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三月セミナー感想

 三月の月例セミナーは、下丹田(骨盤)から動くことの効用について指導しました。

 主に推手をやりましたが、この練習法は骨盤から動くことと、相手の押してくるテンションを感じながら、受け流していき逆に押し返す・・・という動きであり、予告していた“相手の動きに応じる”というものの典型です。

 もっとも、手順を説明するだけで手一杯になってしまって、具体的に相手の押してくるテンションを察知して動く・・・というところまでは教え切れず、これは次回以降に持ち越しするつもりです。

 これも毎年、やっていることなので、もう、あんまり細かく説明する気が起きなくて、どんどん実技練習で流していったんですが、丹田をダイレクトに開発する方法として、丹田歩法とは別に、振り棒の練習法については若干の説明をしました。

 これは3.5kgくらいの1mの六角断面の鉄棒なんですが、剣道のようなつもりで振れば、簡単に腕の筋断裂を起こしてしまいそうな重さです。

 まあ、ウエイトトレーニングやっている人だと振れることは振れるでしょうが、腕の筋肉で振り回してしまうと刃筋を立てる刀法は逆にできなくなってしまいがちです。

 新陰流や二天一流ではごく軽く薄い木剣を使いますが、これは刃筋を立てて刀の軌道を精密に描くように振るための工夫なんですね。

 昔、今の刀禅を教えていらっしゃる小用茂夫先生に、薄い竹の物差しを代用してゆっくりゆっくりと振るといいと教わって練習したことがあります。

 確かに軽いものを正確に振る方がずっと難しいのです。

 振り棒自体は、実は中学生の頃から練習していたんですね。戸山流の中村泰三郎先生の本で紹介されていたので、太い樹の枝を削り出した自作のものを一日千本振って練習していたんです。

 重さは測っていませんが、普通の木刀の2本分以上はあったと思います。

 なので、私は体格に比べて手首は細いのに前腕だけやたら太くなったんですよ。

 けれども、重いものを腕だけで振れば無理があることは自明で、後々になって、太い木刀を使う流派が、何のためにやっていたのか?と研究するようになると、肚と腰の鍛練、つまり、骨盤周りの鍛練だということが解ってきた訳です。

 肥田式強健術の腰腹練修法は鉄棒を使いますが、これも腹圧を掛けるための補助であって、重さに意味があるものではないでしょう。

 こういうことは形式的に単純に練習していても解りません。

 探求心を持って取り組まないと何の発見にも繋がらないでしょう。

 うちは研究会なので、教えた内容を単純に知識として積み重ねてもあまり意味がありません。

 普通は知識を積み重ねて練習の量をこなすだけなので、そういうやり方に慣れている人にとっては面食らってしまうかもしれませんが、理合を掴もうと考えている人にはいろいろヒントにしてもらえる筈?です。

 その証拠に、ちょっとヒントを教えただけで格段に伸びる人もいます。

 そういう意味では、何の経験もない人の方が飲み込みが早く、既存のやり方や常識に染まっている人ほど鈍いという現象が起こります。

 ただし、今回は小説講座の仲間の女性が参加されたんですが、日頃から身体を動かす習慣がまったく無かったらしいので、かなり疲れた顔をされていました。

 初めての人だと大体、疲労されます。

 それは、内容がハードだからではなく、慣れていない動きなので無意識に力んでしまうのが主な原因なのですが、気後れして身体が萎縮していた様子もありましたね?

 これは、何をどう学ぶ場合でもしょうがないと思います。最初からリラックスできる人は稀ですし、できたから良いというものでもありません。

 新しいことに取り組む時は、最初にうまくできないことをきちんと自覚しておいた方が後々、プラスになるのです。

 マズイのは、できていない自分を認識できないまま、既存の概念で分析して理解したつもりになってしまうことです。

 このパターンが一番、マズイです。

 こういう人はいつまでも上達できませんし、せっかく学んだことからも得られるものが無い(理解力が無い)からです。

 もっとも、会員でない限りは、私はそれを敢えて自覚させようとは思いません。

 経験上、いくら注意しても聞く耳のないような人は反感を持ったり逆恨みしたりするものなのは、これまで何度も何度も繰り返し見てきたからです。

 なので、聞く耳のない人は、「勝手に解ったつもりでいて頂戴」という放置プレイにするのが最近の対応です。

 冷たいと思われるでしょうが、本気で私に学びたい人達にエネルギーを集中したいので、興味本位なだけの人は金銭に見合ったレベルまで指導すれば、それだけで充分だと考えているからです。

