コンテントヘッダー

“武”に注目する格闘技雑誌

『ゴング格闘技』で、武道・武術についての特集記事があって、ちらっと読みました。

 具体的な技術の比較とか載っているのかな?と、ちょっと期待したんですが・・・。

 正直言って、観念的で抽象的。何だか実態の無いイメージを論じているだけに思えて白けてしまい、すぐに読むのをやめてしまいました。

 何で、武術というものに対してきちんと技術的に分析しようとしないのか? アンタッチャブルの崇高なものであったり、あるいは逆に怪しげな時代遅れの代物みたいに言いたがるのは何なのか?

 何年か前に、格闘技をやっているという読者から、「長野さんは格闘技の経験もあるのに、何で武術みたいな怪しいものをやっているんですか?」と質問されて、ブチ切れたことがありました。

「無礼なこと言うんじゃないよ。怪しいかどうか、教えてやろうか?」と、確か、答えたと思います。

 確かに武術の世界には甲野善紀さんみたいなコケ脅しで全然戦えない人も“ザラにいます”。別に彼だけが胡散臭い訳ではありません。

 が、本物の遣い手も少なからずいます。

 名前を挙げましょうか?

 日子流の田中光四郎先生。新体道の青木宏之先生。太気拳の岩間統正先生。賢友流の友寄隆一郎先生。躾道会の小林直樹先生。その他にも少なからずいらっしゃいますよ。

 私程度の人間でも、「武術なんて、怪しい、インチキ臭い、口先だけの使えない代物」みたいに言うヤツが目の前にいたら、“生かして帰さん!”という気概はあります(あっ、すいません。つい、勢いで不適切なことを書いちゃいました。そんくらいの心意気ってことで理解してくださいね)。

 断言しますが、私は武術が怪しいものだなんて、まったく、全然、まるっきり、思っておりません!

 みんな、知らないだけなんですよ。解ってないだけなんですよ。群盲が象をなでてるみたいな感じでピントの外れた論ばかり・・・。

 合気、発勁、気合当て(遠当てとして広く知られている)・・・すべて、私は極めて合理的技術だと確信して疑いませんし、“基礎的な技術なら、誰にでも即座に体得できるように教える自信があります”!

 そして、それらの技は実戦にも十分過ぎるくらい応用できると思っています。

 私自身、武道や格闘技の経験者を相手に使った経験も何度もあるからです。

 一回しかやったことないので、さすがに試合で使ったことはないんですが、20年くらい前に空手の出稽古にいった時、軽い自由組手で体重100kg以上あるフルコンタクト空手をやっている人が相手してくれた時に、私を初心者だと思って、わざとガードを開いて“さあ、胸を打っていいですよ~”みたいにされていたんですね。

 もちろん、挑発とか悪意があってじゃないと思うんですが、私はちょっとムカッとしたので、一発パンチを入れてから、そのまま“0インチパンチ(毫勁=ほとんど接触したまま打ち込む発勁)”をドカドカドカッと打ち込んだんですね。すると、その人は後ろに3mくらい弾かれたように飛ばされて、随分、驚いた顔をされていました。

 ちなみにその時の私の体重は50kgくらい。倍くらいの体重差の人をパワーで上回ることは常識的にはあり得ないでしょう?

 無論、まだ交叉法も知らなかった時でしたが、寸勁系統のパンチは20代半ばには体得していたので、「長野さんは随分、パンチが重いですね~」と驚かれました。

 しかし、それは打ち方が違うんだから当たり前だったんですね。衝撃力はさほど無くても、体重心の移動力で打てば、重さと貫通度は通常のパンチよりずっと出ますから、体重が倍以上ある相手でもドバーンとふっ飛ばされたりする訳です。

 要するに体当たりされてふっ飛ばされるのと同じ原理なのです。

 ただ、これは身体が飛ばされることにエネルギーが消費されるので、飛ばされた方がダメージは負いません。飛ばずに耐えるとエネルギーが残ってしまうので甚大なダメージが体内に作用してしまうから危険なんですよ。

