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DVD撮影完了!

 五月ラストの日曜日は、新作本に添付するDVDと写真用の撮影の後半をやりました。

 この日は、うちの会の名誉特別会員でもある稲吉優流先生のダンスの生徒さんNさんとHさんにモデルで協力してもらいました。お二人ともバルセロナのダンス・アワードのメンバーでもあったそうなので、武道の経験はありませんが、ポージングは非常に極まってましたね。

 日本刀と中国剣を持って構えてもらったんですが、非常にビジュアル的にカッコイイので、「これも構えてください!」と、クリスベクターサブマシンガンと44オートマグ・クリント1を、それぞれ構えてもらいました。

「えっ? 銃も本に使うんですか?」

「いいえ、趣味です!」

「ワルサーPPK/Sとか小さいヤツの方がいいんじゃないですか?」

「美少女が不釣り合いなデカい銃を構える方が萌えます!」

・・・とまあ、はっきり言って、今回の本は私の趣味に走ってます!

 まあ、冗談はさておいて、私は武術修行者は銃も使えないとダメだと思ってます。現代戦闘の実戦を考える時に、素手で殴り合ったり刀で斬り合ったりします?

 あり得ないでしょう?

 本当に武道や格闘技にのめり込んでいる人間に限って、非現実的な実戦論を語るんですよね~? 戦闘が日常茶飯事の地域や、治安の悪い外国に行って、そんな70年代のヤンキーのタイマン勝負みたいな寝言が通用すると本気で考えているんでしょうか?

 暴走族やヤンキーやヤクザ上がりの人間は、私の話に大賛成してくれましたよ。

 何でかっていったら、彼らに正々堂々と一対一でタイマン勝負するのが実戦・・・という概念は無いからです。

「武道やっているヤツはチョロイ。素人より考えが甘い」と、彼らはよく言いますが、それは実際に武道やっているという相手を不意打ちしてボコボコにした経験なんかがあるから言ってる訳ですよ。

 彼らは強い弱いで考えてない。とにかく勝ちゃあ何したっていいんだ・・・という考えですから、金属バットや木刀、鉄パイプで武装したり、ナイフ使うヤツもいる訳です。

 一対一も考えていない。多数で不意打ちしてフルボッコにしてダッシュで逃げるとか平気でやる訳です。

 普通に武道やっている人間だったら、「卑怯だ!」って言うでしょうが、私はまったくそう思いません。戦闘は勝つためにあらゆる方法を検討するのが当たり前であって、そこに卑怯という概念はありません。

 むしろ、「人間の尊厳として、卑怯な真似はやりたくない」という倫理観を切り捨てて、ハードボイルドに戦闘の合理性のみに没入できる人間は凄いと思いますし、武術修行者としての一つの理想的在り方でしょう。

 銃は、誰でも簡単に殺傷力を持つことのできる武器ですが、遣いこなすには相応の訓練による熟練が必要です。

 また、プロともなれば、既製の銃をそのまま遣うのではなく、遣い勝手の良いように改良(カスタマイズ)するのが普通です。

 私が刀の拵えを自作しているのも、一種のカスタマイズです。自分が遣いやすいようにしている訳です。

 これは、武術で基礎錬体をするのと同じです。

 武道やっている人間はダンスを馬鹿にする傾向がありますが、プロのダンサーを私が教えたら、一日で黒帯のレベルにできると断言しますよ。

 場合によっては達人クラスになる人もいるかもしれませんね?

 それほど、ダンスの動きは身体の機能を目一杯使うのであり、既に基礎錬体ができあがっています。

 脱力ひとつ取っても、武道やっている人間で真に脱力できる人は非常に少ないのに対して、ダンサーにとっては基礎的身体操作に過ぎません。

 これは私が長年教えてきて統計的な事実として書いている訳です。

 特に筋トレして筋肉を膨張させてしまっている人は、武術を体得するのは非常に困難ですね。

「マッチョでも柔軟な身体の人はいる」と、反論したい人もいるでしょうが、柔軟性と柔らかく動くことは別なんですよ。

 例えば、私は柔軟性は低いです。開脚なんかさっぱりできません。でも、私の技を受けた人は例外なく「柔らかい!」と驚きます。

 何が違うのでしょうか?

