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『宮本武蔵 剣と思想』を読んで

 前田英樹氏については、以前、甲野善紀氏との共著を読んだ時、あまりに独善的な印象を受けて、正直、あまり良い印象が持てませんでした。

「甲野氏とつるむのでは、その程度の人なんだろう」と思った点もありました(御承知と思いますが、私は甲野氏を武術家としてはまったく評価していません)。

 何よりも、私は“思想家”といった人種が嫌いなんです。

 人が“思想”という言葉を使う時は、何か自分が他に抜きん出た立派な人格と優れた知性の持ち主ででもあるかのごとくナルチシズムに浸っている風体がのぞいて、実に気持ちが悪いっ!

 思想というのは、人が個として生きるのに何の関係もない代物です。自分自身の守るべき信条があるとしても、それを「俺の思想だ!」と声高に周囲にアピールする必要もないでしょう。

 それを敢えて声高に言うということは、つまり、思想とは個人が社会的な存在として名乗りを挙げる権威付けのための人騙しの宣伝装置でしかありませんし、社会的制度的な性格の強いものであり、根っこの部分に他者を支配したいとする欲求が隠れていることを暗示します。

 よって、私は、オレ思想みたいなことを口上したがる人物は胡散臭く感じてしまうのです。シャレで言ってるか、あるいは学問として研究しているのなら、まあ、お好きにどうぞ・・・という程度の許容度はありますが・・・。

 でもまあ、私のこれまで出会った思想愛好者は、総じて自身の無能さを隠蔽するための自己憐憫的空威張りのネタとして“思想”を信仰していましたね。

 要は、自己の無能さの裏返しとしての、万能感に酔いしれるためのアルコールや麻薬、覚醒剤として“思想”を掲げている弱々しい人達でしたね。観念の世界で世の中を神の視座で見下ろしている喜悦に浸る癖がついてるだけなんですよ。わかりやすくいうと、“妄想癖”ですね。

 それはそれとして、前田英樹氏には何の期待もしていなかったけれど、相模原駅ビルの書店で『宮本武蔵 剣と思想』という、ちくま文庫の本を立ち読みしてみたら、思いの外、面白そうだったので購入しました。

 私の学生時代はポスト・モダンの現代思想ブームで、私も難しそうな本を結構、読んでいたんですけど、もう二十年以上、読んでないから頭がそういう話題についていけないんですよね。

 ただ、この本は武術についての本なので、割りかし、楽しく読めましたよ。

 そして、前田英樹氏の評価もぐっと上がりましたね。この人、かなり、解ってらっしゃると思う(上から目線ですんませんね~)。いや~、武術関係者でこういうこと解ってる人って、青木先生以外はいないと思っていたんですけどね。

 無論、思想家特有の抽象的観念的表現は具体性に欠ける側面もあるんですが、武術論としてはかなり本質をついているように思えましたし、かなり読み易かった。

 少なくとも凡百の宮本武蔵解説本の類いとは一線をかくしていると言えるでしょう。まさにエポックメイキングです。

 片手持ち二刀剣法の利をとなえた武蔵と、上泉伊勢守の比較論なんかは、ありそうでなかった論でしょう。

 いや、実に堪能できました。

 もっとも、難解さはある意味で他の宮本武蔵解説本より上なので、人様に薦めようという気はしませんね。

 多分、ここに書かれていることをまともに読解できる武術関係者は皆無に近いと思います(だって、武術にかまけてるヤツって、ものすご~く“頭が悪い”から)。

 文章にいろんな含みが潜在しているので、字ヅラだけ読んであ~だこ~だと論じても阿呆をさらすだけです。言葉一つに多角的重層的意味が秘められているので、一部分だけ取り出して論評しても、意味がないということです。

 例えば、武蔵の足の踏み様について前田氏が解説している点は、“厳密な”足の踏み方について解説しているのではありません。

 そもそも、“厳密に”解説しようとすれば、初心者と中級者、上級者ではやり方が変わってきてしまいます。一様に同じやり方を強いるのは間違いなのです。

 重要なのは、方法論に一貫して通底している原理であって、原理は応用させて形を無限に変化させ発展していかなくては実用の役には立ちません。そんなことはまともに修行していれば気づいて当然のことです。

 私が最近、初心者に教えるのが億劫になってしまったのも、私のやり方をそのまま教えても役に立たないばかりか害になりかねないからです。必然的に初心者に必要なやり方にレベルを数段落として指導する必要があります。だから、億劫なのですよ。