 慈善事業でやっているのではなく、私が武術を指導するのは生活費を賄うためですから、そこはシビアに考えなくてはやっていけなくなります。

 では、金銭に余裕ができて趣味的に教えられるようになったら方針を変えるのか?と問われたら、さて、どうでしょうか? そうなってみないと何とも言えませんね。

 ただ、つくづく思うのは、現代で“武術”という文化は絶滅危惧対象であるということです。

 これは、セミナー後に参加者とも論議したことですが、民間に細々と伝わっている伝統療術も、国の法律が定めている範囲は極めて狭く、例えば、“ほねつぎ”の技術に関しても、天神真楊流に伝わる技術の全部ではなく、当然ながら様々な流派に伝わる医術の総和からすれば一部分という言葉を使うのさえ、ためらわれる程、部分的です。

 活法、調息(呼吸)法、筋整法、按腹、観念法、最近流行の腱引き法、薬法、金創法といったものは、法的に認められていないので、ほとんど伝わっていません。

 故・中山清先生はそれを憂いて武道医学を立ち上げた訳ですが、同様のことは例えば日本の和鍼にもあります(和鍼は中国鍼と原理が違うので、学んでも免許が得られず伝承内容が先細りしていく一方で、もはや完全に指導できる人は皆無に近い)し、関係者が必死の努力をして残そうとしても難しいものです。

 うちの会には柔整・鍼灸・身体均整・カイロ・・・と、大抵の手技療法のプロが居ますが、当然ながら腕前は千差万別で、「プロだから実力者という訳でもない」と聞きます。

 当然でしょう。武道や格闘技の師範でも実力や見識は大きな差があります。有名だからとか段位が高いからとか、私は一切、信用しません。

 ただ、実力のある人は、「断定的なもの言いをしない(見識が深い)」「流派や団体ではなく個人を評価する(あくまでも個人の力量の問題なのを理解している)」「自分からアピールしない(自信があるので他者の評価を求めない)」という点が共通しているので、話していれば、だいたい予測がつきます。

 私は、「法律で認められるかどうか?」という考え方はしません。

 法律は、所詮、その分野について何の理解も無い部外者が一般論という名の主観で決めてしまうのですから、いかがなものか?と思う場合がほとんどです。

 例えば、カイロプラクティックが日本で様々な問題になっているのも、医療行為として法的に認められていないからであると言われますが、多少、学んだ者として言わせてもらえば、インチキビジネスでやっている連中を全体と考えて、手技療法の一つとして立派な治療効果を挙げられる人達をも、いっしょくたに否定してしまうのは、あまりにも横暴過ぎるだろうと思います。

「カイロプラクターは、アメリカではドクターとして認められていませんよ」とのことでしたが、そんな公式に認められるかどうか?を、唯一の価値基準とするのは短絡的過ぎると思います。

 現に整形外科に通っても治らなかった腰痛が治って、感激してカイロプラクターになった主婦・・・とか、そういう人も少なくないんですから、現実に治るかどうか?という価値判断の方が確かでしょう?

 似た論理には、一部の中国武術家が性格が悪くて弱いのを例に挙げて、「だから、中国武術なんかダメだ」と言うに等しい。

 確かに、フルコン空手やっている人達の間では、このような短絡的な決めつけを平気で口にする人も多いですし、「長野さんは何で、中国武術みたいな怪しいのをやっているんですか?」と面と向かって聞いてきた人もいましたよ。

 何人も居ました。こういう人。「うるせーな、この野郎。疑問があるなら、やってやるから、掛かって来い!」って言ったら、逃げる・・・というのが、毎度のパターンですが、自分が挑発的なもの言いをしておきながら、相手が本気で怒ったら、逃げる・・・というのは、何なんでしょうかね? 強いの弱いの言う以前に、礼儀も何も解ってない! 「俺は強い」と威張りたいのかね?

