武術で何ができるのか?2009-11-23 Mon 07:00
筑摩新書向けに書いた原稿に合わせた写真とイラスト用の写真撮影をするために、原稿を読み返してみました。
いや、もう、何を書いたか?なんか忘れていたんですけど、イラストをお願いしている黒谷先生が「今度のは物凄くわかりやすい」と絶賛してくれたので、読み返してみたんですが、確かに、「俺、こんなこと書いていたんだ〜?」と思うくらい面白く、ササッと読めました。 いつものように、色んな方面に喧嘩売ってるような内容なんですが、大手の新書版だからと多少は意識したものか? 割りといつもより脱線しないように抑えて書いていたのが判ります。 編集担当者がお題を出してくれていたので、それに合わせて書いたんですが、専門雑誌やムック本で書いていたのが役立ちましたね。 新書版だと内容が薄くならざるを得ないかな〜?とも思っていたんですが、そんなこともないです。 ただし、脱線してアクションや特撮のマニアック話を書いてしまうギャグ路線は意図的にかなり抑えているので、そういう点は自分では不満なんですが、色んな人から「要らんこと書かないで真面目に書きなさい」と注意されていたので、そういう点ではより一般向けになったかな〜?という気もしています。 いや、率直に言って、これはベストセラー狙いました。 狙ったからって、そうなるものじゃないのは重々、承知していますが、でも、何となく、これまでの武術ブームとは違った潮流が起きつつあるんじゃないか?という予感がするんですよ。 これは武術に限った話じゃなくて、世の中が、「もうオタメゴカシの嘘やハッタリだらけのイメージ宣伝戦略は沢山だ。本当のところはどうなんだ?」という本音を求めはじめているように思える。 やっぱり、インターネットの普及で、誰もが自己表現できる場を得たことと無関係ではないと思うんですね。 昔は、本を出したりできる人は、特別な才能の持ち主でした。文章を書くというのは普通の人には無い特別な才能だったんです。 でも、今は誰でも文章を書いて作家になれるチャンスがある。 ケータイ小説がそうでしょう? 文芸の修業をしたことのない人でもベストセラー作家になれるという状況を生み出した功績は大きいと思います。 無論、功罪の罪もありますよ。才能の無い人間が勘違いする風潮もつくった・・・。 私の場合も、文芸の修業をやったことなんか、ほとんど無い訳ですよ。浪人時代に高校時代の友達と手紙のやり取りを繰り返していたことから、文章書く習慣ができてきて、大学時代に「長野は文才があるな〜」と、級友の栗原君(元気にしてるかな〜?)が何げなく言った言葉が妙に意識に残って、後に物書きになっていったんだから、不思議なものです。 もっとも、やはり、修業したことがないとは言っても、学生時代に授業も受けずに哲学・現代思想・宗教学・神秘学・武術・健身法・環境問題なんかの本は膨大に読んでいたし、元々がオタク気質だったから、興味を持つと研究したくなる性格なんですね。 映研に入った時も8mmカメラの扱い方とかフィルムの編集の仕方、シナリオの書き方、照明の当て方、特殊メイクや弾着の作り方なんかを何冊も本読んで独習しましたよ。 だから、今でもビデオ撮影の時の構成とか見せ方とか、絵コンテ描いたりもしますし、色々と役立っています。 そういう点から考えると、私は甲野善紀氏に出会ったのは感謝しなきゃならんと思うんですよ。 私はあの人は大っ嫌いだけれど、研究熱心さに関しては影響を受けたと思います。 刀の拵え作ったりするやり方も、初歩的なことは彼に教わりましたからね。 もっとも、私は教わったことを、そっくりそのままやるのは嫌なんですよ。自分なりにアレンジしたり、常に発展させていきたくなるんです。同じことを二度やるのは嫌な性格なんです。 たとえ同じ作業をやるのでも、二度目は応用発展させないと気が済まないんです。 これはセミナーの常連さんや、うちの会員さんは解ると思います。去年と同じことやっても今年は全然違う感じになっている筈ですから・・・。 例えば、二年前の今頃は、秘伝極意の技として蛟龍十八式という対錬型を研究していました。 が、今現在は、もう、それを当たり前の用法として実用技法の中に組み込んでしまっているんですね。 全体的に会員のレベルが上がって、アドリブで変化できるようになってきたので、形として教える必然性が無くなりつつあるんですよ。 