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心法技術の稽古

 ここ最近、本部稽古では主に矢嶋師範代の個人指導をしています。

 居合術や太極拳を新しく入ってくる会員に指導するためには、指導者が模範になる訳ですから、模範となる形の正確さを体得してもらいたいと思うからです。

 彼の場合に限らないんですが、形がサマにならない人は、意識が散漫で集中度が足りないんですね。動きの手順だけ覚えても中身が無い。

 どうして意識が散漫なのか?というと、意識の集中のさせ方を知らないからでしょう。

 なので、ここ最近、矢嶋師範代には特に、「脱力できなくてもいいから、指先、剣先、目線の向きに意識を集中させて、それを途切れさせないように・・・」と、しつこく注意してきています。

 もっとも、これは、フルコンタクト系の空手や直接打ち合う格闘技をやってきた人は、どうした訳か、皆、ビックリするほど意識が散漫で集中できないんですよ。

 これは、私がこれまで教えてきた人達の中で、ただの一人も例外がいませんでした。

 ですから、彼以外のフルコン出身、格闘技出身の人たちもまた、同様に形を真似るのが“そら恐ろしく下手”です。自身がどのくらい下手なのか?という事実を客観的に自覚できないくらいに・・・。

 嘘だと思われる方は、伝統空手、沖縄空手の師範の形の演武とフルコンタクト空手の師範の形の演武を見比べてみられたらいいでしょう。ズブの素人でもはっきり判るくらい動きのキレが異なる筈です。

 無論、形の演武が下手だから弱いとか闘えないということではありませんから、誤解ありませんように念のため。

 私は、「どうして、フルコン空手の人は形の演武がこんなに下手なんだろう?」と長く疑問に思っていたのですが、直接、打撃を打ち合って“肉体で受け止める”練習に原因があるのだと思い至りました。

 要するに、攻撃されることに対する意識そのものが鈍くなってしまっているのです。

 確かに、ウエイトトレーニングで膨らませた分厚い筋肉を叩き合って練習していれば、多少の打たれることに対する恐怖感は感じなくなるでしょう。

 そして、「鍛えた人間は多少、打たれたくらいでは倒せないのだ」という安心感が固定観念となって、打たれることへの防御意識が薄れてしまいがちのようです。

 だから、防御しようという意識が薄いということは、打たれることへの危機意識も薄くなっていくようです。

 従って、必然的に相手の攻撃を見切ったり躱したりしようとする意識が薄いからこそ、身体のキレも使わなくなり、ドラム缶が動くような鈍重な動きになってしまい、それをごまかすのに「重厚な動きで安定感があるね~」なんて言っちゃったりする訳です。

 ですが、これは素手素足で、胸や腹筋、太ももを打ち合う場合の話であって、目・鼻・顎・耳・喉・後ろ首・腋の下・背骨・股間・・・などに体重の乗った拳・貫手・肘などを強打すれば、致命的な障害を負う確率が高いし、刃物を持った相手だったら即死してしまいます。

 このような防御の意識、危機意識が薄くなるということは、武術にとっては最も避けるべき鈍感さなのですが、熱心にやればやるほど、その肝心要な意識が鈍くなっていくのですから、皮肉なものです。

「人間は、無意識のうちに相手に致命傷を与える場所は避けるものだ」と言う空手家の先生もいたようですが、それはスポーツマンシップに則った“試合”や“ケンカ”での話であって、“まともな神経を残している人間”の場合で、“オツムがどうかしている殺意を持った暴漢”に遭遇した場合は通じない考え方ですし、そもそも武術の想定するのは後者なのですから、“人非人の野獣のような凶悪漢”を撃退することを考えない武術では意味がありません。

 率直に言って、こと護身術ということを真剣に考えれば、多くの武道・格闘技が役立たないばかりか、逆にマイナスに働く危険性を秘めている。これは恐ろしい現実です。

 それも、“実戦的な”流儀を求めて追求してきた人に限って、そうなってしまうのでは皮肉以外の何物でもありません。

 矢嶋師範代がうちに入会した当時も、こういう皮肉な事態に自分が陥っていることを自覚して、自分が何を本当に求めているんだろうか?ということを考え、悩んだ末にうちに専念するようになったのでした。

 当初は、もちろん、太極拳や居合術にも全然関心がなかった様子ですが、私がそれらをやらせているのは、あくまでも現実の命がかかった戦闘状況に対応できる技を駆使できるようにするためであって、形式を学んでもらいたいからではありません。

 で、自分で本気で取り組むようになって、私が意図していることが徐々に解ってきたみたいで、毎回の稽古会で、少しずつ皮が剥けていくように意識の集中度が高まってきつつあります。

「先生、太極拳をやるようになってから身体の動きがガラッと変わってきました。もしかして、こうなることを予測してやらせたんですか?」と聞くので、無論のことと答えましたが、これは自分で自覚しない限り、こちらがどんなに口を酸っぱくして説明したって理解できないでしょう。

 私の考えでは、武術というのは、一つの流派に専念していても理解できないことが、複数の流派を学べば理解できる場合があるのですね。

 一つの流派を徹底して学ぶことが無意味とは申しません。が、その場合、大概はその流派の動きに捕らわれて、自在に変化することができずに終わってしまう人がほとんどなのです。まったく異質な闘い方をする相手に、あっさりと倒されてしまう場合もあります。

 私が自分で流派を立ち上げたのも、本当の理由はそこにあります。既存の流派の中では自分の能力を活かすことができないと思ったからです。

 複数の流派を学んだ人の中には、動きが自在な人がたまにいます。融合した技がその人のオリジナルとなっているからです。

 もちろん、ただ身体が混乱してどれも中途半端なままの人も少なくありませんが、私が目指すのは、自由自在に臨機応変に動ける自分独自の武術を自然体得させることです。

 そのためには、何々流がどうしたこうしたという“流派主体”の考えではなくて、“自分の動きを引き出すための触媒としての流派”という考え方が肝心です。

 なので、私は、游心流と名付けた自分の流儀の中に、数百の流儀の技と理論をぶち込んでゴッタ煮にし、その中からエキスを抽出し、新たに様々な武術に応用できるように編成しました。

 魔人ブウがいろいろな達人を取り込んでパワーアップしていく様子が、これまでの游心流。しかし、これからは抽出した武術のエキスから様々な武術に応用展開させていく段階になったと思っています。

 つまり、一回りして元に戻ってきつつある訳です。

 奇しくも、游心流を発足させて11年が経過し、来年は12年。丁度、干支の一回りになります。

 初期の会員はほとんど来なくなりましたが、増えては減り、増えては減りを繰り返してきたのも、まんざら無駄じゃなかったな~と思うのは、今の会員のレベルの高さです。

 稽古内容も、技よりも感覚、そして意識へと、身法から心法へとシフトしてきつつあります。

 以前は、稽古しようにもやり方が解らなかったことが、今はどんどん疑問が氷解していくように答えが自然に浮かんでくるのです。武術は身体操作の観点で考えていたら絶対に観えてこないレベルがある・・・それが今は明確に理解できます。

 重要なのは、意識ですよ。それは“気”と言い換えてもいいけれど、やっぱり“意識”ですね。それも邪念のない意識・・・。

 これが、“心法”の稽古です。

 だから、今は本当に稽古が楽しいですね~。




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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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