敵護身の概念は失われています。
どうしてこうなったか解りますか? 西洋の近代的合理精神に隷従してそうなったんですよ。明治維新によって武士がいなくなり、敗戦によって決定的にそうなったんです。
「武術は命を護るために生命を脅かす暴力をふるう外敵を殺傷して退ける戦闘術である」と言えば、「うわ~、なんて時代錯誤のおぞましい考え方をする人間なんだ? こいつは反社会的な危険な思想の持ち主だ!」と決めつけられかねません。
ですが、思想も糞もないんですよ。実際に本来の武術を学んでみれば、私と同様の考え方しか出てきません。いちいち殺傷する技ですから・・・。
武術をやっていながら綺麗なことしか言わない人間は、単なる嘘つきか勘違いしているだけなんですよ。
思想でも美意識でもなく、武術とはゴリゴリのリアリズムでしかないのです。
思想があるとすれば“性悪説”ですかね?
「生き残るためには何でもやる!」という源初生命体の生存への意志を謳っているだけの話なのです。
生き残るためだから、そりゃあもう、綺麗事とは程遠いダーティー・テクニックのオンパレードです。
イメージできなければ、現代武道で禁じ手にされている技ばかり集めて編成されていると想像してください。
中国武術なんか元々は禁じ手ばっかりなんですよ。
危険過ぎるから体操的な表演武術へと変えて制度的に普及したんですね。
ところが、詠春拳は香港を中心に普及したので、本来の剥き出しの戦闘技能を色濃く残していたんですね。
日本では実戦的な中国武術と言えば、意拳ばかりが注目されていますが、意拳は多分にボクシングなどの影響を受けて本来の中国武術とは変質しており、武術としては殺敵の手法がぼやけてしまっています。
なので、実戦的と言えば世界的には圧倒的に詠春拳ですよ。
そんな詠春拳も套路だけ学んでも、いくら練習しても使えるようにはなれません。
じゃあ、どうすればいいのか?
遣い方を知っている人に学ぶしかありません。
私、実は詠春拳の套路は過去に学んだことがあります。小念頭・尋橋・標指の三大套路も一通りは練習しました。
しかし、套路を覚えられませんでしたね。
何故なら、遣い方が解らなかったから、意欲が持続できなかったんですよ。
私は遣い方が解らない型を延々と練習できる人達の気持ちが解りません。太極拳を喜々としてやるお年寄りの気持ちが解りません。武術として使えない練習はやる気がしない。
動きの意味が納得できないと練習する気持ちになれないんですよ。
だから、30前後の頃は完全に型から離れて格闘技の練習したこともありました。
しかし、交叉法を知ることで型の秘密が解けていったんですね。
そうすると型というものが、いかに有り難い稽古システムを内蔵していたか?という事実に気づいて研究し直した訳です。
そこで改めて詠春拳を見直すと、何故、世界中で実戦拳法として人気があるのかが解ります。合理性の極みなんですよ。
ドニー・イェンの『イップマン』で詠春拳に注目した空手マンが多いと聞きますが、至近距離からマシンガンをブッぱなすような容赦の無さに、剥き出しの武術性が感じられ、綺麗事じゃない清々しいまでの破壊的“一途さ”に機能美を感じます。
見せ技が無く、効率的に素早く敵を倒す・・・という一点で考案されている点に嘘臭さがない・・・そこが人気の秘密なんでしょう。
今回は山田師範代が詠春拳らしい連撃のやり方も指導してくれたので、より密度の濃いセミナーになりました。
それから、ベリーダンスを応用した武術・・・これは凄いことになりそうですよ。リナ先生の腕回しの様子は、まるで柳生心眼流の“素振り”みたい・・・いや、それ以上ですね~。意拳の打拳にも応用が効きそうですね~。
私が個人的に様々な踊りを研究してきた中でも、ベリーダンスは使える!と思っていましたが、やはり、想像以上に身体技能を高める効果があることを確認しましたよ。
これも本で紹介したいですね~・・・。
えっと、それから12月8日の月例セミナーは年末恒例の忘年会兼ですので、特別に神業の秘密を公開しま~す。
最近、優秀な人材が入会されてきていますから、もう武術を誤解させるような神業パフォーマンスの撲滅を目指しますよ。使いものにならないような見世物芸ばかり練習したって護身の役には立ちません。むしろ、勘違いさせるだけで害があるでしょうね?
そんな訳ですから、初めての御参加もお待ちしております。
PS;山田師範代とリナ先生が地元(埼玉県幸手市)の読売新聞のタウン情報紙で紹介されました! 素晴らしい! 最近、優れた人とばっかり縁ができて有り難いですね~。うちの会員からも将来、歴史に残るような偉業を達成する人が出て欲しいです・・・いや、出します!
