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お花見感想

 四月二日は毎年、恒例のお花見会を淵野辺駅近くの鹿沼公園で開催しているんですが、今回は寒の戻りが激しくて開花した桜が増えないままで、「これじゃあ、蕾見会になりそうだな~? だったら、道場で飲み会にするか~?」と思いつつ、一応、公園を見て回ったんですね。

 そうすると、ダイダラボッチが踏ん付けた跡が沼になったという公園の池の辺の一区画の桜が六~七割咲いていて、「あ~、ここならいいか?」と、計画通りのお花見としました。

 お花見会には必ず大石総教練も来るのですが、彼が来ると仁平師範と怪しいオカルト思想ばかり話すので、正直、困るな~?と思っているんですが、武術を追究し過ぎると、オカルトになってしまうのは事実なんで、私も研究家としては否定することもできない訳ですよ。

 先日も仁平師範が継いでいる刀功門という武術流儀の稽古体系を実演解説してもらったんですが、率直に言って、一般に広めるべき内容ではないと私は思いました。

 恐らく、道教系の内家武術なのは間違いないんですが、武術というよりは仙道行法なんですね。

 ある程度、推測はできましたが、具体的なことは敢えてここには書きません。

 どうしてか?というと、情報だけ知りたがって我流で真似ると確実に廃人になると思ったからです。

 浅くやる分には健康法としても良いだろうと思うのですが、拝師して奥の伝までやるとなると、百人中、九十九人は精神を病むだろうと思います。

 何故、そう思うか?というと、トランス(憑依)系の練功をやるからなんですよ。

 つまり、この稽古を真剣にやればやるほど、霊能が出てくる。

 換言すれば、心理学的には幻覚・幻聴が当たり前になってまっとうな社会生活を送るのが困難になる・・・という次第で、これは仁平師範は天命があって受け継いだのだと私は思います。

 しかし、そんな人は万に一人もいません。

 たいていの人は単純に発狂してしまう確率が圧倒的に高いと思います。

 無論、武術としては私は非常に興味をそそられます。すべてが秘伝。体得できれば超人となるでしょう・・・。

 けれども、普通の人間が趣味の範疇で学ぶべき代物ではありません。

 リヤカーにジェットエンジン載せるようなもんです。

 それこそ、命を捨てて、魂を捧げて、何もかもを捨てる覚悟を決めて修行に打ち込む決意が必要でしょう。

 言葉で言うのは簡単ですが、実際にそれをやれと言われてできる人間は万に一人もいないだろうし、仮にできたとしても本当に命を失う可能性もあります。

 大袈裟だと思う人が大半かもしれませんが、宗教行法というのは、本来、そういう性質のものであり、インドではヨーガの実践者が毎年、多数、死んでいるという話もありますし、修養団体の創始者が意外と短命だったりするのも、そういうことなんですよ。

 以前、仁平師範と話している時に、「僕は気が狂うかと思ったことが何度もあります」と言っていましたが、なるほど、この稽古をしていたら、そうなるわな~?と思いましたね。

 霊能者と言われる人達は脚光を浴びてTVに出るようになると能力を失ってしまうと言われますが、当然なんですよね。修行で得た能力は修行を怠って我欲に捕らわれたら失うのが当然のことだからです。

 特に武術の場合、直接的な戦闘能力を求めますから、その根底には「他人に抜きん出た力を得て優越感に浸りたい」という願望(邪念と言った方が正確か?)があるので、テキメンに人格が破壊されてしまいがちなのです。

 釈迦はマーラ(魔羅)に、イエスはサタン(悪魔)に瞑想修行の邪魔をされたと伝わりますが、マーラやサタンとは人間の無意識下に潜んでいる本能なんですよ。

 だから、どんな聖人君子のような善人であっても、修行していたら自分の深層心理に潜んでいた本能的欲望と対面することになります。

 まして、武術修行を志す人のほとんどが、「強くなりたい」と漠然とした願望を持っていますから、オツムがイカレるのも当然の帰結でしょう。

 仁平師範の場合、療法家でもあるから精神のバランスを保てているのかもしれませんが、ところが療法療術の世界というのも武術以上に危うい精神の人達が跋扈する魑魅魍魎の世界だという現実もあるんですね。

 まず、金の亡者になりがちです。

 そして、他者を精神的に支配したいという欲求にも押し流されやすい。

 いや、人間なんだから、そういう欲望はあって当たり前ですし、私はそれを否定したいのではありません。むしろ、そういう自分の俗なところを隠さない人のほうが健全だと思っています。

 でもね~、みんな嘘つくんですよ!

