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心法の修行は日常の意識から

 武術の稽古が身体操作の観点で語られるようになった利益はあると思うのですが、弊害というのも存在することを、一体、どれだけの人が気づいているのでしょうか?

 身体を練って、柔らかく・しなやかに・強靭に・・・といった身体の動きの質を養成することは重要です。

 しかし、あくまでもそれは基礎的なことであって、具体的な武術の技と戦術を駆使することができるようにするには、それだけではダメです。

“筋肉ではなくて筋(すじ)を鍛える”とか、“ファンソン(脱力のこと)が肝心”といったことは、常識であって、できるできないの話ではなく、“できていなければならない”のです。

 うちでは基本技の練習をしません。

 必要ないと思っているのではありません。“そんな当たり前のことは自分で毎日やっていなければならない”から、稽古会ではやらないのです。

 既に“できて当たり前”との認識で教えています。

 だから、稽古会で教えている内容について基礎からきめ細かく全てやろうとしたら、ベラボーな練習メニューになってしまうのです。

 実際に、初期の頃はそれをすべてやらせようと思っていました。

 私自身がやってきた内容を全部やらせようか?とも思っていたのです・・・が、それをやると2時間の稽古がそれだけで完全に潰れてしまいます。

 それで、稽古内容を厳選して絶対必要と思われるものだけを残して、「独りでできることは毎日やってくださいね。基本の突き蹴りくらいは自分でやっていてくださいね」ということにした訳です。

 これは、経験者が多かったという点もありますし、ある程度の身法原理が体得できたら技なんかいくらでもアドリブでできるようになるから、形式的な基本技の練習を稽古会で時間を割いてやる必要はないと考えたのです。

 それに、“経験者は基本技の練習は毎日やるものだろう”と私は思っていたんですね。

 私は昔からそうやっていたので、それが当たり前になっています。道場は稽古する場所ではなくて、日頃の稽古の方向性が間違っていないか確認する場所なんだと思っている訳です。

 なので、自慢じゃありませんが、先生から手取り足取り教えてもらった記憶はあんまりありません。

 どうしてか?というと、先生が手本で見せてくれる動きを目を皿のようにして観察し、一発で覚えようと必死で集中していたので、ほとんど手直ししてもらわなくとも良かったからです。

 もちろん、説明してもらうこともほとんどありませんでしたし、先生が説明している時は耳を澄まして一言一句も聞き漏らすまいと、これまた集中して聞いていました。

 私が見学しているだけで、その先生の技の原理まで解るというのも、ただただ、この必死に集中して観察するという行為のお陰でしかありません。

 そうしておいて、帰宅してから自分で再現してみて、技の意味、動きの合理性といったことを繰り返し自分の身体の動きで再検証していっているのです。

 あるいは、気安く、技の秘訣を言葉で説明してくれる先生もいらっしゃいます。“言葉で説明したって解る筈はない”という前提で話す方が多いのですが、私はその言葉をヒントにして、これまた自分であれこれ試して具体的な技としてはどうやれば合理的なのか?と試行錯誤を繰り返します。

 例えば、躾道館の小林先生が、先生の恩師である桜公路先生が日本刀を持って歩いているところを複数の警官に咎められ、何者か?と聞かれて、いきなり刀を警官達のスレスレに抜いて見せて、「こういう者だ」と実技で武道の達人であることを納得させたという武勇伝を話された時、「先生、それは多分、こうやられたんじゃないですか?」と居合刀をギリギリで抜いて見せたところ、小林先生は恩師の武勇伝を私ごときが再現して見せたのが気に入らなかったらしく、ムッとした顔で、以後、この武勇伝は一切、口にされなくなりました。で、それから先は、私は先生の前では自分の技は一切隠して教わることだけに専念するようにしました。


 私は、いくら教えても覚えが悪い人は、才能がないのではなくて、本気度が欠けているに過ぎないと思っています。

 同じことを何度教えてもできるようにならない人は、“人の話を真剣に聞いていない”のだと判断しています。

 それは、換言すれば“学ぶ気持ちが無い”と言うしかありません。

 そんな人は、どんなに熱心にやる気を示してみせても、それは見せかけているだけで本気ではないのだと思います。本気でやっていれば必ず上達する筈だからです。

 どうしてか? 本気でやっている人間は、自分が上達しなかったらやり方が悪いのだと考えて方法を変えるものだからです。

 毎日5分練習していて成果が出ないなら15分にする。それでも出ないなら30分にする。それでもダメならやり方を変えてみる。

 そういった工夫は誰でもやることです。

 道場に来た時だけ稽古している・・・という人は間違いなく上達しませんし、道場からフェードアウトするのも早いものです。そして、別の道場へ行き、また別の道場へ・・・というのを繰り返して、結局、ひとつもまともにできるものがない。

 そんな人が武術の世界には結構多いもので、“カンフールンペン(功夫乞食)”という業界内蔑称もあります。

 この言葉は、中国武術の業界で特に多かったからのようですが、今は全般的に増えているようです。

 つまり、いろんな知識だけあって実力はさっぱり無いという武術マニアです。

 しかし、知識があることと観る眼があることはイコールではありませんし、観る眼というのは相手を観るだけではなくて、本当は自分自身のレベルも正確に弁えていなければなりません。

 この自分のレベルを正確に知ることのできる人は、相当に少なくなります。

 何故なら、武術の場合は試合や自由組手を行わない場合が多いので、容易に誇大妄想に陥ってしまうからです。

 なので、若いうちに多少の自由組手や試合の経験はしておいた方が無難です。少なくとも誇大妄想に陥らないでいられるからです。

 ただ、私は40代以上の人にはそういうことは勧めません。できれば、やらない方がいいと思います。

 どうしてか?

