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トレーニングについて思うこと・・・

 真剣を一振り譲って欲しいと言っていた武友から「金の余裕がなくなったのでキャンセルしたい」との電話がありました。

 何と、急性心不全で死にかかってしまったというのです。

 要は、入院費用などで金がかかるから余裕がなくなったということなんですが、それどころの話じゃありませんからね。

 それよりも彼にとって一番のショックだったろうな~と思うのは、医者から「あと一時間遅かったら助からなかった。もう一生、激しい運動とかはやってはいけない」と言われたということです。

 若い頃からハードなトレーニングを続けて丈夫な身体なのが自慢だった彼も、何年か前から病気がちになり、克服しても新たな病気が出て、今度はついに運動禁止令が出てしまったという訳で、懸命に続けてきた武道ができなくなることの方がショックでしょう。

 しかし、気の毒ですが、私は以前からそうなっても仕方がないだろうな~と思っていました。

 武道家や格闘家には短命な人が結構います。それも特別ハードな練習を続けてきた人ほど、そうなってしまいます。

 強くなろう、強くなりたい・・・と、そればかり念じて懸命にハードな練習に耐えてきた人は、逆説的に身体の奥底にまでダメージを蓄積させてしまっている場合がある。

 若いうちは耐えられても、中年過ぎてからは若い頃に受けたダメージなどが知らない間に肉体を侵食していっているようです。

 意外にも健康法を創始した人なども短命な例が多いのです。

 元々が身体的に虚弱だった人が肉体改造を思い立って研究し、それが健康法の専門家になった・・・という例が多いので、元来、無理が利かない体質であったりするのです。

 超人的に見える鋼の肉体を持っているか・・・と思えた、ブルース・リーやアンディ・フグがあっけなく死んでしまった時、“健康体”という概念のあやふやさを痛感させられたものでした。

 武道や格闘技、あるいはプロスポーツの世界でも猛練習は必須であって、練習を怠ける者は存在意義がないみたいに罪悪視する人がほとんどで、それは疑義を差し挟む余地のない唯一絶対の真理そのものという、信仰心にまで高まった強固な価値観なのです。

 私が尊敬する先生方。青木宏之先生、田中光四郎先生・・・といった先生方は世間的には老人扱いされる年齢になっているのに尋常ではない猛烈なトレーニングを続けられています。

 それがやれるという事実が驚異的ですが、しかし、やはり身体は壊されています。

 以前、付き合いのあったプロ格闘家の人達も、まだ30そこそこの年齢でしたが身体は壊れかかっていました。

 俺はいつ死んでも本望だ・・・という達観をしている人なら、それでも構わないでしょう。が、健康になろうと考えているのなら、猛練習は考えるべきです。

 私も一時期は、かなり限界に近いと思えるくらい猛練習をやっていた時期もありましたが、結局、今はほとんどやらなくなりました。

 ほどほどのトレーニングでないと、無理して鍛えても身体が強くなったりはしないのだと思うようになったからです。

 十数年、いろいろな流儀の人達に武術の指導をしてきましたが、長年頑張っている人が必ずしも身体的に優れているとは言えないことにも気づきました。

 肉体の条件に頼らない技を工夫するようになったのも、私が30過ぎてから武術の可能性に開眼したからです。それは肉体の力に頼るのが武術ではないと確信したからです。

 むしろ、「これまで金科玉条のように言われてきていたことは、実は根拠がないのではないか?」と考えたからです。

 事実、重心移動によって発生する威力を用いるようになってからは、「筋肉を鍛えることには意味がない」と考えるようになりました。

 となると、「ハード・トレーニングは意味がない」という結論になります。

 トレーニングというと、“筋肉を鍛えて太くする”ということばかり求めてしまいますし、「基本はランニングだ。走って心肺機能を高めるんだ」という考え方も、中年以降の人間には問題があります。

 どうも、何か肉体に付け足すことばかり求め過ぎているのではないでしょうか?