PS2;来年の月例セミナーの予約一括申し込みの期限も迫っておりますのでお早くどうぞ。
武術に限らず、習い事できちんと実力をつけようと思えば、定期的に練習を積み重ねるのは当たり前のことであり、よく勘違いする人がいるんですが、一を観て十も二十も技を応用させて上達するタイプの人間を天才的才能の持ち主だと考えがちなんですね。
でも、一を観ただけで、その何倍も何十倍も応用発展させられる人間というのは、全身全霊を常人の何倍も何十倍も集中させられる人間なんですよ。
つまり、努力の密度が圧倒的に違う。
私は以前、通っていた道場では「真剣に練習しないからあいつはダメだ」と言われていたそうなんですが、見取り稽古した分を帰ってから分析しまくって、その先生の技もちゃんとできるようになっただけでなく人に教えて体得させてきました。
これを才能だと言われるなら違うんですよ。身体だけじゃなくて頭を使って練習しているからです。
その先生の技は二十年以上、真剣に学んでいる弟子ですら体得できていなかったと聞いてます。これは教える側の責任なのか学ぶ側の責任なのか? 多分、両方でしょう。
「ただ、真剣に繰り返し練習していて、突然、できるようになった」と先生は言われていましたが、これは主観的な感想であり、実際は違います。練習のやり方に秘密があったのに私は気づいたから、練習法は私が独自に考えたのです。
でも、直に学んでいる人は先生を尊敬しているから言われた通りにやろうとする。だから、秘密に延々と気づかなかった・・・というのが真相なのでしょう。
できる人とできない人のどこに差があるのか? ちゃんと理由があるんです!
量さえ重ねればよいとする考えは完全に間違いです。無駄に量を重ねても意味はありません。
その証拠に、ぼけ~っと道場に何年も通い続けて、な~んにも体得していない・・・という人間もざらにいますが、それはもうルーチンワークで作業しているだけなんですね。
無駄に時間を浪費しているだけ。やる気がないならやめた方がいいんです。
時間は誰にでも平等に与えられていますが、それを無駄に費やす人と有効に活用する人では大きな差ができていきます。
武術は型稽古が中心ですが、ただ型を繰り返すだけではそれを使って戦えるようにはなりません。
延々と繰り返していれば、いつか量質転化で遣い手になれると信じている人もいますが、それは大間違いです。
私は、そうなった人をいまだかつて、ただの一人も見たことがありません。
何故ならば、武術は戦う相手がいるからです。
その意味で戦いに慣れるために自由組手やスパーリング、乱取りをやるのも無駄ではありません。少なくとも慣れによってある程度は戦えるようになります。
しかし、やはり、ある程度までしか戦えるようにはなれません。
どうしてか?というと、それは一定の戦い方のパターン通りに動くことを身体に刻む練習であって、実は“応用性”がまったく育たないからです。
応用性が無いということは、同じ戦い方しかできないということであり、それでは、その戦い方の枠組みの中での絶対的な強い弱いという差ができるだけです。
同じ戦い方では、自分より強い人には延々と勝てないでしょう。違う戦い方をしたら勝てるかもしれないのに、その人の可能性をその時点で閉ざしてしまっている訳です。
人それぞれ向き不向きというものがありますからね。
これは教育にも通じる話ですよ。
戦う相手が愚鈍な戦闘力の無い相手なら簡単に勝てるかもしれませんが、戦闘のプロフェッショナルだったら、こちらがそれ以上の戦闘技能を体得していなければ勝てません。それは戦術も含めての話です。
最近、『秘伝』で連載している平さんの記事を読んでいると、その点に気づかれたようです。プロ格闘技の最前線で闘ってきた平さんだからこそ、その決定的な違いに気づかれたのかもしれません。並みの格闘家だ一定の枠組みでの強い弱いしか考えられずに気づかないかもしれませんから・・・どうも、平さんも最初はそうだった様子ですし・・・。
ですから、昔の武術家はありとあらゆる戦闘法を研究していました。昭和の時代の達人と呼ばれた先生方も、一つの流派だけに専念した人は少ないくらいでしょう。
空手・合気・居合・剣道・琉球古武術・中国拳法・・・いろいろ学んでいくのは武の探究の過程での必然だったのです。
古流剣術の世界でも有名な人物は複数の流派を学んでいたりするのが当たり前でした。
それは、いろんな戦い方を知らなければ対処法が判らないからなんですよ。
私が現代武道や格闘技の実力者を相手にしても勝つ自信があるのは、それらの戦法を調べ尽くして弱点を徹底的に研究しているからであり、強いか弱いかの観点では考えていないからです。
最初っから相手の弱点だけを徹底的に攻めれば、相手は自分の実力を発揮できないでしょう? 勝つのが当たり前じゃないですか?