 私は『空手バカ一代』の功罪の一つなんじゃないか?と思いますね。

 人が真剣に大切に懸命にやっている事柄を、他人が上から目線であ~だこ~だと批評するのであれば、相応のハラを括って言うのが礼儀でしょう。

 確かに、言いたくなる気持ちは解りますよ。インチキ詐欺師みたいな連中が跋扈している業界なんか綺麗さっぱり無くなってしまった方が世の中の為になるんじゃないか?とか思わないでもありません。

 でも、それは自分の見知った範囲でのことであり、主観を絶対視しちゃ~いかんですよね?

 もっともっと幅広く、客観的に、様々な社会的関わりや存在価値を考えて、大局的に判断していかなくてはいかんでしょう?

 私は研究家なんで、この点は注意しても、し過ぎることはないと思っています。情報を発信する側の人間なので、責任重大ですからね。

 これも、よく言われることですが、「現代医学に文句がなるなら医者の資格を取ればいい」という人もいます。が、現代医学と伝統療術では理論的にまったく別物であり、施術者として活動できる人は極端に制限されてしまう。

 特に気を観て感じる能力の有無によって施術効果が大きく変わる療術の世界では、向き不向きがはっきり現れてしまうので、習えば誰でもできるというものではありません。

 プロでやっている人でも何も解っていない人は随分、居ます。現代医学でも名医と呼ばれる人が少ないのと同じことです。

 療術の世界がインチキ詐欺師の温床となっている現実も知ってはいますが、その世界特有の長い研究成果もあり、真摯にやっている人達も少なくないのですから、ダメな例だけで一律に否定するような発言は謹むのが礼儀と私は考えます。

 現に、私は勉強はしましたが、自分には向いていない(専門家としてやるには気を感じる能力が鈍いので)と思って本業にはしませんでしたけれど、武術全体の研究には大いに役立っていますし、私ができなかった研究は仁平師範が進めていってくれると確信しています。

 明治以降は日本の伝統文化がかなり破壊されました。破壊されて西洋文化に慣らされてしまった今の日本人には、伝統的な歴史や文化の価値を認識できる能力すら失われて社会機能性の観点から「法律で認められないものは存在の価値無し」という乱暴な二元論で価値判断をすることに何の疑問も感じなくなっているように思えます。

 私は法律が絶対だとは考えませんし、「悪法もまた法なり」くらいの認識はありますが、積極的に法を人間の上位概念にする考えは持てません。

 何故なら、そのような考えは、「法に触れなければ何をやっても許される」という考えに容易に転換してしまうと思うからです。

 法律がどうであれ、人間としてやっていいことと悪いことの区別くらいつけられなければ、それはもう人間失格でしょう?

 川崎の中学生死傷事件も、「少年法で守られているから殺人も可?」だと考えなかったかどうか? そのくらいの計算はしていたんじゃないか?

 三人の少年の一人でも、「こんなことやっちゃダメだ! 俺たちは本物のクズになっちゃうよ」と身体を張って窘めていたら、まったく違う結果になったと思います。

 理想論に過ぎないことを承知で申しますが、法律が必要ないくらい人間が成熟した世の中を目指すのが、人類の究極の目標ではないでしょうか? それには、教育の充実が優先するでしょうね?


 私が武術研究を本気でやろうとしたのも、武道や格闘技に親しむ人達が武術については丸っきり理解しておらず、強いか弱いか?でしか存在価値を論じられない、恐ろしく馬鹿げた論理を振りかざしていたからです。

 晩年の松田先生が、何度か、「俺は悔しいよ。もっと若かったら、中国武術がどれだけ優れているか実証して見せたのに・・・」と言われていました。

 だから、素質も才能も無い弱い自分でも武術なら勝てると証明して見せたいと思って、私は既存のあらゆる武道や格闘技を研究し、弱点を探り、破り方を工夫しました。

 勝ってみせるしか認められないという現実があると考えるからこそ、徹底的に勝ちに拘って研究している訳です。

 負けは死・・・という武術の死生観に於いて、殴り合いの強いの弱いのを論じることそのものがピントが外れています。

 そのピントが外れていることを認識できない今の日本人にとって、本当に生き死にがかかった戦闘状況に遭遇した時に適切な対応ができるのでしょうか?