 前田氏の技術論は自身の達しているレベルからの理解で解説しているので、初心者には解らないし中級者にも難解でしょう。私は研究家だから、何とか理解できたに過ぎませんが、「あっ、これは具体的な技術論を書くつもりは全然ないな」と気づきましたよ。

 よって、書かれている点だけを批評しても、まったく意味がない。

 私が面白く読めたのは、私が文筆業をやっている人間だから読解力が人並みよりちょっとくらいあるからであって、一般の読者にはチンプンカンプンな箇所も多いでしょう。

 それと、スポーツ嫌いで剣道形は無意味だといった決めつけ方をするところは、お高くとまっていて、相変わらずの優越意識が鼻につくな~とは思いましたが、“そーゆー人”なんだと弁えてしまえば何にも問題ナッシング~ですね。

 解説者も、そんな風に思ったのかも知れませんが、前田英樹氏を“清々しいまでに「偏屈」な文章”とユーモアを交えて苦笑しながら書いている? 多分、前田氏は冗談を言わない甲野氏みたいな性格なんじゃなかろうか?と私なんかは思ってしまいましたね。

 何だか、おフランスな感じがします。フランス現代思想を研究されていたんだっけ?

 前田氏の話は甲野氏のところに居た時に若干聞いたのと、小用茂夫先生からも聞いていたんですが、特に小用先生は高く評価されていましたね。元新陰流兵法転会で、実力も高い小用先生が言うのだから間違いないと思いますよ。

 ちなみに、解説者の方が、“病床に伏した医者嫌いの合気の達人が無理やり呼ばれた医者を片手で投げた”という話を紹介し、「馬鹿話の類いでは断じてない」と書いているのが微笑ましいですね。

 ええ、もちろん、私は馬鹿話だなんて思いませんよ。その程度のことなら技の原理を理解すれば誰でもできると断言できますからね・・・。

 結局、武術というのは不可思議なパフォーマンスとセットで披露される傾向が強まっているので、なんだか摩訶不思議な秘術みたいな扱い方ばかりされてしまう点に問題点があると思うんですね。

 その上、理合について重層的な難解な解釈をされる傾向もあるので、思想的に語ることによって益々、実用を離れた特殊な技芸の領域に祭り上げられてしまう傾向もありますから、そういう意味で剣であったり武であったりを思想として語る営みには注意が必要だと思います。

 前田英樹氏は、その辺りの注意深さ(偏屈さや頑迷さと誤解される点)は持っている方のようなので、そこはまあ、偉いな~と思います。甲野氏のように肝心なところで嘘ついたりしそうにない・・・という意味で・・・。


 え~、ところで、刀で斬るということに関して、うちの会員さんも勘違いしていたことがあったので、少し解説してみます。

 先日の試し斬りで、ある会員がうまく斬れなかったのを見ていた別の会員が、「彼は足を一歩踏み込みながら斬っていたので、それで刃筋が狂ったのでは?」と、評していました。

 つまり、「ものを斬る時は、足をしっかり定めて斬るべし」という考え方を彼はしていることが判りますね。

 しかし、一歩踏み込む程度で刃筋が狂う腕ならば、足をしっかり定めていても刃筋は安定しないでしょう。だから、足を定めて狙って斬っても、多分、同じでしょう。

“姿勢を定めれば斬れる”という考え方は初心の考えなのです。そして、多くの武道家は、初心者向けの秘訣を一生手放そうとせず、だから、真の向上をしません。

 失敗の主な原因はそこにはありません。

 私が試斬の稽古をやらせている理由は、斬る姿勢を体得させるためではありませんし、むしろ、「しっかり足を固定して斬る」という運動を覚えてしまうと武術的には有害でしかありません。

 無論、まったくの初心者レベルならば、“刃筋を通すことで斬れる”ということを確認するためにはそれでもいいでしょう。

 しかし、ずっと同じことをやっていてはダメです。試斬で両手を寄せて柄を握るように指導したのも、暫定的なもので、自由に斬れるようになれば手の内はいろいろ変えて斬れるように訓練すべきです。