 そして、飛ばさずに体内にダメージが作用するように打つやり方が“打撃訣”と呼ばれるのですが、無論、この空手の組手をやっていた頃は、まだ、そこまでは知りませんでした。いろいろ経験を積んでいって、“こう打てばこうなる”という研究が進んだのです。

 発勁の打ち方を覚えるとパンチ力(力積)がいきなり倍以上になったりしますが、それは腕の筋肉の屈伸で拳を加速させて打つより、拳に体重心移動した方がエネルギーそのものは何倍も違う訳ですから、当たり前なんですよ。不思議でも何でもない。

 例えば、「寸止め空手はパンチが軽い」と思い込んでいる人が多いですが、遠い間合から飛び込むように突いた時に全身の重心移動が拳に乗ったら、凄い威力になりますよ。

 ところが、試合の駆け引きで、多くの選手が飛び込んで足を踏み締めてから突きを出してしまっています。これではせっかくの体重心移動の力が0になってしまってから打っているので、これでは意味がありません。

 新体道空手の突き技や下段払いは、この体重心移動によって生じるエネルギーをそのまま作用させるので、とんでもない重さが出ます。

 同様に戸隠流忍法の突き蹴りも体重心移動のエネルギーを乗せるので、見た目と違ってズシーンとした威力が体内にのめり込むような感触があります。

 太極拳や八極拳もそうです。突き蹴りに加速度をつけて激しく打ち付けたりせず、軽く触れてから当たっているように見えても、圧倒的な重さが集中して突き刺さってくるように感じるのです。

 だから、新体道のフワリとした下段払いを受けたら腕が折れてしまったり、太極拳の掌や八極拳の肘がちょこっと当たったか?と思ったら相手がバッタリと倒れて目を開いたまま気絶してた・・・みたいなことが起こるのです。

 こういう重心移動の力で打つ技は、思いっきり打っているような印象が無いにもかかわらず、得体の知れない威力がズドーンと来るので、「神秘的な気のエネルギーの威力なんだ」と信じてしまう人が多かったのでしょう。

 また、「高級発勁の打法は相手の体内に拳がヌルリと入ってくる」と言われていて、この言葉の表現からすると、まるでフィリピンの心霊手術みたいな神秘的なイメージがありましたが、これは、受けた感触として、そう感じられるのであって、実際にグサッと刺さる訳ではないのです。

 発勁の打法で打つと、あたかも拳や肘が体内にヌルッと潜り込んでくるようなリアルな感触があるので、その感触をそのまま言葉で表現したがために神秘的な秘技のイメージだけが広まってしまったのでしょう。

 新体道の遠当てもまた、青木宏之先生のように、こちらが打とうとする意識が起こり、身体が突きを打つ体勢に入ろうとするかしないか?の瞬間にタイミングよく気合をかけられると、呼吸筋のリズムが乱されて、実際に物理的ダメージを受けたかのように身体の反射運動が起こって倒れたりする・・・という仕組みです。

 つまり、意識と身体の連動を気合で分断されることで、体勢を支える筋バランスが乱れてすくんでしまったり倒れたりする訳です。このタイミングがきちんと読めれば誰でも同様のことができる・・・という次第で、これまた不思議でも何でもありません。

 お座りさせている犬の前にエサを置いて、食べようとする瞬間に「待て!」と鋭く制して犬がピタッと止まったりする・・・アレと同様のことだと言えば理解できますか?

 こういう具合に、一見、不思議そうな技も合理的なメカニズムがあると考えて追究した結果、たまたま一回できただけでなく、再現性があれば、そこにはきちんと合理性がある技として成立するんだ・・・と確信をもって言えます。

 私が格闘技を続けなかったのは、技術に深味を感じなかったからです。体力と根性に頼っても年とれば勝てないと思ったからであって、“強くなる”ということより、“必ず勝てる技術”を求めていたからです。

 考えてみてください。

 体格や体力や根性というのは、持って生まれた要素が大きく、しかも若い一時期しか維持できません。どんなに頑張っても年とれば失われていくんですよ。

 スポーツと弁えれば諦めもつくでしょうが、武術・武道ではあまりに薄っぺらではないですか?