 私は、相手の力にぶつからないように注意しているのです。自分の重心を固めずに体内に散らしているので、こういうことができる訳です。

 ずうっと誰にも言わずにやっていたのですが、ある時、見破られました。

 誰に?

 武道家や武術家ではありません。コンテンポラリーダンスの先生が、北島師範に、「(長野)先生は、どうして重心をバラバラにしているんですか?」と質問し、北島師範が、“えっ? そうなの?”とビックリしていたらしいです。

 そりゃあ、そうでしょう?

 重心をバラバラに体内に散らすというのは、普通、武術では「やってはいけないこと」だとされているからです。

 中心軸を立てたり、丹田を意識するということは、重心を身体の中心に集中することですよね?

 私は、まったく逆のことをやっていた訳ですが、これは会員にも説明していませんでした。中には、「長野先生はダメだな~?」と思っていた人もいた様子です。

 だって、中心軸がビシッと立っておらず、身体が全然、統一されていないからです。武術的な身体性の定説から見ればダメに見える筈です。それをわかっていて、敢えて、やっていた訳です。

 もちろん、理由があります。

 重心を軸や点に集中すれば、技の鋭さは増すけれど、ある意味、体内に“居着き”を生じさせることになるのではないか?と考えたのです。

 武術でも武道、格闘技でも中心を狙うのは当たり前です。そして、攻撃に負けない強い中心を作ろうとする訳です。

 でも、限界以上の強い攻撃を受けたら、受け止められずにやられてしまいますよね?

「相手の攻撃を受け止めないで流す・・・。これを徹底的にやればいいのではないか?」と、私は考えた訳です。

 合気、化勁、ワカメ体操、システマ・・・などがヒントになりました。

 つまり、脱力技法をより発展させる研究をしていた訳です。この最新の研究成果は、今月のセミナーの“合気”で解説するつもりですが、少しだけ説明しておきましょうか?

 皆さんは、ゼリー状の水と真水では、どちらが早く泳げると思いますか?

 当然、後者ですよね? 筋肉に力が入って固まっているのは、ゼリー状の水と同じことです。重心移動が阻害されてしまう。だから、徹底的に筋肉を脱力させた方が重心移動はスムーズに速くなり、必然的に威力も大きくなる・・・という仕組みです。