 私が目指しているのは、どこからどう見ても、格闘能力なんか皆無であるような女性や子供や老人が、屈強な暴漢をあっさりと撃退してしまえる“技術”です。

 無論、従来の武道や格闘技が無価値だと言いたいのではありませんから、誤解しないでください。

 ただ、素手での格闘技能を競い合うことに執着することは、現実的な生命の危機状況とは掛け離れています。

 もし、“実戦”を語るのであれば、最低限、ナイフや銃を持って殺意のある相手を想定した技術を研究していなければならないでしょう。

 その観点に於いて、今の日本はあまりにも無防備で無策であると言わざるを得ません。

 本来の日本の武術は、剣・居合・棒・槍・薙刀・手裏剣・弓・鉄砲・・・とたいていの武器術を学んだ後に素手の柔術が来ます。

 柔術そのものも、基本的に対武器の武術なのであって、素手同士で戦うことを想定していません。素手同士は相撲なのです。

 この辺りの事情は、『刃牙道』で宮本武蔵のクローン蘇生を描いたことで板垣恵介さんも哲学的なテーマとして考えられているのではないか?と思えます。

 もしかすると私の本を読んでの影響もあった?のかもしれません。もし、そうだったら、大変、光栄なことですが・・・。

 どっちにしても、真摯に戦いを考えていけば、行き着くテーマだったでしょう。

 私も、武術を始めたばかりの頃から今のような考えだった訳ではありませんが、漠然としたイメージとしては考えていたように思います。

 だから、武道や格闘技に「何か違うな~?」と、どこか違和感を感じて馴染めなかったのかもしれません。

 そもそも、試合という形式そのものに違和感があるのです。何で、第三者に見せる必要があるのか? 見せることに意味があるのなら、それは興行であり、ビジネス・スポーツであって武術の本質とは別物だ・・・という思いがありました。

 これは良い悪いと言っているのではなく、“別物だ”と言っているのです。

 見せる興行という形態であれば、ダンスや演劇、あるいは映画やTVドラマの中に組み込んだアクションとしての武術表現が良いのではないか?と思っています。

 何故なら、武術の技をまともに使えば相手に致命傷を負わせることになりますから、演出を加えた演技として表現するしか見世物としての芸の本道は無いでしょう。

 リアルではなくリアリティーが大切です。

 真剣で斬り合えば、ちょっと当たり所が悪かっただけで死んでしまうでしょう。それをリアルな勝負をすべきというのは殺し合いをしろと言っているのに等しい。

 無論、武術は殺し合いを目的にしているのではありません。殺される危機を回避するための戦闘術なのです。

 よって、「逃げるが勝ち」という手段が発想されるのですが、これまた「逃げ足が早ければ大丈夫」という単純な話にはなりません。

 これは誰でも考えるのですが、複数の敵に囲まれていたり、狭い場所に追い詰められていたら逃げられません。

 つまり、逃げ足の早さが勝ちに繋がると考える人は、無意識のうちに敵は一人で広々とした場所だと決めてかかっている訳です。

 少し前に通り魔に殺された少年は、背中を向けて逃げていて防御できずに背中にナイフを何度も突き立てられて死んでいます。逃げずに立ち向かう方が助かったかもしれない。

 動画で見ましたが、危険を感じた猫が後ろ脚で立ち上がり、横歩きで逃げたりしていました。コミカルに見えますが、これも、敵に背中を向けたら危ないという本能的な反応として、そういう奇妙な動き方をしてしまったのでしょう。

 もし、通り魔に出会ったら、下手に逃げずに、相討ち覚悟で殺意を込めて睨んでください。“睨みつける”というのが実は非常に効果的です。圧倒的な戦力の差をも時に覆してしまいます。パワハラ上司の撃退にもいいですよ。

PS;徹底解説シリーズ最新作DVD『中級対錬』二枚組、完成しました! 中級は、より実際的な組手スタイルの攻撃への交叉迎撃法の型です。独己九剣は、追い燕・流星の二つ。そして東京支部長による手裏剣術や木人トレーニング、逆手試し斬りと寸勁斬り伝承。差し手と推手の解説など。最新作が最高傑作!です・・・。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
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