 もちろん、精神論だの礼儀だのと言いたいのではありません。

 体力や体格に頼らず、老若男女、誰もが学べて向上でき、しかも屈強な暴漢を撃退し得る術・・・こういうものが本来の武術であり武道であるべきだとは思いませんか?

 格闘技というのは、リングなり体育館なりで二人で技量を競い、それを観客が鑑賞するものですよね?

 これはスポーツ以外の何でもないでしょう?

 技量の競い合いを本人が楽しみ、第三者がそれを見て楽しむ。それが目的。

 それはそれでいいです。スポーツはやって楽しく見て楽しい。娯楽として意義がある。

 でも、武術や武道は違いますよ。競技を目的とするのは大きな勘違いだし、武術の意義を誤解して90%以上の価値を失わせることにしかなりません。

 武術というのは“生命のかかった戦闘に生き残るための術”であって、そのためにはどんなことでもやる訳です。

 だから、素手の術から棒や剣を使う術、弓矢や手裏剣、馬術や水泳、築城、占い、医術や薬方、密教の呪法まであるんですよ。

 鉄砲だって武術として伝承したし、脇差や煙管に偽装した短筒や、多銃身の火繩銃とか火繩を使わない雷管(発火薬が入っていて撃鉄の打撃で発火し発射薬に点火する)式の銃なんかも独自に作られていたのです。

 何のためにこんな膨大に工夫していたのか?というと、“考えられる限りのあらゆる戦闘状況に対応するための備え”としてなんですよ。

 生き残るための戦闘術なんだから、使えなきゃダメなんですよ。相手が強かろうが、人数が多かろうが、武器を持っていようが、どんな外敵でも排除撃退できなきゃダメ!

 普通に競技としての武道なり格闘技をやっている人達が、いきなり銃で戦闘やっている場所にほうり込まれて“強さ”を発揮できますか?

 無理でしょう? と言うより、考えるまでもないですよね?

“実戦”という言葉に対するイメージが全然違うものになっているんですよ。そこを考えて武術が生まれて工夫されていた時代やその状況を考えて論じないと、話が成立しないんですよ。

 武術は、生きるか死ぬかの時だけに用いる技だからこそ、殺人術として考えられてきたものです。人と競ったり見せびらかしたりするのは“芸”。芸は娯楽であるから見せられるけれど、武術は秘めて見せないものです。

 私が本やDVDで見せるのは芸の部分だけでした。必要以上に無駄な動作を付け足したり、肝心な極め所をわざと解説しなかったりしていました。

 本物を見せようと思えば、より効率的に人を殺す技術を解説するということにしかなりませんから、これはジレンマだったんですね。

 例えば、今回のDVD撮影の時に会員のアドリブに任せてやらせてみたら、いつも練習している調子で、平気で相手の首にタオル巻いて後ろからキューッと絞めたりしてしまうので、「あっ、それじゃ必殺仕事人みたいだから、相手の目を隠すように巻き付けてやってみて・・・」と、修正の指示を出したりしたんです(まあ、それでも鉄扇で相手の目をかき切る技なんかはやらせてしまいましたけど)。

 武術が誤解されてしまいかねないから、最近は、かなり具体的な“殺人術”の内容についても解説するようになっていたので、会員にとってみたら、「えっ、このくらい当たり前でしょ?」って感じになっていたんですね。

 以前はかなり隠していたから、当時の会員が見たらビックリすると思います。

 でも、やっぱり、武術は教える人を選びますよ。人体を効率的に破壊するテクニックを教えているんですから、人として当然考えなければいけないでしょう?

 だから、少し前までは外国の真に実戦を考えた軍隊や特殊部隊で用いられるような殺人テクニックにも関心を持って研究していましたが、最近は興味を失ってきました。

 何も考えずに“人間を屠殺するようなテクニック”を工夫することに何の価値があるのかな~?と思ったからです。

 いつでも殺せるけれども、それは秘めておいて、敵の野獣のような殺意のみ消し去って人間として許して理解し尊敬しあえる関係を求めていく・・・それが武の最終目標でなかったら、もう文化として伝承していく価値がないでしょう?

