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感覚を研ぐ心法への転換

 最初は流派の名前もなく、游心流と名乗るようになってから、ほぼ10年が経過し、昨年末には「游心」という漢字に拘る必要もないだろうと思い、「この際、遊心流でもアリにしようよ」と話し合って、“遊”の字も使うようになりました。

 言霊(ことだま)というくらい、ネーミングというのは思いの外、現実に影響力を持つものです。

 最後の拘りみたいな“游”の字への執着があったんですけど、書家として御活躍されている新体道の青木宏之先生(書家としての号は青木天外先生)から、思いもかけず「遊心」との書をプレゼントしてもらって、その執着も解けました。

 その時に、「長野さんも、これからは心法の研究をすべきだよ」といわれたことも大きな切っ掛けになりました。

 正直、武術の身体操法に関しては、一通りは研究してきて、これ以上の発展性は感じなくなっていたんですね。もう、いろんな人が研究発表して出尽くした感もあります。

 所詮、人間の身体はいくら開発してもゴリラのパワーや、チーターの走力、イルカの泳力とは比較すべくもない。

 そんなチンケな能力開発やるヒマがあったら、人間が最も優れた能力に磨きをかけた方がいいと思うようになっていたんですよ。

 人間が他の動物より圧倒的に優れているのは頭脳。なら、それを磨かずして何をやるべきか?

 もっとも、頭脳を磨くというと、単純に脳トレすりゃ~いいと思う人が多い。

 私は武術研究家だから、武術を通して頭脳を磨く方法を考えないと意味がありません。

 そんなことを漠然と考えている時に青木先生から示唆を受けたので、稽古法の中で身体感覚を研ぐ研究を昨年11月くらいから密かにやり始めていたんですね。

 これは実際に指導している会員さん達にも内緒にしていたんですが、そろそろ打ち明けてみましょう。

 推手と差し手で、相手が力を加えてくる(加えようとしている)方向を敏感に察知してベクトルを外して逆転していく稽古を集中的にやらせていたんですね。

 これって、単純に身体を動かすだけでは養成できないんですよ。必然的に加わってくる力の圧力と方向を探るように神経を意識的に働かせていないといけない。

 神経の知覚機能を鋭敏にしようとすることは、それだけ脳を使うんですね。

 普通、頭脳を鍛えようと思って頭だけ使っているとオーバーヒートして疲れる。身体を使いながら脳を同時に使うことで脳の疲労を分散し、無理なく発達させられる筈だと考えた訳です。

 武術は自分勝手に無目的に稽古しても思うようにレベルアップはしないものです。

 あくまでも人と触れ合う相対稽古の中で相手を読み、それを自分にフィードバックさせることで発達させていくものです。

 この原理が解っていれば、別に武術の稽古でなくとも、町中歩く中で人の流れを観察しているだけでも頭脳は鋭敏に稽古と同じように働くし、人の話や表情の中からも無数のヒントを得られます。

 例えば、先日の土方巽生誕を祝う会の時も、「一つに集中し固めたら、また、バラバラに分散させて・・・」といった國吉和子さんのお話を聞いていて、私の頭の中では、「重心を集中して発勁を打ちこんだら、すぐに体内に重心をバラして相手の攻撃を受け流すようにすべきだよな~」と、技法と戦術に置き換えながら聞いていました。

 私は性格的には空手拳法系の“打撃で極める”のが好きなんですが、技能的には合気系の“受け流す技”のほうが明らかに向いているんですね。

 松田隆智先生から「長野くんは化勁の達人だな~」と笑われたことありますよ。

 どういう意味か?ってえと、人から非難されても話をはぐらかして煙に巻くのが巧みだから?・・・みたいです。

 戦い方って性格が現れますよ。私は人とガンガンぶつかり合うのは苦手で攻撃されたら受け流して相手に返す。弱者が負けないほとんど唯一の戦法です。

 だから、「こいつぅ~、何でこんな平然とした顔してるんだ? 強いのか弱いのか、さっぱりわからん・・・」みたいに思われちゃうみたいなんですよね。

 でも、武術は強さは求めませんから。最終的に勝てばいいんですよ。生き残るのが目的なんだから、無駄にやり合うとか競い合うという観念はないですからね。というか、それは極力、避けなきゃならん。