 聖人君子のように振る舞いたがり、周囲の取り巻きがそれを補強してカルト宗教みたいになっていくんです。

 宗教団体って、そうやってできていく訳ですよ。

 ただし、現代ではあらゆる活動がビジネスモデルへと転換されていきます。それが現代日本の中では社会的生存戦略となっているので、仕方がないとも言えるでしょう。

 私自身、武術と物書きの二足の草鞋で何とか食えている人間なので、心情的には楽しく武術に取り組んで、楽しく小説書いて生活に困らないだけの金が入れば何の文句もない訳ですが、世の中、そんな甘い気持ちでしのげる道理は無い!ということを痛感している訳ですよ。

 大石総教練は、「本気で武術で強くなろうと思うなら社会生活をかなぐり捨てて取り組む時期も必要じゃないですか?」と言うんですが、私は、そんな無責任なことは言えませんし、根本的に考え違いだと思いますね。

 武術、武道、格闘技にどれだけ取り組んでも、近代兵器で武装した敵には敵いません。

 ヤンキーの殴り合いや格闘技の試合のレベルで戦闘を考える人を戦場にほうり込んでどれだけの働きができるでしょうか?

 戦闘ということを真剣に考えていないと言うしかありません。

 私は、戦わねば生き残れないという状況でしか武術を使うつもりはありませんし、その場合はまずためらわずに武器を手にしますよ。

 よって、あらゆる武器を使いこなせるように練習しておこうと思っていますし、本来の武術とはそういうものだと確信しています。

 つまり、生きるため。自分と自分が大切に守りたいと思う対象を守る。そのための戦闘状況に陥った時の奥の手として武術に取り組んでいるのです。

「強いとか弱いとか、こいつ、いまだにそんな糞みたいなこと考えてんのか?」って悲しくなりましたよ。ね~、大石く~ん?

 先週土曜に橋本支部の稽古会に行って、北島師範だけだったんで、これ幸いと松田隆智先生が晩年に体得されていた発勁の打ち方を私が研究したやり方を細かく指導したんですが、松田先生が青木先生に打ってみせた時と同じように両手のひらで受けてみたんですけど、青木先生が「長野さん、これはやっぱり人に教えたりしない方がいいんじゃないかな~? こんなの受けたら内臓がぐちゃぐちゃになっちゃうよ。これは日本の武道には無い打ち方だね~」と言われたのを実感しました。

 直接、受けていたら、私は死ぬか半身不随になってますよ。それほど爆発的な浸透力が手のひらを貫通して腹に浸透してきたので、ぞぞっとしましたね。

 わかっちゃいたけど、本当に恐ろしい技だ・・・と。

 素手ですら、やり方によってはこれだけの殺傷力が出せる訳で、武術というものは本式に体得すれば腕試しなんか不可能ですよ。私は、この威力を前提にして技術体系を作っているので、今更、「強くなりたい」なんて漠然と考える人の認識を疑うばかりで、本心から情けなかったです・・・。

 例えば、もし自分がアメリカ人だったら銃を買いまくってコンバットシューティングの学校に入りますよ。そっちの方が武術よりずっと効率良く戦闘能力が高まる。

 で、銃で戦うのを前提にしている人が「どっちが強いか?」って考えますか?

 生存戦略の最も肝心な点は、社会の中で無事に生きて人生をまっとうすることなんですよ。極力、戦いを避けることが重要です。

 その上で、万が一に遭遇するかもしれない戦いに備えておき、必要な準備をやる!

