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アフガニスタン・ブシドウ

「アフガンのサムライ」と呼ばれた田中光四郎先生が、インターネットTVで取材されたそうで、動画を拝見しました。

 私は以前、光四郎先生の本を手伝わせていただいた時に資料をお借りしたのでいろいろ見ていたんですが、写真でしか見たことがなかった、アフガニスタンでの光四郎先生がムジャヒディンに武術を教えている様子も見れて、ドキュメンタリー映画のようでした。

 しかし、「武道家として本当の実戦の場に立てた自分は幸せだ」と言いつつ、実際に何人かの人命を奪ったという後悔の念も滲ませたインタビュー映像は非常に重いです。

 旧ソ連軍が突然、アフガニスタンに侵攻し、現地ゲリラ“ムジャヒディン”が迎え撃ったのがアフガン紛争。大国の暴挙に義憤を感じ、単身、義勇兵を志願してアフガニスタンに渡った光四郎先生でした。

 後に“人間の盾”にも志願した光四郎先生は、オウム真理教の地下鉄テロ事件が起こった時にも、教主、麻原を殺そうとしたことがある。

 光四郎先生は、情の人です。世のため人のために自分の人生を捧げたいという願望があって、それを実行する勇気がある・・・。


 日本でも、私の父親より上の世代(90歳以上)は太平洋戦争で戦った人が数多くいました。

 私の父の兄弟の長男は潜水艦に乗っていて魚雷で撃沈されて亡くなっていて、実家に写真が飾ってありました。

 母の家族は終戦まで満州に居たので、日本に帰るのに大変な苦心をしたそうですし、帰ってきたら土地とか大分、奪われてしまっていて、満州時代とは段違いの貧乏生活を余儀なくされたそうでした。

 今の日本人は、祖父や曾祖父の時代の戦争を生き残った人達の末裔だという自覚があるでしょうか?

 私は子供の頃に戦争の話ばっかり聞いて育ったので、「戦争は絶対悪である」という意識が強いです。天草は長崎にも近いですから、長崎で被爆した人も結構いらっしゃいました。だから、戦争映画を英雄的に描く作品には拒否反応がでます。

 今でも世界中で戦争に苦しんでいる人達は大勢います。

 ヒロイズムとしての右翼の主張を私は嫌悪しますが、現実に戦闘の場に居たら、自分はどうするだろうか?と考えると、そうそう簡単に答えはでません。

 光四郎先生の行動が正しいのか間違いなのか・・・私には何とも言えません。

 義の精神は容易に“偽”にすり変わってしまうからです。それは光四郎先生自身も実際は痛感されているのではないか?と思っています。

 私は、新宿の焼き鳥屋で、「私は人を殺してしまった人間です。もう、生きてる価値が無いんです」と、涙をこぼした光四郎先生こそが好きです。

 思想ではなく、人間は“情”で動くからこそ人間なのだと私は思います。

「人を一人殺せば人殺し、何千何万と殺せば英雄」と言われます。

 この言葉が、“大義”の欺瞞性をよく表現していると思います。

 映像を見ていて思ったのは、光四郎先生の悲しそうな眼でした。自分の中の業の深さを持て余した人の眼であり、達観も超然もしていません。悟りなんて美しい言葉とは真逆の、だからこそ、“人間らしい慈愛を秘めた眼”です。

「実戦を体験できたから武道家として幸せ」だと言う価値観は、最早、“狂気”と言わざるを得ませんが、残念なことに私にはよく理解できる。共感してしまうのです・・・。

 本能として闘争を求める欲望が多かれ少なかれ、男には有ります。

 これは女性には理解しにくいところだと思います。

 最近は、この本能が非常に希薄な男も多くなっていると思いますが、社会環境の中で飼い慣らされてしまったと言えるかもしれません。

 沖縄の駐留米軍の軍人や元軍人が女性を襲って殺した事件に関して、TVである人が、戦争体験のトラウマで自己コントロールできなくなった・・・という意見を述べていましたが、これはある程度、納得できる面があるでしょう。

 殺し合いの場に立つことで理性が消し飛び、野獣の本能が剥き出しになってしまう。

 戦争は人の命を奪い、人の心をも殺してしまうのです・・・。

 武道や格闘技も、熱心にやっている人が自制心を失ってしまいがちなのも事実としてあります。そういう実例を沢山見ましたし、私自身も若い頃に「武を極めるには実際に人を殺してみる必要がある」という狂気に駆られた時期があり、その当時を知る親友からは、「あの頃の長野はヤクザ者に見えたよ」と言われました。

 私は実行する勇気がなかった。それが幸いでした。

 今になってから考えれば、社会の中でまっとうに生きられない自分に対する自己憐憫であり、現実逃避だったのだと自己分析しています。

 うちの会入会希望してくる人の中にも現実逃避しようとしている人がいます。武術を極めれば周囲から尊敬され生活も潤うと勘違いしている人もいれば、社会生活そのものを何も考えていない愚か者もいます。

「立禅を修練していると理性より本能が優位になって、野獣のような闘争本能を発揮できる・・・だから“強い”のだ」と説いたりする人は、多少なりとも社会性を失いつつあるのです。

 強さだけ求めていると、こういう発想になってしまいますが、こうなってしまえば、もうまともな社会生活ができなくなってしまいます。理性より本能が優位だというのは危険なことなのです。それを自覚していない。

 重要なのは、「いかに、自己コントロールするか?」ということであり、それこそが本当の武術の極意です。

 映画『椿三十郎』で、「本当に良い刀は鞘に入っているものですよ」と家老の奥方が三十郎を諭すシーン・・・あれが作品の本当のテーマだったのでしょう。

 ラストでライバルを倒した三十郎に若侍達が「お見事!」と言うと、「バカヤロー!」と三十郎は激怒して叱り飛ばしますが、“自分みたいな鞘無しの刀になっちゃいかん”という意味のことを言い残して去っていきます。

 私は、この映像を見ていて、この映画のシーンを思い出しました。光四郎先生は“鞘に納まっていられない刀”なんだと思い至りました。

 そこが魅力でありつつ、下手に触れれば傷つく・・・。他者に向ける憐憫の眼差しは、実は自分に向けられる筈だったのかもしれません。

 生存の理由。生きるための戦い。殺すための戦略・・・。

 死に場所を探すということは、生きた実感を最大限に味わいたいという願望。それは、戦いの中で死にたいという狂気であり、魔的(デモーニッシュ)な欲望です。

 それだけの人であれば、私は軽蔑するだけ。しかし、悲しみを湛えた光四郎先生の眼にこそ、魂の救いが有ると私は思っています。

 いちずにギラギラとした眼で師への尊敬と憧れを口にするお弟子さんには、どうか、光四郎先生の埋めようのない悲しみを見て欲しい!

 どんな理屈をつけようが、人殺しは人殺しなのだという厳然たる事実・・・。

 チンケなヒロイズムで祭り上げたりしないで欲しい!

 その悲しみの情こそが、人間・田中光四郎の真実だと私は思います!

 他意はありません。

 失礼に受け取られるのを承知で、率直に感じたままに書きました・・・。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
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