 よって、私は邪気邪念のある人には技は教えない。教えているうちに、相手の心の内に疑念や侮り、驕慢が感じられたら、破門にします。

 第一に自分の身の安全と流派の威信を護るため。次に、その人自身が増長傲慢に陥り身を滅ぼすことになるのを戒めるため。

 破門にすることで、その人に恥を与える。経歴に傷を残すことで名誉を損なう。それが自戒となるか「いつか見返してやる」という意志となるか、そのどちらかになれば良いでしょう。

 恥を恥とも思わないバカ者(残念ながら、この手の者が少なくない)ならば、それまでですが、本物の自尊心は恥を知らねば理解できません。

 結局、明治期以降、武術を武道という名前で近代スポーツ・体育の概念の中で整理しようとしたがために、武術の本質が忘れられていった訳ですよ。

 だから、私が『ゴング格闘技』の特集記事をちらっと読んで、すぐやめてしまったというのも、あくまでも“格闘技”の概念からしか武術とか武道とか考えようとしていないのを感じて、ガッカリしてしまった訳なんですよ。

 そこには、「武術は怪しい」と、私に言った格闘技愛好家と同じレベルの観点しかなく、せいぜい、「伝統的な武術や武道の技は本当に使えるのか?」程度の見当外れな論しか出てきていません。

 それなのに「武とは何か?」みたいなことを格闘家に語らせてしまって、その曖昧な概念を整理することなく羅列していたという印象でした。

「武術は使えるのか?」なんて論は武術の全体像を知らない人間が口にするタワ言です。

 使えない技を後生大事に練習するバカがどこにいますか? 中国のラジオ体操である簡化24式太極拳だって、使える人が駆使すれば恐るべき必殺拳法に早変わりしますよ。

 どの武術が強いだの弱いだのほざいているヤツは、頭が悪いか、目ン玉腐ってるかのどちらかです。

 クラブマガなんて、定期的に海外に行って銃の扱い方も勉強させてるみたいですね。日本の武術家でそこまでやる人は滅多にいないでしょう?

 現代戦闘の基本は銃なのに、なんで日本の武術家、武道家を自負している人達は無視してしまうのか? 命のかかった戦闘で素手に拘るバカがどこにいるのか?

 松田隆智先生や青木宏之先生とは、よく銃の話をしたものでした。松田先生がベレッタ・ミンクスの話をした時に、「あ~、あの銃はオートだけど銃身が中折れ式なんですよね」と言ったら、松田先生は「長野君は、もしかしてプロ(ヤクザ?)か・・・」と真面目に質問されました。無論、単なるガンキチなだけと説明しましたが・・・。

 今や、インターネットで拳銃くらい誰もが入手できる時代になっています。対策を考えない者は武術家とは言えないでしょうが・・・。


 いや・・・、別に誰が何をどう語ろうが私の知ったこっちゃないですよ。好きにくっちゃべってりゃ~いいんじゃない?って気分です。

 ただ、何で、もっと武術のことを知っている人間に語らせないのか?ってことは大いに疑問でした。

 テキトーな人間がいなかったんでしょうけどね。

 海外のマーシャルアーティストって、空手でもカンフーでも何でもよく知ってる。コンバット・シューティングもできればナイフ術も得意で日本刀の試し斬りは日本人以上だったりする人もいる。中には日本人より日本武道や武術について詳しい人もいる。

 海外のマーシャルアーティストの動画をネットで見ると、素晴らしい技の持ち主が結構います。決して形だけじゃないリアルに戦えるだろう人も少なくありません。

 こういう例には危機感を持つべきなんですよ。グレーシー柔術やクラブマガやシステマやJKDを有り難がる前に、日本人なら日本の武術武道について総括的に知っておかなきゃダメです。

 奇しくも柔道の世界選手権で、女子は頑張りましたが、男子柔道は惨敗もいいところでした。これは空手道の時もそうでしたね。

 一番の敗因は、技と戦術を研究しないでガムシャラにただ練習を繰り返せば強くなるという旧態依然とした思い込みのせいだと思いました。常に先に先にと進化している世界を知らずに“日本武道の威信”なんて言ってちゃダメですよ。

 そんな権威主義は捨てて、虚心坦懐に、まず勝つ! 勝つために何をすべきか? それを考えないとダメ!