 私は、逆に、余計なものをそぎ落としていった方が、人間本来のもっとも自然な能力が発揮できていいのではないか?と考えるようになりました。

 恐らく、私は武術の指導者としては日本一練習しない人間だと思います。それは、徹底して無理をしないように心掛けているからです。

 実際、丸っきり練習らしい練習はしていないのに、指導している時はどんどん技が勝手に出てくるのですが、それは日常生活の中で自然に武術的な動きを追究する癖ができているからだと考えています。

 セミナー参加者から、「遊心流には一体、どれだけの技があるんですか?」と聞かれることが多いんですが、あんまり色んなことをやるので呆れられるみたいです。

 が、基本の技はそんなにないんですね。セミナーでは応用変化させて使っているだけです。

 それでも、組み合わせていくと膨大になる訳ですが、それは私自身、一つずつ覚えている訳ではないのです。相手の技や体格、技能や反応の仕方に応じてアドリブで変化させているだけ。だから、二度、同じ技はできなかったりするのです。

 それではセミナーで困るので、実は、なるべくシンプルになるように注意してやっているのです。

 ですが、普通の武道では一つ一つ技を覚えていき、それを繰り返し練習するのが当たり前なので、大抵の人は「こんなに膨大な数の技を一体どうやって覚えたんだろう?」と面食らってしまう・・・という訳です。

 何てことはありません。“覚えてないからできる”んですよ。感覚に任せているだけ。

 無論、型や基本技が必要ないと言うつもりはありません。

 手掛かりがまったく無いと応用変化もできませんから、初心者には基本は必要です。

 しかし、手掛かりはなるべく単純な方がいいと思います。複雑で長い型より短く抽象的なくらい簡単な型の方がいいと私は思います。

 具体的な技や型は特定の用法に拘りが出てしまうからです。

 私が好きなのは、サンチンとか天真五相とか簡化24式太極拳とか形意五行拳とかですね。型というより単式練習みたいなものの方が応用を考えるといいですね。

 太気拳・意拳の立禅や試力の動きに武術的応用を考えたのも、そういう観点から読み解いた結果であって、別に誰かに習った訳ではありません。

 拳法と言っても、別に殴る蹴るしかない訳ではなく、逆技や崩し投げ技といった技が複合的に内蔵されているのであって、それを読み解いていけば技は無限大で開発できていくでしょう。

 なので、私は例えば太気拳の構えを取った時にも、打撃・逆関節・崩し・投げへと技をどんどん変化させて使ったりしていますから、もう太気拳とは似ても似つかないスタイルになっているのですが、要は、固定した技の使い方しか考えないから発展しないのだし、もっともっと技の展開を広げて考えたらいいと思うのです。

 しかし・・・というか、誰もそんなことは考えないでしょう?

 けれど、そういう応用性を考えていくことで、いろんな武道の稽古法から様々な発見があると思うんですよね。

 本当にできる人は、トレーニング法は自分で考えますよね。教えられたものを実践する中から自分なりの解釈で改良していく・・・これは自然な流れです。

 無論、勝手な解釈でダメになる場合もあるでしょうが、それでもやはり、伝えられたものを金科玉条に崇めるよりはいいと思います。伝統を大切にするのと伝統を信心して神棚に祭り上げるのは別のことなんです。

 やっぱり、発展し進化させていくのが人類の自然な営みであって、古ければ古いほど良いと考えるのは後ろ向きな考え方でしょう。

 だから、私は古武術という言葉は嫌いです! 古いから良いのではなくて、武術の本質を秘めている点に価値がある訳で、それは現代の武道にも採り入れていくべきものでしょう? 

「現代では使えません」という武術では創始者は納得するでしょうか? 創始者が工夫した当時は最新最強を目指していた筈なんです。継承者も時代の変化に対応して新しい技を付け加えていった筈です。

 が、現代ではそれをやってはいけないと決めつけてしまう・・・。創始者が見たら「嘆かわしい」と呟くに違いありません。


 ところで、昔の武術にはあんまりトレーニング法が伝わっていません。日常生活で鍛えられていたから、それ以上の特別なトレーニングとか必要なかったんじゃなかろうか?とも思えるんです。

 中国では様々なトレーニング法が伝えられていますが、これは“修行”のためにやっていたものから転用されたんじゃないか?という気もします。


 まあ、ともかく、ハード・トレーニングで逆に身体を壊すよりも、身体に負担をかけない養生的な稽古法の方が、息の長い技能向上が望めると思います。

 その代表格になるのが太極拳や居合術だと思うのです。

 福沢諭吉なんかも立身新流の居合を健康法として生涯続けていたといいます。

 無理なく自然に、日常生活に溶け込んだトレーニング法として武術に取り組むのが結果的には良いと私は思っていますし、現代に生きる人間にとって悠長にトレーニングしている余裕そのものがないでしょう。