ゴジラだってオキシジェンデストロイヤーであっさり死んだでしょ? どんな遣い手でも人間である以上、弱点だらけなんですから、手段が限定されなきゃ倒すのは簡単です。
それを卑怯だの何だの言うのは馬鹿者なんですよ。狭っ苦しい俺様理論の枠組みで強いの弱いの論じてるような馬鹿は、そもそも世の中に通用しませんよ・・・。
武道の世界は、いつから、こんな馬鹿ばっかりのさばってしまったのでしょう? こんなことでは、「武道なんかやったら頭が悪くなるから、おやめなさい」と、親が注意しなくちゃならなくなるでしょう。
綺麗事ばっかり飾りたてて中身を真剣に追究しないから、馬鹿を量産してしまう。
そもそも武術は現代の武道とは前提が違うのです。
現代の武道は、明確に“競技スポーツ”か、あるいは“社会体育”として位置付けられており、そこに殺敵護身の概念は失われています。
どうしてこうなったか解りますか? 西洋の近代的合理精神に隷従してそうなったんですよ。明治維新によって武士がいなくなり、敗戦によって決定的にそうなったんです。
「武術は命を護るために生命を脅かす暴力をふるう外敵を殺傷して退ける戦闘術である」と言えば、「うわ~、なんて時代錯誤のおぞましい考え方をする人間なんだ? こいつは反社会的な危険な思想の持ち主だ!」と決めつけられかねません。
ですが、思想も糞もないんですよ。実際に本来の武術を学んでみれば、私と同様の考え方しか出てきません。いちいち殺傷する技ですから・・・。
武術をやっていながら綺麗なことしか言わない人間は、単なる嘘つきか勘違いしているだけなんですよ。
思想でも美意識でもなく、武術とはゴリゴリのリアリズムでしかないのです。
思想があるとすれば“性悪説”ですかね?
「生き残るためには何でもやる!」という源初生命体の生存への意志を謳っているだけの話なのです。
生き残るためだから、そりゃあもう、綺麗事とは程遠いダーティー・テクニックのオンパレードです。
イメージできなければ、現代武道で禁じ手にされている技ばかり集めて編成されていると想像してください。
中国武術なんか元々は禁じ手ばっかりなんですよ。
危険過ぎるから体操的な表演武術へと変えて制度的に普及したんですね。
ところが、詠春拳は香港を中心に普及したので、本来の剥き出しの戦闘技能を色濃く残していたんですね。
日本では実戦的な中国武術と言えば、意拳ばかりが注目されていますが、意拳は多分にボクシングなどの影響を受けて本来の中国武術とは変質しており、武術としては殺敵の手法がぼやけてしまっています。
なので、実戦的と言えば世界的には圧倒的に詠春拳ですよ。
そんな詠春拳も套路だけ学んでも、いくら練習しても使えるようにはなれません。
じゃあ、どうすればいいのか?
遣い方を知っている人に学ぶしかありません。
私、実は詠春拳の套路は過去に学んだことがあります。小念頭・尋橋・標指の三大套路も一通りは練習しました。
しかし、套路を覚えられませんでしたね。
何故なら、遣い方が解らなかったから、意欲が持続できなかったんですよ。
私は遣い方が解らない型を延々と練習できる人達の気持ちが解りません。太極拳を喜々としてやるお年寄りの気持ちが解りません。武術として使えない練習はやる気がしない。
動きの意味が納得できないと練習する気持ちになれないんですよ。
だから、30前後の頃は完全に型から離れて格闘技の練習したこともありました。
しかし、交叉法を知ることで型の秘密が解けていったんですね。
そうすると型というものが、いかに有り難い稽古システムを内蔵していたか?という事実に気づいて研究し直した訳です。
そこで改めて詠春拳を見直すと、何故、世界中で実戦拳法として人気があるのかが解ります。合理性の極みなんですよ。
ドニー・イェンの『イップマン』で詠春拳に注目した空手マンが多いと聞きますが、至近距離からマシンガンをブッぱなすような容赦の無さに、剥き出しの武術性が感じられ、綺麗事じゃない清々しいまでの破壊的“一途さ”に機能美を感じます。
見せ技が無く、効率的に素早く敵を倒す・・・という一点で考案されている点に嘘臭さがない・・・そこが人気の秘密なんでしょう。
今回は山田師範代が詠春拳らしい連撃のやり方も指導してくれたので、より密度の濃いセミナーになりました。
それから、ベリーダンスを応用した武術・・・これは凄いことになりそうですよ。リナ先生の腕回しの様子は、まるで柳生心眼流の“素振り”みたい・・・いや、それ以上ですね~。意拳の打拳にも応用が効きそうですね~。
私が個人的に様々な踊りを研究してきた中でも、ベリーダンスは使える!と思っていましたが、やはり、想像以上に身体技能を高める効果があることを確認しましたよ。
これも本で紹介したいですね~・・・。
えっと、それから12月8日の月例セミナーは年末恒例の忘年会兼ですので、特別に神業の秘密を公開しま~す。
最近、優秀な人材が入会されてきていますから、もう武術を誤解させるような神業パフォーマンスの撲滅を目指しますよ。使いものにならないような見世物芸ばかり練習したって護身の役には立ちません。むしろ、勘違いさせるだけで害があるでしょうね?
そんな訳ですから、初めての御参加もお待ちしております。
PS;山田師範代とリナ先生が地元(埼玉県幸手市)の読売新聞のタウン情報紙で紹介されました! 素晴らしい! 最近、優れた人とばっかり縁ができて有り難いですね~。うちの会員からも将来、歴史に残るような偉業を達成する人が出て欲しいです・・・いや、出します!
PS2;来年の月例セミナーの予約一括申し込みの期限も迫っておりますのでお早くどうぞ。
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