 闘争本能をコントロールして、社会的に良識のある人間として働いていかねばならないと思うからです。

 40代以上で闘争本能を抑制できない人間は社会生活をまともにできません。立派な人格障害者です。私はそんな人間をこの業界でしばしば見聞してきました。

 誰彼構わずケンカを振っかけ独善思考を“正義”と言い張り、恫喝・脅迫を繰り返すオツムがどうかしちゃってるオッサンたちです。

 そんな人は結局、身を滅ぼしてしまいます。

 ヤクザの世界だって、年とって偉くなるとケンカはしなくなります。他にやらなければならないことがゴマンとあるからです。

 要するに、ヒマなんでしょう。社会的な立場があり、やるべき仕事が多くある人は、ケンカの強さなんか求めません。


 うちのある会員さんが「游心流は何を目標にしているのかわからない」と言っていたそうです。

“強さ”を求めていないから、何を目標にして修行しているのか理解できないのかもしれません。

“強さ”を求めていれば、当然のように自由組手も必要だと思うからでしょう。

 こう思う人は多いと思うので、はっきり書いておきましょう。

 游心流が目標にしているのは“達人を百人育てること”です!

 私の理想的イメージとしては、S級の超達人を3~4人、一般的な武道の世界で達人と呼ばれるA級レベルを100人程度養成することが目標です。

 どうですか~? 物凄く具体的でしょ?

 では、「達人って何?」と思う人もいるでしょう。

“達人”とは、「武道や格闘技の猛者を相手にして、攻撃を一発も食らわずに一瞬で倒せる者」です!

 どうですか~? わかりやすい定義でしょ?

 では、「超達人って何?」と思われた人もいるでしょう。

“超達人”とは、「武道や格闘技の猛者を“複数”相手にしても、攻撃を“一切出させず”に一瞬で“殺せる”者」です!

 そんなの無理だよ~と思う人がほとんどだと思いますが、大丈夫! できます! 少なくとも達人のレベルであれば、誰もが理論上、到達できます。

 何故か?

“読み”を駆使して徹底して先が取れるようになればいいからです。その上で人体の効率的な潰し方を知っていれば簡単にできる。

 実は、うちの流派で自由組手をやらないことにした理由がここにあるのです。

 自由組手をやるには安全性を考慮しなければなりませんし、ルールを決めて互いに手の内を知っている者同士で丁々発止で技の攻防をしなければなりません。

 これでは、“読み”の養成ができません。むしろ、“読み”を駆使して先を取る戦法そのものを崩していってしまいます。結果的に技を出し合う闘争の快感しか求めなくなってしまい、勝ったり負けたりを繰り返すだけです。

 これでは子猫や子犬がジャレ合っているのと変わりません。戦いの訓練にはなりますが、勝負の必勝法則を得ることはできません。

“強ければ勝ち、弱ければ負ける”というのは武術の論理ではありません。

“強ければ勝ち、弱くても勝つ、とにかく勝つ、取り敢えず勝つ、必ず勝つ、勝つためには卑怯卑劣は術のうち”というのが武術の論理です。

“だから、できる限り、戦いは避ける”というのも重要です。

 何故か?って・・・。

 だって、いざ戦ったら負ける可能性を完全に0にすることは不可能でしょ? だから、リスクは避ける。負けないために。殺されないために。生き残るために・・・。

 人間は生きて、生きた証しを残して後世の人達を幸せにすることが本当の勝ち(価値)なんですよ。

 ケンカの強さを自己満足で求めて何の価値があるのか?

 良く生きて、本当の勝ち(価値)を遺すこと。そこに達せなければ武術なんか単なる人殺しの畜生道にしかならないんですよ。

 だからこそ、皆、達人、超達人になって、世の中に役立つ人生を送っていただきたい。

 具体的には、“暴力に負けない人間になること”と、“暴力に苦しめられている人を助けられる人間になること”ですよ。

 つまり、「暴力的な腕前を誇ったり他人に見せつけて威圧したりするような心の歪んだ人間にはなってくれるな」ということですよ。

“武術は対暴力のために人類が生み出した叡知の結晶”であるというのが武術を研究してきた私の持論であり、“闘争本能を人間の理性で昇華コントロールするもの”としてシステム化してきている次第なのです。

 どうですか? 游心流の目標とするコンセプトは御理解いただけましたかな?

 要するに、“闘争本能を刺激増大させるような練習はしない”ということです・・・。


 心法修行にシフトしてきてから、私は武術の存在意義がより鮮明に解るようになってきた気がしますね。日常の意識から変えていくのが本当の修行なんですよ。


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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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