 ならば、日常生活の中で自然に鍛えられるものが必要だと思いますし、トレーニングの質と効果について、根源から検討し直す必要があるのではないか?と私は思っています。

 パンチ力一つとっても、武道や格闘技を志す人間は、「どうやったら一撃で相手をKOできるか?」と考えるのが普通です。

 ですが、重心移動の力を用いれば、誰でも簡単に1tくらいのパワーが出せると言われています。

 よく私も、「長野さんは身体の割にパンチ重いですね~」なんて昔から言われたものですが、冗談じゃありません。発勁がきちんとできるようになってから、本気で打ったことなんか一度もないんですよ。

 確かにパンチの重さは1tくらいは簡単に出せるだろうな~と思うんですが、そんな全力パンチを打てば、下手したら自分の手首が折れるかもしれないし、密着したまま打てるんだから胸骨なんか確実に叩き折れるでしょう?

 私は「密着したらどんな体格差のある相手でも倒す自信があるよ」と、最近は豪語しているんですが、これは実感であって虚勢を張っているんじゃないんです。

 それくらい重心移動で生まれるエネルギーは圧倒的なんです。コントロールしなければ確実に殺人技になってしまうでしょうし、下手したら自分の手首を複雑骨折させかねません。

 私が掌打や肘打ちを多用するのは、別にそれが得意だからという理由ではなくて、実は、重心移動によって生じるパワーで自分の手首を壊したりしないようにエネルギーを効率よく相手に作用させる打撃法として、そうなっただけなのです。

 これは中国武術で威力が強大と言われている拳法を見ればわかるでしょう? 八極拳の李書文が掌打で相手の頭を打ち下ろしたら七孔噴血(両目・両耳・鼻孔・口の七つの穴から血が噴出するという意味)で即死したという言い伝えも、あながち嘘だとは私は思いません。

 特に肘打ちはきちんと決まれば確実に相手の内臓を破裂させてしまうでしょう。致命傷になるのがわかりきっているから恐ろしくて本気で打つなんてできません。

 そして、これは“鍛えなければ出せない威力ではない”という点に、武術としての秘伝性があった訳です。

 つまり、“誰でもやり方を覚えたらすぐに出せるパワー”なのです。だから恐ろしいんですよ。私も技の原理とそれに沿った打撃法のコツを体得した次の瞬間には威力が突如として倍増してしまったのです。はっきり言って、何のトレーニングもしていないんです。

 ただし、このパワーを獲得するのに最大の障害になるのが、“過剰な筋トレ”なんですね。ウエイトトレーニングをガシガシやっていた人ほど体内の重心移動が下手で、すぐに足や腰や腕の筋肉を力ませて全身で居着いてしまい、重心移動を自分で止めてしまうのです。

 やはり、空手を熱心にやってきた人ほど、この身体操作を体得するのが難しく、何年やってもまったくできない人もいます。が、これは仕方がありません。何年も頑張ってやってきたことのまったく逆のことをやる訳ですから、頭でわかっても身体が反射的に力んでしまうからです。

 まったく武道経験がない人や、太極拳のような脱力系の武術をやっていた人なら、教えたそばから体得できたりするんですが、いかんせん、そういう人の多くは人と戦うことに対する心の備えがなかったりするので、これまた宝の持ち腐れになったり、戦った経験がないから誇大妄想に陥ったりするのです。

 ただ、肉体の出せる力は限界があります。しかも、頑張ってもやがて失うだけです。

 そうではなくて、自然界に働いている力(重力)をコントロールして用いれば、あっさり自分自身の限界突破できるのです。

 身体を鍛えることは悪だ!とまでは言いませんが、もっと自分の身体の機能を理解して合理的に使うことを考えるべきでしょうし、固定観念を取り払っておおらかに考えることが重要だと私は主張したいものです。


追伸;8/30はクエストさんから出す第三弾のDVDの撮影を高田馬場の体育館で実施します。多分、撮影時間が余ると思いますので、そのまま定期稽古会になだれ込もうと思います。日頃、来れなかった会員さんも宜しかったらおいでください。詳細はメールで。

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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
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