 試斬の弱点は、考えてみればすぐに解ることです。

 立ち止まったまま無抵抗で斬られてくれる敵なんかいる訳がない。

 動いて、しかも攻撃してくる敵を相手に的確に斬れるようになるには、大前提として、自分も自在に動き回りながら的確に斬れないとダメでしょう。

 だから、まだ、皆が慣れていないから、足をしっかり止めて刃筋がきっちり通るように斬らせているだけの話で、それが普通にできるようになったら、歩き回りながら斬ったり、型の動作で斬ったりもさせる予定でいるのです。

 やはり、武術なんですから、想定できる限りの実戦のシミュレーションに応じた内容の練習を積み重ねていかなくてはいけません。

 なので、斬る瞬間に一歩踏み込むことは何らマイナス要素ではないし、その証拠に切り口を観察すれば刃筋の侵入角度と切り口のザラつき、途中での“割れ”によって失敗の原因は判明します。単純に余計な力みが出て刃筋が通らなかっただけだったのです。

 試斬の専門家には異論のある方もいると思いますが、別に足元がフラフラであっても斬る瞬間に刃筋を通すことは可能です。

 要は、斬撃の一瞬に力がどう集中的に作用して斬撃力が発揮されるのか?が重要なのであって、姿勢だの呼吸だの手の内だの間合だのは決定的な秘訣ではないのです。

 日本刀は斬れるように作られているのですから、その機能をきちんと発揮できたら斬れて当然なのです。以前、刃の付いていない模擬刀でやってみた時もちゃんと斬れました。

 斬れないことに理由がある訳です。単に“下手”の一言で終わってはいけません。丹念に原因を探り出して修正していく地道な作業を怠ってはいけません。マグレで斬れた程度では技として体得したことにはならないのです。

 動画で出ていた剣武天真流の青木宏之先生が、竹薮で、スカッスカッと青竹を斬っている時の姿勢をよく観察してみたらいい。足で踏ん張って姿勢を固めて斬って・・・は“いない”のです。

 力の作用は運動の外見からでは判別しがたいものです。

 青木先生の最新の剣舞映像を剣道高段者の研究会内部で資料映像としたところ、その居着きの無さ、起こりの読めなさ、体捌きのスピード等に仰天し、「これは先天的な要素が強くてとても真似できるものではない」という結論に至った・・・とのことですが、それは剣道の身体操作の枠組みから見れば真似できないものでも、青木先生自身は明確に理論的身体運動の結果としてそうなることを確信し、必要なトレーニングを重ねられているのですから、単純に天才の一言で神棚に上げてしまうのは、ちょっと違うでしょう?と私は言いたくなりますね。

 やっぱり、無目的に稽古してもダメで、理論的に考えて、「これをこうやったら、こうなる筈だ」という予測をしながら稽古法を組み立てていかないと成果は出ないですよ。


 話を戻します。

 游心流で斬る対象として細竹を立て掛けて斬るようにしているのも、軽くて刃筋がちょっとでも狂うと跳ね飛んでしまう物を、的確に芯を捉えて斬ることが必要な条件でもあったからなのです。

 ぶっといマキワラを両断する醍醐味を求めるのも良いですが、武術的には細竹が斬れれば充分、致命傷を与えられます。

 堅い細竹が綺麗に両断できれば、水に浸して柔らかくしたマキワラを両断するのは簡単です。そうなれば、腕くらい斬り落とせるでしょう。

 しかし、動き回りながら、一瞬に抜いて斬るのは、別の複合的な技術が必要です。

 そして、武術で必要なのは複合的な技術なのです。「立ち止まって据え物が斬れても意味がない」と主張する人が多いのも、別に間違いとは言えないのです。

 もっとも、据え物すら斬れない人間が、動いて攻撃してくる人間を斬れるとは思えませんが・・・。


追伸;殺伐とした話題の口直し。チリの鉱山地下620m以上から救出された33人。良かったというか、凄い科学力ですね~。60mでも諦めるしかないような気がしますが、本当に世界中が注目して協力して救出したということには、世界が一致団結して平和な世界を築こうとすることも可能なんだという希望が感じられました。暗い話題ばかりの世の中で、21世紀の科学の力を見せつけてくれたと思います。本当に良かった!



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著者プロフィール

yusinryu

Author:yusinryu
長野峻也(ながのしゅんや)。武術研究家。游心流武術健身法主宰。
武術指導、アクション殺陣指導致します。映画等のコラムも書きます。
関係者の方、ご連絡をお待ちしております。
yusin_mail_from2006
@yahoo.co.jp

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