 現代は武道と格闘技がゴッチャになってしまって、本来の武術の発想が忘れられてしまっていますね。本来、武術は人に見せるものじゃないんですよね。

 だから、武術を見世物にしている人達には疑問を感じるんだし、逆説的に“舞踊にしろ演劇にしろ、最初から前提として他人に見せて感動させることを目的にしている芸の世界に生きている人達”が羨ましくってしょうがないんですよ。

 自主映画やってた頃の友人知人は、その後、本格的にプロの映像製作をやったり演劇の道に進んだ人もいますが、私も本当はそういう道に進みたかったけれど、その才能がなかったから、今でも羨ましいですよ。

 もっと才能があったら、アクションスターとか目指していただろうし、プロの映画監督になろうとしていたでしょう。

 やっぱり、そういう芸能の世界というのは才能がものをいう世界ですよ。

 人間は、自分に適した仕事をやるのが一番の幸せですよ。だから、残念ながら、芸能の世界で活躍できるような才能のない私は、いつの間にか武術の研究などというヤクザな商売をやるようになってしまった訳ですよ。

 でも、幸か不幸か、武術に関しては私は向いていたとしかいいようがありませんね。だって、観てるだけで技の構造が解っちゃうし、真似したら大概、できちゃうんだもん。見て覚えた技で、白州では「合気道の先生だ」っていわれちゃったもんな~。マジで、合気道は一時間半しか習ったことないですからね。


 え~っと、脱線しまくりましたけど、要は、身体感覚を養成するというのは頭脳と身体を同時に鍛えることだという訳です。

 そして、その訓練法として推手は非常に奥が深いものなんです。

 で、理論上、手で推手をやるように、棒や剣でもできるようにすべし・・・と思って、ちょっとやらせてみたんですが・・・これはもう全然ダメでしたね。

 模擬刀でやったら、いきなり緊張しまくって力みまくる。こりゃ~あかん・・・。

 推手が相当できるようになっても、まだ実質は機械的にやっていたという訳で、このままじゃ、いくらやっても身につかない。下手すりゃ大怪我しかねない・・・。

 それで、やらせている稽古の意味について理解してもらわないと先に進めないな~と思ったので、コレを書いている次第。

 私の目論みでは、真剣使って推手できるようになれば、佐川幸義先生のような触れた瞬間に相手の重心を崩してしまうような超絶の合気が駆使できるようになるというアイデアがあって、やらせているんです。

 正直、合気の技術理論構造は分析できました。後は、それをいかに体現していくか?ということであって、それは感覚の差だという結論に達したんです。

 これは、いくら素手でできるようになっても、どうしても感覚的なレベルの差を埋められないと思って、ミリ単位で力のベクトルを外していかないと大怪我をしてしまう刀でできるようになれば、「素手なら、どうにでもできる」と予測した稽古法なんですよ。

 類似したものとしてはシステマのナイフ捌きがありますね。物凄く巧妙にナイフの刃が立たないように身体をうねるように使っていなしていくでしょう? ああいう稽古は単なる身体操法ではできないですよ。

 木刀やプラの模擬ナイフでやれば形の上ではそれなりにできるようになるでしょう。

 だけど、そんな稽古をいくらやっても本物の刃物を前にしたら緊張して動けなくなるものです。合金製の模擬刀ですら、真剣と同じように見えるだけで緊張して動きがコチンコチンになってしまうんだから、むしろ、本物に慣れた方が早い。

 スタントマンがビルから飛び降りる時に、もっと高い階から飛び降りるマット位置を確認して、心理コントロールして臨むというのを聞いたことありますが、より困難なことを訓練していれば本番で余裕ができてくるんです。

 無論、危険性のある稽古は、より注意深く慎重に安全性に配慮しなければなりませんが、そうすることが武術を学ぶことの現代的意義だと思いますね。

 ビビッてもダメ。ビビらなくてもダメ。恐怖心や緊張感、注意力の欠如を克服して心を鍛えるから武術修行の今日的意義が認められていく・・・。

 心を制御するというのは、自分のことばかりではなく、相手の心も制御する、気配りする、読む・・・といったことです。

 そして、武術というのは人の闘争本能をコントロールしていく心術を目標に据えなければ、取り組む価値がないものです。格闘の技能を競い合うスポーツとは目指しているものが全然違うのだという明確な認識を広めないといかんな~と思う今日この頃。

 あらゆる人がスポーツ的強弱の論理でしか解釈しようとしない。全然、違うもんなのに、やってる連中まで理解していないから、話はどんどん低劣になる・・・困ったもんだ。
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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
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