 つべこべとゴタクを並べるのはその後ですよ・・・。


 あっ、そうそう・・・思い出しました。

『コンバットマガジン』で甲野さんの連載記事立ち読みしてたら、野鍛冶でナイフ作るやり方について何回も書いていたんですけど、「そろそろ終わりにする」と書いて、その号で「紙数が尽きたのでまた次回に続く・・・」って結んでいて、ズッコケましたよ。

 そもそも、現代日本の居住環境で圧倒的大多数の読者にとって何の意味もないであろう野鍛冶のやり方について、マニアックな知識を披露することに何の意義があると考えたのか知りませんけど、文章そのものが分裂していて正気を疑ってしまいました。

 その次の号で野鍛冶の話はちゃんと終わりましたが、「何で、こんなトンチキな人に書かせているのかな~?」と思っていたら、編集後記を読んで納得がいきました。

 要するに甲野ファンの編集者がいらっしゃるんですね? その感想は20代半ばの自分を見るようで微笑ましくもありましたが、「手品みたいな楽しさがある」と書かれているところで、ちょっと噴き出してしまいました。

 だって、甲野さんのやっているのって、武術としての実用性は望めないけれど、手品だと思えば別に腹は立たない訳ですよ。手品師には失礼だと思いますけどね・・・。

 それにしても、一生、変われないまま終わるんでしょうね。信じやすい人達の中心で孤独な裸の王子様を演じ続けて・・・。

 本質を見抜いている人達からの軽蔑と冷笑と哀れみの視線に気づかないフリをし続けて生きるのも、彼が選んだ道だから、そっとしておいてあげるべきなのかな~?

 しかし、スキージャーナルから出た『古武術介護』の本の推薦文のところでは、肩書が“古武術探究者”から、またも“武術研究家”にトーンダウンしていたし、その本の著者が“よみうり文化センター町田”で開催している講座のタイトルも、前回のチラシでは「古武術に学ぶ介護術」だったのに、今回は「古武術をヒントに腰を痛めない介護術」って名称がビミョーに変更されてて苦笑しちゃいましたよ。

 何だか、「いつでも言い逃がれる準備はできてます」って感じで、見苦しいですね。

 これまでは、「別に、このOさんは武術家じゃないんだから、俺がとやかく言うのはイジメみたいだしな~」と思って、何も言うつもりはなかったんですが・・・。

 相模原の隣が町田だから、直接、この介護術の講座に行って、「貴方のやっているのは武術とは何の関係もないものになっているんだから、羊頭狗肉な宣伝はやめるべきじゃないですか?」って言ってみようかな~?と、かなり本気で思案しているところです。

“誰にでも優しいラクチン介護術”とか言った方がいいと思うんですよ。

 古武術介護術なんて名前は本当に誤解を広めるだけ。不適切でしょう。このOさんも、甲野さんにそこまで義理立てる必要はないし、第一、介護のために古武術を習いたいって言う人が勘違いして柳生新陰流とか入門しに行ったら先方の師範に迷惑になるでしょ?

 紛らわしい宣伝はしちゃダメだと思いますね。


追伸;上戸彩の殺害予告を、またもウィキペディアに書き込みしたバカがいたそうですが、本当にね~、もう、そういう陰湿なことはすんなよ!と言いたい。男のやることじゃないね~。むっ?・・・そういえば、今、思い出したけど、小島一志さん、まだ襲来してないんですけどね~?・・・ってか、彼は元気でやってるんですかね? ちょっと、心配。


関連記事
スポンサーサイト
このページのトップへ
コンテントヘッダー
著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

FC2カウンター
リンク
最新記事
カテゴリー
FC2ブログランキング

FC2Blog Ranking

月別アーカイブ
ブログ内検索