「ただ、柔らかいだけでは攻撃力が出ない」と信じている人もいるでしょうが、柔らかければ柔らかいほど、重心力を高めることができます。

 体内の重心移動をより加速させられるし、一点から一点への移動よりも、多点から一点への集中の方がより威力が大きくなる。これは、ウォーターカッターと同じ原理です。

 水でさえ一点に圧縮集中して射出すれば鉄板を切断する威力が生まれるのです。

 バラバラに体内に散らしている重心を一瞬に打ち込む箇所に集中して打ち込めば、中心軸から打つより、丹田から打つより、もっと強力になるのではないか?と考えたのです。

 これは、姿勢が崩れて一見、弱そうに見える“達人”がいるという事実に関する分析だったのです。

 強いのか弱いのか外見で全然、察知できない得体の知れない不気味な達人の存在があるから、私自身で研究実験してみた訳です。

 軸の動きや丹田の働きは姿勢と重力の関係性で解明できたので、今は、その先を研究している訳です。


 話が長くなりましたが、プロのダンサーの身体性は容易に武術の極意を体現できてしまうので、私は「威力の出し方」「読みと交叉」だけ教えればいいという訳なのです。

 それだけで、そんじょそこらのナマクラ初段程度はチョイッと倒せるでしょう。

 で、この撮影の日は、稲吉先生が都内でダンスのレッスンが終わってから、相模原の本部道場まで来ていただくので、夕方近くに到着される計算でした。

 なので、いつもの日曜稽古をやって、撮影は昼過ぎてから準備すればいいだろう?ということで、11時からは普通に稽古しましたよ。

 新作本向けの撮影ですから各支部長は、ほぼ集合。独立して健身法と武術のよりディープな探究研鑽をしている体道塾仁平師範も駆けつけてくれました。

 DVDの撮影となると、自主映画時代からずっとやっているんで、私が一番慣れてるから、いつもならチャチャッと自分が中心でやるんですが、今回は、「游心流の次世代を担う人間が育っているんだぞ!」ということを見せたかったので、健身法や護身術の解説実演は仁平師範に、手裏剣術は小塚師範に完全に任せました。

 特に、仁平師範は稽古も撮影も、出ずっぱりの状態だったので、流石に疲れてましたけど、本当に、彼の動きは見る人が見れば、どれだけのレベルに達しているか?ということに驚いてもらえるんじゃないか?と思っています。

 前日に19歳のデビューから最短のボクシング、ミニマム級世界チャンピオンが誕生していましたが、今の日本の若者は、文字通りのニュータイプが次々に誕生しているんじゃないか?と思えて仕方がありません。

 稲吉先生に仁平師範を紹介した時、生徒さんに施術したのを見て、稲吉先生自身も整体療法なども学ばれて『柔芯体メソッド』を開発されているので、即座にタダ者じゃないと洞察されていました。

 多分、武術武道やっている人間だったら、判らなかったと思うんですよ。レベルが高過ぎると判断の基準に当てはまらないので、過剰に崇めるか、不当に見下すかのどちらかになりがちです。

 恐らく、うちの会員でも、私が「仁平さんはもの凄い才能の持ち主だ!」と言うから、「そういうものなのかな~?」と判断していた人が多かったと思いますね。

 私も経験ありますが、武道武術の世界では、「年齢が若い」というだけで未熟者だと決めつける人が非常に多い。客観的な観察眼と洞察力を持っている人は非常に少ないんですよ。

 私も、昔、「長野さんも、もっと真剣にやって内功を養わないとダメだよ」と、太極拳をやっている素人さんから言われて、「は~、そうですか?」と、内心、苦笑いしたことあります。

 特に中国武術やっている人には練習カリキュラムの問題で、慢心している人が非常に多く、「コンフーというのは時間を意味する。長年の正しい修行を積まねば真の威力は得られない」と信じ込んでいる人が大半なので、私みたいに一つの道場に長く通っていない人間なんか弱っちいと決めつける訳ですよ。

 でも、私は内功の正体を解明してしまったので、この定説が間違いであると、はっきり断言できます。事実として申しますが、多分、今の私の内功は斯界でもかなり上位の方だと思います。正体がわかったから短期錬成の訓練法を考案したからです。

 やっぱり、何事も上達の必要条件というのは、量より質なんですよ。無駄に年月だけ浪費している人が多いのです。

 さらに言えば、原理を理解しているかどうか?で、決定的に差ができます。

 仁平師範は、中学でうちに入った時に、かなり天才的な素質があると思いました。が、原理を追究するようになって才能が自己組織化していったと言えます。

 一つ、ヒントを示せば、倍々で発展させていくのです。

 それこそ、太極から両儀、四象、八卦・・・と分かれていくように発展していくのですね。これは、研究家としての私にとっても非常に楽しみな逸材となりました。

 武道武術の世界も、まだまだ、どこにどんな達人がいるか判りませんが、才能という一点に於いて、私は彼以上の人間を知りません。この先、どこまでレベルが上がっていくのか?と考えると楽しみなのです。

 何よりも、努力を惜しまないし、真実を探究することに関して非常に謙虚です。生まれついての修行者タイプですね。

 でも、彼の世代は、そういう異能者が続々誕生してきているのかもしれません。私の世代には、そんな人間はいませんでしたから・・・。

・・・とすれば、間違いなく、今の時代が呼んだのだろうと思います。

 私が子供の頃は、両極端な未来のイメージがありました。

 混迷する世界の様々な問題が解決されて真の平和で平等で明るく楽しい世界が誕生するという夢と、問題がより悪化して収拾がつかなくなって世界が崩壊するという悪夢。

 今はどっちか?と問えば、ほとんどの人が後者をイメージするのではないでしょうか?