人間、無理だと思っていたことでも、続けているうちに自然にできるようになっていくもんですね。 基本的な突き蹴り受け身の訓練もやろうか?と思っていたんですが、これも現時点では止めました。 どうしてか? 初心者にそれを教えると“その動きしかできなくなる”からです。 むしろ、全身をバラバラに動かして、次に連動させられるようにし、最後にいろんな技のキメを取れるようにする・・・こうすることで、空手も合気道も太極拳も八極拳も剣術も・・・何でもできるようになれる。 鍛えるのではなくて、徹底的に身体を練り込む。餅を作るみたいにする。 システマの訓練風景を見ると、そうやっていますよね。 そうやって完全柔体をつくってから、瞬間に剛体化して打撃を出せるようにする。 そうやれば、個別の基本技を繰り返して覚えるより遥かに機能的な基本技が体得できると私は考えています。 “機能的な基本技”とは何か? それは、正拳突きから鞭手打ち・貫手・掌打・肘打ち・巻き投げ・崩し・・・へと、相手の反応に応じて無限に変化していけるような技のことです。 私は、こういうことは武術の本質的な技法原理を追究しているうちに気づいてきたんですが、こうなると強いとか弱いとかを論じるようなものじゃなくなっていくと思うんですよね。 武術の技は本質的には殺人術でしかありません。しかし、殺人を犯すことを目的にしている訳ではなく、「いかに殺さずに制圧するか」という工夫が凝らされています。 ここが、現代で武術を学ぶ場合の最も意義のあるところだと思うんですよ。 つまり、武術が目的にしているのは暴力を駆逐することなんですね。対暴力の知恵であり戦術戦略なんですよ。 だから、最終的には心法に行き着かなくてはおかしい。身体操作術というレベルで持て囃していたりするのは、実は“角を矯めて牛を殺す”に等しいんですよ。 武術は、そんな薄っぺらいものじゃない! 人生をより高いレベルで生きていけるようにするための修行の手段だと思う今日この頃です。 ・・・とか思いつつ、写真撮影に臨みました。 とても二時間の稽古時間中には終わらないかな〜?と思っていたんですが、割りとサクサクと進んで、残り40分くらいで終了しました。 相当、いろんな技を撮ったんですけど、やっぱり、うちの会員さん達はビデオ撮影なんかも経験しているので写真撮影ならサクサクと進むんですね〜。 担当編集者の方は武道・格闘技の経験もある人なので、ちょっと体験してもらったりしました。見ても解らないと思うので・・・。 やっぱり、実際に鍛えている人だと、こっちも壊れ物を扱うみたいにせずに済むので助かります。 でも、重心移動で生じるエネルギーを利用した打撃だとパワーがどのくらい出ているのか、よく判らなかったりするので、注意しないと危険なんですよね。 今回は、介護術なんかにも応用できる原理を示すようなこともやってみたんですが、体重60kgくらいの小柄な会員が体重90kg以上ある会員を椅子から立たせるということもやらせてみたんですが、あまりにもヒョイッと簡単にできてしまうので、本人もビックリしてましたね。 要は、固定している重心を動かそうとするのは力がいるけれど、重心が動いている状態で引っ張りあげると簡単だということなんですよ。 歩いている時にちょこっと小石に蹴つまずくと倒れたりするけれど、安定して座り込んでいる人を動かすのは難しいでしょう? でも、体重は変わらないんですよ。要点は重心を操作するということです。 武術の身体操法というのは、“自分と相手の重心を操作する方法”だと簡単に考えても間違いではないでしょうね。 何か、原理的に観たら、ごくごく簡単なことなのに、やたらに小難しく説明したがる大先生ばっかりでしょう? 頭が悪いのか? あるいは自分を権威付けしてエバりたいのか? そのどっちかでしょうね〜。 もうね〜、「エエ加減にしなさいっ!」と、私は言いたいですね。 追伸;DVD『游心流 武術秘伝の戦略』発売中です! これを見れば某合気の達人の技を封じたりできるようになれるかも? もう、武術を神秘とは言わせません! 原理が解れば仕組みが解る! 自身の学ぶ流儀のスキルアップにお役立てくださいませ。 |
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