 それが“平法”というものですよ!

 無邪気に武術談義に興じるのも酒の席だから許せるけれども、根本的な自滅の危険性について無自覚過ぎるのは、思慮分別が足りな過ぎると思います。酒の席だから本音が出てくるのでしょうが、武術とオカルトに耽溺し過ぎれば現実逃避になってしまいます。

 社会からスポイルされる危険性があることを自覚して「オカルトは隠す!」というのが賢明なやり方なんです。

 花見に参加していたある会員は「ついていけないな~」みたいな顔で先に帰ってしまいましたが、普通の人間にはついていけないのが当然なんです。

 うちの会員はみんな優しいから直接、注意しないけれども、オカルト話に辟易している人は少なくはないでしょうね?

 花見の翌日、月一で個人指導している時にあまり人には教えていないことを指導したんですが、私は本当にありとあらゆる武道や格闘技の研究をしてきて破り方を工夫しているので、強いの弱いと論じる人が、もう物凄~く馬鹿に見えて仕方がないのですよ。

 素手の技なんて、一発で殺す威力の無い技しか持っていない相手を恐れる必要はないし、第一、“人間は動けば必ず急所が開きます”。だから、最低、相討ちで死ぬ覚悟さえできれば、ボールペン一つで致命傷を与えることは可能なんですよ。

 この事実を自覚していれば、もう強いとか弱いとか論じることが、いかに馬鹿馬鹿しいことかが判ります。

 そして、武道とか格闘技とかの技術がいかに表面的な部分だけをクローズアップして普及されてきたのか?ということも自ずと解明されますよ。

 また、オカルトは何故、“隠秘学”なのか?ということも理解できるでしょう。


 私は研究家だから、そういう深い領域まで研究していますが、游心流は“一般の普通の人が取り組んで役立つもの”にしたいので、過度な訓練もしないし、最少限の努力で最大限の効果が得られる技術を教えたいと思っています。

 普通に生きている人にとって、武術のディープな修行をすることはマイナス面の方が大きいんですよ。

“縁なき衆生は度し難し”と言います。

 人間には、持って生まれた器量というものがあります。それはどんな修行でも超えられないと思いますし、適材適所で人それぞれが最も活躍できる分野がある訳です。

 仁平師範は武術と療術に類い稀な素質と才能が有ります。

 花見会の時も飲み過ぎて発作が出そうになったので治してもらいましたが、将来、日本一となるだろうことを私は微塵も疑いません!

 だから、仁平師範には自身は徹底的にディープな部分を極め尽くして前人未踏の領域にまで達して欲しいと思っていますが、それを安易に公開しないで、本当に伝承できる人を一人か二人でも選んで伝えていってもらいたいな?と思っています。


 結局、人間も自然の一部ですから、今、自分が生きている時代の要請で生まれてきているんですよ。間違いなく!

 私は彼に限らず、今の若い人達は自分の頃とはまったく能力値が違うな~?と痛感しています。

 縄文人の中から弥生人が出てきたようなものかもしれません?

 あるいは環境破壊が進んで人類が滅亡寸前になりかかっているから、その危機的状況を乗り越えるだけの能力がある“新人類”が誕生してきているのかもしれない?と、私は青木宏之先生と最近はよく話していますね?

 ただ、SF小説なんかでも新人類を旧人類が滅ぼそうとするストーリーがよくあるでしょう?

 オウム事件はそうした中で誇大妄想が高じた人達が起こした事件だったし、現実社会と対立する形ではなく、現実社会の中で徐々に改善させていくようにしないといけない訳ですよ。

 例えば、原発の危険性を訴えるより、原発より機能的で安くて安全なエネルギーを発明すれば問題は解決するじゃないですか?

 でも、世の中にはそういう研究をしている人は少なからず存在しても完成する前に潰されてしまうんですよね。

 そのためには、武術だの療術だのの狭~い世界の特殊な価値観に埋没してはいけないと思いますね。人類の本能には異質なものを排斥しようとするメカニズムがありますから。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
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