 国家の対立も、宗教イデオロギーとからんでテロと戦争がゴチャ混ぜとなってしまっているし、地震に津波に火山噴火、異常気象・・・と、地球の生態系が保持され得るのか?というところまで来ています。

 能力値の低い人間がいくら集まっても解決できるような甘いものではないでしょう?

 個々の人間自身がポテンシャルを上げていくしか対応できないと思いますよ。

 そのために、時代が異能者を次々に生み出しているのかもしれません。これは進化なのかもしれない・・・。

 武術も含めた東洋の伝統的行法は、すべて人間を超人にするシステムとして考案されたものでした。ヨーガや仙道、密教、修験道・・・などは、人間を超越する修行システムなのです。

 ですが、これらは神秘主義としてオカルティズムの範疇に押し込められました。

 よって、これらのシステムは表層をカルチャーとして娯楽的に親しむ傾向が強まっているのです。美容と健康にいい・・・とか? ただのエクササイズになっているのです。

 これは、それら東洋の行法と融合した武術に関しても同様で、誰も真価を求めて取り組もうとは考えないし、それだけの価値があることも理解できていないのです。

 身体の動かし方が変わる!・・・って、阿呆か?と思います。あまりにもレベルが低過ぎる! そんな“上澄み”を有り難がっていて、何の意味があるのでしょう?

 これらの修行法の本質は、人間の根源的超越を目指した訓練システムであり、簡単に言えば超人開発プログラムなんですよ。だから、オカルティズムの範疇に押し込められて、一般の人間を排除してきたのです。

「オカルト」とは「隠された叡知」を意味し、西洋では魔術と合体して秘密結社に継承されました。

 しかし、近代の思想は、神秘主義を廃した合理主義、唯物論から出発し、自然科学が発達するのに続いて社会科学が生まれ、社会の構造を中心に考え、個人は社会を構成するパーツとしてしか認識されていません。

 社会のシステムを優先して考えられたために、個人の能力は無視されて均質化して考えられたのです。

 その一方で、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という兄弟宗教は概念の対立を生じて排他的な闘争を生み出し続け、近代合理主義とは隔絶した国家の対立を続けています。

 人類の対立と闘争の根っこには、広義の“信仰”による排他性があるのです。

 私は、信仰心の正体は弱い自己から生じるのではないか?と思えてなりません。宗教は救いを求めて信じるものですが、人間は何らかのイデオロギーや価値観を信じていないと自己崩壊してしまうものではないでしょうか?

 生きる指針が無いと人間は不安で不安で仕方が無い。それは、他者との関係性の中でしか自己を認識できないからであり、社会を中心に考えるようにインプリンティングされ切っているからです。

 この典型が社会主義、共産主義でしょう。左翼の人達は人間がいかに一人では弱い存在なのかを熱く語り、完成された社会システムの必要性を論じます。

「人間は一人では生きられない」という強固な信仰・・・。

 しかし、動物にそんな概念が当てはまるでしょうか?

 人間が一人で生きられないのは、社会に所属して生かされているからでしょう。しかし、その社会というものは、複数の人間の都合で形成された共同幻想によって成立しているに過ぎません。個人が自由に生き方を選択し、他者がそれを強制しない世の中であれば、それが一番、理想的なのかもしれません。

 しかしながら、現実はそうではありません。自分の自由を確保するには、他者、外部の社会システムからの強制力を跳ね返す力を自分が持つ以外に道はありません。

 ただ、社会の真相を知ることは、あらゆる社会的強制から超然と自己の内的自由を確保することはできるでしょう。その達観の視座を与えてくれるだけで修行する意義は大きいと私は思います(まっ、具体的に書くとヤバイから抽象論にしたんですけど?)。
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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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